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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
3/20

第1章 少女と最後の英雄〈2〉


       2


 誰かが、呼ぶ声がした、気がした。


 硬いが地面ではないどこかに横たわっている感覚がして、糸恩は目を開けた。ぼやけた視界には、そこが何処なのかわからなかったが、それは視界がはっきりしてもわからない事だった。

 そこは全く見覚えのない場所で、見渡す限り一面が鏡で出来ている。言うなれば、そのまま鏡の部屋。合わせ鏡が幾重にも重なっているように、何処まででも続くように見える。多分そこまで大きな部屋では無かった。

 体を起き上がらせるためについた手から、改めて無機物の冷たさが上がってくる。だが、糸恩の体はこれ以上体温が下がらないほどに、もう冷たかった。

 ここがどこで、何故ここにいるのか。

 アルティナと交わした言葉以前の記憶が呼び起せない糸恩には、到底わからなかったが、それについては糸恩は考えてはいなかった。

 糸恩の思考はある一点、『誰かに呼ばれている』という一点にだけ注がれている。

 ぼやけて見えない視界、前に映っているのは()(つくば)る自分のようだった。着ているものはといえば、汚れてボロボロのサイズの合わないTシャツだけ、汚いものを塗り固めたように茶色く汚れた髪と肌。

 広い世界の中で一番惨めな姿をしていると言われても、頷くしかないほどに見窄(みすぼ)らしく汚れた自分の姿がそこには在った。

 そういえば私はこんな姿だったかもしれない、と客観的に捉えるだけで、その惨めな己の姿を見ても、糸恩の心は少しも動かなかった。

 ただ、糸恩の瞳は正面の鏡だけを見つめていた。

 そこに映る自分を見ているのでなく、その鏡自体を見ている。理由は単純で、そちらから呼ばれた感覚がしているから。それはなんとなくの、まるきり不確かな直感のようなもの。

 けれど、この感覚は間違っていないと、何故だか糸恩には確信があった。

 手をついて半身を上げたものの、立つ事も歩く事も出来ないほどに体は疲弊しきっていた。言うことをまともに聞かない体を引きずり、這うようにズルズルと音を立てて奥の鏡に向かう。

 身体は傷だらけのようだった。糸恩が這った後には、血と汚れで痕が残る。身体を支える事もかなわないような痩せ細った腕で、糸恩は懸命に鏡に向かい這った。

 身体中が(きし)んで、刺すような痛みが襲ってくる。身悶(みもだ)えするような痛みの中でも、糸恩は一つも迷わず前へと這った。

 前へ、あの鏡のところへ絶対に行かねばならないとそう確信していた。ゔぅ、と枯れた喉から呻き声だけが漏れる。でも、それでも進んだ。


 やっとの事で部屋の一番奥に位置するであろう、鏡の壁にたどり着く。

 本当の声が聞こえたわけではないし、もちろん姿も見えはしないが糸恩には、そこにアルティナが言っていた、『糸恩(わたし)を望んでくれる人』がいるとわかった。

 どうすればいいかなんて全く知らなかったが、糸恩は力を振り絞って身体を無理矢理に起こし、半ば倒れるように鏡に触れた。おいで、おいでと誰かが手を招いているように、そこに触れれば会えると思ったから。


 糸恩が鏡に触れた瞬間、カッと眩い光が鏡から放たれる。弱った目にはとても辛くて糸恩は思わず目を瞑った。

 それと同時に耳鳴りのような高い音がリィィンと響く。眩しい光と頭に響く音に、思わず鏡に触れていた手を体の方へ引き戻した。

 無理矢理起き上がらせていた身体は、その反動でいとも簡単に後ろへと傾く。ああ、倒れる、と糸恩は衝撃に備え、もっと固く目を瞑った。

 だが、待てど暮らせど衝撃は訪れず、代わりに背中に誰かの大きな手が触れている感触がした。



「あぁ、今回の私の王は、少し危なっかしい人のようだね」


 おかしいと恐る恐る目を開ける糸恩の耳に届いたのは、優しげな低い男の声。少し笑みを含めた話し方で、その人が笑っている事はわかった。

 瞑っていた目を開くと、閉じた時とは正反対で視界は暗かった。

 ひらひら風もなくひらめく濃紺のマント、きっちりと着付けられている紫黒(しこく)の軍服は着る者を選ぶデザインだが、彼はそれをいとも上品に着こなしている。

 腰には彼の身の丈の半分以上はあるであろう太刀を()いていた。その太刀の方は、衣服とは正反対の鮮やかな夕焼けの(あか)で彩られている。

 糸恩を見つめる藍の相貌(そうぼう)は緩やかに弧を描き、彼の顔は微笑みの表情を浮かべている。

 糸恩はもう天上の神の姿を見ていたが、それよりもこの目の前の青年の方がずっと美しく見えた。

 優しく微笑んでいた青年だったが、糸恩の尋常ではない様相を見て、怒ったように眉根を寄せた。

 糸恩にはそれがどうしてかわからなかったが、この人に嫌われるのは嫌な事だと認識した。嫌われたくなくて、何か言わなくてはと思ったが、とうに限界を迎えている体は声を出す事を許さなかった。糸恩が何か言いたげに、はくはくと口を意味なく動かしているうちに青年の方が先に口を開く。


「こんな幼な子に、なんてことを……。我が君、色々と君に伝えたい事はあるが、先に身の周りを整えよう。話はそれからだ」


 彼の言っている言葉の意味が糸恩にはよくわからず、だが分からないことを伝えることもできず、ただ首を傾げる。

 その仕草にも青年は眉を顰めた。その顔を見て、糸恩はああ、また彼を怒らせてしまったと、自分を嫌悪する。

 怒らせたと思っても、どうしても嫌われたくなくて糸恩は何か一言でも言葉を紡ごうとするが、やはり声は出ない。その理由も糸恩にはわからず、わからないことが嫌だった。

 少しでも何かを伝えたくて、少しでも彼を知りたかった。そうしていないと、何かを知らないと、今は何故か気が狂いそうだった。


「我が君。声が出ないのなら話さなくて良い。喉を痛めてしまうから。大丈夫だ、私は君の敵じゃない。君のための英雄だ。君に危害は断じて加えない」


 青年が何かを伝えてくれるが、糸恩はそれを全ては理解できなかった。頭の中がこんがらがったように混線していて、聞こえる音のほとんどが意味もないもののように聞こえる。伝えたいはずの何かも形にならず、靄のように掴んでは消えていく。

 混乱する糸恩の頭の中には、彼に嫌われたくない事と、嫌われてしまえばまた独りになってしまうことの、恐怖しかなかった。


「……ま、ぇ」


「え?」


 焼けるような喉の痛みの中、糸恩は蚊の鳴くような声で呟いた。

 言葉にならない声は、彼には伝わってくれない。

 それでも、彼のことが知りたくて、何かを伝えたくて、糸恩はまた言葉を紡ぐ。


「な、まえ」


 懇願するような目で糸恩が小さな声を漏らすと、彼はまた眉根を寄せて、泣き出しそうな顔をする。

ああ、君は、彼がそう何か呟いた気がしたが、その言葉の意味も糸恩には分からなかった。


 名前を知りたいという理由はただ、あの時、あの庭園で女神が糸恩に名を名乗らせたから。それが古から続く神々の盟約(めいやく)だとも言っていたから。

 その意志を掴み取るまでに、随分時間をかけてしまった。それほど、糸恩の頭は馬鹿になっているようだ。

 名前を言い交わす盟約が、英雄という位置にあるらしい彼には、当てはまらないかもしれないのだとしても、糸恩は彼の何かを掴みたかった。知ることで何かが変わるわけもないけれど、知らないよりはいいと思いたかった。

 青年がどうしてか息を呑む音が聞こえた。

 その瞬間、糸恩の手を青年の大きな手が包む。誰かに手を握ってもらったのは、いつ以来だろうか。

 その暖かさに目を細め、糸恩は彼の顔を見つめた。


「私の名前は、(たいらの)将門(まさかど)……いつかの世界に散ったこの名の者の一端であり、或いは影。君の剣となり、盾となり、駿馬(しゅんめ)となる英雄だ。どうぞよろしく、我が君」


 彼の唇から紡がれる、玲瓏(れいろう)な声。この鏡面の世界で、ひときわ美しく輝く光のようなそれは、糸恩の中に、すぅ、と浸透した。


「まさ、かど」


 糸恩が掠れ声で咀嚼するようにそう呟くと、将門は優しく微笑み頷く。名前を知れた事、そして微笑んでくれたことが、何より糸恩には嬉しかった。


「さぁ、行こうか」


 将門がそう声を掛けると同時に、糸恩の体はいとも容易く宙に浮いた。膝の裏と背中の大きな手の感触から持ち上げられたのだと察するまで、少し時間がかかった。あまりにも自然な動作すぎたからだ。

 だが、その驚きを糸恩は形容することもできず、またあまり表情も動かない為に、将門も察することはできなかった。

 つかつかと軽い足取りで眩しい鏡の間を歩き、扉と思わしき場所へと進んでいく。あまり広くはないこの部屋であるが、合わせ鏡の為か前後左右の距離感がわかりずらかった。先ほどの瞬い光のせいで、まだチカチカと眩んだ糸恩の目では、扉があるとは判別ができないほどには。

 ギギィ、と音を立てて扉が開く。

 鏡の間はとても明るかったが、部屋の外はそうではないらしい。眩んだ目には真っ暗闇に見えるほど、外は暗かった。おそらく灯りとなるものが一つも付いていないのだろう。

 糸恩は将門の服の胸元を、キュッと少し握った。それが恐怖心なのかは理解できなかったが、その先にあるものが何かわからないと言う感覚が、少しだけ恐ろしいような気がした。

 その糸恩の様子を感じて、将門は少しだけ背を支える力を強くした。そして、糸恩にしか聞こえない程に小さな声で「大丈夫だ」と囁いてくれた。

 糸恩を安心させるためだけのその声は、糸恩が知る何よりも優しかった。


「暗いな、この城は」


 また将門が呟く。彼の目から見ても異様であるほどには、この城は暗いようだった。だが、暗さ程度なんの問題にもならないのか、少しも怯むことなく将門は一歩を踏み出した。


 その足が地に着いた瞬間。将門は左に人の気配を感じた。まるで二人が鏡の間を出るまでは、巧妙に隠蔽していた様な、突然の気配を将門は察知する。


「誰だ」


 その気配にも特段驚く様子はなく、将門は糸恩の体を少し抱き込んだだけだった。その対応は、彼の英雄という強者としての、絶対の自信からくるものである。

 満身創痍(まんしんそうい)の糸恩には、左に人がいる気配を感じることも、その気配の主を見る事も叶わなかった。後者は将門の意図的な行動によるものではあるが、そうされなくてもまだ暗闇に目が慣れない糸恩には何も見えはしなかった。

 糸恩が感じられる事は、ただ将門が守ろうとしてくれているという事だけだった。その将門の意思を無駄にしないよう、糸恩は彼の胸元に頬を付けて、隠れるように顔を背けた。


「……お初にお目にかかります。我が国の太陽と剣たる、国王陛下と英雄様にご挨拶を申し上げます。(わたくし)は王宮で侍従として仕えさせて頂いております。アンナと申します。お二方のお出迎えのために参じました」


 気配の主であるアンナはコツリとヒールの音を立てて、糸恩と将門の方へと歩み寄る。そのまま頭を下げ、礼の姿勢を取り、将門の問いに答えた。

 将門が手にしっかりと力を入れ直したことで糸恩は彼が警戒しているのだとわかり、体が少し強張る。


「王の召喚から幾分も経っていない。今は夜だろう? 随分と早いね」


「本日の宿直でございます。この下のフロアで見回りの巡視をしておりました。召喚の知らせである、大鐘楼(だいしょうろう)が三度鳴りましたので馳せ参じた次第です」


 意識も朧げになりかけた糸恩には、二人の応酬(おうしゅう)の意味はほとんど理解できなかったが、将門がアンナを疑っている事と、アンナが疑われても至極冷静である事はわかった。

 何度か質問と返答を繰り返し、アンナの受け答えに満足したのか、将門は問いかけるのをやめた。背中の手から力が抜けたので、彼が警戒を解いたと糸恩の体からも少し力が抜ける。


「数刻以内には臣下の皆様方が集まられます」


「わかった。鏡の間は鐘楼の音が入らないからね、疑って申し訳ない。王の為に駆けつけてくれたことを感謝するよ」


 将門が警戒を解いた事で、話しても構わないと断じたのか、アンナは報告の為にそう告げる。どこまでも冷静な声はずっとぶれない。その静かな声に、糸恩は少しだけ安堵を覚えた。どうしてかはわからないが、声を荒げられる事は苦手だと感じた。

 しばしの沈黙の後、将門はアンナに向き直った。将門の体が動いたことで、糸恩も必然的にアンナと対面する事になる。将門の緊張に合わせて背けていた顔を、彼女の方に向き直すと、声と同じくらい冷静な雰囲気を纏う女性がそこにいた。

 藤色の長い髪に、肌は健康的で美しい褐色。侍従の服であろうか、黒いワンピースドレスと汚れひとつない白のエプロンを纏っていた。髪は後ろの高い位置できっちりと縛られている。

 彼女の山吹の瞳が糸恩の姿をみとめた瞬間、少しだけアンナの冷静な雰囲気が揺らいだ気がした。でもすぐに戻ってしまう。糸恩がそのままアンナと無感情に見つめ合っていると、将門が口を開く。


「早速で申し訳ないが、君に頼みがある。王の身を清める為の湯と、休める場所の準備を頼みたい」


「かしこまりました」


 将門がそう言うと、アンナはくるりと背を向ける。そして「こちらです」と声を掛け、歩き出した。糸恩は二、三度瞬きをして、その後ろ姿を見つめていた。


「我が君。すぐに着くから、もう少し我慢してね」


 将門の優しげな声が上から降ってくる。その声を追うように上を向くと、声と同じくらいにつとめて優しく微笑む彼の顔が見えた。

 なんて優しい顔をする人なのだろう。彼の微笑む顔は泣きたくなるくらい優しく見える。その声に応える事も報いる事も、今の糸恩には到底できそうにない。それがとても歯痒くて、もう麻痺して痛まなくなっていた傷が少し疼いた。

 もう少し我慢だなんて、それはこちらの台詞なのに。自分の薄汚れた姿に忌避(きひ)する事もなく抱き上げてくれた。鏡に跡を残すくらい血が出ていたのに、それを気にせずにずっと笑ってくれる。こんなに綺麗な服を汚してしまったのに、怒りもしない。そんな無条件の優しさが何故かわからなくて、糸恩は顔を歪めた。


「痛むかい……? すまない、もう少しだからね」


 その表情を将門は違う風に受け取ったのだろう。少し歩調が早くなったのを感じる。それでも少しも揺らしたりしないのだ。気を配ってくれているのが嫌でもわかる。

 違うのに違うと言えない、ありがとうも何も答えられない。その歯痒さに、糸恩は目頭が熱くなった。

 こんなに涙が出そうになるのはいつぶりだろうかと記憶を辿るが、何も思い出せない。

 それどころか酷く頭が痛んだ。割れそうなほどに痛い。()(がた)いその痛みに、糸恩は無意識に将門の服をギュッと掴んだ。


「我が君?」


 将門の物思わしげな声を最後に、糸恩の意識は途切れた。



加筆修正しての投稿なので、しばらくは連続で投稿致します。大体一日二、三話くらい。

ストックが尽きたら忘れられた頃に投稿くらいの頻度になります。

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