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政略結婚を台無しにした勇者の末路 ー人形花嫁と冷徹宰相の賠償請求ー

作者: 月乃宮 夜見
掲載日:2026/04/01

 ある春の夜。

 王都の中央大聖堂は、荘厳な光に包まれていた。そこで行われている結婚の儀式は、最高潮を迎えようとしている。


 花嫁はクリスタル・フォン・ローゼンブルク。銀の髪を長く垂らし、陶器のように白い肌。虹彩は鈍色の水晶のように透明で、感情というものが一切映らない。人形のような娘——それが王国中の貴族が彼女につけた通り名だった。彼女はただ、与えられたドレスを着て、与えられた位置に立ち、与えられた言葉を繰り返す。

 誰も、身内も知り合いも居ない、隣国の公爵と婚姻するのだ。


「私は……この結婚を、受け入れます」


 花婿は隣国で宰相を務める公爵、モリオン・フォン・シュタイナー。黒い髪に鋭い銀色の虹彩。表情一つ変えず、まるで氷像のように立っている。

 若くして宰相の役職に就き、その冷徹さから氷結の男だと揶揄(やゆ)されていた。彼は国のために、儀式を進める。


「私は、この結婚を受け入れます」


 この結婚は、単なる恋愛などではない。国同士の同盟を確実なものにし、三十年にわたる貿易戦争を終結させるための、最後の政略だった。失敗すれば、王国は即座に経済崩壊と戦争の危機に晒される——それを知っているのは、宰相と国王、そしてごく一部の重臣だけだった。


 突然、爆音を立て聖堂の扉が開く。


「待てェェェェッ!!」


 同時に、金色の髪をなびかせ、聖剣を腰に差した青年が飛び込んできた。勇者グラス。魔王を倒した英雄として、世界中から称賛を浴びている男だ。


「クリスタル!

 お前にこんな冷たい政略結婚なんて、相応しくない!

 愛のない結婚なんて、許されるはずがない!

 俺と一緒に来い!

 真実の自由を手に入れようぜ!」


 聖堂内が凍りついた。貴族達は息を飲み、神官達は祈りを忘れた。ただ一人、モリオンだけがゆっくりと振り返り、冷たい視線をグラスに向けた。


「……勇者殿。

 これは国家の重要事項だ。即刻、退場されたし」


「うるせえ! お前みたいな冷血漢がクリスタルを幸せにできるわけねえだろ!」


 グラスは聖剣を抜き放ち、一直線に祭壇へ駆け上がった。クリスタルは動かない。ただグラスを見つめ、感情のない声で静かに言った。


「……命令ですか?」


「違う! 俺がお前を救ってるんだよ!

 ほら、手を——」


 グラスはクリスタルの細い手を掴んだ。彼女は抵抗もせず、ただ従った。抵抗する術を知らないかのように。ドレスの裾が翻えり、祭壇から降ろされる。一瞬だけ、クリスタルはモリオンを振り返った。


「っ……!」


彼と視線が合わさり、クリスタルの心臓が跳ねる。

 その意味を理解する間もなく、手を強い力で引かれた。


「よし! 行けェェェ!」


 グラスはクリスタルを抱きかかえると、聖堂の窓を聖剣でぶち破り、外に飛び出した。白馬に跨り、王都の外へと疾走する。


 静かになった聖堂に、モリオンの静かな、しかし凍てつくような声が響いた。


「……賠償請求書は、明日出そう。聖堂の窓の費用も、入れておけ」


×


 ──三日後。

 王都から五十キロ離れた、森の奥にあるグラスの隠れ家で、クリスタルは複数の女子に囲まれていた。


 どうやら、彼女達は『勇者パーティの仲間』らしい。


「あなたが新しいグラスの『仲間』? またこんな可愛らしい子……」

「政略結婚されそうだったんでしょ? 良かったわね、愛のない結婚をする前で」


目を瞬かせるクリスタルをよそに、女性達は次々にクリスタルに話しかける。


「あ、自己紹介がまだだったね。あたしはルビニア」

「わたしはサピロアよ」

「あたいはアダマスだ。よろしく」


 ルビニアに手を差し出され、クリスタルは首を傾げた。

 ルビニアは赤い虹彩に桃髪の女性、サピロアは青い虹彩に紫髪の女性、アダマスは緑色の虹彩に金髪の女性だ。


「命令……ですか?」


その言葉に、女性達はくすくすと笑う。


 グラスは上機嫌だった。


「ははっ! やったぜ! 俺はまたヒロインを救った!

 これで俺達の物語はハッピーエンドだ!

 クリスタル、お前も嬉しいだろ?」


 クリスタルは木の椅子に座ったまま、膝の上に手を置いてじっとしている。表情は変わらない。ただ、淡々と答えた。


「……私は道具です。命令に従います。

 今は、あなたの命令に従っています」


 グラスは一瞬、言葉に詰まった。しかしすぐに笑い飛ばす。


「まあいいさ! 時間かかれば心も開くって!」


「あなたは何が得意なの? あたしは祈祷だよ!」

「わたしは魔術」

「アタイは武術だ!」


問われ、クリスタルはゆっくり瞬きをした。


「私には、一般的な貴族程度の魔術と、領地運営の知識しか搭載されていません。

 祈祷も、軽い手当てができる程度です」


答えれば、


「なんだ、もろ被りじゃないの」


そう、サピロアをはじめ、女性達は興味を失ったようだ。


「じゃあ、グラスとはいつ出会ったの?」


 ルビニアは話題を変える。


「……街で、ぶつかりました。それだけです」


「ぶつかっただけぇ? 単純だねぇ」


半ば呆れたように、ルビニアはため息混じりに零した。他の女性達も呆気に取られた様子だ。


「違うって! その後、変な輩に絡まれていただろ?

 それを助けたんだよ!

 あと、何度か街で会ってる!

 果物とか食べ物とか、分け合ったりしただろ」


そう、グラスは笑った。

 それを、クリスタルは首を傾げただけだ。


×


 その夜、王国からの使者が隠れ家に到着した。使者は分厚い書類をグラスに突きつけた。


「勇者グラス殿。

 宰相モリオン・フォン・シュタイナー公爵より、正式な損害賠償請求書です。

 総額……八十七億七千四百二十三万金貨。期限は一ヶ月。

 支払い不能の場合、勇者殿の全財産および聖剣、称号、自由を差し押さえの上、終身労働刑に処します」


 グラスは目を丸くした。


「……は?」


 使者は淡々と続けた。


「この政略結婚は、隣国との同盟条約の核心でした。

 破談により、貿易ルートが凍結され、すでに三つの港が閉鎖。

 予想損失は現時点で百二十億金貨を超えています。

 公爵閣下は『勇者の英雄的行動による国家損失』として、一切の情状酌量を認めません」


 グラスは笑った。無理に。


「ふ、ふざけんな! 俺は魔王を倒した勇者だぞ!?

 そんな金、払えるわけ——」


「すでに勇者殿の冒険者ギルド預金、魔王討伐報奨金、所有する全不動産、聖剣の担保権利が凍結されています。

 残るは……身一つです」


使者がそう告げ、「では連行いたします」と数人の兵士が現れる。


「ふん! 一般兵士ごときで俺を捕まえられるわけが——」


そう、グラスが嘲った時。


「分かったわ。コイツを捕まえたら、協力したとして報酬は貰えるのよね?」


と、サピロアがグラスに拘束の魔術をかけていた。


「さ、サピロア!?」


戸惑うグラスをよそに


「あたいが目的地まで連れて行ってやるよ。その方が安心だろ?」


アダマスがグラスを担ぎ上げる。


「アダマスまで!?」


グラスは抵抗するが、アダマスはびくともしない。


「な、なぁ。る、ルビニア! お、お前は俺を——」


「助ける訳ないでしょ、クズ。あんたのせいで、あたし達がどれほどの迷惑を(こうむ)ったと思ってるの。やっと離れられて、清々するよ」


グラスは縋るようにルビニアを見るが、彼女は冷たい目で吐き捨てた。


「あんたは知らないでしょうけど。わたし達、あんたのやらかしの後始末をいっつもやってるのよ。無計画にバカスカ物を壊すし」


「そうだ。一体何人の平民や貴族、商人達に頭下げたと思ってんだ。出禁になった国もあるんだからな」


サピロアとアダマスに言われ、グラスは目を見開く。

 グラスは何一つ考えていなかったのだ。()()()()()()()()()()なんて。


 使者に促され、クリスタルが隠れ家の外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でる。


「クリスタル。迎えに来た」


 そこには、馬車の前に立つ、モリオンが立っていた。闇に溶けるような、黒い衣装が、風で揺れている。


「はい。モリオン様」


差し出された手を、クリスタルは取った。


×


 翌朝、王都の裁判所。

 モリオンは被告席に座るグラスを、氷のような視線で眺めていた。傍らにはクリスタルが立っている。彼女はいつものように、無表情で。

 裁判長が判決を読み上げる。


「勇者グラスに対し、請求全額の支払いを命ずる。

 支払い不能のため、即時、終身の王国鉱山労働刑を執行する。聖剣は没収。称号は剥奪」


 グラスは叫んだ。


「待て! クリスタルは俺が救ったんだ! お前みたいな冷徹野郎に渡すわけには——!」


 その時。クリスタルが初めて、僅かに口を開いた。


「……私は道具です。

 最初から、政略結婚の命令に従うために、両親から作られました。使命でした。

 あなたは……私の使命を、なぜ阻害しようとしたのですか?」


 モリオンが、初めて小さく笑った。それは本当に僅かな、冷たい笑みだった。


「勇者殿。

 君は『英雄』気取りで、契約を台無しにした。これが現実だ。

 賠償は、永遠に払い続けてもらう」


 グラスは連行されていく。今まで手に入れた、肉体以外の一切を失って。

 クリスタルは公爵の隣に戻り、ただ立っていた。彼女の水晶のような目には、誰のことも映っていなかった。


 王国は数日後、予定通り改めて婚姻を行い、隣国との同盟を締結した。ただし、勇者グラスという英雄は、もうどこにもいなかった。代わりに、鉱山の奥深くで毎日借金のために石を掘り続ける男がいた。

 それが、英雄気取りの末路だった。


 ×


 勇者グラスが王都の鉱山送りにされた翌週。


 宰相府の最上階、私室。

 モリオンはいつものように、書類の山に埋もれていた。


「これでようやく、あの『勇者』を無力化できた。偶然とはいえ、クリスタル、君には感謝をしている」


 銀のペンを走らせながら、ふと視線を上げる。


「……」


 部屋の隅に、クリスタルが立っていた。

 結婚式のドレスはすでに脱がされ、シンプルな白いワンピースに着替えさせられている。

 彼女は相変わらず、感情の欠片もない顔でただそこに居た。


「……もう三時間以上、同じ姿勢だな。

 座れ、クリスタル」


「命令ですか?」


「命令だ」


 クリスタルはゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 背筋はぴんと伸び、膝の上に両手を重ね、視線は正面の壁を向いたまま。その動きは行儀のよい貴族令嬢どころでなく、人形そのものだった。

 モリオンはため息を一つ吐き、ペンを置いた。


「グラスという男は、君を『救った』つもりだったらしいな。

 結果として、王国に八十七億を超える損害を与えた。

 君はどう思う?」


 クリスタルはわずかに首を傾げた。

 水晶のように透明な鈍色の虹彩が、モリオンを映す。


「……私は道具です。

 思考する機能は、必要最低限しか与えられていません。

 モリオン様のお考えに、従います」


 モリオンは立ち上がり、クリスタルの前に歩み寄った。

 黒い上着の裾が、静かに揺れる。


「では、命令する。

 今この瞬間から、君は『人形』ではなく、クリスタル・フォン・シュタイナーとして振る舞え。

 自分の考えを、言葉にしろ」


 クリスタルは数秒、沈黙した。

 初めて、彼女の目に僅かな揺らぎが生まれた。


「……命令……ですか?

 それでは、私は壊れてしまいます」


「壊れるなら、壊れてみろ。

 私は君を、ただの道具として娶るつもりはない」


 クリスタルはゆっくりと瞬きをした。

 長い睫毛が、影を落とす。


「……なぜ?

 私は感情を持たないように作られました。

 政略結婚の『完璧な花嫁』として。

 喜びも、悲しみも、愛も……必要ないはずです」


 モリオンはクリスタルの顎に指を添え、わずかに顔を上げさせた。

 冷たい銀色の目が、彼女の透明な鈍色の目を真っ直ぐに見つめる。


「私は使えるものは、使えるだけ使う。

 だが、完璧な道具など必要ない。

 道具は、人の手が加わることで本領を発揮するからだ。

 私は……君が、少しでも『人間』らしくなるのを見たい。

 グラスが乱入した瞬間、君は抵抗しなかったな。

 ただ従った。

 ……それが、なぜか腹立たしかった」


 クリスタルは初めて、自分の胸に手を当てた。


「……ここが、少し……痛いような、変な感じがします。

 グラスという人が、私の手を掴んだときも、同じでした。

 でも、それは……?」


「それは、君が初めて『自分の意志』で動こうとした感覚かもしれないな」


 モリオンはクリスタルの手を、自分の大きな手に包み込んだ。


「クリスタル。

 これは命令ではなく、頼みだ。

 君は、君の意思を尊重……最優先してみてくれ。

 嫌なことは嫌だと、好きな事を好きだと言えるように。

 そして、君が何を考えているか、教えてくれ。

 たとえそれが、つまらないことでも」


 クリスタルは長い間、沈黙した。

 やがて、ほとんど聞こえないほどの小さな声で、呟いた。


「分かり、ました。

 私は、私の意思を最優先してみます。

 それは、業務に支障が出る恐れがあっても、最優先すべきですか?」


「自分で考える程度はできているな。

 ……そうだな。犯罪でなければ、まずは口に出してみると良い。

 使用人達にでも。私には、忙しくないときに頼む」


「はい、モリオン様。今は、忙しいですか?」


机に積まれている書類達を見、クリスタルは首を傾げる。


「いや、忙しくはない。私が忙しいときは、あまり親しくない部下や他国の者と話している時だ。

 判別するためにも、人物名鑑を覚えさせる必要があるな。

 しばらくはそれで暇をつぶすと良い」


と、モリオンは虚空から分厚い本を取り出した。


「それは魔術……ですか?」


「そうだ。私は一般魔術師程度の魔術が扱える。祈祷については、自身の手当てぐらいだ」


言いつつ、モリオンはクリスタルに人物名鑑を手渡す。パラ、と(めく)ると写真付きで名前や趣味などが記載されていた。


「才能が、あるのですね」


「いや、学ぶ機会に恵まれていただけだ。

 そうだ。君の国では確か、貴族のたしなみとして魔術と祈祷の一部を覚えるのだったか。

 それなら、君が望むなら教育を受けさせることも可能だ」


「それは……」


「命令でも頼みでもない。君の意思を尊重してみてくれ」


 まっすぐに、モリオンはクリスタルを見つめ、視線が合った。

 その時、彼は冷徹なだけでなく、まっすぐな人なのだと、クリスタルは気付く。それと同時に、クリスタルは命令に従うことで、他者の感情に気付いていなかったことを知った。


「……私は」


 どうしたいのか。

 この感覚は何なのか。


「ゆっくりでいい。だが、ちゃんと考えろ。

 君には、考えられるだけの経験があるはずだ」


 モリオンに促され、ゆっくりと深呼吸をして、クリスタルは自分の意思を口にする。


「あなたの、役に立ちたい。魔術や祈祷が今までより使えたら、あなたの役に立てますか?」


 その透明な思いに、モリオンは一瞬、息を詰めた。だがそれをすぐに誤魔化し、言葉を返す。


「『役に立ちたい』と思う気持ちは、義務感か?」


「はい。その考えが近いです。

 私は今、モリオン様の庇護下にあります。

 それなら。庇護者であるモリオン様の命を大事に思うことは、当然の結果だと考えられます」


「そうか。まずはそれで良い。

 だが、『役に立ちたい』か。

 さて。祈祷なら役に立つかもしれないが……。

 祈祷はそれこそ素質……才能がものを言う世界だ。

 素質が無ければ、一般人の手当てができる程度まで学べば十分だろう」


「分かりました。では、祈祷を勉強します」


 感情の薄い声で、命令を受け入れたかのようにクリスタルは頷いた。


「……そうだな。一般的な護身術として、魔術も学んでみると良い。

 その中で、興味を持った魔術を伸ばすと良い。

 バランスを取るために、反対の魔術もある程度覚えると良いだろう。

 私が言えることは、それくらいだ」


「分かりました。では、魔術も勉強します」


モリオンが付け足すと、それに同意するようにクリスタルは頷く。


「……自身の意思を、尊重しているか?」


「? はい。自身の意思を、尊重しています」


「なら、手配をしておく。

 飽きたら私に伝えろ。咎めはしない」


「はい」


こうして、クリスタルは魔術と祈祷を勉強することになった。


×


 ある晴れた春の日。


「あら、誰かと思えばいつぞやの人形ちゃんじゃない」

「こら、そんなこと言っちゃだめだよ!」


 クリスタルが指定の場所に着くと、そこにはルビニアとサピロアが待っていたのだ。ルビニアは白い祈祷師の格好をしており、サピロアは黒い魔術師の格好をしている。

 指定された場所は、貸し切りの練習所だった。貴族向けの場所なのか、小綺麗だ。


「あたし達、勇者パーティを辞めた後、この国にスカウトされたんだ」


ルビニアはそう、クリスタルに説明した。


「騎士のところには、アダマスが居るわよ」


そう、サピロアが補足する。


「魔術と祈祷を同時に学びたいなんて、けっこうガッツあるのね」


サピロアは腕を組み、感心したように頷く。


「とりあえず、才能がある方を伸ばしていく方針でいいんだよね」


ルビニアは確認するように、クリスタルに声をかけた。


「はい。私としては、モリオン様のために祈祷を伸ばしたいです」


「魔術は護身術程度でいいってことね」


 クリスタルの返答に、サピロアは頷く。そして、徐に道具入れの鞄から丸い水晶を取り出した。


「まず、この水晶に手をかざして。魔術に才能あったら赤色に、祈祷に才能あったら青色に光るから」


ルビニアに勧められ、クリスタルは水晶に両手をかざす。


「……紫色?」

「すごい! 両方に才能あるってことじゃん!」


サピロアとルビニアは驚いた様子を見せた。サピロアは茫然としているし、ルビニアはクリスタルの手を握り、はしゃいでいる。


 手を振り回されながら、クリスタルはゆっくり瞬きをした。


×


 それから魔術と祈祷の勉強が終わり、クリスタルは宰相府の最上階、私室に戻っていた。

 そこでは、普段の通りにモリオンが書類に囲まれて、銀のペンを動かしている。


「……両方に、才能があると聞いた」


 クリスタルが入室してすぐ、モリオンは手を止めて顔を上げた。


「情報が早いですね」


 頷きつつ、クリスタルは私室に用意された椅子に腰かける。座らないと、モリオンが困ってしまうからだ。


「どうしましたか?」


「……いや。正直に言おう。私は嬉しいんだ」


 黙ってしまったモリオンにクリスタルが首を傾げると、彼は僅かに目を細める。

 それは、彼が誰かに見せる、初めての柔らかい表情だった。


「嬉しい?」


「私も、両方に才能がある」


「モリオン様が……ですか?」


「ただ、祈祷は他者には使えない。自分の肉体だけだ」


「そうなのですね」


 頷き、クリスタルは顔が熱くなる。


「どうした。顔が赤いが……熱か?

 それならもう休むか」


「いいえ。

 どうやら、私も嬉しい……みたいです」


「……そうか」


「でも、私は。

 魔術が、動作の補助程度にしか使えないのです」


「それもお揃いみたいで面白いだろう」


淡々とモリオンは告げる。


「お揃い、ですか」


「……内緒にしてくれ。今、少し恥ずかしくなった」


 見ると、彼の耳が少し赤くなっていた。

 それを見て、胸の奥がうずいた、気がした。


×


 暗く湿った坑道の奥で、グラスは今日もツルハシを振り下ろしていた。

 聖剣は没収され、称号は剥奪され、冒険者ギルドの預金はすべて凍結。

 残ったのは、魔王を倒した肉体だけだった。だが、それでも彼は『勇者』だった。


「くそ……あの冷血宰相……クリスタルまで……全部、あいつのせいだ……!」


独り言を繰り返すうちに、グラスの目は狂気じみていった。


 三日前、坑道の崩落事故で警備兵が三人死んだ。その隙に、彼は古い換気口を見つけていた。

 英雄の膂力で岩を砕き、魔王戦で培った気配遮断の技で夜の闇に溶け込んだ。脱走は成功した。

 王都へ向かう道中、グラスは笑っていた。

 今度は正々堂々ではなく、卑劣な奇襲だ。

 モリオン・フォン・シュタイナーを、寝込みを襲って殺す。

 クリスタルを奪い返し、再び『救う』──それが、彼の歪んだ正義だった。


×


 宰相府最上階、私室。

 深夜零時を回った頃、モリオンはいつものように書類の山に埋もれていた。側に置いている椅子には、クリスタルが静かに座っている。

 白いワンピースの上に薄手の上着を羽織った彼女は、祈祷書を膝に広げていた。

 勉強の成果は目覚ましく、すでに中級の術を自在に操れるまでになっていた。


「……モリオン様。今日も遅くまでお仕事ですか?」


淡々とした声。

 しかし、ほんのわずかな心配の色が浮かんでいた。

 モリオンはペンを止め、銀色の目を細める。


「君が心配するほどではない。……君も、そろそろ休め」


「はい。でも、モリオン様が休むまで、私はここにいます」


クリスタルは小さく微笑んだ──まだ、ぎこちない。


 その瞬間。

 ガラスが砕ける音が響いた。

 私室の大きな窓が、外側から爆砕する。


 飛び込んできたのは、金色の髪を乱した男──勇者グラス。「見つけたぞ、冷血宰相!」聖剣は持っていない。

 しかし両手に握られたのは、鉱山で盗み出した大型のツルハシと、魔王の角を削って作った即席の短剣だった。

 グラスは床を蹴り、一直線にモリオンへ突進した。


「彼女は俺が救う! お前なんか、死ねェェェ!!」


モリオンは即座に立ち上がり、机を蹴って距離を取った。

 彼も魔術師だ。指先から氷の矢を放つが、グラスの膂力はそれを弾き飛ばす。「遅い!」ツルハシが振り下ろされる。

 モリオンは身を翻したが、肩を浅く斬られた。

 血が飛び、黒い上着を赤く染める。


「モリオン様!」


クリスタルが叫んだ。

 初めて、彼女の声に感情の揺らぎがはっきり現れた。グラスが嘲笑う。


「ははっ! お前、まだ命令されてんのか?

 ほら、俺について来い!

 今度こそ本当の自由を──」


その言葉を遮ったのは、青白い光だった。クリスタルが両手を胸の前で組んだ。

 祈祷の詠唱が、静かだが力強く響く。


「……癒しの光よ、

  我が大切な人の傷を、

  温かな慈悲で包み給え──

  《聖癒の抱擁》!」


祈祷術が、瞬時に発動した。

 モリオンの肩の傷が、光の粒子に包まれて塞がっていく。

 同時に、クリスタルは自分の魔力をさらに練り、床に円陣を描いた。


「これは……!?」


グラスが驚く間もなく、次の祈祷が放たれた。


「……そして、

  悪しき者の足を、

  慈悲の鎖で縛り給え──

  《慈縛の聖域》!」


床全体が青白く輝き、グラスの足元に光の鎖が何重にも絡みつく。

 英雄の膂力でも、即座に引きちぎれないほどの強度だった。

 魔術と祈祷の才能が、両方に輝いた瞬間だった。モリオンが低く笑う。


「……やるな、クリスタル。

 君の祈祷は、すでに私の想像以上だ」


彼は傷の痛みを完全に消し、銀のペンを手に取った。

 ペン先から放たれたのは、極細の氷の針。

 祈祷で動きを封じられたグラスの肩、腕、太ももに、正確に突き刺さる。


「ぐあっ!?」


グラスが膝をつく。クリスタルは一歩も引かず、モリオンのすぐ横に立った。

 彼女の声はまだ少し震えていたが、はっきりとした意志を宿していた。


「私はもう、人形ではありません。

 私はクリスタル・フォン・シュタイナー。

 モリオン様の妻として、ここにいます。

 あなたが『救う』と言っても、私は救われる必要などありません。

 私は自分で、選んだのです」


その言葉に、グラスは目を見開いた。


「う、嘘だ……! お前は政略結婚のはずだ……!

 そうだ! 洗脳されているんだろう?!

 俺が、俺が救ってやれるのに……!」


クリスタルはゆっくり首を振った。


「……あなたは、私の『使命』を壊そうとしただけです。

 今、私は自分の意思でモリオン様の傍にいます。

 だから──」


 彼女は最後の祈祷を唱えた。


「……《聖癒の抱擁》。

  対象を、慈悲の眠りへ──」


青白い光がグラスの全身を包む。

 それは癒しではなく、強制的な安息を与える上級の祈祷だった。

 英雄の体が、抵抗も虚しく崩れ落ちる。グラスは床に倒れながら、かすれた声で呟いた。


「……俺は……間違っていた……のか……?」


 モリオンが冷たく告げる。


「そうだ。

 君はただの、迷惑な英雄気取りだっただけだ。

 今度こそ、逃げ場はない。

 罪の追加で、更に贖罪は過酷になった」


 私室の扉が蹴破られ、遅れて駆けつけた近衛兵達が雪崩れ込んだ。

 グラスは光の鎖に縛られたまま、完全に無力化されて連行されていく。


×


 静けさが戻った私室で、モリオンはクリスタルの顔を覗き込んだ。


「……無理は、していないか?」


 クリスタルは首を横に振る。

 その胸の内には、はっきりと嬉しさがあった。


「いいえ。

 私は、自分の意思で祈祷を使いました。

 モリオン様を守るために。

 ……それが、すごく……心地よかったのです」


 モリオンは小さく笑った。

 冷たい氷の男が妻に向ける、誰にも見せない柔らかな表情だった。


「そうか。

 なら、今日はもう休め。……頼む」


「はい。

 でも、モリオン様が休むまで、私はここにいます。

 それは、私の意思の尊重です」


クリスタルはモリオンの手を、優しく握った。


「……私は……怖いです。

 道具ではなくなったら、

 あなたに、必要とされなくなるかもしれない。

 それが……嫌です」


「必要とされなくなる?

 馬鹿なことを。

 私は君を、政略の道具だけではなく、

 私の妻として選んだ。

 たとえ最初は政略でも……今は違う」


 彼はクリスタルの額に、そっと自分の額を押し当てた。


「ゆっくりでいい。

 君が君自身の心を手に入れるまで、

 私はここにいる。

 宰相としてではなく、

 君だけの夫として」


「モリオン様……

 私……少しだけ、

 あなたのそばに……いたい、と……思います」


「少しだけ、でなく。

 いずれは、死ぬまで一緒に居たいと言って欲しいものだ」


 英雄の再起はこうして、再び潰えた。

 代わりに、かつての人形は自分の意志で選んだ未来を、静かに歩み始めていた。


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