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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
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第2章 斜陽の国〈1〉


       1


 差し込む光と騒がしい声で、糸恩は目を覚ました。先ほどまで何処かの回廊に居たはずなのに、自分の体はしっかりとベッドに横たわっていた。

 ルシアに貰ったはずのカンテラも、手にはなかった。

 あの事は単なる幸せな夢だったのかもしれない。あんなに軽かった体は、相対するように酷く重くて、全身がじくじくと痛んだ。

 それにそれを感じる脳も、じんわりと熱を帯びているような感覚で、まるで靄がかかっているようだった。手を上げてみると白い包帯が巻いてあって、感覚から全身のほぼ全てが同じ様な状態であるとわかった。

 けれど、夢だったのかという脱力感より、体の痛みより、それを手当てされていることよりも、糸恩の頭の中は目の前の騒がしい光景への驚きの方が大きかった。


「あ! 起きた起きた! 起きたよ! リア!」


「お姉様、お静かに。王様が驚いています」


 目に飛び込んできたのは、二人の少女のなぜか嬉しそうな顔だった。

 アルティナが着ていたものより、丈の短い白い柔らかな生地の服は幾重にも布が重ねられていて、風がないのに視界の奥でひらひらと揺れている。

 首や腰などに装飾として飾られた鎖や宝玉は、女神の持つそれによく似ていた。二人の様相の違いはスカートであるか、短いショートパンツであるかだけだろう。

 その背中─というよりも限りなく腰に近い─に白い翼が生えている。窓からの陽光に照らされてキラキラ輝く羽は、紛う事なき天使のものだった。

 羽と同じくらいキラキラと輝く緑瞳(りょくどう)が、糸恩に注がれていた。

 囲むように左右からこちらを見ている二人の少女に、糸恩は何か言うこともできず、たじろぐこともできず、ただじっと見ていた。カーテンのようにベッドにかかっている天幕は、リアと呼ばれた少女の方だけ光が入って明るくなっていた。


「はじめまして、王様! 私はリタ・フェリチタって言うの! この国の天使なの! 今日からずっと王様と一緒にいるから、いつでも頼ってね!」


「同じく、はじめまして、王様。私はリア・フェリチタと申します。リタお姉様の妹です。私たちはこの国の守護天使で、王様を助けるために女神様より遣わされたのです」


 二人から元気のよい自己紹介を糸恩は受け取り、自分も返そうと思ったが、あの時出た声は今は出なかった。喉も体と同じように酷く痛む。

 リタとリアは糸恩の体の状態がわかっているようで、無理に話させようとはしなかった。

 お名前は後でみんなで伺います、とリアは優しく笑う。この国の人はみんな同じような優しい顔で笑う。糸恩にとって、今までに見たことのない表情ばかりだった。


 リタとリアが言うには、王が召喚された治世においては、天使が女神アルティナより派遣されて、英雄と共に王を助けるのだそうだ。

 糸恩は話せない代わりにコクコク頷いて返していたが、靄のかかったような頭では、二人の話をすんなり理解することができず、情報の縁をなぞるのに精一杯だった。

 困ったような顔をする糸恩を見て、二人も少しだけ眉尻を下げていたが、後は将門が知っているよ、と言ってくれた。

 そういえば、将門は何処だろうか。

 彼に呼ばれたような気がして戻ってきたけれど、彼はここにはいなかった。近くにいないことも、何故だか分かる。待たせてしまったのなら、謝らなくてはと思った。それに沢山迷惑をかけてしまったから、それも謝らなくては、と思うと居ても立っても居られなくなった。

 どこに行ったのか探しに行こうと、体を起こそうとして、上体を起き上がらせる事には成功したがすぐにぽてりと戻ってしまった。まるでおきあがりこぼしのようだ。

 体が石のように重たく、戻った衝撃でも必ず痛みが走る。我ながらひどい状態だと糸恩は眉根を寄せた。

その姿を見て慌てつつもリアが手を貸してくれる。


「私、アンナとクラリベルを呼んでくるね!」


「お願いします、お姉様! 王様、ゆっくりでいいですよ」


 リタが天幕を大きく開いて、扉の方へと駆けていく。飛んだりしないのかと、糸恩は少し不思議に思ったけれど、今は起き上がる事に専念する事にした。

 リアに手を貸してもらい、ゆっくりと起き上がる。正直なところ、リアが手を添えてくれた背中すらもかなり痛かったけれど、それは顔には出なかった。

 何故かはわからないけれど、痛みには強いようだと糸恩は少し安堵した。迷惑を掛けなくて済むなら、きっとそれがいい。

 ゆっくり起き上がり、ベッドに座ることができると、リアが背中に大きな枕をそっと差し込んでくれた。促されて枕に背を預けると、かなり体が楽になった。

 それと同時くらいに扉が開いて、リタとアンナと、もう一人糸恩が見たことのない女性が入ってくるのが見えた。


「陛下、お目覚めになられたですね。すぐに英雄様方にお伝え致します。クラリベル、私は伝達と準備を致しますので、陛下の容体の確認をお願い」


「は、はい!」


 糸恩はクラリベルをじっと見つめる。彼女もその視線に気がついたのか、糸恩に向かってお辞儀をして、挨拶をしてくれた。


「はじめまして、私はクラリベル・フィアロンと申します。陛下付きの侍女兼医官として、誠心誠意お仕え致します! 何かお困りごとがあれば、おっしゃってくださいね」


 この世界では名前を名乗ることは、当たり前で当然の挨拶なのだろうか。判断材料のない糸恩にはわからないが、それを真摯に受け止める。


「……ぁ、の」


 声が出ないから、と伝えたかったが絞り出した声は、声というより空気に近かった。まともに音を震わせることもできていない。

 険しく眉を寄せながら、トン、と指で喉を示すと、クラリベルはどうしてか少し悲しそうな顔をして、持っていた薬箱から半透明の緑の液体を出した。

 この国の人たちは優しく笑ってもくれるけれど、よくこんな悲しそうな顔もする。それがどうしてなのか、糸恩にはよくわからない。


「陛下、これは喉の状態を回復させる薬です。私のお師匠様の作った魔法薬ですので、効き目は抜群です! 少し苦いですが、我慢してくださいね」


 クラリベルが表情を、作ったようなニッコリとした笑顔に変えて、匙で薬を差し出してくれる。糸恩はリアに背を支えてもらいながら、こぼさない様にその薬を啜った。確かに独特の苦味と草の香りが口の中に広がったが、糸恩は表情を少しも動かさなかった。と言うよりは、少しも動かなかった。

 あまりよく覚えていないけれど、物の味なんて気にしたことが無かったから、だろうか。

 クラリベルはその様子に驚いて、弟妹達はいつもギャーギャー騒ぎながら呑むのに、陛下は凄いですねと目を輝かせて言った。

 糸恩はそれにどう返していいかわからず、首を傾げた。糸恩がそうしていると、クラリベルは糸恩の額や首を傷に障らないように触れて、体温の高さや顔色を診てくれる。

 少し渋い顔をしていたが、一応よしが出たようである。糸恩自身としてはまだまだ体は軋むし、自覚した分痛いけれど、眠る前より体の具合はいい気がするので、特に問題はないと感じる。

 なので、クラリベルがよしとするならそれに任せようと、とりあえず黙っていることにした。


 触診を終えるとすぐにアンナがやってきて、備え付けのお風呂に連れていかれ洗われ、身体中ある傷口に薬を塗られ、包帯を巻かれ。

 至れり尽くせりして貰い、糸恩は最後に先ほどまでいた部屋のドレッサーの前に座らされた。

 その後ろにアンナとクラリベルが立っており、左右からリタとリアにワクワクした様な瞳で見られている。左右の天使二人は湯殿でも手当て中も、ずっと糸恩が倒れたりしないかハラハラしながら付いてきてくれていた。

 どうしてそこまで心配してくれるのだろうという疑問が浮かんだが、口には出せかなった。まだ薬は効いていないらしい。

 疑問と同じくらいに、そんなに心配されるほどひどい状態だっただろうかと、あまり自覚のもてない糸恩は首をかしげるだけしかできなかった。

 糸恩は今、上に柔らかい素材の膝までのワンピース─アンダードレスというらしい─と、下はドロワーズとその下に靴下一枚のみである。

 どちらも傷に響かない様に、締め付けない素材でできている。それはとてもありがたいが、そろそろ薄い服では寒くなってきた。前まではそんな事はなかったように思うのに、それだけ弱っていると言う事だろうかと独り言ちる。

 窓から入る光はまだ淡く、気温から感じるにも今はまだ冬に近い季節だろう。よく見るとパチパチと音を立てて、部屋の隅で暖炉が燃えている。今糸恩が凍えきらないのは、きっとあの暖炉のおかげだった。

 未だリアに背中を支えてもらいながら、お人形の如く椅子に座っていた糸恩はちら、と後ろの二人の侍女を鏡ごしに顧みる。


「皆様との初対面という場ですし、やっぱりきっちりしたお召し物の方が良いかと。第一印象は大切ですから」


「でもそれだと、傷に響いてしまうかもしれません。あまりきっちりかっちりしすぎるのは、医官としてはあまり……」


 二人はずっとこの調子なので、どうしたらいいのか糸恩には判断できなかった。

 無意識に将門を探すが、まだ彼はここに来ない。どうやら別室にいるとのことで、アンナの言葉を借りると、成人していらっしゃらないといえど女性のお召し替えの場に殿方が同席されるのは許容できない、との事。

 半分くらい難しくて理解できなかったが、とりあえず将門がここに入ってきてはいけない事だけは、わかった。

 糸恩は首から下げているカンテラのペンダントをいじりながら、二人の討論を待つ事にした。

 このペンダントは浴室で服を脱がしてもらった時、首にかかっていたものである。糸恩にはもちろん、アンナやクラリベルも装飾品をつけた覚えはなかったが、これがルシアのカンテラであることは、糸恩にはすぐにわかった。

 その時も薬がまだ効いていないため声は出なかったので、外したくないと首を振ると二人はその通りにしてくれた。カンテラはまだほんのり暖かい。ルシアの暖かさに似ていた。


 少しの間、問答を見守っていたが、寒さがそろそろ限界で終わる気配もなかったので、声をかける事にした。


「ぁ、あの」


 糸恩が小さく呟く様に声をかけると、議論していたアンナとクラリベルだけでなく、左右に居たリタとリアも弾かれた様に糸恩を見る。


「しゃ、喋った〜〜!!」


 はじめに反応があったのは、リタだった。続いてクラリベル。アンナとリアは、やっぱりあまり感情を露わにする方ではないようだ。それは糸恩もであるが。

 糸恩が喋った事があまりに嬉しいのか、きゃあきゃあと騒ぎながら、リタが勢いのままに抱き付いてきた。自分で座っている事すら難しい糸恩が耐え切れるはずもなく、敢え無くリアの方にまた勢いのまま倒れていく。

 すんでのところでアンナが支えてくれたので、事無きを得たが、リタは考えなしに行動しないでくださいまし!!と、怒り狂うアンナとリアから説教を受ける羽目になった。


「あの、」


「は、はい! 何でしょうか? 陛下!」


「えっと、その、ちょっとだけ、さむい……」


 こんなにも自分の言う事に注目されたことのない糸恩は、戸惑いつつ小首を傾げながらそう言った。すると、クラリベルがあからさまに驚いたような、衝撃を受けたような顔をする。

 アンナも少し落ち込んだ顔になっていた。そんな顔をされる事を言ってしまったのだろうか、と背中が冷える。


「もっ! 申し訳ありません!! すぐにお召し替えを!!」


「クラリベル様、こちらの濃い紫の衣装にしましょう。これなら、締め付けはあまり無さそうですし、見目も良いですよ」


「そうですね、こちらがよろしいかと。陛下の瞳の色にも、英雄様のお召し物の色にも、どちらにも映えます」


 慌てだしたクラリベルに、リアがそっと一着のワンピースドレスを差し出す。確かに将門の服と似た紫黒の色合いをしているが、彼のものよりも少し浅い色に見えた。

 袖は包帯を隠せるようにか、幾重にも柔らかい布が重ねられている作りで、下も触れて傷が痛まないように少しゆとりを持って大きめに、アーチを描くように広がっている。スカートの裾にもたくさんレースが縫い込まれてあった。

 裾は金のラインで縁取られていて、見るからに仕立てが良さそうだった─そんな大そうな審美眼は糸恩にはないが─。

 首も襟ではなくフリルで縁取られていて、全てにおいて傷を気遣ってくれているのがわかる。クラリベルも納得のいくものだったのか、すぐに頷いて、糸恩の着替えに取り掛かった。

 アンナとクラリベルに支えられつつ立つ時に、左手のリアにありがとうと言いたくて視線を送った。それだけでわかってくれたのか、リアはふわりと微笑んでくれた。

 糸恩が自力で立つ事が心許ない為に、着替えには少し時間がかかったが、アンナの侍女としての腕がいいのか、かなり手早く済ませてくれた。

 着てみると、見ていた時は重たくてしっかりとした服に見えたが、見た目よりずっと軽くて着やすかった。それに裾丈も袖もぴったりだ。こんなにフィットする物があるのかと言うくらい、糸恩の体に合っている。


「ぴったり……?」


「ええ、陛下がお眠りになっていらっしゃった期間が三日ほどでしたので、採寸はさせていただきましたが、仕立てる程の時間はありませんでした。間に合わせですが、大きさは問題ないようで安心致しました」


 糸恩がぴったりな事を不思議そうに問うと、アンナがそう答える。なんだか残念そうなアンナの様子に、十分綺麗な服なのにと思いつつ糸恩も曖昧に頷く。

 アンナたちからすれば、仕立てていない時点でこれは間に合わせなのだそうだ。

 糸恩にはこれで十分なので、ありがとう、とお礼を口にするとまたみんなは嬉しそうな顔をする。それが何故なのかは、糸恩にはよくわからなかった。

 その答えより驚いたのは、自分が3日も寝ていたということだ。体の不調はそんなに変わらなかったからか、三日も時間が経っていたことには気がつかなかった。また面倒をかけてしまったと、糸恩は少し落ち込んだ。


「さ、陛下これを」


 項垂れたままワンピース・ドレスを着せられ、もう一度椅子に座らされた糸恩の肩に、クラリベルが肘辺りまでの短い白いケープを掛ける。さっき、お寒いと言ってらっしゃいましたから、と気を使ってくれたようだった。

 寒かったのは服を着ていない格好のせいなので、もう問題はないのだが、拒むことなどできないのでありがたく着せてもらった。少しだけ形が将門の着ている─正確には肩に羽織っているだけ─上着に似ていたので、少し暖かい気持ちになったのは、みんなにはわからなかったようだった。


「御髪はどのようになさいますか?」


「おぐし……?」


「髪型のことですよ、王様」


「髪型、どう……? うん、と……なんでも、いい」


 本当に糸恩には髪型など、どうでも良かった。今までここまで身嗜みに気を遣った事も、遣われた事もこともなかったような気がするから、どう答えたらいいのかわからなかったとというのもある。

 まだ(つか)える喉で途切れながら絞り出したが、その答えは侍女たちには、あまり良い答えでは無かったようだった。


「もったいないですよ!こんな珍しいお色の御髪なのに」


「……じゃあ、みんなの好きに、してほしい」


 正直にそう伝えると、はじめての主張に四人とも嬉しそうな顔をする。糸恩は頭上にハテナを浮かべつつ、とりあえずされるがままに徹することにした。

 それからまたしばらく、侍女と天使たちがああでもないこうでもないと思案しているのを待ち、最終的にアンナの案である後ろで一つに三つ編みに編むという髪型に決まり、考案者であるアンナが仕上げてくれた。

 最後に将門の服と合わせたという濃い紫のリボンで飾ってもらい、完成……だそうだ。支度を開始した時から、かなり経っていたと思う。英雄様、待ちくたびれているかもしれませんね、とクラリベルが人ごとのように言っていた。

 また謝る事が増えたなと、糸恩は少し悲しく思った。ルシアに貰った悲しいという思いは、少しはわかったと思う。けれど、その種類までは、糸恩はまだわからない。




   ❁ ❁ ❁


 女の支度には時間がかかるというがここまで時間がかかるものだっただろうか、と、大きな謁見の間の隣の、こじんまりとした控えの間に集められていた将門、イグニス、ルシアンの三人は同じようなことを考えていた。

 三人の間に会話はない。だが、心中の一角のその思いだけは同じだった。

 アンナからエイブラハムを経由して、王が目覚めたとの一報を受けてから、もうそろそろ半刻ほど経つ。

 すぐにでも迎えに走りたいという欲をなんとか抑え込み、追われていた仕事に一度区切りをつけて、この部屋の椅子に腰掛けてからも同じ時間。もしここにいるのが自分一人で、取り繕わなくてはならないルシアンたちへの体裁がなければ、将門はとうに我慢もできず走り出していただほうと独り言ちる。

 身支度に時間がかかると言ってはいたが、ここまでなのかと全員が考え、同じタイミングでため息を吐いた。誰からともなく三人は顔を見合わせ、苦笑を零した。

 それと同時に、部屋の扉がノックされる。やっとお出ましのようだ、とルシアンが呟いたのが、将門の耳に届いた。お出ましとは、まるで悪の魔王のようではないか、と入ってくるであろう自らの王の、魔王なんてものとはかけ離れた姿を思って、また微かに苦笑を浮かべた。



   ❁ ❁ ❁


 糸恩は大きな回廊を歩いていた。

 将門のいる別室というのは、どうやら少し離れたところにあるらしく、そこまでは糸恩の速度で歩くのに少しかかる。

 コツンと金属が床を鳴らす。糸恩の手にある、銀製のステッキだった。

 先ほどまでは音を吸収する絨毯の上だったから、音は気にならなかったが、石造りの回廊だと少し響く。

 三日も寝ていたらしい糸恩の体は、まだ主人の言うことをまともに聞いてはくれないので、アンナがステッキを用意してくれたのだ。

 右手にステッキと左手にリタ、二つに支えられて、糸恩は将門の元へと出来うる限り急いでいた。

 今は兎に角、会いたい、とそれだけだった。ここまで何かを強く思うのは、久しぶり、のような気がする。

 廊下や回廊を抜けていく間に、糸恩は今まで見たことないほど、たくさんの人に会った。みんな糸恩を見ると、恭しく一礼したり、その場に固まったりする。

 そんな事は生まれてこの方なかった────ような気がする糸恩は、なんだか居心地が悪くて、リタの背に隠れようとするが、それはいつもアンナに止められてしまった。

 「しゃんと歩けば、恥ずかしい事など無いのですよ。陛下、ここにあなたを笑うものなど一人としていません」という、アンナの言。多分、励ましの言葉。

 アンナの言う事は難しくて、ほとんど意味を理解できない。断片から意図を拾うので精一杯。それが少し悲しかった。


 少しの時間、震える足でゆっくりと歩き続けると、大きな扉の前に通された。

 アンナは「謁見の間」と言っていた。何か特定のことをする場所である事はわかったけれど、正確な意味は糸恩にはわからない。

 クラリベルが進み出て、大きな扉を拳で強めにノックする。ノックというよりは、殴るに近いようだった。


「これくらいしないと響かないのです。大きな扉ですので」


 手は痛くないのか、と糸恩が心配に思っていると、隣でアンナが答えてくれる。心でも読めるのかと驚いていると、フ、と微笑んだ──ように見えたが、瞬きの後にもう一度見ると少しも表情は動いてはなかった。

 ギギィと錆びた様な音を立てながら、大きな扉が開く。

 堰き止められていたのか、風が糸恩の足元に流れ込んできて、スカートとケープを揺らした。あらかじめクラリベルがケープを留め金で止めてくれておいて良かった、と糸恩はそんなことだけを考えていた。

 扉から光が差し込む、それが眩しくて思わず伏せ目がちになった。

 光で、前はあまり見えなかった。


「国王陛下の御成りです」


 知らない男性のよく通る声が響いた。

 それを合図に後ろにいたアンナが、糸恩の背を優しく押して合図をくれる。リタが左から手を引いて、リアが右から微笑みを向けてくれた。

 眩しい光に目を伏せつつ、糸恩が一歩を踏み出した。




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