第三話
黄色い月が空高く昇った。既に同室の友人は時折寝返りを打ちながら安らかに寝息を立てている。
ベッドに横たわったまま、窓から差し込む月明かりに僕は自分の手をかざす。両手の随所に、とりわけ指の付け根にできた胼胝の数は、今まで僕が積んできた鍛錬の成果の証だった。僕は何度も両手を握り締めては指が反り返るまで開くことを繰り返した。
大丈夫、心配ない。そうすることで僕は自分自身にそう言い聞かせた。しかし同時に、迷いも未だ僕の心の中には確かにあった。オノシマさんの言うところの、一年の平穏への未練は、僕の短く揃えた後ろ髪を捉えて放そうとしなかった。
あの世界が、常に死と隣り合わせの危険なものであることは分かり切っている。そこへわざわざ自分から飛び込む必要はない。きっと、ほとんどの人はそう言うだろう。僕も、多分自分一人だけで考えていたらそう決断して疑わなかったはずだ。
しかし、僕は朝霞葉平だ。朝霞柳介の弟なのだ。僕はずっと兄ちゃんに憧れていた。兄ちゃんみたいになりたいと思い続けていた。そんな僕にとってこれはまさしく絶好の機会ではないか。
その時ふと、僕は目尻が熱くなるのを感じた。気付けば僕は泣いていた。そう、僕は気付いてしまったのだ。僕がなりたい存在になれたかどうかを教えてくれる唯一の人が、もうこの世界のどこを捜してもいないということに。僕がどれだけ頑張っても、もう兄ちゃんに追い付くことは出来ないのだということに。
「兄ちゃん」
僕は唇を噛み締め、枕に顔を埋める。僕の意志に反して痙攣し始めた喉から漏れる音を聞きたくはなかったから。きっと、いつかはオノシマさんのように笑ってその名を口にする事も出来るだろう。だが、それはきっと遙か未来のことになるだろうと僕は思った。今まで僕が生きてきた時間の倍はかかるだろう。
何にせよ、このままに夜をめそめそと泣いて過ごしていてよいのだろうか。その答えは、当然、否だった。
「考えろ、考えるんだ、アサカ・ヨーヘイ」
兄ちゃんだったらどうしたか。助けを求める人の願いよりも自身の嘆きを優先しただろうか。一縷の可能性にかけて先の見えぬ暗闇に踏み出すことを躊躇っただろうか。進取の気概を忘れて安穏と留まることを好んだだろうか。
やるべきことはただ一つ。
そして、その理由は明白。
「偉大なる白羊宮よ。我に聖なる加護を、戦う勇気を、折り得ぬ意志を、そして、輝く希望を与えたまえ」
祈りを捧げた僕は静かに目を閉じる。脳と体を眠りの瀞に沈ませながら、しかし、魂は戦いへの意志で激しく奮わせながら。同時に、瞼の裏にその美しい黒髪を風に舞わせるオノシマさんの姿を僕は描いた。
「本当に、来てくれたんだ」
彼女の声に僕は目を開いた。僕はいつの間にかしっかりと自身の脚で地面に立っていた。僕の眼前には人馬宮の戦闘服に身を包み、その肩に彼女の体ほどもある長弓を携えたオノシマさんが居た。彼女はしばらく呆然とした顔で僕のことを見つめていたが、ふっと顔をほころばせると、あの優しい声でこう言った。
「ヨーヘイくん、その服、すっごい似合ってる」
その言葉に自身の姿を見やれば、僕もまた汚れ一つ無い白羊宮の戦闘服を身にまとっていた。
ぴったりと体に張り付く、鎖骨の辺りから足首までを覆う防護服。それを覆い隠すのは、動きの邪魔にならない程度に余裕を持った布の長袖長ズボン。脛や前腕には鉄製の強化具が当てられており、前腕のそれは三重の帯で、脛のそれは長靴のバックルで留められていた。胴体を護る革製の五角形の胸当ては、僕の腰元を覆う突き出した一点を除く残りの四点でしっかりと服に縫い付けられている。腰に巻いたベルトのバックルには、白羊宮の象徴である二つの角が彫り込まれている。そして、その徽章は僕の右手がしっかと掴んでいたあの剣の鍔にも、同じようにして輝いていた。
「オノシマさんも」
何か言い返した方が良いだろうと思い、僕は彼女に視線を向けた。他宮の戦闘服を間近でゆっくり見ることなど初めてだった。
彼女は僕のように無骨な強化具を身に着けてはいなかった。翠とそれの近親色で揃えられた上下は、共に無駄な余裕などはなく彼女の四肢の線をはっきりと浮かび上がらせていた。弓を引く為にだろう、彼女の胸当てはその左胸の辺りまで覆ってはいなかった。背中に負われた箙には所狭しと矢が林立している。ただ何よりも、一本に結い上げられた後ろ髪が僕の目を惹きつけた。きっとそれだけで十分、昼に会ったときとは僕の得る印象は違っただろう。
「綺麗ですよ」
「どうもありがとう。受け取っておくわ」
「お世辞じゃないです」
「分かってるわよ」
即座に否定した僕に、オノシマさんは苦笑しながらそう返してきた。僕はどこかあしらわれたような感じがしてならなかった。兄ちゃんだったらいったい何と言っただろうか。少なくとももっと上手い言い回しがあったはずだろうけど。
「それより、本当に来てくれてありがとう」
「僕は、アサカ・リュースケの弟ですから」
「うん、頼りにさせてもらうね」
「努力します」
そうやって言葉を交わしていると、僕は少し肌寒さを感じた。僕は周囲を見回す。灰色の雲に空は全て覆い尽くされ、降っているのか止んでいるのか分からぬ程度の霧雨が時折強く吹く風の中に舞っていた。足許も黒く濡れた固い粘土のような大地であり、明らかにここは前僕が来た場所とは違っていた。
「毎回、場所は変わるんですか?」
「毎回とは限らないわ。ここは宝瓶宮の所領で、あなたが前に見たのは獅子宮の所領。どこの宮の地で戦いが始められるかは、その時にならないと分からない」
そう言われて僕は納得した。この風の強さは四大元素のうち『空気』を奉じる宝瓶宮ならではなのだろう。そしてあの時見た、天に向かって岩漿と煙を噴き上げるあの地は、まさしく『火』を奉じる獅子宮の気性の激しさを受けているともいえた。
「おい」
突如、熊のうなり声のような低く野太い声が僕の背後から聞こえてきた。反射的に振り向いた僕の視界に入ってきたのは、僕と同じく白羊宮の戦闘服に身を包む数十人の男たち。
「貴様、いったいどこの誰だ? なぜ白羊宮の服を着て剣を持っている?」
その集団の先頭、三メートルはある長槍を地面に突き立てた男は僕に向けて不信感を一切隠そうともせず、そう尋ねてきた。
「僕はアサカ・ヨーヘイです。れっきとした白羊宮の十年生です」
僕がそう答えると、途端にどよめきがその集団から湧き起こる。
「アサカ・リュースケってやつのことを聞きまくってたあの頭のおかしい奴か?」
「十年生? 何でそんな奴がここにいる」
「盾も鞘も持たない白羊宮の剣士が居てたまるか」
聞き取れた分だけでも、そんな類の罵声が僕に向けられていた。思わず僕は口を尖らせる。
「待って下さい。それは――」
「ねえ、みんな」
しかし、僕の言葉を遮り、オノシマさんがすっと僕と彼らとの間に割って入って来た。彼女の姿を認めるや否や、先程までのどよめきは水を打ったようにしんと静まった。
「彼の捜しているアサカ・リュースケは本当に居たわ。たった一週間前まで、あなたたちのリーダーとしてね」
「オノシマ、いったい何を言っている?」
「そこではあなたは優秀な副官だったわ、クリタ。あなたたちは誰も何も覚えていないでしょうけど」
オノシマさんはクリタと呼ばれた槍を持つ男にその視線を向けていた。状況から察するに彼が今の白羊宮に仕える戦士たちのリーダーなのだろう。僕は余計なことを言わずに後ろで事態の推移を見守ることにする。
「アサカ・リュースケなどという名前、聞いたことなど一度もない」
「それでも、私と彼は知っている」
「なぜだ」
「その名からも分かるように、彼はアサカ・リュースケの弟だから。そして彼も、私も、アサカ・リュースケの遺志を全うするように天啓を得たからよ」
オノシマさんは一切の曇りなく、自信に満ち溢れた声でそう宣言した。再び白羊宮の集団からざわざわと声が上がる。天啓――すなわち、神の言葉を聞いたことなど僕はもちろんない。だが、今はそれを言うべきではないことぐらいは、僕一人でも十分判断出来る。
「本当なのか」
「私があなたたちに嘘を吐いたことがある?」
クリタという男はオノシマさんの顔と、僕の顔を何度も繰り返し見比べる。僕はせめて虚勢は張って見せようと、力強く彼に視線を返した。
それにしても、オノシマさんはいったい彼らの間ではどういう存在なのだろう。属する宮が違うというのに、彼女はどのようにして、そしてどれだけの時間をかけてこのような関係を築いていたのだろうか。
「そいつが剣しか持っていないのも神の意志だと?」
「もちろん」
何であれ、今の僕はオノシマさんにただ従うだけだった。そして、彼らもまたそのようだった。クリタは彼女に向けて首を縦に振った。
「いいだろう。他でもないお前の言葉だ。信じよう」
「ありがとう、クリタ。それで、よければ彼に」
「分かっている。おい、予備の盾と鞘を。あいつにくれてやれ」
少しの後、木に革を張った大型の盾と、剣の長さにぴったり合う磨き上げられた鞘が僕に渡された。鞘をベルトにくくりつけた僕はそれに剣を納め、左手でしっかりと盾を持った。やはり白羊宮の二本角が描かれた盾に関しては、鍛錬でいつも用いているのとは革の有無しか違いがなかったから、それほど違和感は覚えなかった。
「ありがとうございます」
「同じ白羊宮に祈る者だ。礼は必要ない」
礼を述べた僕にクリタはさも当然だとばかりそう言ってのけてきた。
「それより、お前、戦うのも初めてか?」
「はい」
「だろうな。そうでなければ、鞘も盾もない奴が生き残っているわけがない。いいか、お前は剣士だな?」
「はい」
「なら、多くは言わん。ただこれだけは絶対に覚えておけ。その剣だけは失うな」
彼の言葉は、兄ちゃんが最期に言い残したそれと同じものだった。いったい、この剣はどれだけの意味を持っているというのだろうか。
「放してしまったら、どうなるのですか?」
「もしものことなんか気にするな。余計なこと考えてたら死ぬぞ。それより、おい、オノシマ」
「何?」
「こいつはどうするんだ。俺らと一緒に行くのか? それともお前が護るのか?」
「どっちでもないわ」
「何だって?」
クリタは露骨にしかめ面を見せた。しかしオノシマさんはそれに一切興味を示さず、ただこう言った。
「私が彼に護ってもらうのよ」
そんな彼女の答えに一番驚いたのは、きっと僕だったと思う。耳を疑って聞き返すことも忘れたクリタたちを横目にオノシマさんは僕に一緒に来るよう促した。
「さあ、もうそろそろ始まる頃合いよ。あなたたちも急いだ方が良いわ。私は、いつも通りにやらせてもらうから。また会いましょう」
僕はもう一度だけ白羊宮の彼らに礼を深々とした後、彼女の後に続いて霧雨と強風の中を歩き出した。
「あの」
「どうかした?」
しばらく歩き、もう振り向いてもクリタたちの姿が見えなくなった辺りで僕は彼女に問い掛けた。
「僕に護ってもらう、ってのは、いったい?」
「だって、いきなり人を殺すのは嫌でしょ?」
オノシマさんは立ち止まりもせず、あっさりとそう返してきた。僕はその言葉に、戦うことはすなわち殺すことだということを思い起こさせられる。
「あなたは、私を護ってくれればいい。私は弓使いだからどうしても懐に潜られた時、不利になる。その時、あなたが私の盾になってくれれば、それだけでどれだけ心強いことか」
「でも、殺すんですよね」
口に出してしまってから、何を甘いことを言ってるんだと自分で自分に思った。分かり切っていた話のはずだろうにと。
「まあ、そりゃあね」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「軽蔑されるかと思って」
「まさか」
ふと、オノシマさんは足を止めて振り向いた。いつもの温かい微笑を彼女は浮かべていた。
「最初から誰かの命を奪うことに抵抗がなかったりしたら、それこそ私はあなたを嫌うよ。でも、それが普通。誰だって同じなんだから」
それは明らかに僕へ差し出された救いだった。だが僕はそれに気付いていながら、気持ちが幾分楽になったのもまた事実だった。我ながらいかに浅ましいことか。
「私だって、出来ることなら誰も殺したくない」
オノシマさんは再び歩み始める。僕はそれに従う。
「でも、殺さなければ殺される。それに、この世界の真実に近付くためには、どうあったとしても一人でも多くを殺さなければならないのだから。仕方ないなんて、言うつもりはないけれど」
ふと彼女の口の端から零れたその声に、僕は何と答えればいいか分からなかった。しかし、暗い沈黙に耐えかねた僕は何とかして新たな話題を紡ぎ出した。
「あの白羊宮の皆さんとは、仲が良いんですか?」
「クリタたちのこと? うん、まあ、それなりにね。リューちゃんのことだけじゃなくて、私のことまで忘れてたらどうしようとは不安だったけど、何とかなってよかったわ」
「でも、あの天啓を得たって話、よく信じてもらえましたね。まさか何の証拠もなしに信じるなんて」
僕は正直なところ、天啓を得た、との一言で全てを信頼することにしたクリタたちの判断に納得がいっていなかった。天啓を判断材料にするのは決して間違っていないが、しかしそれを得たという証言だけを証拠にしたのはいささか軽率過ぎはしないだろうか、と。
「それが、そうでもないんだ」
「え?」
オノシマさんの返答に気を取られた僕は、思わず地面から突き出した岩に足の指先をひっかけてしまった。そこまで強くぶつかったわけではないのに、その部位の岩はぼろりと剥がれて落ちた。
気が付けば周囲はだだっ広い平野となり、それを彩るかのように白色の岩石がまるで山中のキノコのようにぼこぼこと顔を出していた。
「天啓をなかなか信じられないのは、神々たちはみんな遠くに居て、その声を聞くのはとっても難しいって思ってるからでしょ?」
周囲を見回したオノシマさんは、ひときわ大きな高さ五十センチほどの平たい岩を見つけると、軽やかにそこへと跳び乗った。僕も彼女に従ってそこへ乗り移る。
「でも、ここでは――」
しかし、オノシマさんの声はそこで断ち切られた。まるで千台の薬缶を同時に沸騰させたような、それほどまでに激しい音が僕の耳をつんざいた。それはすぐに止むことはなく、びりびりと大地全てを震わせた。僕は耳を覆って堪えようとするのが精一杯だった。
そして十秒ほど続いたその音は、始まったのと同じほど唐突に止まった。吹きすさぶ風の音だけが僕の鼓膜を揺らしてくる。ゆっくりと耳から手を放した僕に、オノシマさんは弓を手に取りつつ言った。
「こんなふうに、ここでは神々の声を聞くのは珍しくもない。ちなみに今のは我らが人馬宮の声」
今の無秩序な轟音が神の御声だと言われて、僕は少々受け入れがたい思いを抱いた。しかし静かな瞳を保ったままのオノシマさんは静かにこう続ける。
「神々の咆哮は、戦いの開始を告げる合図。今の人馬宮の声に反応して、向こうのどれかが声を上げれば、戦いは始まるわ」
左手に弓を提げ、右手に矢を取ったオノシマさんは、神話の中の女神もかくやと思わせるばかりに揺るがぬ意志に満ち溢れているように見えた。
「さっき言ったよね。この世界の真実に近付く為には、一人でも多くを殺さなければならないって」
僕は無言で頷く。彼女の動きの意味を察知し、鞘走りの音を立てて剣を抜き放ちながら。
「神々は私たちの戦いを見ておられるわ。そして、戦いでもっとも目覚ましい貢献をした者、有り体に言えばもっとも激しく敵を殺した者を、神々は褒美を授けるべく喚び出すのよ」
「それは、つまり、神と直接会えるっていうこと?」
「そう。そしてそれが私たちの目的にとってもっとも大事な時だというのは、分かるよね?」
神に直接会える。きっと一週間前の僕がこれを聞いていたら、さぞかし無邪気に驚いていたことだろう。今の僕からすればきっと、何も知らないままの方がよかったのではないかと思うほどに。
「だからこそ私たちは今、主戦場のど真ん中に誰よりも早く陣取っているわけ。ここは一度始まってしまえば、もう逃げることなんて絶対に叶わない」
だが、無知は幸せであるかもしれないが、そこに果たして進歩はあるのだろうか。僕はそんなことはないと自信を持って言える。兄ちゃんにただ憧れていたあの頃よりも、兄ちゃんにどうやって近付くかを見つけられた今の方が、僕は遙かに充実を感じている。
「さあ、今ならまだ間に合うわ。どうする?」
それに対する答えはひとつしか有り得なかった。僕は彼女に正対すると、剣と盾とをぶつけて打ち鳴らす。そしてその重たい金属音が尾を引いて風に流される中、僕は彼女の為の誓いを立てた。
「兄ちゃんには劣るけど、それでも、あなたを命の限り護り抜くことを、白羊宮の角に賭けて誓います」
そしてオノシマさんも、弓弦に指をかけて引き絞り、素人目にも綺麗に離れを出すと、こう誓いを返した。
「あなたの剣と盾に護られるにふさわしい者であり続けることを、人馬宮の弓矢に賭けて誓います」
誓いは交わされた。もはや霧雨に溶けて流れるべき一滴の迷いも、清風に乗って飛ばされるべき一片の悔いもここにはなかった。
そして、全てをひっくり返すような大音声が再び響いた。ブリキのバケツを打ち鳴らし合ったような音が、天地の間で無限に共鳴し続ける。
そしてそれに続いて人間の鬨の声が、まるで大地から湧き起こるかのようにして爆発する。
「さあ、来るわよ」
矢を弓に番えたオノシマさんに促されるまでもなく、僕は剣と盾を正しく構える。胸当てを突き破りそうな程に騒ぐ心臓の鼓動を感じながら、僕は呟いた。
「兄ちゃん、見ててくれよ」