【第五話】徒惚れ
「あの・・・私」
「着替えを手伝ってもらっても良いですか」
「…はい」
若旦那様の大きな手に引かれ、障子を開けると既に布団が敷いてある。直ぐに蝋燭の灯りをつけようとすると、それはいらないと言われたので若旦那様の後ろに立ち羽織を脱ぐのを手伝った。
月明りの調べだけを頼りに今度は前に立ち固く結ばれた帯を解いていく。若旦那様にこんなに近づくのは初めて。巻かれた帯を胴から解いていく。見た目は華奢な身体つきの若旦那様もやはり女の私とは違いしっかりと厚みがあった。畳の上に帯を置き着物も脱がすと灰色の襦袢姿となった。
すると若旦那様は私の結っていた髪を解いた。私の唇の輪郭を確かめるようにゆっくりと指の腹でなぞりあげていく。こそばゆい感覚とじれったさに顔が熱くなっていく。この朧気な灯りだけでも若旦那様に気付かれているかもしれない。何度かそれを繰り替えされ私は刺激に耐えるように目を閉じた。閉ざされた視界の中で柔らかな指の感触。もう一方の手は解いた髪を撫で上げたかと思うと今度は腰当たりに触れ大きな円を描くように全体を撫でていく。
「・・・んぅ、若旦那さま」
思わず出たくぐもった声は自分で出そうとしたわけではない。与えられる感覚から逃れるように・・・けれど逃れたいわけではない。若旦那様にこうして触れてもらえることは嬉しいはず。鼓動は絶えず激しさを増すばかりだった。すると若旦那様の指先が私の唇から離れていく。
「すみません・・・今晩は少々飲み過ぎました」
涼し気な若旦那様の声がすると気配が遠のいて行った。目を開けると風呂に入ると襦袢姿のまま部屋から出て行ってしまった。私は一人取り若旦那様の部屋に残された。ようやく聞こえ出した虫の声。私は足に力が入らずその場に座り込んでしまった。若旦那様の香りが部屋に色濃く残る。自分の唇に触れてみる。自分ではどうということない。先ほどの行為を思い出すと治まりかけた鼓動がまた早くなっていく・・・。
□□□
その日の夜は中々に寝つけなかった。部屋に戻り寝床に入っても先ほどの行為が身体に蘇ってくる。しばらくして若旦那様が戻られた気配を感じた。障子で区切られた部屋。松の木と梅が絵描かれた襖は昼間に見ると美しい。夜は花も蕾を閉じてしまう。そっと布団から出て若旦那様の方へ襖の方へ寄ってみる。
「八千さん?もう寝てしまいましたか?」
若旦那様の声に思わず口を押えた。近くにいる。この薄い襖の直ぐ向こうに・・・。若旦那様に気付かれないように息を深く吸い込みゆっくりと吐いた。そしてまだ起きていることを伝えた。
「よかった。先ほどはすみません・・・・。突然あんな事をしてしまって。その・・・嫌ではなかったですか」
「私は以前から若旦那様をお慕い申しておりました。若旦那様が望まれることは八千の望みでございます」
「八千さん・・・八千さんは僕にはもったいない人だ。僕なんか」
「そんなことはありません。八千は嬉しいのです。若旦那様のお役にたてることが求められることが」
「ありがとうございます」
本当にお優しいお方。けれど、なぜか時々遠く感じてしまう。私が近づこうとすると風のようにかわされてしまう。先ほども・・・。
□□□
朝、若旦那様をお見送りし部屋に戻ると朝食の器が畳の上に置いたままになっていた。女中さんが片付け忘れたようだった。若旦那様には女中の真似事はしないで欲しいと言われている。私はこの家に嫁ぐ身なのだから同じことをしてはならないらしい。でもお皿を届けるくらいしていいのよね。
私は洗い場へ向かうと女中さんたちの賑やかな会話が廊下まで聞こえてきた。山で暮らしていたときは狐や兔とよく話をしていた。ここではそれができないのが寂しい。
「雪華さんがいると本当に終わるのが早いわ!助かったよ。今日のところはこの辺で大丈夫だから部屋に戻って休んでおくれ」
「いつも満足に働けずにすみません。明日も来ます」
「いいって、いいって!ここはアタシ等に任せてよ」
「すみません・・・ではお先に失礼します」
洗い場から一人の女中さんが出て来た。銀色の透き通る髪と白い肌をしていた。綺麗な方・・・このお屋敷で初めて見る女中さんだわ。私に向かって会釈すると足音も立てずそのまま横を通り過ぎていく。女中さんなのに白粉の香りを身にまとっているのが少し不思議だった。
「それにしても雪華さんも都合がいいんだから。調子がいいときは働く~なんて言って悪いときの方が多いじゃないか」
「確かにねぇ~正直来られても面倒なんだよ。いっそ部屋で休んどいてくれた方がこっちとしては楽だって」
「ここに住まわせてもらってる手前、女中として働いているってことにしときたいんだろう。あんな病弱じゃどこも雇ってくれないよ。まぁ若旦那様にご贔屓にされてる分、邪険にもできないさ。下手したらこっちが追い出されちまうもんね」
「ちょっちょとアンタっ!」
「ん?・・・あっ!八千様っ!!」
女中さんたちの軽快な会話が、私の姿に気がつくとピタリと止まった。
「どうされたんですかこんなところで」
「これを部屋に忘れてあったので届けに来ました」
「そんな、それくらいお呼び下されば取にいきますから」
徐々に青ざめていく。やはり色々な意味であまりうろつかない方が良いのかもしれない。女中さんは怯えながら器を受け取るといつもより引きつった笑顔をこちらに向けた。
「あの今のお話・・・若旦那様に贔屓ってどういうことでしょうか」
「いっいやですよ!昔の話ですよ昔の!」
「そうですよ。昔の話です!あの雪華って女中はその母親もここで働いたんですけどね、若旦那様の身の回りの雑用を担当していたんですよ。けれど一年ほど前に病で亡くなって・・・それを不憫に思われた若旦那様が雪華をここに置いてくださってるだけのことです」
「雪華は母親に似てあまり体が丈夫ではないんですよ」
『昔の話』と強調するわりには一年前とは。それは人にとっても最近の出来事じゃないのかしら。だとすると若旦那様はお優しいお方だから母君を亡くされおまけに病弱なあの方を放っておくこともできなかったのね、きっと・・。洗い場を出ると廊下に腰紐が落ちていた。洗い場の作業の時に使っていた誰かの落とし物だろう。拾い上げると「雪華」と名前が縫われている。