【第一話】春時雨
それは慶長から元和に変わる頃。妖と人の境界はあいまいだった。人は妖を助け、妖もまた人を助けた。災いや病を共に乗り越えながら共存していた。また一生を添い遂げるほどに深い絆を持つ者もいたと言う。人の温かさに触れた妖は恩義に報いるためにその身を削り続けた。もう一度その温かさに触れたいと願いながら。
「だからね、八千お前も大人になったら奉公をしに、あのお屋敷に行くんだよ」
「ほぉこー?」
「壷玖螺家のお屋敷だよ」
私が生まれ育った山は人里を離れ更に奥山にあるところ。勾配の厳しい山をいくつか登ると美しい湖がある。妖や動物はそこで他愛もない会話をしながらのんびりと過ごしていた。そして時折人が迷い込んでくると帰り道を教えていた。すると数日後には山の麓に果物や綺麗な石などお礼を持ってきてくれるのである。
「昔ね私たちのお祖母様が森の麓で怪我をしてしまったの。その時に助けてくれたお礼に約束したのよ。現当主の願いを一つだけ叶えると。その恩を返すことで私たち鶴人は人間の姿でいられるんだよ」
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立春、まだ冬の寒さが残る頃。私は一人で壷玖螺家のお屋敷を訪れた。
その昔、壷玖螺家の当主が私の先祖の鶴を助けたことが始まりだった。お礼として当主に望みを尋ねると『その美しい羽が一枚欲しい』と申し出た。羽一枚と傷の介抱では些か分が悪い。他にないかと続けるが、当主は望みなどないと言ったのだ。どうしても恩を変えさせて欲しいと私の先祖が告げると渋々に『では子孫代々、安泰した生活が送れるようにして欲しい』と。先祖は自らの羽を織り交ぜた反物を送った。織った反物はこの世の物とは思えないほど美しいと称賛された。そして壷玖螺家は呉服屋を営むようになり、今は名家豪商と謳われるほどまでに成長した。
このお屋敷も私たちあっての物だと今の旦那様は常々言ってくださっている。それにしても、いつ来てもご立派なお屋敷。私のような妖が訪ねて良いのかついつい謙遜してしまう。軒下にお邪魔して傘を畳むと小雨が霧のように降っていた。せったかく咲いた桜も散ってしまいそうだわ。屋根から落ちてくる雨水にそっと手を伸ばすと桜の花弁と雨水がてのひらに触れた。
「御免ください」
今日、私が壷玖螺家を訪れたのは母と現当主吉右衛門様が交わした契りを叶える為だった。
閉ざされた門の向こう側から人の気配がする。使用人がゆっくりと門を開けると私は敷居を跨いだ。
「これはこれは八千殿久しぶり。長旅ご苦労」
「お久しぶりでございます。吉右衛門様」
「うむ、お前は席を外せ。それと蒼蜀を呼んで来い」
「かしこまりました。旦那様」
部屋に通されるとほんのりと藺草の香りがしている。こんな広いお屋敷、案内がないと迷ってしまいそうだわ。使用人は盆のお茶を私の前に置くと静かに退席した。
二人きりになり顔を上げた。この方が壷玖螺家の当主、壷玖螺吉右衛門。湯気が立つ熱いお茶をズルズルと音を立ててすると太く剛毛な眉をハの字に作り私を侘しそうに見た。
「母君の件、本当に残念だった・・・最後にもう一度会いたかったものだ」
「生前母も吉右衛門様の事を気にかけおりました。契りを半ばにして心許ないと・・・」
「そんなことはない。この家も名誉も商売も全ては八千殿と母百音殿の一族あってのこと。そしてワシの願いを叶えるべく、こうして約束通り八千殿を寄越してくれたのだ。ズズズズゥ…それにしても八千殿は綺麗になったなぁ~。紅色の瞳など百音殿そっくりだ。はて幾つになった?」
「十と八にございます」
「そうかそうか、約束では二十歳だったが、まぁいいだろう。ンム、・・・蒼蜀の奴遅いな。なにをしているのだ」
吉右衛門様が障子を開けるとまた使用人を呼びつけた。霧雨の中で遠くに見える山の頂にはまだ薄っすらと雪が残っている様に見える。出された湯呑に触れると、冷たくなった指先がじんわりと温かくなった。湯呑の中の玉露色が小さく波紋を作っている。口にしようとすると再び吉右衛門様の慌ただしい声が入ってきた。
「蒼蜀!早くせんか、なにをしておる」
「申し訳ありません。店の方が混み合っておりまして」
「ええい!言い訳はあとじゃ。もう八千殿が来ておるぞ」
こちらへ近づいてくる足音に胸が跳ね上がっていく。零さないように湯呑を元の位置に置き私は静かに待った。静かに息を吸い込んだ。どうか胸の鼓動よ治まって・・・。祈るように牡丹の髪飾りに触れた。