第四話
色鮮やかな六色の戦士たちが、まるで海の潮が満ちるのと同じように地平線を覆い尽くし始めた。二つの潮がぶつかるだろう線上、そこに浮島のように突き出た岩の上で、僕とオノシマさんはその時を待っていた。
「五十センチといえども馬鹿にはできない。高所の有利は剣士のあなたにこそ助けになるわ」
「この岩から離れないで戦った方がいいんですか?」
「ええ。ここなら囲まれる可能性もそこらの平たいところよりは遥かに低くて済む」
周囲を改めて見回し、僕は彼女の言に納得した。言われてしまえば至極当然のことだが、この局面で冷静に考え実行できるということは、彼女の経験の豊富さと思慮の深さを僕に改めて思い知らせた。
「分かりました」
「何よりも、私の目の届くところに居てくれればそれでいい。あなたは目の前の敵にだけ集中して。私がカバーする」
「僕があなたを護るのでは?」
「かといって、それは私を護るためにあなたの命を投げ出してほしいという意味ではないわ。まずもっとも大事なことは、自分が生き残ること。それは絶対に忘れてはいけないからね」
僕は不用意な物言いをした自分を恥じた。その通りだった。主人の為に喜んで命を投げ出す騎士道物語はここでは必要とされていないのだ。英雄譚の中ではそういった優秀な従者は最後には祝福を得て、永遠の命で以てその働きは報われるだろう。だが、この世界での死は現実での死であり、そこには一切の救いもないのだ。
「もちろん、何かあったら助けてね。ヨーヘイくん」
いや、救いはある。僕の傍らで、大地を揺るがす喊声と足音のど真ん中に身を置きながら、その指先をぎゅっと緊張させながら、それでも僕の為に笑顔を浮かべてくれるこの人の為に戦うと思うことが、まさしく救いでなければなんだというのだろう。
ついこの前までは兄ちゃんがその笑顔を護っていたのだろう。そして今、僕は兄ちゃんの代わりを担うことを期待されている。僕なんかが兄ちゃんの代わりなど果たせるはずもない。だが、諦めるのはいつでも出来る。決意するのに遅すぎるということはなく、始動するのに早すぎるということはない。そしてその二つは僕にとっては、まさしく今、この瞬間なのだ。
「盾を!」
オノシマさんの声が耳を突き、僕は反射的に左手を掲げた。直後、盾でも強化具でも減殺しきれなかった痛みと振動が僕の前腕に伝わり、足元に一本の矢が転がり落ちた。
遂に、始まったのだ。おそらく僕らと彼らの距離は既に百歩を切っている。ここに居る僕らだけが射程距離に入っているにすぎないので、まだ矢衾は展開されていない。時折目で終える程度に矢が飛んでくる。
僕がそれを慎重に捌いていると、オノシマさんが目にも止まらぬ速さで、流れるように僕の足元に転がる矢を続けて三本拾ったと思うと、次の瞬間にはその一本を既に射ち放っていた。彼女は一本を射つ度、冷静に一度僕の影に入って敵からの矢を躱す。そしてその矢を再び集めては、瞬く間に弓弦を満月のように引き絞って射ち返すのだった。
もはや言葉を交わす余裕も、オノシマさんの放った矢の先を追う余裕もなくなってきた。最初の一矢はなだらかな弧を描いて飛び、にじり寄ってくる双児宮の何某かに命中したのを確認したが、それまでだった。
今や両勢の最前線が共に射程距離内に入り、一切の秩序のない矢衾が展開され始めていた。
「ヨーヘイくん!」
いよいよ数も勢いも増した矢に対し、もはや両手で盾を支えるしかなくなっていた僕はその声に振り向いた。見やればオノシマさんは味方の軍勢の方に向けて岩を滑り降りていた。いったい何をしているのか、そう思った僕の困惑は、直後、僕の背後から飛来した矢が頬を掠めた時に霧消した。
「早く! ここまで下がって!」
味方の矢に当たる可能性がどうしてゼロだと言えるだろうか。これもまた、考えてみれば当たり前のことだった。だからオノシマさんも今まで何も言わずにいたのだろう。僕は最大限ゆっくり急いで、盾で頭周辺を護りながら後ろに引き下がり、五十センチの天然の防壁に隠れながら水平射撃を繰り返すオノシマさんの横で伏せた。そこで安堵の息を漏らした僕を、しかし、オノシマさんはこちらを見もせずに叱咤する。
「何やってんの、早く盾を後ろに! この風じゃ矢がどう飛ぶかなんて誰にも分からないんだから!」
僕は息つく間もなく寝転がったまま体を反転させて、百をゆうに超す鉄の嘴を持つ鳥たちの中から、群れから逸れて僕らのもとに降り立とうとするものを目を凝らして探した。僕の方へと降ってくるものを確実に捉えない限りは、僕は盾を常にオノシマさんの背の上で構えていた。自分への脅威は直感的に察知できても他人へのそれはそうもいかないことは、戦場でも教室でも変わりはしないことだろう。そして事実、僕は何度か自分が予期せぬ衝撃が盾を揺らして青ざめる羽目になった。
「ヨーヘイくん! 聞こえてる?」
盾をせわしなく展開させ続ける僕に向け、オノシマさんが喉を振り絞る。
「はい!」
「もう向こうも剣が届く範囲まで近付いて来てる! 私が合図したら一緒に飛び出して岩の上へ! いい?」
「分かりました!」
僕は右手に強く力を込める。盾を支える左手を支える為ではなく、決して放してはならぬと言われたこの剣を僕のもとに留め続ける為に。
「三から数えるわよ!」
「はい!」
「行くわよ。……三、二、一、今!」
その合図を受けて僕は一気に体を跳ね上げると、そのままあの岩の上に躍り出た。そしてそこで僕を待っていたのは、つい先ほどは押し寄せる潮のようだった敵が、今や一人一人の人間の形となってひしめいている姿だった。
その情景に僕は圧倒されてしまう。だから一瞬だけ、足が止まった。眼前の情景はそれほどまでに恐ろしくおぞましいものに思えてならなかった。
だから僕の足元に何か重たいものがぶつかり、僕がそこに視線を寄越したとき、そこに宝瓶宮の戦闘服をまとって首筋に矢を生やした男が転がっていたことに僕は仰天した。無意識のうちに、悲鳴を上げるよりも早く僕はそれを蹴飛ばしていた。それは岩の上から転がり落ち、僕の視界から消えた。
その瞬間、僕の中で何かが切れた。全身が粟立った。胃が裏返った。膝が笑った。僕は絶叫を上げると、型などは完全に忘れ去って力任せに、滅茶苦茶に剣を振り回した。僕がはっきりとこの目に捉えていたものは、自分自身の両の前腕から先の部分だけだった。それより遠くのものは、たとえこの剣の剣尖であっても、僕の目には入っていなかった。
そんな中僕が偶然捉えることの出来た、僕の左方からにじり寄っていた一人の敵。それに対し、僕は何も考えず盾を構えて叫びながら突進した。全体重をかけて踏み込んだ僕は、そのままそれを乗りかかる形で押しつぶそうとした。だが、それは僕のことを押し返してきた。僕は次の瞬間、何の迷いもなく盾を振り上げ、その縁で以てそれを殴打した。二度、三度と続けて繰り返し繰り返し打ち据えた。
その行為から僕を引き離したのは、僕の肩を掴んで引き倒した何かだった。頭を岩にぶつけ、目の前が真っ白に光ったのち真っ暗になる。息ができない。誰かにのしかかられている。僕は首を絞められていることにそこでようやく気付いた。もがこうとするが、両腕は何かに押さえられていた。一センチも動かせなかった。やめろ、やめてくれ、死にたくない。だが僕は叫ぶこともできなかった。
僕を押さえる力が失われたとき、僕は四肢を動かせるだけの範囲で動かしてそれを僕の体の上からどかした。左手を岩につき、右手で喉をさすりながら僕は少しでも多くの息を吸おうとする。
「ヨーヘイくん! しっかりして!」
徐々に光を取り戻した瞳に、オノシマさんの顔が映った。彼女は僕のすぐ横で膝立ちになって弓を番え、狙いを定めては即座に射っている。その反対側には、眼球と鼻面を矢で射抜かれ、血と脂の詰まった皮袋と成り果てた敵が二人転がっていた。オノシマさんが助けてくれたのだ、と僕はぼやける頭でながら理解した。
「オノ、シマさん」
届くはずのないかすれる声で彼女の名を呼び、そちらに視線を戻した時、僕は咄嗟に右手を突き出していた。
鈍い金属音が、不思議と澄んで僕の耳に飛び込んできた。オノシマさんの背後を狙った一太刀はかろうじて僕の剣が受け止めた。その太刀を振るった天秤宮の女戦士は、標的を僕に改めたか僕と正対する。
冷静さを取り戻した僕は今度はしっかりと正しい構えを取る。左手の盾を前に、右手の剣をやや後ろに置く。先の一撃を受け止めてしびれた右手はしばらく使い物になりそうになかった。盾だけで捌かなくてはならない。
相手が高く剣を構えた。僕はフェイントを警戒してギリギリまで見極め、そしてこちらも盾を頭上に構えた。両腕で以てしても減殺しきれないほどの衝撃。膝の皿が砕けそうだと悲鳴を上げる。
一回優勢を作られてしまうとそれを覆すのは難しかった。僕は同じく頭上から、あるいは左右の袈裟から振り下ろされる剣戟を受け止めるので精一杯になりつつあった。徐々に左手までもしびれてくる。このままではダメだ。盾を落とした瞬間、次には間違いなく僕の首が切り落とされている。
「考えろ、考えるんだ、アサカ・ヨーヘイ」
歯を食いしばりながら僕はその魔法の呪文を唱える。もし兄ちゃんだったら、朝霞柳介だったらこの局面をどいう打開しただろうか。
盾の向こうの相手のことを考える。奴は女だった。その非力をカバーする為に、そして優勢を得ているという慢心の為に上方からの撃ち下ろしに終始しているのであろう。一度も薙ぎ払いもフェイントもかけてこないことがその証左。そこにこそ隙が、そして、勝機がある。さあ、それではそれをどう突き崩すか? このしびれた腕で出来ることは何がある。僕はこの五十センチの高地の利を活かすことを決める。
いよいよ耐え切れなくなった風を装い、僕は徐々に膝を曲げて低い姿勢を取った。相手の顔は見えないが、いよいよ居丈高になったのはその打撃が雑になったことでよく分かる。あとはもう、タイミングを計り間違えないだけだった。
頭上からの一撃を受け止めた、その次の瞬間、僕は短距離走のスタートの要領で一気に前に飛び出した。盾を前面に押し出し、しびれた腕の力を補うべく腕を折り曲げて自らの上半身を全て盾にぶつけながら。
必然、この一撃は下方から打ち上げる形になる。狙いは顎。満身を込めて相手を打ち上げた僕は、僕の足元よりも五十センチ低いところであの女戦士が痙攣して横たわっているのを確認した。
精根尽き果てた僕はそこで崩れ落ちた。左手はもう限界だった。僕は盾を手放した。代わりに左手も剣の柄に添え、剣を失うなという教えを守ろうとした。
「ヨーヘイくん!」
僕の肩を抱き起す人が居た。声を聞かなくてもその人が誰かはすぐに分かった。
「しっかりして、大丈夫?」
「オノシマさん」
「よかった、まだ喋れるね」
「敵、は?」
「もう大丈夫。流れは完全にこちらのものになったわ。見えるかな、あそこ。もう追撃に移っている」
もう、僕には顔を上げて彼女が指差しているだろう方を見る気力も残っていなかった。ただ、『もう大丈夫』というその言葉を、何の掛け値もなしに受け取って安堵の息を大きくついた。ふと、その時、僕はぎゅっと肩のあたりを強く押さえられる感覚を得る。
「よく頑張ったよ、ヨーヘイくん。初めてであんなに戦える人はそうそう居ないよ。本当に、本当にお疲れ様」
耳元でそう囁かれて、僕はオノシマさんの腕の中にいることに、抱き締められていることに気が付いた。あんな誓いを立てた身としては、こんな状況は恥ずかしくてすぐにでも抜け出すのが正しいのだろう。だが、今の僕は、ただこの柔らかで温かい腕の中に身を委ねていたかった。
「これで、終わり?」
「うん、今回は私たちの勝ち。後は使者の星々が舞い降りてくればもう――」
刹那、彼女の優しいささやきは、天地をひっくり返した轟音に取って代わられた。それは戦いが始まる時に響き渡った、あのバケツを打ち鳴らしたのにも似た音。
「宝瓶宮の声? どうして?」
オノシマさんの絶叫を通して、僕は彼女が狼狽していることを知る。通常なら有り得ない事態が進行しているのだと僕は判断した。
「そんな、まさか!」
僕は何とか体を動かそうとするが、一度切れた緊張の糸はなかなか再び撚りあってはくれなかった。かろうじて目を開けた僕は、しかし、その瞬間、再び魂が沸騰するのを感じた。
空一面を覆っていた雨雲に鋭く切れ目が走っていた。そこに姿を現していたのは、巨大な黄金の水瓶を脇に抱えた少年の姿。いや、少年というには、それは少々大きすぎた。雑に目測してもゆうにその背丈は二十メートルを超していた。明らかにそれは人間ではなかった。それはまさしく、黄道宮第十一座を与えられた神、宝瓶宮そのものの顕現だった。
「嘘、こんなの、今まで一度も」
うわごとのように繰り返すオノシマさんの様子から、これがどれだけの異常事態なのかは僕も即座に理解した。そして僕は見た。宝瓶宮がその水瓶を傾け、そこから零れ落ちた一滴の水が大地に触れた瞬間、直径十五メートルはあろう巨大な穴が、一切の音も立てずにぽっかりと大地に口を開けたのを。
大地に開いた大穴。天を覆う暗い雨雲。そして全ての水を司ることのできる宝瓶宮の顕現。これから何が起こるか、僕たちに分からないわけがなかった。
「ヨーヘイくん!」
オノシマさんは素早く弓を腕に通して肩で固定し、転がっていた死体を下に蹴落とすと、岩の出っ張っていた部分に右手を掛け、左手を僕の方へ向けて突き出した。盾を拾っている余裕はもうなかった。剣を鞘に入れると、僕は兎にも角にもその手を右手で握り締める。そして手の届く範囲で捕まる部分を探し、空いていた左手でそこにしがみついた。
それから二秒も経たぬうちに、それは始まった。しとしととすすり泣くように降り続いていた霧雨は、突如として癇癪を起こした子供のように叫び、泣き、喚き、暴れる豪雨となり替わった。雨が岩を穿つ音以外は何も聞こえない。全身を打ち据える雨粒は石礫よりも強く激しく僕の体を撃った。それは僕の体から熱を奪っていく。
たった、たった一つだけ、オノシマさんと繋いだ手だけが僕が今ここにいると実感できる証だった。僕も彼女も、あらんかぎりの力で以て決して離れないように手を繋ぎ合っていた。これだけは決して離すわけにはいかなかった。放せば最後、あの大穴に流れていってしまうのは明白だった。
だが、その時、僕は右手が強く引っ張られるのを感じた。一番深いところで繋がりあっていた手が、少し、離れてしまうのも同時に感じた。
「助けて! ヨーヘイくん!」
無慈悲な雨の轟音の中、僕の耳は、しかし、聞こえるはずのないその声を確かに聴いた。オノシマさんもとうに限界だったのだ。岩にしがみついていた手を、遂に耐え切れず離してしまったのだろう。彼女が頼れるのは完全に僕だけだった。
だが、いつまで耐えればいい? 僕の方も、あれだけ打ち据えられた結果、岩にしがみつく左手はもう限界だった。雨が岩を掴みやすい形に穿ってくれた結果、ここまで何とか保っているだけだった。このままではあと十秒も持たない。
どうすれば、どうすればいい。考えろ、考えるんだ。兄ちゃんだったらどうしたか――だが、疲労の極みにあった僕の頭は、何らの回答も与えてはくれなかった。
もう、駄目か。僕はそう諦め、オノシマさんに誓いを護れなかったことへの許しを請いながら、岩から手を放そうとした。
俺だったら、剣を使うけどね。
「兄ちゃん?」
再び耳に舞い込んだ、聞こえるはずのない声。いや、持ち主を既に失ったはずの声。兄ちゃんの声が、確かに僕には聞こえた。
そしてそれは、他の何よりも僕を勇気づけるものだった。萎えていた気力が、擦り切れていた筋力が、最後の力を振り絞って立ち上がる。
剣を使う。僕は考えた。どうすれば剣一本でここから助かることができる? そのヒントを、そして、僕はすでに掴んでいた。
雨に穿たれ抉られた岩。そう、ここの岩は脆かった。そしてそれを対を成すかのように、ここの大地は粘土質の非常に密な、硬い土だったではないか。
僕は、力を取り戻した左手から、一旦全ての力を抜いた。直後、抗いえない力で押し流される。それでも、僕はこの右手に込めた力だけは決して緩めなかった。この手を離さない。誓いは護り通してみせる。僕は朝霞葉平だ。朝霞柳介の弟だ。
上下の間隔もない濁流の中で、僕は左手で剣を抜く。必然、逆手になる。だが、それでよかった。いや、それがよかった。
チャンスは一度だけ。兄ちゃん、見ててくれ。絶対、やってみせるから。
僕は、水流の向きと垂直になるようにして剣を地面に突き立てた。力任せに奔流を突破し、剣尖が地面に触れたその時、僕は心の中で快哉を叫んだ。
水に侵された地表は柔らかくなり、僕らごと水流の押し流される剣を次第に飲み込んでいった。しかし、ある一定の線を越えた時、剣は未だ一切の水に触れていない層までたどり着く。その時、この剣は船を支える錨のように、僕とオノシマさんの二人を救う標となったのだ。これ以上流されることはなくなった。後は、この水が引いてくれさえすれば。僕とオノシマさんの息が持つうちに、なんとか。
そう思った直後、僕は激しい振動を感じた。その振動が収まるか収まらないかといったあたりで、水流がぴたりと止まった。石礫のような雨も終わった。
体の自由を取り戻した僕は、自身の足で立って大きく息を吸った。何度も何度も吸っては吐いた。やった、生き延びたんだ。僕は大きく目を開いて、オノシマさんの方を見やった。
手を繋いだままのオノシマさんも無事だった。僕と同じように飽きることなく空気を肺に送り込んでいる。やがて落ち着いてきたのか、彼女は僕を見た。そして、信じられないといった顔で呟いた。
「まだ、私たち生きてるの?」
「うん、生きてるよ」
「嘘みたい。信じられない」
「嘘じゃないよ。だって、ほら」
そう言って、僕は剣から手を離し、彼女の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「あったかいでしょ?」
夢現の心地をさまよっていた彼女は、そこでようやく本来の自分を取り戻した。あの笑顔で、あの声で、彼女は僕にこう言った。
「うん、すっごく」
その時、再び大音声が響いた。人馬宮の声だ、と僕はすぐに理解する。僕は辺りを見回し、そして見つけた。馬の胴体に、人の上半身。僕の体より大きい足跡を残す馬の脚を自由に操りながら、尖端に炎の燃える矢を番える人馬宮の姿を。直後、矢は今や吸い込むべき水を失ったあの大穴の中に放たれた。そして、大地が震え、輝いたと思うと、一瞬ののちにあの大穴は消滅していた。
真の神の奇跡を目の当たりにした僕らは何も言うべき言葉を持たなかった。人馬宮は大きく前脚を上げたと思うと、その反動を使って大地を激しく蹴りつけ、そして天上へと帰って行った。
周囲を見回せば、何とか生き延びた各宮の戦士たちが意識を取り戻し始めていた。既に死んだ者の姿はどこにも見当たらなかった。
おそらく、人馬宮が宝瓶宮を止めてくれたのだろう。オノシマさんの驚きようからして、神々がこの戦いに介入することは本来有り得ないことに違いない。だが、なぜかは知らないが、宝瓶宮はそれを行った。だから人馬宮もまた顕現したのだろう。
「本当に、よくやったと思うよ」
僕はその声を聞いて彼女の方を見やる。
「でも、よく剣をあんなふうに使えたね」
切れた雲の隙間から差し込む光が、オノシマさんの体を照らしていた。水流に撫でつけられた彼女の髪がきらきらと光を反射して、一層綺麗に思えた。僕も掌で顔を拭い、一通りの水滴を落とすと聞き返す。
「何か、まずかったりしたの?」
「あの剣はあなただけに与えられたもので、あなたの魂と繋がっている。だから、あの剣を失ったりなんてしてしまったら向こうの世界に戻れなくなる。そうでしょ? 私の弓もそれと同じものだし」
僕は彼女の言葉に戦慄した。今際の際に兄ちゃんが、そして戦いの直前にクリタさんが言っていた言葉、それの意味を今更になって僕は知ったのだ。
「まさか、知らなかったの?」
僕のひきつった顔に気が付いたのか、オノシマさんは目を丸くして僕を見上げてきた。
「まあ、いっか」
何も言えずにまごついている僕を見た彼女は、そう独り言つとどこか遠くへと視線を遣った。それは明らかにその口元に生じた綻びを僕の目から隠すためだった。
「まだ、何が起きたのかちょっと信じられないけど」
一通り笑い終えた彼女は僕の目をまっすぐ見てくる。
「それにしても、格好付かないね。偉そうなこと言っといて、結局助けられちゃってるんだから。あなたが居なかったらどうなっていたことか」
「僕じゃないさ。兄ちゃんが、教えてくれたんだ」
「え?」
どちらからともなく僕らはずっと互いを結んでいた手を離した。そして僕は未だ地面に刺さったままだった剣を取り、それを引き抜いた。
「あの時、聞こえたんだ。俺だったら剣を使うけどね、って兄ちゃんの声が。だからこのやり方を閃いた」
「リューちゃんの声が、聞こえたの?」
「うん。あれは間違いなく兄ちゃんの声だった。思い出したわけなんかじゃない。確かに、聞こえたんだ」
そう告げると、オノシマさんはしばらく何か考え込むような顔をしていた。だが、短く一度頷くと、彼女は笑みを浮かべた。
「流石はリューちゃんね」
「うん、本当に」
この笑顔を僕は護れたのだ。僕は、一歩兄ちゃんに近付けた気がした。
「本当にありがとう、葉平」
「僕の方こそ、オノシマさん」
「アヤでいいよ」
「それは、ちょっと」
「何? 敬語を使うのはやめたのに名前で呼んではくれないわけ?」
指摘されて僕は初めて気が付いた。先ほどから確かにずっとオノシマさんに敬語を使うのを忘れていた。
だけど、それは、忘れていたわけじゃないと思う。このたった一晩にも満たない、共に過ごしたこの間で、僕は彼女との距離がずいぶん縮まったと無意識的に気付いていたのだと思う。兄ちゃんの恋人のオノシマ・アヤではなくて、人馬宮の小野島文として。それと同じようにきっと、彼女も僕のことをアサカ・リュースケの弟であるアサカ・ヨーヘイではなくて、白羊宮の朝霞葉平として見てくれているのだろう。
「言われれば、そうだね。ありがとう、文」
「どういたしまして」
これからの六ヶ月、僕は文の為に力を尽くすことになるだろう。その中ではさっきのように、命の危険に晒されることもきっとあるだろう。
でも、兄ちゃん。もし兄ちゃんが僕を見ててくれるのなら、そんな時はまた助けてほしい。そしていつか、兄ちゃんみたいになれたと思ったら、どうかそれを教えてほしい。
僕は絶対に兄ちゃんのこと、忘れないから。朝霞葉平は朝霞柳介の、自慢の弟になってみせるから。