第一話
幻想的な光景だった。それはまるで夢のようだった。僕は五色の花々が咲き乱れる大平原の真ん中にひとり立っていた。僕の頭上から遙か彼方地平線までは、白銀で拵えられた雲を抱える蜂蜜色の空にむら一つなく覆い尽くされている。天頂で金の光を放つ太陽のそばには宝石と見間違うばかりの、それぞれ異なる、しかし鮮やかな色をたたえた十二個の星々がまるで主を護るかのようにぐるぐると巡っている。一方でそれと対を成すかのように熱した鉄のように閃く月が、ただ一つだけの小さな、そして黒く暗い星を従えて地平線の僅か上を転がるように回っていた。
この頬を優しく撫で、髪を静かに揺らしてくる心地よい風を愉しんでいた僕は、ふと足許に一振りの抜き身の剣が落ちていることに気が付いた。それはいつも鍛錬で僕が振るっているような無骨な木剣ではなかった。幾度も紅蓮の業火と鉄槌の衝撃に耐え抜いた輝きを放つ鋼の刀身に、汚れ一つ無い革で綺麗に覆われた柄、そして、我らが白羊宮の象徴たる二本の角を模した徽章が彫り込まれた鍔。
それを見ただけで僕は胸の鼓動が高鳴るのをはっきりと感じた。
「きっとこれは白羊宮の所有物だ」
僕は何の根拠もなく、だが確信を持ってそう呟いた。そうでなければこの加速した拍動は一体なんだと言うのだろうか。僕は大きく深呼吸する。一回、二回。そしてぐるりと周囲を見回した。誰も居ない。ただ一人の影法師すらない。昼と夜が混じり合ったこの世界で、今僕は一人なのだ。僕はゆっくりとしゃがみ込み、左の膝を通して体重を大地に預けると、侵しがたい光をたたえる剣に右手を伸ばし、掴んだ。
その時だった。何の前触れもなかった。僕の体は宙に浮かび上がった。否、天地がひっくり返ったのだ。僕が瞬きを三度する間に、僕の足はつい先程まで見上げていた蜂蜜色の空をしっかりと踏み締めていた。
何が起きたのか分からなかった。今自分の身に起きていることが全然信じられなかった。神がもたらした奇跡なのか、はたまたいたずらな好奇心で剣を取ったことへの罰なのか。それを理解する間もなく、僕は手を伸ばせば届きそうな程に近付いていた金色の太陽の光から目を守ろうと咄嗟に左手で目を覆った。だが、奇妙だった。こんなに近くに太陽があるのに、不思議と差し込む光は目に辛くなかった。それどころか心地良い感触さえしたのだった。
「これは、夢?」
僕は眼前でさんざめく太陽に向けて足を踏み出した。底の見えない空に足を踏み出す恐怖も忘れさせるほど、その輝きは僕を惹きつけてきた。今自分がしっかりとこの二本の脚で立っているのか、それとも何かの力が僕に内緒でこの体を吊り上げているのかも分からない中で、決して剣を落とさぬように力を込めた、右手に感じる重さだけが僕の心に不思議な平穏を与えてくれていた。
太陽まであと十歩と近付いた僕は、そこで足を止めてじっくりと観察することにした。そして僕は気付いた。太陽の周囲をまるで意志があるかのように巡り続ける星々の色――白・茶・浅葱・橙・緋・桃・灰・紫・翠・黒・黄・青――が、白羊宮から双魚宮までの十二の神々を象徴する色とまさしく同じであることに。
この象徴的な一致はまさか偶然で片付けられるわけがなかった。僕はそこに神の、少なくとも僕のような人間一人の力と想像を遙かに上回る何かを感じた。
僕は突然恐ろしくなった。ここは僕が居ていい場所ではないのだと思い始めた。
「白羊座に、戻らなくては」
自分に向けて何度も何度もそう繰り返して、遂に僕は心に焼き付いて離れない黄金の太陽に背を向けた。そして一歩を踏み出そうとしたその瞬間、白く輝く星が僕の目の前でぴたりと動きを止め、狂ったように激しくまたたいた。稲妻を百本集めたほどのその光は僕の目のみならず全身を鋭く突き刺し、僕は視界の一切を奪われた。驚きと痛みで叫び声を上げながら僕は後ろに倒れ、したたかに尻餅をついた。
僕の目が正常を取り戻す前に、僕の耳は怖気立つ音を捉えた。いや、それは声だった。ゆっくりと目を開いた僕は、さっきまでとはまったく異なる場所に居ることに気付いた。
見開かれた僕の瞳に映ったもの。それは、荒れ果てひび割れた大地、吹き上がる岩漿、空を覆う黒煙、そして、その最中で命を奪い合う幾百もの人間の姿だった。
男も女もいる。吶喊の声が彼らを奮わせ、剣戟の響きが僕を震わせた。立ち上がることも僕は忘れていた。一組みの剣と盾だけを頼りにして壮絶に切り結ぶその姿に僕はただ見入ってしまっていた。
だが投げ出された僕の足すぐ横に、どこからか飛んできた矢が突き刺さった瞬間、僕は自分の居る場所の意味を指先から血の気が引くよりも早く、右手に感じる鋼の重さよりもはっきりと理解した。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
自分でも不思議だった。僕の口は、自らの守護神たる白羊宮ではなく兄ちゃんを呼んでいた。僕は助けを求めて何度も何度もその名を繰り返した。
「兄ちゃん、どこ? 助けて、助けてよ!」
ここから逃げ出したい。死にたくない。その一心で立ち上がった僕はおぼつかない足取りで走り出した。それでも右手に持った剣は放さなかった。これを失ってしまうのは、どうしてかは分からないけれど、決して赦されることではないと僕は思い始めていた。決して平坦ではない、むしろ割れ目だらけの地面に何度も躓きながら、しかし転ぶことなく僕はあの恐怖の中心から離れていった。ただ前だけを見据えながら、自分の息遣いだけを耳にしながら。
だが、平静を失った状態で無謀な体の酷使がどうして続けられるだろう。あっという間に息が切れてしまった僕は、後方の確認も出来ぬまま両膝に手をついて足を止めた。もう限界だった。これ以上動けなかった。
だから、唐突に背後から突き飛ばされた僕は、かろうじて左手で勢いを殺しはしたものの、全身を激しく地面へと打ち付ける羽目になったのだ。砂利が擦れる音が僕の耳を聾する。大きく開けていた口に入った土を吐き出そうと反射的に僕は咳き込んだ。それでも僕はなんとか涙で滲んだ目を見開くと、僕を押し倒した者の姿を見るべく首を巡らして後ろを振り向いた。
「兄、ちゃん?」
そこに居たのは兄ちゃんだった。白を基調にして作られた白羊宮の戦闘服を身にまとう兄ちゃんの右手には、僕の持つそれと同じ一振りの剣があった。その剣は、僕が見ている間に、腕をだらりと下げて立ち尽くす兄ちゃんの手中からこぼれ落ちていった。赤黒く染められた剣先が地面に触れたと思うと、次の瞬間には、からんからんと耳障りな音を立てて地面の上に転がっていた。
「兄ちゃん?」
僕の目に映る、兄ちゃんの左胸から突き出る一本の矢。その周りは徐々に、しかし確実に、鮮やかな赤で染められつつあった。その時ようやく僕は僕の全身が、悪寒の塊にも思える汗で覆われていることに気が付いた。
「ヨーヘイ」
その声も、どこか遠く聞こえていた。これは夢だ。そうだ、夢なんだ。早く覚めろ。こんな馬鹿げた夢、今すぐに、すぐに覚めろ、覚めろ、覚めてくれ。
僕は少しでも兄ちゃんから離れようともがいた。もう何もかもが怖かった。僕のそばには何も近付いて欲しくなかった。声にならない声をあげながら、仰向けになったまま僕は四肢を滅茶苦茶に動かした。それでも剣は握り締めたまま。
「いいか、その剣を、絶対に放すなよ」
口の端から血を零しながら兄ちゃんはそう言った。どうしてか、兄ちゃんは僕に笑顔を向けてきていた。
「放したら――」
そこで兄ちゃんの言葉は途切れた。兄ちゃんはその笑みを浮かべたまま、僕の方へと重力に従い崩れ落ちた。糸を切られた人形のように倒れた兄ちゃんの体はそのまま僕の体に覆い被さってきた。
そのあまりの重たさと暖かさに、僕は何を考えることも出来なかった。恐怖に体を震わせることさえ忘れていた僕が、兄ちゃんの体から流れ零れる真っ赤な生命の証を見て最初に思い出したことは、ただ、絶叫だった。
その叫び声で僕は目を覚ました。僕は白羊座の自室のベッドで横になっていた。初春の夜には似つかない汗の不快感と、絞り上げられた喉の痛みが追って僕の意識を覚醒させる。下半身は未だ布団に覆われながら、肩で息をする僕の心臓は落ち着く気配を見せなかった。
僕が部屋の窓から外を窺えば、黄色い月が南の空高く登る頃だった。向かいのベッドのルームメイトは何もなかったかのように布団にくるまり寝息を立てている。いや、実際何もなかったのだろう。全ては夢だったことは僕をこの上なく安心させた。夢の意味を考え直す気には到底ならなかった僕は、そのまま体を横たえて枕の柔らかさに頭を任せた。
かといって寝直すことも出来なかった僕は、起床時間を知らせる鐘が鳴るや否や夢の話をしようと思って兄ちゃんを捜した。ところが、兄ちゃんはどこにも居なかった。昨日の夜、寝る前にわざわざ僕の部屋にやって来て惚気話を延々と聞かされたはずなのに。白羊座はおろか、学校でも、食堂でも、教会でも、僕は兄ちゃんを見つけることが出来なかった。消灯時間直前、先生につまみ出されるまで僕は兄ちゃんの部屋の前に張り込んだが、それでも兄ちゃんは僕の前に姿を現さなかった。
だから次の日、僕は朝一番に職員室に向かって先生方にこう聞いて回ったのだ。
「アサカ・リュースケが、僕の兄がいったいどこに居るのか知ってますか?」
そう尋ねられた先生たちは、しかし、僕に対して、
「何を言ってるんだ、君に兄なんて居ないだろう?」
口を揃えて、ただそう答えたのだった。