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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
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第2章 斜陽の国〈2〉


      2


 ノックの主は、エイブラハムだった。

 今、どうやら王が部屋からこちらに向かっているところらしい。それを知らせに来てくれたらしい彼は、そのまま何やら落ち込んだような雰囲気で、そこに佇んでいる。

 控えの間に陛下を来させるのは違う、迎えるべきは臣下の方だ、とベルナデッタに叱られたとエイブラハムが零した。

 確かにそうに違いないと、会いたいがあまりに急いて気がつかなかった自分を将門は少し恥じた。それにしてもこの城の侍従の力関係は、やはり官位によらないらしい。どう考えても、エイブラハムよりベルナデッタの方に力の天秤が傾いている。


「ありがとう、エイブラハム。二人とも、行こうか」


 エイブラハムから事情を聴き終えた将門に声をかけられて、慌てて緩んだ緊張感を取り戻し、ルシアンとイグニスは立ち上がる。

 颯爽と歩いていく将門の背中を二人はしばし見つめた。

 この三日間、二人と城仕えの面々は、かの英雄の優秀さを目の当たりにし続けた。

 滞っていた城とその近辺の補修整備の再開の手配、王都兵の編成と練兵、各商工協会等との交渉、諸侯への書簡の送付などの政務に合わせて、将門はこの国リッツオルフについて時には書庫から、時には城仕えの者たちの口から、実に多くの情報を集めていた。

 その業務は多岐にわたるが、全てに関して将門は完璧にこなしてみせた。余裕綽々とした微笑みさえ浮かべて。

 だが、一度たりとも城下へは下りなかった。忙しさゆえということもあるが、補修整備は綿密な報告と設計図で、練兵は分けてでも城の修練場で、商工協会との交渉は心証が悪くなるとルシアンが食い下がっても、あちらから足を運ばせた。

 将門は頑なに城から離れなかった。城からというよりも、離れなかったのは王からだと、ルシアンには思われた。

 将門が寝る間も惜しんで王の為に周囲を整えていたこと、そして更に睡眠時間を削ってでも時間を見つけては王の部屋を訪れていた事。

 同じく睡眠時間を削って仕事をしていたルシアンだからこそ、夜中に回廊を抜けて王の元へ行く将門を知ることができた。

 先ほどやっとお出ましか、自分はと呟いたが、王に会うのを本当に心待ちにしていたのは、きっとあの英雄の方なのだ。将門の微笑みからはいつも何も読めないが、今ばかりは嬉しさが滲んでいるのを見ながら、二人は将門の後に続いた。


 通された広間にはまだ人っ子ひとりいなかった。

ここに今日立ち入ることを許されているのは、今は最高位政務官のルシアンと王都軍の現最高責任者のイグニス、そして二人を許した他ならぬ英雄である将門のみであるから、無理はない。

 謁見の間に置かれた王の為の玉座を見た。今からここにやっと聖戦の王が座するのだ。ルシアンもイグニスも、この日をずっと待ち侘びていた。

 この謁見の間は別名『玉座の間』とも呼ばれ、王が召喚された際に正式な儀礼を行う場所として、城のほぼ中央に置かれている。

 入り口の扉からは真っ直ぐに玉座が見え、左右の窓から入る光と、天井の窓から入る光で、王の歩く道が照らされている。

 天井の窓からは、空が見える。この玉座の間は建国時に王がこだわって作らせたもので、城は何度も陥落したり襲撃を受けているが、この玉座の間だけは壊されたことはないそうだ。

 古代の守りの魔術が施されているらしく、壁にはそれらしい古代文字が端々に刻まれている。今は読めるものは、もうほぼいない。

 エイブラハムは開閉の為に扉の方へ行き、三人は玉座の方へと歩いた。カツンカツンと石の床に踵の当たる音が響く。それ以外には何もない、とても静かな空間だ。神聖にも思える静寂は、心地の良いものだった。

 王の玉座の隣に将門は立ち、王を待つようである。


─王の隣に英雄ありき。王なくば英雄はなく、英雄なくば聖戦は成らず─


 ルシアンはこの言葉をふと思い出した。子供の頃から年長の者たちによく聞かされた言葉。いつかは自分たちが子孫に言い聞かせる番になる。アルマティアに生きる民は、大抵がこの言葉を聞き育つのだ。

 いつやもしれぬ、聖戦に放り込まれても守るべきものを違えぬ為に。

 ルシアンは玉座の隣で虚空を見上げる将門を見ていた。イグニスも隣で同じものを見ているようだった。将門という英雄には端麗な容姿を除いても、どこか人を惹きつける魅力がある。その神性すらも感じる雰囲気は、どこにいても目を引いてしまう。

 それと相対するように、あの藍の双眸に見とめられると、体が竦む時もある。きっと畏怖と好奇心が綯い交ぜになってしまうのだ、彼の姿を見ると。

 それは誰の隣にいても、変わることはないのだろう。この三日間、将門に必死で付いてきた二人はそんな事を考えていた。


 その時、謁見の間の扉が大きめの音を鳴らした。この豪快なノックはクラリベルだ。

 イグニスが頭を抱えたのが、ルシアンには見えた。彼女は昨年までは軍付きの医官として、イグニスの教育下にいたからだ。厳しく育てたと言っていたが、元来イグニスは女性には優しいので、そうでもないのだろう。

 続いて、エイブラハムのよく通る声が響く。

 窓も開いていないのに、どこからか現れた気流が扉の方に流れた。

 遠くのユスティという国には風を操る精霊が棲むという。その祝福でも受けたように、清らかな風は吸い込まれるように、扉の方へと流れていった。

 入ってくる光の量は先ほどと変わっていないはずだった。けれども、ルシアンとイグニスの目は光に眩んだ。

 コツンと、何ともつかない金属と石の床が触れ合う音が、その小さな音だけが響いた。光が扉の方に収束していくように見えた。この部屋には何度となく入ってきたが、こんな事は初めてで、隣のイグニスも同じように目を瞬かせていた。

 光は扉の、王の方へと集まると撓んだ糸のようにふわりと融けた、ように見えた。

 ルシアンは知らぬうちに喉に詰まっていたらしい息を無理矢理に飲み込んだ。ひゅうと喉が鳴った。(かたわ)らのイグニスも同じような様子だった。

 またコツンと控えめな音がする。それが銀の杖であると、光が緩んで漸くわかった。

 目を伏せ、こちらにゆっくりと歩いてくる少女。天使二人を側に侍って歩く姿は、天上の女神と言っても信じる者も多いだろう。

 結ってある髪は風でふわりと揺れ、柔らかな生地のスカートも同じように踊っている。

 視線は交わらない。少女──否、王が、こちらを見ないためである。

 雪白の髪と煙るような睫毛の下から覗く、朝焼けの紫の瞳。細工の鮮やかな銀の杖をつき、祝福の風と天使を従えるその姿は、古の書に見た遍く王の姿だった。

 玉座のもとにいる英雄に恥じるどころか、英雄を凌駕する神聖すらも感じる王が、近づく度に徐々に息が詰まっていく。ルシアンとイグニスは促されもせずに、無意識のままに片膝をついて跪いていた。

 目の前の小さな少女にはそれだけの何かがあった。

 こちらを見ない王の瞳、その瞳に見とめられたら心臓は止まってしまうのではないか。今はけたたましい音をして鳴る胸を、ルシアンは服の上から掴んだ。

 隣のイグニスに視線をやろうとしたが、目は王の姿を見上げたままで動かない。

 きっと彼も自分と同じような蒼白な顔をしているのだろうと、イグニスの名誉の為に見ないでおくことにした。

 後ろで、イグニスよりも後ろで、フッと微笑むような音が聞こえた。その音ともに王の視線が上へと向かう。

 視線の交わる時、稲妻のような聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。今までただ静かで「無」だった王の気配が、その時に少しだけ花の咲いたような変化を見せた。

 その気配があまりに近く、目の前で変化したので惚けてしまった。と、同時に王の目がルシアンとイグニスを見とめた。真っ直ぐに朝焼けの瞳に見据えられて、まるで心臓が掴まれたように静かになった。

 けれど、それは一瞬の出来事で、すぐに紫の眼は前の英雄の方へと戻っていく。それが少し寂しく、惜しく思えた。

 ゆっくりとした歩みの王に英雄が歩み寄り、小さな手を取るのが見える。まるで、歌劇の一幕にも見える優雅な仕草で。

 杖はついたまま、手を将門にひかれて王は玉座に歩いていく。扉からここにくるまで、ずっと誰も言葉を発しなかった。静寂だけが広間に広がっている。

 やがて、風の精の祝福も漂っていた神聖も薄れていき、玉座に着く頃には、そこには傷だらけの小さな少女だけがいた。天使たちはルシアンたちのすぐ後ろで同じように跪いている。いつのまにと、少し驚いたがイグニスもルシアンも顔には出さなかった。


「対面まで少し待たせてしまったね。皆、この方がこの国──リッツオルフ王国の聖戦の王だ」


 玉座に座らされ─座しているとは言い難かった─、肩に手を添えてそう言った英雄を、少女─王は気抜けた顔で見ていた。

 そこにはもう小さな少女しかいなかった。




   ❁ ❁ ❁


 扉が開いて、不思議な気流が足から体に纏うと、糸恩の体は先ほどより幾分軽くなった。少しだけリタに借りていた手の力を緩めて、アンナに貰った勢いのまま、広間へと歩き出す。

 相変わらず光は眩しくて、目は伏せたまま。けれどこうしていた方が足に目がいって、気をつけて歩き易いことに気がついたので、眩しくなくなるまではそうしている事にした。

 リタとリアが隣にいてくれたので、心細くはなかったけれど、覚束ない足取りはとぼとぼと泣いているようだった。

 さっきの不思議な風で少し楽にはなったけれど、鉛のように重たい体が、石くらいになった程度だ。あまり変わらない。

 とぼとぼと歩いていると、眩しさが徐々になくなってきた。目だけで周りを見ても部屋の壁が少し光を帯びているだけで、もう眩しいばかりの光はそこにはなかった。

 光が撓んだように、周りに巻いているだけで、眩しくはないけれど、顔を上げるのも億劫でそのまま歩いた。隣に居てくれる二人の天使の足音がわずかに聞こえる。それがとても頼もしかった。

 しばらく牛歩の歩みで進む。ふと前の方から待ち望んだ微笑みが聞こえた気がした。糸恩はほぼ反射的に顔を上げる。

 将門がそこに居た。先ほど─三日前になるが糸恩にとってはそんなに前に思えない─と変わらない笑みを浮かべて、彼がそこに立っている。目が合ってしまうと、逸らすことはできなかった。

 リタの手が不意に離れたので、驚いてそちらを見ると、見たことの無い男の人が二人なぜか跪いていた。金色の髪と綺麗な青色をした瞳を分厚い眼鏡の奥に隠した男の人と、黒髪に鳶色の瞳の筋骨隆々な男の人。

 彼らが誰なのか気にはなったが、糸恩にここで止まってでも聞く勇気などははなかった。少し彼らを見てから、すぐに将門の方へ目を向ける。彼は音もなくこちらに来ていた。

 リタに離された手の分を何とか杖で支えているうちに、空いている手を掬われる。

 彼の身につける、黒の皮手袋越しでも、とても暖かく感じる。涙がこみ上げて来るくらい。

 これは、あの時ルシアの言った「悲しい」と同じなのだろうか。問いかけられる彼女は、ここにはいない。

 そのまま手を引かれ、糸恩は玉座への階段を上がる。金細工で彩られた天鵞絨張りの瀟洒な椅子は、自分には到底似合いそうもなくて座るのを躊躇したが、将門に促され渋々腰かけた。

 クッションはふかふかで座り易い椅子ではあるが、とても居心地が悪い。玉座に座ると同時に、体を纏っていた風が消えたような気がした。

 少し髪を撫ぜた後に、ふっと去っていった気がして、そちらを見たが風が見える筈もなかった。

 風が帰っていったように思えた方には、徐々に光を失う幾何学模様のようなものが彫り込まれた壁しかない。先ほど光っていたのはあの模様だったのか、と意味もなく納得した。

 同時に体に重みが戻ってきて、糸恩の体が玉座に沈む。どっと疲れがきて、倒れこみそうになったが、将門の手が肩に置かれたので座っているよう少し我慢をした。


「この方がこの国──リッツオルフ王国の聖戦の王だ」


 将門のその声がして、軋む体で糸恩は将門を見上げる。微笑みをたたえた糸恩の英雄の顔は、少しだけ悲しそうに見えた。ルシアの悲しいとは違って見えて、どう言っていいものか逡巡する。

 とりあえず将門の目がこちらから目の前の人たちの方を向いたので、そちらを向くことにした。


 はじめに視線がかち合ったのは、金髪の男の人だった。彼はその場に跪いたままに、指を揃えた右手を心臓のあたりに添えて、頭を垂れる。


「我らが太陽たる国王陛下にご挨拶を申し上げます。お初にお目にかかります。私の名はルシアン・メルヒェン=アーヴェントリア。この国の現宰相を勤める者です。これこの時より陛下に仕え、陛下の為に尽くす事をお約束致します」


 半分以上の言葉が糸恩には難しくて、とてもじゃないが理解しきる事ができなかった。将門を仰ぎ見るが、眉を下げて笑うだけ。困ったと、一応名前であろうと思うところだけ、るしあん、と反芻しておいた。


「同じく、お初にお目にかかります、陛下。私はイグニス・オリストと申します。この国の軍隊長を勤めております。この命に代えても、貴方をお守りする事をお誓い申し上げます」


 ルシアンと同じくイグニスの名前も口の中で反芻する。彼の言う事も理解が追いつかないけれど、命と聞こえた時、重みのある言葉であることは理解した。

 順に名前が述べられる。といっても、糸恩が知らない人だけ。ルシアンとイグニスとエイブラハムと、後から来たベルナデッタ。

 こんなに人に囲まれたのは初めてで、糸恩の頭は複雑にこんぐらがった。でも、みんなの名前は一等大切なものに思えて、しっかりと刻んだ。


「将門」


 閊えながらも名前を呼ぶと、紫黒の英雄が傍らに膝をつく。ずっと隣にいたのに、どうしてか急に近くに来てくれたような気がした。名前を呼ばれた彼の顔は、美しく微笑んでいた。


「わたしも……?」


「……ああ、勿論。みんな聞きたがっている」


 自分もみんなの名乗りに応えていいものか、糸恩にはまだ判別がつかなかった。言葉少なな問いかけでも、将門は最大限理解してくれた。

 名前は大切なものだ。何故か、そう簡単に渡してはいけないと、そう思ったのだ。けれども、傍らの英雄にそれを問うた理由はもう一つ。

 名乗って良いのか、だけではなく、大抵全ての事が「わからない」。そのわからない分別の全てを、今は将門に委ねている状態だった。

 きっとどんな事であっても、将門が是と言えば是になり、否と言えば否になる。糸恩の中の価値観は彼に左右されている。その自覚は多分将門にもある。あの時、鏡合わせのあの場所で、糸恩の手を将門が取ったあの時からずっと、二人は互いに左右され続けているのだ。

 まるで天秤の両側にいるように。


「……わたしの、名前は、糸恩(しおん)といいます。ただの、糸恩です。ほかには、何も、ありません」


 静寂の広間に糸恩のか細い声が響く。

 彼らはなにかを必ず持っていた。肩書きや家名など、何かを。糸恩には何もないのだ。

 苗字はない。あったかもしれないが今はない。

 肩書きもない。王というのはまだ違うと思った。

 だから、名乗るのに戸惑ったというのも実はある。名を名乗る事の是非にも困ったけれど、自分のなにもなさにも困った。優しい彼らを怒らせたり、困らせてしまうのかもしれないと。

 悲しみ以外の感情は複雑で、ルシアに教えてもらっていないからわからない。

 そういえばここにルシアはいなかった。

この城の中に入るのだろうか、どこかでまた泣いているのだろうか。そんな考えが頭を巡る。全て通り過ぎてしまうこの心は、ルシアの事には何故か留まるのだ。胸のカンテラが少し揺れる。まだほんのり暖かかった。


「糸恩様……陛下のお名前、しかとお聞き致しました」


「古の盟約に従い、我らは貴方の手足となり、貴方の為に駆ける駿馬となり、貴方のだけの剣になりましょう。全ては世界神の栄光の為に」


 糸恩はそう答えてくれたルシアンと同じように頷くイグニスたちにどこか、アルティナの面影を見た。

 古の盟約。世界神の栄光の為に。

 冷酷なまでに享楽に浸りきった女神の瞳。

 頭の中にアルティナの双眸が蘇る。きっと彼らはあの瞳を「美しい」と形容する。将門は違うようだった。隣で彼の微笑みが少し歪んでいるのが見える。

 何か嫌なことでもあるのかと、まだ膝をついたままの彼の引き攣る頬に触れる。彼はこちらを見て、少し驚いた顔をしたけれど、すぐにいつものように微笑んで糸恩の手のひらに擦り寄った。

 ルシアンたちが王と英雄のその仕草に、束の間の幻想を見ていると、それを引き戻すように乾いた手を叩く音が広間に響いた。

 手を叩いたのは女官長ベルナデッタだった。彼女はいつもの厳しい顔つきを、さらに厳しくして続けざまに声を掛ける。


「恐れながら申し上げます、英雄様。陛下は目覚められたばかりでこの広間に連れてこられて、本日はまだホットミルクしか召し上がっておられません。すぐにとのことでしたのでこちらにお連れすることを優先しましたが、もう対面がお済みでしたら、正餐室へご移動くださいまし」


「ああ、わかったよ。ベルナデッタ」


「? どこかいくの?」


「そうだよ、我が君。ベルナデッタが君のご飯を用意してくれている。お腹が空いているだろう?」


 お腹が空いたと言われれば、そうかもしれない。ずっと空腹なんて忘れていた──気がするので、自分ではわからなかった。

 ベルナデッタが言った「ホットミルク」というのは、クラリベルに浴室でお風呂に入る前に飲んでくれと言われた、あれのことだろう。「蜂蜜たっぷりなので甘くて美味しいですよ」とクラリベルが言った通り、甘い飲み物だった。美味しいかどうかは、糸恩にはよくわからなかったけれど。


「それでは、話の続きは正餐室で行いましょう。王にお伝えすることが山ほどありますからね」


 ルシアンがそう言うのと同時に糸恩の体は宙に浮き、気づいた頃には将門の腕の中だった。先ほど歩いていたから歩けるのにと、思ったが、糸恩の考えより体はひどい状態だったらしい。そう言葉にするのも億劫だった。

 将門は「今日はもう歩かせないよ」と言って、微笑んだ。少し胸のあたりが暖かくなった。これが何なのか、次会った時にルシアに聞いてみよう、と決めた。

 将門の決意は堅そうなので、糸恩は腕の中で大人しくしていることにした。


「王様頑張ったね〜!!綺麗だったよ!!」


「ありがとう……?」


 歩き出してすぐに、リタがそう声をかけてきた。何が綺麗だったのか、糸恩にはよくわからなかったが、お礼だけは言っておいた。リアは、と天使の片割れを探すと、後ろの方で少し硬い表情をして付いてきていた。

 リタと違ってリアはあまり喋らない。けれど、リタと同じくらい優しくて、同じくらい手を差し伸べてくれる。今のリアの顔は見える表情がなく、どこか苦しそうに何かを堰き止めている顔だった。

 糸恩がジッと視線を注ぐと、すぐに気がついて、その顔はいつものような笑顔に変わる。でもそれも、どこか不自然だ。

 将門もそんな顔をする時がある。見ていた時間は短いけれど、糸恩が目を外したふとした時、時たま何かを押し止めているような、そんな顔をする。

 そこに踏み込んでいいものか、糸恩にはやはりまだ判別がつかない。だから今は、笑顔のリアに心配そうな目を向けるだけしかできなかった。


 彼らのために「笑ってあげること」は、まだ糸恩にはできそうにない。



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