【第四話】薫風
「鶯だわ。こんな町中にも鶯の声が聞こえるなんて」
屋敷に来て数日、少しずつ新しい生活に慣れ始めていた。一方で時間を持て余すようにもなっていた。早く若旦那様へご奉仕できたらいいのに・・・。母が吉右衛門様と契りを交わしたように私もいつか若旦那様と契りをかわす日を迎えるためにも。
「八千様、お茶のご用意ができましたよ」
「ありがとうございます。今行きます」
昼を過ぎた頃、女中のお梅さんが私の部屋にやって来た。一緒に添えられているお茶菓子がとても美味しくて楽しみのひとつになった。こないだは草で包まれた桜色のお饅頭を頂いてとても美味だった。今日はどんなお菓子かしら。
「それから若旦那様に八千様が暇を持て余さぬようになにか欲しい物があれば買い添えるように言われているのですが・・・なにかございませんか?」
「欲しい物?特には・・・」
「困りましたね。新しいお召し物や町で流行りの鼈甲細工などはご興味ありませんか?」
「・・・すみません。すぐに思いつかなくて。考えておきます」
少しだけ開けた障子からそよ風が入って来た。庭園は青々とした新芽が息吹いている。
「あの、あとで庭に出てもいいかしら」
「もちろんです。丁度剪定も終わる頃でしょう」
「そういえば、あの北の部屋は私が来た時からずっと障子がしたままですね。誰かいらっしゃるの?」
「・・・はい。女中が一人。ただ体調を崩しておりますので部屋には決して近づかないようにお願いします」
「そうでしたか。早く良くなるといいですね」
いつもは和やかに話すお梅さんの声が急に小さくなった。誰にも聞かれてはいけないといった様子だった。人間は流行り病を畏れていると聞く。お梅さんがこんな話方をするのはそのせいなのかもしれない。
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『部屋は一緒ではないですが食事は一緒に取りましょう』
ここへ来た翌日に若旦那様がそう言って下さった。もちろん私を思ってのことだろう。直ぐにとは言わずとも少しずつ、少しずつ若旦那様を知っていきたい。
「八千様、若旦那様はお帰りが遅いようなので夕食はお先に取られますか」
「でも・・・もう少し待ってみます」
「然様でございますか。では失礼いたします」
部屋の前の縁側に出ると外は既に暗く月明りが庭の池に映り込んでいた。あの池まだあったんだわ。初めてこの屋敷に来た日あれは六歳ごろだったかしら・・・。お母様と吉右衛門様のお話が長くなって私はあの池を覗いていた。確か金の鯉がいたわ。それが珍しくてついつい夢中になってしまい足を滑らせてしまった。
『おい、そんなに覗き込んで危ないだろう』
それが若旦那様との初めての出会いだった。お付きの人を二、三人連れてそのままどこかへ行ってしまった。あのときは少し怖い人だと思っていたけれど。その時、向こう側から足音が聞こえて来た。
「若旦那様?」
「八千さん?まだ起きていたんですか」
やはり若旦那様だった。けれどいつもと違い月明りに照らされた頬は少しだけ色づいて見える。
「はい。夕食はご一緒にと思いまして。あのもしかしてもうお済でしたか?」
「すみません。今日は上客の方が来られて済ましてきてしまいました」
「あっそっそうでしたか。それなら良かったです」
「駄目ですね。これからは八千さんがいるからお断りしないと」
「そんなことありません。今日はお疲れでしょう?もうお休みください」
自部屋に引き返そうとしたときだった。若旦那様に包み込まれるように後ろから抱きしめられた。お酒が入っているせいか若旦那様の身体が熱く感じた。着物越しから若旦那様の熱が伝わってくると耳元で聞こえた若旦那様の呼吸に私の身体も熱を帯びだした。微かに香るのはやっぱりお酒の匂いだった。
「わっ若・・・」
「八千さん。八千さんはいつも良い香りをさせている・・・男を誘惑するような甘美な香りだ」
そう言うと若旦那様は私の首筋で息を吸い上げた。その行為に羞恥しているとふぅと息を耳元に掛けられる。身体が小刻みに震え若旦那様の抱きしめる腕が強くなった。私はこういうときどうすればいいのかまるでわからない。戸惑っていると『こちらを向いてください』と若旦那様の熱のこもった声が落ちてくる。