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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
9/20

第2章 斜陽の国〈3〉


     3


 城の廊下を歩き、階段を何度か降りて、糸恩はまた大きな部屋へ連れてこられた。

 このお城は相当広いのだと、改めて実感した。おそらく将門に抱いてもらってなければ、途中で力尽きているだろう事も。

 将門は多分、糸恩がそこまで歩けない事も織り込み済みで、抱えるという選択をしてくれていた事も、理解した。

 「正餐室」。ルシアンとベルナデッタがそう呼んだ部屋に入ると、優に二十人は並べようかという長い机と沢山の椅子がズラリとあった。

 コチコチと鳴る壁のボンボン時計を見ると、長い針が真下を向いて、短い針は真上より少し左にあった。時計は読めたので、今が昼前であることはわかった。けれど時計の読み方を、誰に教わったのかは思い出せない。


「我が君、着いたよ。一人で座れるかい」


「うん、ありがとう」


 一番奥の椅子、二つだけの側面に置かれた椅子のところに糸恩は降ろされた。

 椅子はアンナが引いて、座らせてくれる。全部やって貰ってしまったので、一人で座るも何もなかった。糸恩がお礼を言うと、将門はいつもの笑みを一層濃くして頷く。

 まるで宝物を貰ったときのような笑顔だった。はた、と気がついたが、将門に面と向かってお礼を言えたのは初めてだと思った。ずっと心の中だけで、声には出せなかったから。

 そう気がつくと、やりきれない感謝が心の中に溢れてきて、糸恩はもう一度「ありがとう」と呟いた。

 英雄はもう一度優しく微笑んでくれた。

 だが、すぐに痛々しい微笑みに変わってしまう。将門は糸恩の表情が少しも動かない事が、悲しいようだった。けれど糸恩は、それを晴らす為に笑ってあげる事は出来なかった。


「アンナもありがとう」


「いいえ、職務ですから……、どういたしまして」


 椅子を引いてくれたアンナにもお礼を言うと、いつもの静かな顔で否と返そうとしたが、突然思い直したのか受け入れてくれる。誰かの視線を感じた。アンナでも目線で怯む事はあるのかと、糸恩は思った。

 アンナに前を向くように促され目線を向けると、いつのまにか糸恩の席から伸びるように左右にみんな座っていた。左側に順に将門とルシアン、イグニスが座り、右側にリタとリアが座っている。

 ずっと緊張顔で黙りこくっているクラリベルと、後ろのアンナは立ったまま。ベルナデッタとエイブラハムは、遠くで誰かと会話したり、歩いている姿が見える。

 彼らがなぜ座らないのか不思議だったが、問いかける前に後ろにいたアンナが目の前に皿を置いたので、問う事は出来なかった。

 糸恩が机の皿に目線を下げると、そこには白い液体に細かくちぎったパンが入っている温かい料理が置かれていた。少なくとも糸恩は見た事がない物だった。付け合わせに置かれている、原型のないペーストはおそらく果物だろうという事はわかった。


「陛下はお身体がお弱りになられておられますので、医官の指示でパン粥に致しました。りんごはすりおろしてあります。ご安心して、お召し上がり下さい」


 アンナの静かな声が、後ろから聞こえる。ほかほかと湯気を立てているのは料理長の自信作のミルク粥だそうだ。匙をアンナから手渡されるので、膝の上で固く握っていた手で受け取る。

 手を上げた時に袖口から覗く包帯を、何とは無しに見られたくない気がしてすぐに袖で隠した。

 「冷めないうちに早くお食べ」と将門に促されて、部屋にいる面々から見られているのを頭の外へ追い出して、糸恩は粥に手をつけた。

 少しだけすくって口に入れる。少し熱かったけれど眉も動かさず、咀嚼して嚥下した。

 優しい味だった。遠い昔どこかで食べた事があるような、深い思いやりの味。誰かを思って作るものはこんなに美味しいのか、と小さく息が漏れる。

 はらはらと白花の花弁のように、目から大粒の涙が落ちていた。濃い色のスカートに吸い込まれて、点々のシミを作っていく。

 目から流れる暖かい水がなんであるのか、糸恩は忘れてしまっていた。もう二度と、出ないものだと思っていたから、その記憶も失くしてしまったのだ。

 これは誰かに見られてはいけないものだと刷り込まれた何かが糸恩に囁く。前に目をやると、みんな心配そうな顔、不安そうな顔をしてこちらを見ていた。何かをいいあぐねているように口をはくはくさせたり、俯いたりしている。

 糸恩は袖口で流れる涙を拭った。けれど、自分の意図するところでない涙は、どうしても自分では止められない。

 止まらない涙に項垂れていると、涙を拭う手を隣から大きな優しい手が遮った。

 将門の手だった。頬に触れた将門の手は、頬を滑って、涙を掬って持っていく。いつのまにか手袋は外されていて、直接触れた体温が頬を通して沁みていった。その手に導かれて、糸恩は将門を見た。


「泣いたらいいよ、我が君。泣いていい。人はね、悲しくても、嬉しくても、泣くのだよ。君の涙は、とても綺麗だね」


 みんなが心配そうな、不安そうな顔をする中で、将門は優しく微笑んでいた。

 ますます糸恩の涙は止まらなくなる。アンナがポケットからハンカチを出して、将門と一緒に涙を拭ってくれる。

 泣いてもいいと言われたのは、初めてだった。



   ❁ ❁ ❁


 しばらくぽろぽろと目から気持ちを流して、落ち着いた頃にはミルク粥はすっかり冷めきっていた。糸恩はそれでも全然よかったけれど、温めなおしますとアンナに下げられしまった。

 すぐにさっきと同じような、ほかほかになって返ってきた。その頃には忘れた空腹が顔を出してきたのか、子犬の鳴くような音がお腹からしていたので、大人しくちびちびと粥を啜る。

 そしてはた、と思いついた。


「みんなのは……?」


 そういえば食べてるのは自分だけで、泣いている間もみんなの食事は出てきていない。糸恩が零した呟きに、ルシアンが苦笑する。


「我々の分はちゃんとありますから、後で頂きますよ。陛下はゆっくり召し上がって下さい」


「……いまは食べないの?」


「陛下とご一緒なんて……恐れ多い事です」


 ルシアンの言葉は難しくて断片だけを拾うことで、何となくの意味を察した。後でではなく一緒に食べればいいのに、と少し聞き分けなく食い下がってみるけれど、ルシアンは首を横に振る。

 イグニスも同じようだった。ちらりと将門を見ると、ばっちり目が合う。三日月の形に細められた目がこちらを見ていた。

 糸恩の気持ちなど分かりきっているのか、将門は頷き、閉ざしていた口を開く。


「王が一緒にと言っているんだ。せっかくだから、私たちも頂こう」


「ですが……将門様」


「いいんだよ、ルシアン。イグニスも。この子に対して、遠慮や堅苦しくなるのは()しなさい。その度に我が君は、悲しい顔をするから」


 将門が言い諭すと、ルシアンとイグニスは渋々と言ったように頷く。遠くでベルナデッタが昼食を、と指示を出しているのが聞こえた。

 二人はそんなにお腹が空いてないのか、と糸恩は空腹を訴えた自分が少し恥ずかしくなってしまった。

 一人で少ししゅんとしてると、ルシアンとイグニスが少しバツの悪そうな顔をして、口を開かない二人の代わりにどうしてか将門が、気にしないでいいよ、と頭を撫でてくれた。なぜかはわからないけれど、また少し、胸がふわっと温かくなった。

 将門に撫でられて暖かくなった胸を少しさすりながら、右側を見る。少し興奮したようなキラキラとした眼をしたリタと、微笑みのままの静かなリアがいた。


「リタとリアも、一緒ね」


「うん!王様と一緒にご飯!」


「みんなで食べた方が美味しいですからね」


 何かウズウズと黙っていた二人の天使─主にリタの方だが─に声を掛けると、リタはバタバタと、リアはふわふわと翼を揺らしながらそう言う。嬉しいと翼も動くのだろうか。

 二人が嬉しそうなので、糸恩も少し胸が暖かくなる。この感情が「嬉しい」なのだろうか。

 目で見える他者のことはぼんやり分かっても、自分の内のことは一つも分からない。特に感情なんて複雑なことは、ルシアに問いかけてみないと、まだ糸恩には理解ができなかった。


 しばらく静かに食事をした。何かを問われたり、用がある時にしか糸恩は特に何も話したりはしないので、部屋の中はとても静かだった。

 みんなも食事の時には何も話さないのか、それともせっせと食べている糸恩に気を遣ってか、特に何も話しかけたりはしなかった。

 糸恩はまた冷めるといけないからと、みんなの料理が来るまで待たず食べるように、アンナに促されたのでちまちま食べていたが、それでも将門達の方が食べるのは早かった。

 戦の時に食べるのが遅くては困るからね、とは将門の言葉。ルシアンは、仕事の合間に手早く済ませるので早くなったんです、と言っていた。

 糸恩もなるべく早く食べたが、追いつくことはできなかったし、完食もできなかった。次第に匙が止まるので、将門は無理をしないようにと、糸恩の顔色を見ながらそう言ってくれた。

 無理や加減、というのはまだわからない。空腹も満腹もよくわからない。だから、将門に制御してもらえてよかったと糸恩は思った。

 アンナとクラリベルは何度言っても一緒に食事はしないの一点張りだった。ルシアンの時のように糸恩が頼んでも、彼女たちは頑として首を縦に振らなかったので、これはダメなことなのだと学んだ。

 糸恩は覚えておかないと怒られてしまうから、知ったことは忘れないようにしている。けれど、どこまでも優しい彼らが怒るわけでもなければ、誰に怒られるのかは糸恩にはわからなかった。怖がっている「怒り」がどんなものかも、思い出せはしなかった。


 糸恩が食事を終えると、食器はアンナたちの手ですぐに下げられ机は整えられて、食後のお茶だといって温かい紅茶が出てきた。

 何度も思うが至れり尽くせりだ。こんな状況は今までに一度もなかった糸恩は、それが少しむず痒いような気持ちになる。糸恩が淹れてもらった紅茶を飲んで一息つくと、ルシアンの咳払いが聞こえた。

 咳払いと共にルシアンが立ち上がり、広間で言った「続き」の話が始まった。


「陛下。今からこの国の現状、他国の情勢、その他諸々について、私が説明させていただきます。陛下にはまだ難しい事です、今は理解できなくても構いません。陛下の不足だと思うものは、臣下である将門様や我々が補います。ひとまず、聞いていただきたいのです」


「……はい」


 ルシアンの真剣な眼差しに押されて、糸恩はおずおず頷く。難しいこと、自分には今はわからないこと、けれどそれでも聞いて欲しいこと。ルシアンの言うことは端々にしか読み取れない。

 けれど、わからないことは、知らないことは、良くないことだと糸恩は思った。

 知らなければわからない。わからなければ、きっと何もできないから。将門の為にできる何かをするのなら、ルシアンの話もきっと、いつかはわからなくてはいけないことだと、糸恩は理解した。


「皆様、こちらをご参照ください。諸々の資料になります」


 ルシアンが分厚い紙の束を侍従たちに配らせる。

 もちろん糸恩の手元にも、それは届いたが、表紙に書かれた幾何学模様(きかがくもよう)のようなものが何か、糸恩にはわからなかった。そういえば、似たようなものが謁見の間の壁に書いてあった気もする。

 糸恩が首を傾げながら、紙の束をペラペラとめくっていると、怪訝(けげん)な顔をした将門が糸恩に問いかけた。


「我が君。それを読めるかい?」


「? 読める……?」


 将門の眉の間のシワを真似るように、糸恩は眉根を寄せる。

 「読めるか」と問われた。紙の束を指差しながら、将門がこれを読めるかと問うたのだから、これは読むものなのだろう。けれど、糸恩には依然幾何学模様にしか見えないし、とても読めるものには思えなかった。


「将門様、どういうことですか、もしかして、まさか……」


 次はルシアンが将門と同じくらい、眉を寄せて糸恩を見る。糸恩はまた何か怒らせてしまったかと、肩を跳ねさせた。


「召喚の際に私たちの元の世界の言語は強制的にこの世界のものに置き換えられる。常識なんかもね。けれど、元から知らないものは置き換えられないんだ。元の世界の文字を知らなくては、置き換えるものがないのだから、この文字だって読めやしない」


「これはかなり深刻、ですね」


 いつも易しい言葉を使う将門が言うことも、今ばかりはよくわからなかった。断片を拾うに紙の幾何学模様は文字で、糸恩が言葉を知らないから、これを読めないのだ、という事に思えた。

 またもう一度紙に目を落とすが、やっぱりそれは不思議な幾何学模様。それがどうしてか悲しくて苦しくて、糸恩は顔を歪める。

 涙はもうでないけれど、悲しいだけはわかるから、この苦しさも悲しいのだと理解した。「悲しい」がたくさんあって、この世界はそればかりだ。ルシアも泣きたくなるのはわかる。わからないことが積み重なって、折り重なって、大きくなっていく度にそれは大変な罪のように思えた。


「我が君。そんなに思いつめた顔をしないで。わからないことは覚えたらいいんだよ」


「……おぼえる」


「そう。君はまだ白紙なだけだ。これから学んでいけばいい。無知は罪じゃない、知らないままでいることが罪なるんだ」


 知ろうとしている君は正しい人間だよ。将門の優しい声が糸恩の胸にじんわりと染みる。また少しだけ泣きそうになってしまった。

 価値観の天秤が将門側に傾いている分とでもいうように、彼は糸恩に欲しい全てを与えてくれる。知識も感情も庇護も、分け与えられる全てを。

 こんなに優しい人に自分は何を返せるだろうか。糸恩は色々なものが綯い交ぜになって、少し胸が詰まったような感覚になった。


「止めてしまってすまないね。王への噛み砕いた説明は後ほど私がやっておこう。とりあえず、今は耳で聞くことが勉強だ。……始めよう」


 王と英雄の二人の世界に入れずにいた周りの面々は、将門の言葉に我に返った。糸恩と将門には他者には踏み入れない完成された世界がある。そこに踏み込む事は、きっとこの先も誰にとっても難しいことだ。

 会って間もないはずの二人にその繋がりがあるのは、王と英雄であるがゆえだろうか。糸恩の内にも、将門の内にも、誰もまだ踏み込めない彼らはそれを見るとたじろぐしかない。

 ルシアンがもう一度咳払いをして、今度こそ続きの話をした。


「それでは、まず陛下に向けての我が国の説明から参ります。将門殿には説明済みですし、天使殿は勿論ご存知かと思いますので、退屈かもしれませんが、陛下の為にご容赦ください」


 ルシアンに名指しで説明相手と言われた糸恩は、気を引き締める為に少しだけ背筋をシャンとした。それを見た将門がくすりと笑うのが見えた。

 笑えるところなんてあったろうかと、糸恩は小首を傾げる。彼はたまに変なところで笑う気がする。いつも余裕に微笑んだ笑みの顔をしているし、笑ってない時の方が少ないが、破顔と言う意味では変なところにツボがある様な、そんな印象を受ける。

 兎も角、笑ってくれるなら怒られるよりはいい、と糸恩は何も言わないことにした。勿論知っていると言われた時に、リタの方がギクッと音がしそうな反応を見せたことも、何も言わないことにした。


 ルシアンの説明によるとこの国、リッツオルフ王国はアルマティア大陸の西南部にある国だという。

 主な産業は鉱山と人材。だが今この人材の方の派遣などの産業はずっと止まっているという。

 理由は選帝侯の不在によるもの。ルシアンの言うところによると、選帝侯は王がいない時の王様の代わりの様なものだと言う。

 将門の忠告─忠告と取ったのは糸恩と将門以外だが─で、自分の話し方が糸恩には小難しい事に気付いたらしく、ルシアンも砕いて砕いて、おそらく粉状にまで砕き切って教えてくれた。

 ルシアンの努力に、糸恩は申し訳なくなって、その努力を無碍にしないために、一言一句漏らさずに聞くことにした。文字通り、身を乗り出して。

 気がつくと背中にはクッションが差し入れられて、紅茶は温かな新しいものに変わっていた。アンナやクラリベルが気を遣ってくれたらしい。どこまでもお世話になりっぱなしで、また申し訳なくなった。

 同時に胸のあたりがまた暖かくなった。少しだけ糸恩はルシアのことを思った。次はいつ会えるだろうか。その時にはまたお話をして、自分は彼女の言った通り笑える様になるのだろうか。そんなことを少しだけ考えて、すぐにダメダメと首を振り、ルシアンの話に戻った。


 ルシアンの言うところの選帝侯は、今リッツオルフに二人いて、糸恩はその二人と会わなければならないらしい。

 理由は二人の選帝侯が持っている「王鍵(おうけん)」と「玉璽(ぎょくじ)」を受け取るため。

 「王鍵」は戴冠式を行うために必要な物で、代々国家に引き継がれているものらしい。なんでも聖戦で必要になるとか。

 詳しい事はルシアンも知らないという。将門が訳知り顔で、「それは私が後で説明するよ」と言ったので、それを待つことにした。将門が言わないのだから、知られてはいけない事なのだろう。

 「玉璽」は王の業務を行うために必要な物で、法令や国同士の調印の際には、絶対に必要になると言う。

大きなハンコの様な物ですよ、とルシアンは教えてくれたが、「ハンコ」とは何か糸恩はわからなかった。これも後で聞くことにする。

 「王鍵」はアーヴェントリア選帝侯という人が、「玉璽」はグロワール選帝侯という人が、それぞれ持っているという。それを手にしなければ、王とはなれず、戴冠式も行えないという話だった。

 ルシアンが話し終わるとちょうど、壁のボンボン時計が午後の二時を知らせた。そこでルシアンは一息ついて気が抜けたのか、椅子に座り直す。そういえば立ったままで話していたので、疲れたのだろうと糸恩は思った。次からは座って欲しいとお願いしようと決意した。


「あの、ルシアン……」


「ゴッゴホッ! す、すみません。ゴホン……なんでしょう? 陛下」


 糸恩に急に話しかけられ驚いたのか、ルシアンが飲んでいた紅茶で盛大に噎せる。しっかり一言謝る辺りが、紳士な彼らしいと思う。一つの咳払いで、気を取り直そうと必死な様子も。

 噎せた事で少しだけルシアンに移った注目が再び糸恩に向けられる。視線にたじろぎながらも、糸恩はなけなしの勇気を使って声を出した。右側から将門の視線だけの応援が感じられたのが、糸恩の勇気を少しだけ強くした。


「えっと、選帝侯、に会わないといけないのは、わかったの。それで、その人にはいつ、会えますか?」


 クラリベルに飲ませてもらった薬の効き目が切れてきたのだろうか。それとも話してなかった故の強張りと、注目の為の緊張だろうか。また声が喉につっかえ出した。少しヒリヒリと痛む気がする。後でまた薬をお願いしなくてはと、またやる事が増えた。

 言葉を選びながら、間違っていないか、途切れ途切れに確認して、それでも何とか絞り出した問いは、少し彼を困らせてしまったらしい。

 困った様に眉根を寄せるルシアンを見て、糸恩はまたいけない事をしてしまったかと、体から体温が消える感覚がした。しまった、と思う度に糸恩を襲う感覚だった。言い表すなら、そう、恐怖のような。


「それは……申し訳ありません。まだ、わからないのです」


 ルシアンが歯切れが悪い言葉で答える。何か嫌な事を思い出して、噛み締めているような顔だった。その眉を寄せたルシアンの顔を見て、糸恩はどう答えたらいいものかと悩む。

 他人の感情に触れるのは、殊に難しい事だ。そんな繊細な事を糸恩はまだできはしない。

 助け舟を出してくれたのは、今までずっと黙っていたイグニスだった。


「陛下。私から事情をお話し致します。現在北のインフェリア大公領と南のグロワール大公領に使いを出しておりますが、まだ回答がございません。答えがあるか、選帝侯がこちらに来るかも、まだわかりません。もしもの場合は、本来あってはならないことですが、陛下自身が選帝侯領に行かなければならないかもしれません。不確定が多く、まだお話が難しいのです」


 イグニスの言葉はルシアンと同じように噛み砕いてくれていて、寡黙な彼には難しいのだろう、少しルシアンよりは難しいけれど、糸恩は何とか飲み込もうとした。とりあえず、今はまだ何もわからない、という事はわかった。

 糸恩が頷いてみせると、待っていたように次に口を開いたのはリアだった。黙って聞いていたリアも、少し難しい顔をしている。悩む時のルシアンの顔に似ていた。

 座っているものの中で、将門とリタだけが口を開かない。リタは何かも諦めた顔をしているが、将門の方は全てを知った上で黙っているようだった。

 少し意地の悪いところがあるような気がする、と糸恩はまだ知らぬ英雄の一面を垣間見た気になった。


「イグニス様。もしもの場合の可能性は、高いのでしょうか? 私たち天使は国の情報を頂きますが、頂く情報はかなり乏しいのです。情勢は日々変わりますから仕方がないのですが……」


「……それは、私の口から。アーヴァントリア選帝侯に関しては高いと思われます。インフェリア候 ライネス・アーヴァントリア……父はとても気難しい方で、こちらに来られることは、おそらく無いかと。相対的に、グロワール選帝侯は穏健主義な方です。こちらの招きに応じて下さるかと思います」


 リアの問いにイグニスが答えようとした時に、ルシアンが手で静止して口を継いだ。まだ苦い顔をしているけれど、少し落ち着いたらしく糸恩はそれにほっとした。ルシアンが父といった時に、リタが机に伏して諦めていた顔を、勢いよくあげた。


「選帝侯って、ルシアンのお父さんなの?!」


「……ええ、私はアーヴェントリア選帝侯の第二子になります」


 リタが大げさに驚いた声で、糸恩の肩も跳ねた。

 そういえば先ほど名前を聞いた時、彼は名前を「ルシアン・メルヒェン=アーヴェントリア」と言っていた。少し考えればわかることらしく、リタと糸恩以外は知っていたか、気づいていたらしい。自分がいかに思考を放棄していたか知れて、少しむず痒いような思いになった。

 父親のことを「方」というルシアンは、そのアーヴェントリア選帝侯にはいい感情がないらしく、それ以上は語りたくないようだった。

 人それぞれの事情があるのだから、それをつつき回すことはしたくない。きっといつか話したくなったらルシアンから教えてくれるだろうと、驚いて固まるリタを余所目に糸恩は黙っていることにした。


 それから少し、気持ちの悪い沈黙と紅茶を飲む時の食器の擦れる音が続く時間があり、束の間の小休止は再びルシアンの声で終わりを迎えた。


「王都は今かなり追い込まれた状況にあり、それを解決するには陛下の戴冠式が必定になります。陛下のお姿をもってしても、確固として召喚された王であると証明する術は残念ながらありません。ですので、民の前で戴冠していない王には、誰も従ってはくれません。けれど裏を返せば、戴冠さえできれば民は王意に従います」


 彼の苦々しい顔は変わっていない。けれど、その顔は先ほどの意味とは違う気がした。彼がそんな顔をするくらい、今の状況は厳しいのだろう。それを何とかしてあげたい。ルシアンが苦しい顔をしないようにしてあげたいと、糸恩は思うが、自分にできることはわからなかった。


「ルシアン、いつまでに、その戴冠式? はしたらいいの?」


「……王都のみの国力で、私の出した概算ですが残り三ヶ月ほどです。その内に戴冠式を行わない場合は、おそらく即位自体が難しくなります。戦争という状況になれば、三ヶ月以降の王都の力ではインフェリア領からも、グロワール領からも守り切れません……将門殿がいても、です」


 糸恩の問いにルシアンの眉間のしわはより濃くなる。

 将門がいても、守り切れない。そんな現実があるとは思わなかった。酷く重いもので頭を打たれたような衝撃が、糸恩の体に走る。将門はわかっていたのか、不本意のシワを眉間に作っただけだった。


「ひとまずは命を永らえる方を優先する為、ヴァイスハイト家と交渉に入ります。南部選帝侯領の理解が得られれば、何とかなる可能性はかなり増します。幸いヴァイスハイト家には多少の()()があります、私にお任せください」


 ルシアンの少し苦しさが溶けた目に射られて、糸恩は思わず頷いた。

 どのみち糸恩には何もできはしないのだ。交渉は勿論のこと、戦争になってもきっとできることなどない。今の糸恩には、何一つとして。

 自分の無力さが浮き彫りになった気がして、また気持ちが沈む。こうして沈んだ気持ちは心の下の方に溜まって、澱になって、それが苦しいことに変わるのだろう。この膝で丸めて固まった手のひらのように、凝り固まって、固く固く。

 まだその胸に溜まったものが何か理解できない糸恩にも、この黒い何かは苦しいものだというのは、理解できた。

 糸恩の無表情に近い表情を察せる者はここにはまだ一人しかいない。その唯一である将門の手が、糸恩の固く握り締められた拳に重なる。

 ふわりと乗った手は砂糖菓子みたいな軽さだったけれど、とても暖かかった。

 手を辿るように将門を見る。事もなげないつもの微笑みがそこにはあった。慰めるような微笑みだった。

 糸恩は彼のこの微笑みだけで、生きていけると思った。例え目の前に希望が一つとしてなくても。


「陛下。もう一つ懸念があります」


「もう一つ……?」


「この国以外の他の国のこと、です」


 ルシアンが言った「もう一つ」の答えを、糸恩に向けてリアが教えてくれる。

 もう断片を拾って話を聞くのにも慣れてきた。慣れてきた分だけ体は疲れている気がするが、感覚はまだ鈍くて痛み以外は感じない。だからそれは口には出さないでおいた。ここで糸恩がそれを言えば、みんなは話をやめてしまう気がしたからだ。


「この地にはリッツオルフを含めて、十二の国々があります。陛下はその十二の国を統べる王のうち、最後に召喚された序列十二位の王となります」


 そう説明を始めたのはイグニスだった。彼の言では、他国のことは今の軍の責任者である彼の専門なのだそう。

 この国を除く十一の国の王は、糸恩より前に召喚され、始めの王は召喚されてからもう七年ほども経つという。力の差は歴然だというイグニスの目は、諦めではなく未だ強い光があった。あの光を希望というのだろうか。

 イグニスはまだ何も知らない糸恩に、アルマティア国々について、懇切丁寧に説明をしてくれた。


第一の王の国。神の座する東の大国・レガルスト皇国(こうこく)。統べる王は、風雅の都の月帝(げってい) 竜胆(りんどう)

第二の王の国。極北の大国・キウス帝国。統べる王は、騎士の国の賢帝 セイレーン・ルミナ=カー・プリマリア。

第三の王の国。親竜の国・イグティエ王国。統べる王は、魔法使いの竜王 白雪(しらゆき)・フォーサイス。

第四の王の国。(あまね)く魔術の国・ロギンベッド帝国。統べる王は、悪徳錬金術師 トゥエイン・リ=ガ・ルィトカ。

第五の王の国。砂に(けぶ)る軍事国家・シルヴィス王国。統べる王は、灰燼(かいじん)女王(じょおう) アレクシア・ライラ・シグル=ラシュトン。

第六の王の国。情熱と歌の農耕大国・カラドロック王国。統べる王は、()()(おう) ポーラ・A(アレクサンドラ)・ウィンストン。

第七の王の国。魔の海、渦巻く海洋国・ルアニール王国。統べる王は、人魚姫 ルーツィア・シーウェル。

第八の王の国。華やぐ商人の国・アーディティ王国。統べる王は、商人女王 エリザ・デュ・フレネ。

第九の王の国。妖精と神秘の根付く国・ユスティ王国。統べる王は、妖精王 アルフ・ベルンハード・(中略)・ラハティ・ルォツァライネン。

第十の王の国。機械と黒雲の科学大国・ロンダーヴ王国。統べる王は、天才科学者 アレン・ルスウェイト。

第十一の王の国。流転する傭兵の国・クレアゾット帝国。統べる王は、武人大帝(ぶじんたいてい) クライヴ・ヴェアンドル。


 イグニスがゆっくりと名前を述べていくのに合わせて、糸恩の傍でアンナが資料を指差して文字を追って教えてくれる。文字の形、並びだけにでも触れておいた方が良い、とのことだそう。

 糸恩は耳で聞きながらアンナの指でなぞられる文字を追った。やっぱり幾何学模様にしか見えないけど、これも努力すればいつか読めるようになるのだろうか。

 覚えなければならないこと、できるようにならなくてはならないことが山積みで、やっぱり気が滅入る。それでも将門の微笑みのためなら、みんなの苦しみを除くためなら、いくらでも頑張れる気がした。


 イグニス曰く、今のアルマティア大陸の国は三つの派閥に分かれているらしい。

 一つ目が、無駄な血を流さずに平和的な解決を望む、穏健派。キウス帝国、イグティエ王国、カラドロック王国がその派閥で、三国は現在不可侵同盟を結んでいるという。

 だが、穏健派のうち、第二の王の国 キウスと第三の王の国 イグティエは必要とあれば、武力行使も辞さない構えとのことで、兵力で言えば二国はアルマティアで一、二を争うらしい。その証拠に先の戦乱─二年ほど前にあったらしい─では、抗戦派として派兵もしたとの事だ。

 二つ目が、聖戦派と呼ばれる聖「戦」と名がつくのであれば、武力をもって戦争にて、敵を攻め伏し、願いを手にするという思想の派閥である。

 糸恩はそれが好ましくはなくても、普通の考えなのではないのかと思ったが、まだ何もわからないので、口を挟むことはやめた。そのせいではないが、喉の痛みが再来して声が出にくくなってきたのも、理由ではある。

 聖戦派にはロギンベッド帝国とシルヴィス王国、ルアニール王国が属しており、シルヴィスとルアニールは同盟関係にあるが、ロギンベッドは特に同盟は結んでいないとの事。

 複雑な長い名前がたくさん出てきて、もう頭がこんがらがり出した糸恩を案じてか、その理由などは追々に、とイグニスはそこで終えてくれた。正直にいうと、糸恩は少しホッとした気分になった。

 そして最後の三つ目の派閥は、中立派。レガルスト皇国、アーディティ王国、ユスティ王国、ロンダーヴ王国、クレアゾット帝国の五国が属しており、今のところ静観を保っているが、機を見ればどちらに着くかはわからないらしい。一応、リッツオルフは王が未召喚だった為に、ここに属していたとルシアンが付け足してくれる。

 第一の王の国 レガルスト皇国以外は下位の国が多く、イグニスのいう「戦争に関して」の観点から言えば、強者を見定めてからつく方を選ぶのは、定石なのだそうだ。

 やはりイグニスの言葉遣いは糸恩には難しい。説明するものの内容が難しいのもあるが、彼の折り目正しい性格によるものでもあるだろう。後でもう一度聞き直さなくては、糸恩には理解しきるのは難しそうだ。

それでなくてもかなり考えたり、聞き覚えたりして、疲弊していたから理解は後回しになっていたかもしれない。

 少しぼうっとしてきた頭を振って無理やり晴らそうとするけれど、頭にかかった薄雲はあまり変わらなかった。


「……以上が、アルマティアの国々の現状になります。……大丈夫ですか? 陛下」


「はい……だいじょうぶ、です」


 正直な話、かなり疲れて辛くなってきていたが、まだまだ紙の束には続きがあって、ここで話が終わらないのは、糸恩にでもわかった。みんなが真剣だからこそ、続けて欲しかった。

 幸い体の不調には鈍いようだったので、口に出した通り、大丈夫だと思っていたのだ。喉は話すのも億劫なくらい、じくじく痛んでいて、話は続けたいが薬だけはもらいたいとは思った。


「顔が赤くなっているね」


「陛下、少し失礼しますね。わっ、熱い!」


 将門の言葉に敏感に反応したクラリベルが糸恩の額に触れ、途端に声をあげる。彼女の優しげな声は糸恩は好きだけれど、今だけは声が頭に響く感覚があって、目を固く閉じた。少しだけ痛みが引いた気がしたが、その分意識も持っていかれるような感覚になった。

体がグラグラするのは、考え事のしすぎだろうか。違うなら、この感覚は知らないな、と糸恩の頭は緩慢に働いた。


「熱が上がってしまったか……まだ傷は癒えていないからね」


「やはり先に戦況を知らせるのは悪手でした。十分にお休み頂いてから、万全な状態でお伝えするべきでした……我々の気が急ぐあまりに」


「いや、ルシアンたちのせいじゃない。私が良しとしてしまったからだ。自分を責めるのはやめなさい」


 将門たちが何か話しているが、その声も少しずつ遠くなっていく。労わるような冷えた手が首に触れて、少しだけ意識が戻ってくる。アンナの手だった。

 少し焦点を合わせた糸恩の夕焼けの瞳に、気遣わしげなアンナが映る。どこか、誰かに重なって見えた。ああ、この人は誰だろうか。糸恩の意識がゆっくり離れていく間に、将門たちは話をまとめたらしく、この場はここでお開きになるようだ。

 将門の暖かい─今はそれも冷たく感じる─手が、額や首筋に触れ、最後に頭を撫でた後に糸恩の体は同じ手でまた空に浮いた。将門がそうしたのだろうか、自然と頭は胸の方に倒れこみ、糸恩の楽な姿勢を取らせてくれる。

 糸恩の手を誰かが取った。多分、リタ。ぎゅーっと握った後にすぐに離されて、お腹のところに戻される。元気を分けてくれたようだった。

 リアの手は頬に触れた。遠慮がちな手で少しだけ頬を撫でた後にすぐに離れた。その間、将門はルシアンやイグニスと二、三言交わしていた。

 一言一句聴き逃すまいとしていた先ほどとは違って、糸恩の耳には何一つ入ってこなかった。

 熱い、そう言われた途端に自覚してしまったからだろうか。頭が融けるように熱くて、ぼうっとしてしまう。世界が流れていくだけの虚像に見える。

 ゆっくりと労わるような静かな動きで将門が歩みだすのがわかった。前にちらりと目をやると、白髪交じりの栗色の髪が見える。確か、名前は、ベルナデッタ。彼女に先導されて将門は歩いているようだった。

 度々視線が降ってくるのを感じる。上を向く気力はもうなくて、お腹に置いてあった手を将門の胸あたりに這わせて、きゅっと握った。少しだけ将門が動揺したように、柔らかい気配が揺らいだ──気がした。

 気配に疎い上に糸恩の働かない頭では、そんなものは感じられない。けれど、将門の手の機微だけはまだわかった。背に添えられた手が少し強くなって、糸恩はもっと将門の胸に顔を寄せる。

 靴音と少しの振動、たまに聞こえる誰かの声に耳を傾けながら、糸恩は過ぎる景色をただ眺めていた。次第に瞼も重たくなって、三日前と同じ、どんな場所よりも安全な場所で糸恩の意識はまた途切れた。


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