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第二話

 あの悪夢から一週間が経った。未だに兄ちゃんに会うことは出来ていない。そして、僕の講じたあらゆる手だては完全に梨の礫だった。

「どうして、一体、何があったって言うんだ」

 昼休み、校舎の屋上に座り込む僕は、昼食も取らずに一人頭を抱えていた。白一色で決められた学生服が泥で汚れるのはみっともなくて嫌だったが、もはやそんなことを気にしている余裕は僕にはなかった。

「何でみんな、何を聞いても兄ちゃんのことを知らないって風に言うんだ? わけが分からない。僕に兄なんて居なかっただって? あり得ない!」

 僕は白い雲がまばらに彩る青空に向けてこの苛立ちを激しくぶつけた。それでも当然気は収まらない。転落防止の柵に背と頭を預けた僕は大きく息を吐く。怒りの源はここ一週間で兄ちゃんの所在を聞いて回った全ての相手だった。

「先生も、兄ちゃんの友達も、クラスの連中も、教会の神官さんまで。何で誰も彼も口を揃えて『アサカ・リュースケなんて名前は聞いたことない』だの『お前に兄貴なんて居なかっただろ』なんて言うんだってんだ。分からない、全然分からない」

 それ以外に僕の得られた回答はなかった。本当になかったのだ。神官の中には、諦めずに日を改めながら執拗に聞き募る僕のことを露骨に狂人呼ばわりした連中すら居た。彼らは兄ちゃんのことを模範的な神の(しもべ)だと称賛してやまなかったはずなのに。

 しかし何より腹が立つのは先生方だった。僕が知る限りでも三年生の頃から十二年生になるまでずっと座学でも実技でも目覚ましい結果を残し、全校生徒の前で何度も表彰された兄ちゃんを知らないとのたまったのは一体全体どういう了見なのだろう。自分がメダルを首にかけた相手のことを覚えていないというのだろうか。

「これじゃあまるで、最初からアサカ・リュースケなんて居なかったみたいじゃないか」

 ぽつりと零れたその言葉は、しかし、僕を怯えさせるには十分過ぎた。

「もしかしたら、本当に」

 周りのみんなが言っていることが正しいのではないだろうか。おかしいのは自分なのではないだろうか。一週間にわたって否定され続けたことは、僕を相当弱気にさせていた。もしかしたらアサカ・リュースケなどという存在は僕の頭の中にだけしか居なかったのかもしれないのでは。僕は覚えずそれを認めてしまいそうになり、慌てて首を強く横に振った。

「そんなわけない。そんなわけ、あっていいはずがない。絶対、絶対そうだ。僕まで疑ったら兄ちゃんはどうなっちゃうんだよ」

 僕は兄ちゃんにずっと憧れていた。僕が覚えている限り、兄ちゃんよりも優れた人など見たことがなかった。不用意に意思を枉げることも、道半ばで物事を打ち捨てることもない強い人だ。それでいて他の誰もが気付かないことに気付ける、全てに対する広い視野を持った人なのだ。我らが白羊宮に祈りを捧げる者の中で、皆が口を揃えて百年に一人の逸材だと評した、それが、朝霞柳介という僕の兄なのだ。

「それなのに、どうして」

 誰も彼からも忘れられてしまうという仕打ちを受けねばならないというのだろう。仮にこれが白羊宮の下した審判なのだとしても、僕には全然納得が出来なかった。なぜ、よりによって。

 僕は目をつぶってゆっくりと息を整える。落ち着いて考えよう。理由なしにこんな馬鹿げたことが起きるわけがない。必ずどこかに理由はある。僕はあの悪夢の意味までさかのぼって考える。

 この一週間、僕はあれと同じような夢を見ていない。この世のものとは到底思えない世界に放り出されることも、一振りの剣に命を預けてそれを奪い合う人たちの姿を見ることもなかった。

 おぼろげな記憶を手繰り寄せて僕はあの時見た情景を出来るだけ鮮明に瞼の裏に描こうとする。

最前線で切り結ぶ男たち。その後ろでは女たちが横一線に並び、弓矢を天に向け構えていた。いや、厳密に男と女で居る場所は分けられなかったように思う。弩を持って後ろから矢を放つ男も居れば、槍だったか薙刀だったかを持って一歩も引かずに切り結ぶ女も居たような気もしてくる。

 しかし僕は一番重要なことに気付いた。戦う者たちがまとっていた装束の色。入り乱れてはいたが、それは確かに思い出せた。すなわち僕から見て右側には白・翠・緋の三色があり、その対極、左側には浅葱・灰・そして黄の彩りがあった。

それぞれ白は白羊宮(クリオス)、翠は人馬宮(トクソテス)、緋は獅子宮(レオン)を象徴する。そしてこの三つの宮は四大元素(エレメンツ)のうち同じ『火』を奉じる関係にあった。そして、浅葱は双児宮(ディデュモイ)の、灰は天秤宮(ジュゴス)の、黄は宝瓶宮(ヒュドロコス)の象徴色であって、それら三つは『空気』を奉じている。

これらの宮と色との関係に加えて『火』と『空気』が対立概念であるということは、ここ黄道宮学園の一年生でも満点が取れるほどに当り前の話だといえた。

一つだけならば偶然だろう。だが六つの一致が必然でなければ何だと言うのか。僕が見たあの悪夢が兄ちゃんの身に起きた何かに関して、関わっていないわけがないと僕は考える。

「君、ひとり?」

 ふと、そんな声が聞こえてきた。言葉の内容の割にその声音は非常に優しく、柔らかく、どうやら食事も取らずに屋上で時間を潰している様子の、可哀想な生徒を馬鹿にしに来たわけではないようだった。

「そうだけど」

 僕は目を開けながら答える。後ろ手に屋上の入り口を閉める女生徒がそこに居た。

「あなたは?」

 その黒い髪は肩の辺りまで伸ばされていて、肩には指定の鞄がかかっていた。彼女の着るブレザーもスカートも、ソックスも全て翠を基調に仕立てられており、それは彼女が人馬宮に祈りを捧げるものであることを意味していた。

「私もひとりなの」

 そんなことを言いながら、微笑をたたえて彼女は僕の方へ近付いてくる。見た目よりも重たそうな、これまた翠の鞄はどさりと音を立てて僕のすぐ横に置かれた。

その意図がまるで読み取れず、僕は怪訝な視線を彼女に向けた。しかしそれに気付いてないのか、はたまた無視しているのか、彼女は僕と鞄を挟んだ位置で腰を下ろす。皺がつかないようにきちんとスカートを押さえて伸ばしながら。

「昼ごはんは?」

「食べてないけど」

「だと思った。教室にも食堂にも居ないんだから」

 まるで僕の事を捜していたかのような言いぶりに僕はいよいよ困惑する。風にそよぐその髪を梳る指先のたおやかさに思わず目を奪われそうになるが、なんとかそこから目を逸らして僕はこう言った。

「何ですか。あなたは、いったい」

 それでも敬語を使ったのは、彼女のブレザーの胸ポケットのところに『Ⅻ』を模した、金地に紅で描いた徽章を認めたからだった。それは十二年生、すなわち最上級生の証である。僕の襟には『Ⅹ』を表す青が同じ金地の上で光っていた。

「何、って?」

「何か、僕に話でもあるんですか」

「ええ。そうでもなければ貴重な昼休みに白羊宮の校舎の、しかも屋上までやって来るわけないじゃない」

「よく、僕がここに居るって分かりましたね」

 結局この人は何をしに来たのだろう、と思いながらも僕は社交辞令的にそう返した。屋上の鍵は借りようと思えば借りられるし、それを今誰が持っているかは職員室の貸出表を見れば一目瞭然だ。そこまで面倒なことをこの人はしたのだろうか、などと漫然と考えていた僕は、しかし、彼女の次の言葉に心臓を掴まれた。

「だってヨーヘイくんは、何か考え事があるといつもここに来るんでしょ?」

「え?」

 僕は思わず彼女の顔を見た。微笑はそこから既に消え去り、きっと真一文字に結ばれた唇と、じっと僕の事を見つめてくる瞳が、彼女の言葉が単なるお遊びなどではないことをはっきりと示していた。

「何で、そのこと。っていうか、僕の名前」

「だって、リューちゃんから何度も聞かされたから。私は小野島文。あなたは、リューちゃんの弟の朝霞葉平、だよね?」

 オノシマ・アヤ。知らないわけがなかった。それは兄ちゃんから何度となく、そう、あの悪夢の直前にも聞かされた惚気話の主人公の名前だった。

「リューちゃんって、朝霞柳介の、ことですよね」

「うん」

 僕の念押しに、オノシマさんは間髪を入れずこくりと頷いた。その次の瞬間、思わず僕は彼女の肩を掴んでいた。ようやく兄ちゃんのことを覚えている人に出会えたことへの感動や、達成感や、今までに僕が払った徒労の反動が僕をそうさせていた。僕の口からは堰を切って言葉が溢れていく。

「覚えてるんですか? 兄ちゃんのこと。ねえ、教えて下さい、兄ちゃんは今どこに?」

 一気にまくし立てた僕を、しかし、オノシマさんは静かにじっと見つめてきた。その瞳からは一雫の涙が、音もなく彼女の頬を伝っていく。

「もう、居ないの」

 もう居ない。そう言った彼女の声は、ひどく震えていて、か細かった。彼女が何を言ったのか、僕はすぐには理解できなかった。僕は彼女の肩を掴んだまま、込め過ぎていた指先の力を抜くことも、オノシマさんの言葉の意味を理解しようとすることも忘れてしまっていた。

 それに気付いたのだろうか、指先で涙を拭ったオノシマさんは、今度は打って変わってはっきりとした声で、一切の誤解を許さぬ雰囲気をたたえて僕に告げた。

「あなたのお兄さんは、あなたを護って死んだ」

 もはや僕の頭も理解を拒否し続けることは認められなかった。死んだ。兄ちゃんが、死んだ。僕の頭の中を何度も何度もその響きが駆け巡る。

「嘘だ」

 僕の口は無意識的にそう動いていた。しかしオノシマさんは静かに首を横に振ると、先程と同じく凛とした声で僕に向かって言い放つ。

「嘘じゃない」

「嘘だよ、そんなの」

「最後に、笑って死んでいったのを見たでしょ?」

「だって、あれは夢じゃ」

「夢じゃないの!」

 狼狽する僕の言葉を遮って、突如オノシマさんは鋭く叫んだ。予期せぬ絶叫に気圧された僕は彼女の肩から手を戻した。オノシマさんはすっと立ち上がると、僕に影差した表情を向けてきた。

「聞いて、ヨーヘイくん」

しかし彼女は首を二度縦に振ってその影を振り切ると、見上げるばかりの僕に向かってこう言った。

「あっちが現実なの。夢は今私たちが居る、平和で優しい、この世界の方」

 昼休みの終わりを告げる鐘の音が空高く響いた。繰り返し鳴るその音はいつもよりも尾を引くように思えて。その残響の中、僕とオノシマさんはじっと互いを見つめ合っていた。

「信じられないって顔、してるね」

「それは、だって」

 僕は言葉に詰まる。幾ら何でも突飛すぎはしないだろうか。しかし僕は自分自身を叱咤する。考えろ、兄ちゃんだったら、どうしたか。

「この世界が現実じゃない、だなんて。そんな話、信じろって方が」

「じゃあ、どうして私がリューちゃんの最期の様子を知っていると思う?」

 しかしあっさりとオノシマさんは切り返してきた。それを言われれば確かにその通りだった。彼女は兄ちゃんが最後笑って死んだことを知っていた。

 あの悪夢が本当に単なる夢であったのなら、オノシマさんと僕が描く兄ちゃんの最期が一致することなどまず有り得ない。彼女が当てずっぽうで言って、それが偶然的中していた可能性もなくはないが、そんな馬鹿馬鹿しいことは一顧だにする価値もない。

 鐘の残響はもはや既に消え去っていた。僕もオノシマさんも五時間目には間違いなく間に合わないだろう。だが、今ここで話を切り上げる気など僕には毛頭無く、そしてオノシマさんもまた同じようだった。彼女の少しだけ充血した眼は僕の答えを待っている。

確かに、この世界が夢で、あの世界が現実だと言うのならば、あの時オノシマさんもあそこに居て兄ちゃんの最期を見ていたのだと考えることで全てに説明がつけられた。ただ、問題なのは、その大前提に僕が未だ一切の納得を得られていないことだった。あの夢を現実と認めるのも、この現実を夢と認識するのも、どちらも僕には難しすぎた。

「ヨーヘイくん」

 そんな僕の逡巡を見抜いてか、オノシマさんは僕の名を呼んだ。

「あなたは、一度でもいいから疑問に思ったことはなかった? どうして生まれた月で人生の全てが決められてしまうのだろうって。あるいは、どうしてこんなに大変な思いをしてまで、黄道宮学園に入れさせられて、子供の頃から神に奉仕するすべを教え込まれなければならなかったのだろうって」

 しかし、彼女の問い掛けは僕をただ更に混乱させるだけに終わった。誕生月で人生が決まることも、自らの月の守護神に祈りを尽くす為に尽力せねばならないことも、至極当然のことではないか。

「一度も、ないですけど」

「うん、そうだよね。それが普通」

 僕の戸惑いを含んだ声音にオノシマさんは優しくほほえんだ。

「でも、どうしてだと思う?」

 しかし、彼女は更に問いを重ねてきた。僕と真正面から目線を合わせる形で、膝を抱えるようにしてしゃがんだ彼女の胸に、人馬宮の弓矢を象った首飾りが輝いていることに僕はようやく気が付いた。

「ヨーヘイくん、どうしてそんなことをする必要があると思う?」

「それは、だって、僕は白羊宮の月に生まれて、だから白羊宮に祈りを捧げなくてはならなくって。当たり前の話なんじゃないんですか?」

「でも、祈りを捧げるだけなら神官さまたちだけで十分なの。私たちがここに居る理由は、そう、祈りを捧げる為ではないとしたら?」

 僕は耳を疑った。祈りを捧げるためではない? 僕はその為だけと信じて日々書物を読み漁って精神を修め、木剣を振り払って身体を鍛えていたというのに。そうでないというのならば、僕のこの十年間はいったい何だったというのだろうか。だが彼女の言葉を否定するだけに足りるほどの自信を僕が持っていないのも確かだった。

「ひとつ、問題を出してもいいかしら」

 オノシマさんはぴっと人差し指を立てた。僕が短く頷いたのを見た彼女は再び口を開く。

「白羊宮でも人馬宮でも、黄道宮に属する神々に願いを聞き入れられんことを望むなら、祈りだけではその願いは届かない。それでは、祈りと共に何を捧げなければならないか?」

「それは」

 簡単にも程がある、と言いかけたその時、僕は彼女の意図に気が付いた。それは今まで僕が抱え込んでいた疑問を全て解消させるものであった。だが、同時にそれを認めるにはあらゆる恐れを振り払う勇気が要求されることも僕は理解してしまった。

 僕は一度ゆっくりと息を吸った後、しばらくそのままで息を止め、そして、その答えを口にした。

「犠牲」

 その響きを受けて、オノシマさんは神妙に頷いた。

「正解」

「じゃあ、まさか」

「そう、あなたが夢だと思って見たあの血なまぐさい光景、あれこそが、私たちの信仰の終着点なの」

 僕は完全に言葉を失った。僕が、僕たち自身が、土をこねて作った人形や、生きる為に生きることのない家畜と同じ存在だったというのか? そんなことは全然受け入れがたいことだった。

 しかし僕は思い出す。僕らの信仰における犠牲というものを定義した一節を。――犠牲とは何か、血である。血とは何か、命である。命とは何か、魂である。ゆえに犠牲とは、魂を捧げることである。

「僕たち自身が、犠牲になる?」

 魂を捧げる。それの意味を僕はこう教わってきた。神に対して邪な、あるいは蝙蝠の様な態度で臨むことは決して赦されない。二心を抱くことある勿れ。神には常に自身の魂を捧げる気持ちで、要するに、誠心誠意の思いを込めて祈りを捧げよと。

 それが、まさか、完全に文字通りの意味だったなどというなんて。

「十八歳の誕生月を迎えたら、私たちは真の信仰を神に捧げることを要求される。言い換えれば、あの殺し合いの舞台に上がることを余儀なくされる。そして、そこで死ぬことが私たちの運命だと気付かされる。同時にあの世界こそが現実であり、この世界は夢、いえ、神々が拵えた幻想の一部でしかないことを理解するの」

 オノシマさんはまるで昔話を言い聞かせるようにして滔々とそう述べた。

「そしてあそこで命を落とした者はこの世界からは存在を抹消される。リューちゃんが、アサカ・リュースケはみんなから忘れられたわけじゃない。この世界そのものの記憶から、消し去られてしまったの」

「世界そのものから?」

「そう」

 有り得ない、そう言おうとして僕は、しかし、唇を強く結んだ。僕が今まで信じてきたものを護るためには、こんな話はすぐに頭を振って耳から追い出してしまうべきだろう。だが、この話がもし本当だとするならば、それはどれだけ恐ろしいことなのか。

「オノシマさん」

「なに?」

「まだあなたの話を信じられたわけじゃありません。でも、ひとつ聞かせてもらっていいですか?」

「ええ」

「どうして、あなたはそんなことを知っているのですか? そんな話、いったい誰が」

 一番僕が気になっていたのはそこだった。話の真偽を云々するよりも、まずはその出所を聞く方がはるかに有意義な判断材料を僕に与えてくれるだろう。彼女の妄想などではないことを願いつつ僕は答えを待った。

「私も、あなたと同じだったから」

 オノシマさんは、そうぽつりと呟くように言った。彼女は立ち上がると、僕に背を向けて空を仰ぐ。そして、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。

「私にも二つ違いの姉が居た。ヒナコって名前のね。人馬宮ではなかったけど、あなたがリューちゃんのこと憧れてたみたいに、私もお姉ちゃんにずっと、ううん、今でも憧れてる」

 僕もまた床に手をついてゆっくりと立ち上がり、彼女の傍へと静かに歩み寄る。

「同じってのは、まさか」

「そう。お姉ちゃんも、私の目の前で私を護るために。そして今はもう、私以外誰もお姉ちゃんのことは覚えてない。お父さんやお母さんだって例外じゃない。お姉ちゃんの昔使ってた部屋さえ、十年以上使っていない物置ってことになってた。酷い話だよね」

 酷い話だと言いながら、オノシマさんの声はどこか奇妙に明るかった。その異質な感覚は決して拭い去れない悲しみを背後に浮かび上がらせて、彼女の負った記憶の重さを、そして僕がこれから実感することになるだろう喪失の辛さを、僕に思わせずにはいられなかった。

「あれから、もう二年か」

 ふう、と息をついたオノシマさんはくるりと僕の方に振り返った。遠心力と風になびいたその黒い髪がふわりと浮かび上がる。

「ずっと私はあの世界で戦いながら、この黄道宮学園の真の目的を探ってきた。そして、あんな形で命を落として、全てから忘れ去られることがあっていいはずないって訴え続けてきた。でも私の声は誰にも届くことはなかった。ただ一人、朝霞柳介を除いては」

 兄ちゃんの名を呼ぶとき、オノシマさんの瞳が追憶に揺れるのを僕はじっと見逃さない。

「彼だけは私の話を信じてくれた。そして、私と共に戦ってくれた。付き合い始めたのも、最初は周囲に怪しまれずに話し合う時間を持つ為だった。リューちゃんだけが、本当に……」

 それ以上、彼女は言葉を続けることが出来なかった。まさか兄ちゃんがそんなことをしていたなんてと、僕はただ内心静かにながら驚いていた。だけど、同時に十分な納得を僕は得ていた。

 こんな荒唐無稽にも思える話、僕は兄ちゃんを探し求めたこの一週間を経ていなければきっと拒絶していたことだろう。だが、兄ちゃんだったら、あの朝霞柳介ならば、十分な思慮の後に正しい道を選ぶことが出来たのも当然だと思えた。僕は改めて自らの抱く兄ちゃんへの憧憬が深くなるのを感じる。

「でも、僕はどうして兄ちゃんのことを忘れなかったんでしょうか?」

 そして、兄ちゃんのことを考えたとき、僕はもう一つの疑問を思い出した。オノシマさんの言う通り、兄ちゃんがこの世界の記憶から消されてしまったというのならば、僕とオノシマさんはどうしてアサカ・リュースケのことを忘れずにいられたのだろう。

「ごめんなさい。それはまだ分からないわ」

 オノシマさんは歯切れ悪くそう答えた。一方で彼女は僕に何とか答えを用意しようとする。

「ねえ、さっき言ったこと覚えてる? ヨーヘイくん。私たちは十八歳の誕生月を期に、あの世界での戦いに身を投じることになると」

「はい」

「でも私は、そしてあなたも、まだ十六歳にも関わらず向こうの世界に足を踏み入れることが出来た。その理由は、まだ分からない。もちろん何かの力が関わっていることは間違いないのだけど」

 彼女は一言一言、言葉を選びながら慎重に話した。僕はそれに息も殺して耳を傾ける。

「ただ言えることは、私もあなたも例外中の例外であるということ。例外ゆえに世界の法則から外されたのか、それともまた何かの意志が働いているのか、それは分からない。私は、その真相を追い求めているの」

 目的を語り終えた彼女はふう、と短い、しかし重たい息をついた。

「実のところ、私もリューちゃんのことは忘れてしまっていた。でも、あなたのおかげで思い出せた」

「僕の?」

「アサカ・リュースケの名前を所構わず聞いて回っていたでしょう? 何度も何度も彼の名を聞く内に、ようやく思い出せたの。一週間もかかったけどね」

 その一週間がどれだけ長かったかは、力無くすくめられた彼女の肩がどんな言葉よりもはっきりと物語っていた。僕は改めて世界から存在を忘れられることの恐ろしさを思わずには居られなかった。

「あなたの前には今、二つの道がある」

ふと、オノシマさんは更に僕に歩み寄り、ほとんど密着するほどの位置を取る。自然と彼女は僕を見上げる格好になり、彼女のぴんと立てられた人差し指と中指が僕の胸板を優しく突き刺す。

「ひとつはここで聞いた話は全て忘れ、残り一年の平穏をみんなと同じように過ごすこと。そしてもう一つは、敢えてそれを捨てて、私と一緒に戦うのを選ぶこと」

 今更こんな話を全て忘れることなど出来るわけがないことは、きっとオノシマさんも分かっていただろうと思う。ただ、それでも彼女はそれを言っておかずには居られなかったのだろう。僕には、なんとなくだったけど、その気持ちが分かる気がした。

「私に残された時間は決して多くない。あと六ヶ月で次の人馬宮の月が私を迎えに来る。そうなれば私はもはやここには居られない。それまでに、決着をつけなければならないの」

 彼女はいよいよ言葉を連ねる。彼女はまるで祈るようにぎゅっと手を組み、彼女自身の胸に押しつける。きっと、それは無意識のうちの行為だったのだろうと僕は思う。アサカ・リュースケの傍らに居て誰も怪しまなかったほどには、彼女もまた確かに優秀な神の僕なのだ。

「勝手なお願いだとは分かっている。だけど、リューちゃんもいなくなった今、あなたが、あなただけが私に残された最後の希望なの。私一人では、半年後まであなたが私を覚えているとは限らないから」

 その時、僕は気が付いた。少しだけずり落ちた袖口に隠されていた、彼女の手首から腕にかけて伸びる一筋の傷の存在に。この世界が夢であの世界が現実だということは、きっと、やはり、本当なのだろう。

「もしも戦うつもりがあるのなら、今夜その気持ちを強く抱いて、そして私のことを思いながら眠りに就いて。そうすればあなたは、私の傍らで再びあの世界に舞い降りることになるはず」

 そこまで言い終えると、ようやくオノシマさんは口を閉ざした。ずっと僕の目を捉えて離さなかった彼女の、嵐に見舞われた猫のような視線も、その力を使い果たしたかのように足許へと向けられた。

「ごめんなさい。ずっと一方的に押しつけてばかりで。あなたが平穏を選んでも私はあなたを責める気はない。大体、そんな権利もない」

 僕の沈黙をきっと未だ醒めやらぬ逡巡だと思ったのだろう。オノシマさんは再び顔を上げ、微笑をたたえるとそう言った。彼女は僕の脇を通り抜けると、先程から置かれたままだった鞄を拾い上げ、肩に掛ける。

「それじゃあ、さよなら。願わくば、またあとで」

 だが、僕は既に心を決めていた。兄ちゃんだったらどうしただろう。アサカ・リュースケの弟の名に恥じない決断とはいったい何なのだろう。その答えは、僕にとってはただひとつしかなかった。

「待って、オノシマさん」

 僕は去りゆく彼女を呼び止める。しかし、それはこの覚悟を伝える為ではなかった。既に決めたことなど敢えて言葉にする意味はない。行動で示せば十分だ。

「もう一つだけ、聞かせて下さい」

 ただ僕は知りたかった。いや、確かめておきたかったのだ。彼女が、小野島文が、朝霞柳介のことをどう思っていたのかということを。

「兄ちゃんは、あなたにとってどんな人でしたか?」

 オノシマさんは、その問いに正面から向き合ってくれた。階段に繋がる扉の前でくるりと彼女は振り向いた。その黒髪の毛先がふわりと風を孕むさまは、きっとこれからずっと僕の目を奪ってやまないのだろう。

「私だって、女の子なんだから」

 どこか冗談めかして彼女は言う。しかしその軽さを額面通りに受け取る者はどこにも居ないだろう。潤んだ瞳を拭う彼女の指先は、雪のように白かった。

「好きでもない人の為に流す涙は持ち合わせてないわ」


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