第1章 少女と最後の英雄〈1〉
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最後に幸福だと思ったのは、いつだっただろうか。
遠い日の思い出。自分と同じ真っ白な髪の父と、自分と同じ紫の瞳の母。
二人と手を繋いで、夕暮れの街を歩いた事。
両親の手の暖かさが糸恩の持つ、最後で唯一の幸福な思い出である。
その次に思い出すのは、電気の消えた真っ暗な部屋の記憶。カーテンがきっちりと閉じられ、窓も開いていないから、風で揺れて光が漏れ入る事もない、電気の消えた真っ暗な部屋。その部屋での糸恩の居場所は部屋の一番奥の隅だった。
同年代より幾分小さな身体の糸恩が、膝を抱えてやっと座れるだけのスペース。周りには食べ物のゴミや着古した衣服、酒の缶や瓶が転がっていて、足の踏み場なんてない。
小さな糸恩から見て遠くになる部屋の反対側には、もうずっと干していない薄汚れた布団が敷いてあり、そこは糸恩にとって一番怖い者の住処だった。
名前はもう思い出せない。顔も、今はあまり覚えていない。
けれど、とてもとても怖いもの。
雑に染められた金色の髪と、吐き気がするようなきつい香水を纏ったその怪物は、糸恩にとってかつて唯一すがる肉親であった。
糸恩はこの部屋から出る事を許されていない。
自分は外にいてはいけないもので、こんな格好で外にいると周りの人には迷惑でしかないと言われた。
そうなのだと納得する事ほか、糸恩は出来なかった。
お前は部屋の隅で丸まっていればいい。生きてなくてもいいし、別に死んでも困らない。
そう言われたから、糸恩はこの隅で丸まって、いつか死ぬ日が来るのなら、そうしてしまう事にした。それ以外に道があるとは思えなかった。
怪物は、毎日部屋にいるわけではなかった。
いつも暗い部屋だから日にちや時間なんてものはわからないが、糸恩が六回意識を落とす間に一度帰ってくるような時間だから、きっとそう長い時間ではないはずだ。
一人で帰ってきたときは、蹲って動かない糸恩に向かって、どこかで買ってきた安いパンと飲み物を投げてよこして、自分は安酒を浴びるように呑む。
空の缶が五つほど並ぶ頃には、前後不覚なほど酔って糸恩のところへ来て、ほとんど理解できない罵詈雑言を吐きながら殴って蹴った。
その時に食べかけの飲み物や食べ物も踏み潰されるから、糸恩はその残骸をいつも流し込んでいた。
殴られる事も蹴られる事も、珍しくはなかった。
はじめは痛くて辛くて悲しかったが、今はもう耐えれば過ぎる時間としか捉えられなかった。
はじめは殴らないでと泣き叫んだが、今はもう呻き声も出なくなっていた。
頭を守っても意味がないと思った頃から、お腹を両腕で抱えているのが一番安全だとわかるようになった。それが一番痛くないとわかるようになった。
糸恩には部屋の隅で丸まっている事と、お腹を抱えれば痛くない事と、自分はいつか死ぬことだけしか、わからなかった。
怪物が誰かを連れて帰って来る日が、糸恩にとって一番苦痛な時間だった。
怪物が連れ立って帰ってくる男は、みんな臭くて汚い人ばかりで、糸恩を見て何か面白いものを見つけたという顔をするものばかりだった。
誰かを連れ立って帰ってくると、怪物はまず糸恩の前に置き捨てられている汚い服を糸恩の上に被せる。何枚も、何十枚も。
それに逆らわないように体を倒して、糸恩は息を殺す。衣服の中では息ができなくなるから、少しだけ穴を作ってそこから小さく息をする。
それがいつも苦しかった。
そして怪物は、あの敷きっぱなしの布団に戻って、男に押し倒され、服を脱いで、あられも無い声を上げる。
糸恩にはそれが何をしていのかはわからなかった。
粘着質な何かの水音と、肌と肌が叩き合う音、荒い息遣い、衣摺れと嬌声。
その行為が何かは分からないが、それは糸恩にとって、とても恐ろしいものだった。
息を殺してその音がなくなるのを待つと、次に聞こえてくるのは恐らく怪物の大きな寝息と、よく知らない男の悪態。
そして糸恩の方へ近づいて来る足音がして、被せられた衣服を取り払われる。視界を開けると見えるのはいつも下卑た男の顔で、彼らはニヤニヤと笑いながら、一様に同じ行動をとる。
服を剥ぎ取られて、裸にされると痩せ細った糸恩の体には、堪らないほど寒かった。
男はひとしきり糸恩の体を撫で回して、舐め回して、満足するとよくわからない臭い液体を撒いて帰る。
寝ている怪物には目もくれず、明るい扉から出て行く男の背中を糸恩はもう何十回と見た。
ここから掬い上げてくれる人は、誰ひとりもいなかった。
怪物が起きると、服を剥かれ臭い液体にまみれて横たわる糸恩をすぐ見つける。
そうすると、怪物は決まって顔を赤くして怒り狂った。感情のままに糸恩の体を殴り飛ばし、蹴り飛ばし、汚いと罵って冷水をかけた。
そうなるのが恐ろしくて糸恩は男が帰るとすぐに服を着るように頑張ったが、どうしても体はうまく動かず、いつも見つかってしまう。そうしてまた殴られるの繰り返しだった。
これが糸恩に刷り込まれた、最後の記憶だった。
もうあの人の顔も、あの男の顔も、あの人の声も、あの男の声も、あの人の名前も、あの人が誰だったのかも、あの部屋の匂いも、あの部屋の景色も、あの時食べたパンの味も、あの時飲んだものの味も、あの時かけられた冷水の冷たさも、あの人から掛けられた暴言も、痛かった事も、苦しかった事も、悲しかった事も、辛かった事も、何もかも全て、思い出せない。
あの夕暮れの街も、父の白の髪も、母の薄紫色の瞳も、繋いだ手の感触も、暖かさも、全て消えていく。
端々から記憶が焼き消えていくようで、頭の中が燃えるように熱かった。
もう、何も、思い出せない。
わたしが幸福だったことって、なんだっただろうか。
──────幸福って、なんだっただろうか。