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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
18/20

第4章 湖の都の選帝侯〈4〉


    4


 糸恩がレオンハルトの言葉に頷いた時、扉の方から小さな物音が聞こえた。みんなが戻ってきたのか、と糸恩はそちらに目を向ける。

 握られていた手が離れて、レオンハルトもそちらを見たのを目の端で捉えた。膝はついたまま、まだ立ち上がる気配はない。

 扉から金糸の髪が見えて、ライオリアがバツの悪そうな顔をしながら中へ入ってきた。その顔も束の間ですぐにその眉間にシワが寄る。端正な顔にできるさざなみは、酷く不似合いに見えた。

 彼女以外の姿は見えない。将門が近くにいる感覚はするけれど、扉の先にいるのかまではよく分からなかった。ヒールの高い音を立てて、ライオリアが部屋の中へ入ってくる。眉間のシワはそのままに、とても呆れたような顔をしている。


「なぁに膝折っちゃってんですか。グロワール選帝侯様ともあろう方が、そんな簡単に跪いちゃいけませんよ」


 ため息混じりにライオリアが、そうレオンハルトに声を掛ける。糸恩には一瞥もなかった。意識して視線を向けないようにしているように見える。

 膝をついたままだったレオンハルトが立ち上がり、糸恩を隠すようにライオリアの前に立った。その姿を糸恩はただぼんやりと眺める。どうすればよいのか、自分はどうしていたらよいのか、指針を示してくれる将門がいないと今はどうにも体が動かなかった。

 先ほど口から滑るように流れた言葉は、何処かで堰き止められたように、きっともう出せない。

何かに蓋をされたような感覚だった。


「ライオリア。この子は……この方は」


「はいはい、わかってます。認めちゃったんでしょう、わかってますから。どれだけ一緒にいると思ってるんですか」


 動揺したように、譫言のようにライオリアの名を呼んで、何かを伝えようとするレオンハルトの言葉を、ライオリアがやれやれと遮る。

 眉間の皺を解いてため息をつき、どこか諦めたような、寂しそうな顔色で、ライオリアは笑っていた。その彼女の言葉に、レオンハルトの肩の力が少しだけ抜けたのが見えた。糸恩の背の高さからでは、彼の表情を伺う事はできない。

 ライオリアがヒールの音を鳴らして、また一歩近づいてくるのを感じた。レオンハルトの隣から顔を出した、彼女の海色の目が、やっと糸恩を捉えて見下ろす。

 ルシアンとよく似た、けれどもルシアンよりずっと鋭くて、燃えるように淡い色の瞳。その瞳を糸恩は紫の相貌で見つめ返す。扉からか窓からか吹き込んだ風が、真白の髪を揺らした。


「まぁ、こんなの見ちゃったら、認めるしかないですけどね」


 糸恩の前に座り込んだライオリアの、白の手袋をした手が糸恩の髪に伸びた。

 その手を恐ろしいものだとは思わなかった。彼女の表情が悲しそうで、寂しそうで、糸恩は目を逸らすことも身じろぎもせずに、ただ伸びる手を見ていた。

 けれども、その手が糸恩の髪に触れる事はなかった。音もなく、気配もなく、糸恩の隣に現れた紫黒の英雄の手によって阻まれたからである。


「王に触れる事は、まだ許可できないな」


 将門の心臓を凍らせるような硬い声が、糸恩の鼓膜を揺らした。隣を見ると先程のライオリアのように眉間に皺を寄せた将門が居て、右手はライオリアの腕を掴んで、左手は糸恩を守るように腰に回っていた。

 その様子や声音が、"何処か将門でない"ように見えて、糸恩は少しだけ体を強張らせた。それを無意識に隠そうとしたのか、ライオリアの方に目を向けると、彼女は面白そうなものを見るように笑っていた。

 出会った時と同じような交戦的な微笑みは、彼女に似合うが心地の良いものではない。その後ろにルシアンたちの姿も見えた。いつの間にかみんな戻ってきていたようだった。

 少し目線を上げるとレオンハルトの表情もやっと見える。その表情には動揺はないけれど、少しだけ焦りが浮かんでいるように見える。彼の表情は分かりずらいので、真意は定かではないが。

 ライオリアから乾いた笑い声が聞こえて、糸恩はそちらに視線を戻した。腰の将門の手の感触が強くなった気もしたが、そちらを見ることはどうしてかできなかった。


「君の番犬は警戒心がよほど強いみたいだね」


 乾いた声で笑うライオリアの表情を、糸恩は何も言えずに見つめ返した。糸恩の目から見ても、ギリリと音がするくらい強く握られているように見える腕はきっと痛いはずなのに、彼女が顔を歪めることは無い。

 表情が変わる事も、反応もない糸恩の様子に飽きたのか、呆れたのかライオリアは、それ以上何も言わず立ち上がった。将門の手はすぐに離されたが、おそらく痣にはなっているだろう。


「ライオリア、英雄殿にそのような言い方は」


「はいはい、分かってますって」


 レオンハルトがライオリアを窘めるが、彼女ははじめの時と同じように気にするそぶりもない。手をパタパタ振って、その美しい顔に喜色を浮かべたままでいる。本当に痛くも痒くもなさそうな仕草に、糸恩は反対に不安になった。きっと、痛くないはずはないのに、と。


「ライ、腕は?」


「平気よ、なんともない」


 またいつの間にか彼女の後ろまで来ていたルティが、無表情な顔のままで心配そうな声音で問いかけるが、ライオリアはそれにも笑って答えた。糸恩が思っているよりずっと、彼女は強い人なのだろう。

 悲しさも寂しさも微笑みに押し込んで、きっとライオリアもたくさんを失ってここに来たのだろう。

 ここには欠けた者だらけだ、と糸恩は思った。みんな何処か欠けていて、歪で、けれどもそれを置き捨てて生きている。一番欠けているのは糸恩自身だという確信はあるが、誰も彼も不幸に晒されていることには変わりなかった。

 ルシアがここにいたのなら、きっとまたそれを悟って、みんなの為にさめざめと泣くのだろう。

 泣く事も逃げる事もできない運命を悲しんで。

 みんなが部屋に戻ってきて、いつのまにかはじめと同じように囲われるように糸恩は椅子に座っていた。

先ほどと違うのは、レオンハルトが座るのでは無く立ったままで、椅子の位置が前になっている事くらいだ。

 戻ってきたリタとリアには、心配したよと声を上げながら抱きつかれた。「ごめんね」と声を掛けたが、それは違うらしく、二人は少し悲しそうにしていた。やはり誰かの心の機微を読み取るには、糸恩の中はまだ欠けすぎているらしい。

 しばらくの沈黙の後、レオンハルトが口を開いた。

その声音は先程のように震える事も、動揺もなく、凛とした(さま)は『選帝侯』の名に相応しいものだった。


「……陛下は、私の願いを聞き入れて下さった。私が、糸恩陛下に反発する理由はない。選帝侯として、誠心誠意お仕えさせて頂く。……この玉璽は陛下にお返ししよう、これだけではどうにもならないのが心苦しいが」


 レオンハルトが一歩歩み寄り、糸恩の小さな手をとり、その上に先ほど少しだけ見せてくれた小箱が乗せられる。

 金で縁取りされた、琥珀色の精緻な小箱。この中にリッツオルフの玉璽が入っていると言う。側面には金属の金具のようなものが一部分についていて、そこにも幾何学模様が描かれていた。鍵穴などは見当たらない。上下に開ける風ではあるが、開け方はわからない。

 糸恩がまじまじ小箱を見ていると、レオンハルトはくるりと糸恩に背を向けた。その動きを目で捉えて、糸恩は顔を上げる。白いマントが視界にひらめく。レオンハルトは凛とした声で告げた。


「グロワール選帝侯、レオンハルト・ヴァイスハイト及びグロワール選帝侯家臣下一同はこれより、糸恩陛下の麾下へと降る。異論は受け付けよう、ルティアス、ライオリア、二人は好きな道を選ぶといい」


 後ろで誰かが息を呑む音がした。誰のものかはわからないし、糸恩は首を回して確かめることもしなかった。

 きっとみんな、同じ顔をしている。レオンハルトの表情はわからなかった。けれども、ルティとライオリアの表情は見ることができた。

 ルティは無表情のままだけれど、少し微笑んでいるように見える。ライオリアは呆れたような顔をしていた。


「僕も親父達も、ネーバ領の民たちも、どこまでも貴方についていく覚悟です。貴方が行くなら共に」


 ルティがそう言って、右手を左胸に当てて恭しく礼をする。レオンハルトが頷いたのが見えた。顔を上げたルティの表情はどこか誇らしげだった。


「私も着いて行きますよ。愚弟の事も少しは心配だし、何より父が気に入らないのでね。ここにいた方が何かできそうだ」


 呆れたようなライオリアの声が次に響いた。この声にレオンハルトがまた頷くのが見えた。

 糸恩は左のルシアンの方を無意識に見上げた。彼の顔色はまた悪くなっていて、表情が目に見えて曇っていた。二人の間に何があるのか、糸恩には何もわからないがルシアンの曇った表情も、ライオリアの寂しげな微笑みも、どうにかしてあげたいと思う。

 その手立ては、まだきっと小さな子の手の中にはないけれど。

 糸恩が手の中の小箱と、小さな自分の手を見つめていると、いつのまにか傍らに跪いていた将門が声を掛けた。


「我が君、随分顔色が悪くなっている」


 気づいた時には頬の近くに伸びていた手を、糸恩は身じろぎせず受け入れる。少し震えていた温度のない手と、将門が安堵したように見えたのは、自分の気のせいだろうか。頬の手に擦り寄りながら、糸恩はそんなことを考えた。


「本当ですね。とても青い顔をしていらっしゃいます」


 アンナが駆け寄ってきて、首筋を触診しながらそう言った。いつも冷静なアンナの顔は、とても不安そうにしかめられている。

 その様子に糸恩はなぜかとても申し訳なくなった。自分で感じる限りはなんともないのだが、二人にそう言われるほど、目に見えて弱っているらしい。


「もう休んだ方がいい。選帝侯、すまないが話の続きはまた明日以降に」


「ああ、構わない。早く休ませて差し上げてほしい。……陛下、良い夢を」


「うん。おやすみ、なさい」


 将門に抱き上げられ、糸恩は部屋を後にする。おやすみの挨拶なんて、いつぶりだろうかと将門の肩口に頭を預けて独り言ちた。そんな事問いかけても、答えなんて判りはしないのに。

 良い夢をと言ったレオンハルトの顔が誰かと重なったように見えて、何故だか胸が締め付けられた。この感覚は知らないものだ。それを糸恩はひどく恐ろしく感じた。


「すまないが、ルシアン。私も席を外す。あとは任せて問題ないかい」


「ええ、問題ありません。ごゆっくりお休みを、陛下」


 将門がルシアンと二、三やり取りをして、部屋を足早に出る。後ろにアンナとリタとリアも付いて来てくれる。イグニスはルシアンと残ってくれるようだ。

 あの状態のルシアンを置いていくのは、心配だったが自分が助けになれるわけでもなければ、あの場にいて何ができるわけでもなく、枷になるだけだと糸恩は分かっていた。彼が宰相の仮面を被れば、なんとかやり過ごす事も理解していた。

 ルシアンは強い人だ。少なくとも今の糸恩よりはずっと。その強い彼を守るためには、自分も強くならなければならない。抱えられ支えられて生きているだけではいけないと、糸恩は確かに理解している。


「……ぅ、」


 鋭い痛みが頭の中心、目の裏のあたりを走って、糸恩は小さく声を上げた。抱き上げる将門の手が強張ったように感じた。

 思考がぐらつく。自分で思っていたより、自分の見立ては正しくないと糸恩は項垂れる。回廊を将門に抱えられて、先程来た道をそのままに足速に戻る。

 行きの道より確かに得たものはあったはずなのに、糸恩の心はどこかざわついていた。触れてはいけない扉に触れた様な感覚。あの感覚はなんだったのか、今は考えるだけでも思考が揺さぶられた。

 少し朦朧としてきた意識の中に、将門の声が滑り込んだ。それだけで少し思考が鮮明になる。彼の声は何にでも効く万能薬の様だ。


「我が君、また無理をさせてしまったね。君には謝っても、謝りきれないな」


 それに、と言葉を続けようとする将門の声を遮る様に、糸恩は掠れ声を上げた。彼の言葉を遮ることはあまりしたくないが、その言葉の先は聞きたくない様な気がしたのだ。将門が言いたくなかったのかもしれない。


「謝られることなんて、ない」


「……ありがとう」


 将門がふわりと微笑む。弧を描く三日月はとても美しい。夜闇に消える掠れた感謝の声は、糸恩だけの鼓膜を揺らして消えていった。



   ❁ ❁ ❁


 レオンハルトは部屋から出ていったか弱い王と、どこか暗い香りのする英雄の背中を見届けて、顔色の悪いルシアンへと向き直った。

 空気はひどく重苦しい。無理もない、とレオンハルトは自嘲する。本来あるべき風景はこれで、先程までが異質だったのだ。

 聖戦の王という新しい風に当てられて、自分も無意識に浮かれていた事に気が付いた。この重たく苦しく冷たい世界こそが、彼らのあるべき空間だった。


「君にはこれまで、多大な迷惑と大変な苦労をかけた。謝罪してもし尽くせない。けれど、どうか今だけは隣に並び立って王に仕える事を許してほしい」


「私は……」


 レオンハルトの言葉に、ルシアンが目を見開く。言葉を詰まらせて、一度押し黙った。眉根を寄せて、少し目と顔を伏せて、ルシアンは大きく息を吸った。

 顔を上げたルシアンの表情は、辣腕の宰相の凛としたそれだった。


「貴方様に謝罪して頂くことなど、何も。私は国を支える者の一人として、できる事をしただけです。そして、私はただ父の事を許せないだけの、ただの軟弱者です。……グロワール選帝侯、どうぞこれから王のため、リッツオルフ王国のため、お力をお貸しください」


 ルシアンがそう言って、例の姿勢を取る。イグニスもそれに続いた。

 レオンハルトはその姿にやるせなさを禁じ得ななかった。朋友の息子にこんな言葉を吐かせる自分が、身悶えるするほど情けない。けれどもその情けなさに向き合う事が、それだけが償いになる事は分かっていた。


「ライネスのことは、私も尽力する。……エルフェシアのことは、まだ私には語ることができない。不甲斐ない私と、君たちの父を許せとは言わない。遠くない未来に知る日が来るはずだ。勝手は承知している、ライオリアもルシアンもどうかそれを待っていて欲しい。この国は、必ず良い方向に動く」


 誠実な言葉を吐くことが、今できる全てだった。

 背後でライオリアの纏う空気が変わるのがわかった。鋭く剣呑で、冷えた気配。それはきっと果てしない怒りだ。

 ルシアンの表情は、ただ苦しそうなものだった。悲しさと怒りと、諦め。悲しくなるほどの諦観だった。

 彼らはどれだけ重い十字架を背負って生きて来たのだろうか。血縁という鎖に縛られた、外すことのできない枷は彼らの自由を尽く奪った。


「レオン様。私はあの男を、ライネスを許しはしないですよ。……母上を殺したあの男を、私は決して許さない。そして、何も話さないあなたの事も、きっと」


 ずっと側にいるのは、再びお前が道を間違った時に後ろから刺し殺すためだ。レオンハルトはライオリアの言葉の裏に、その殺意を感じた。

 レオンハルトを慕って麾下についたのも事実だが、それ以上にライオリアが彼の側にいるのは二度と過ちを許さないためである。死にたくなければ、選択を間違えるな。彼女はそう言っている。

 そして本当の父のことは、何もなくとも会えば殺してやるつもり。彼女はそういう苛烈な心臓を抱えている。


「ああ。それでいい、それが正しい」


 どうか許さないでくれ、とレオンハルトは祈った。それは正解ではなくても、正しいことであると信じている。近い未来、きっと来る真実が知れ渡る日を思って、レオンハルトはまた祈る。

 どうか、許さないでほしいと。


「王のための、話し合いをしましょう。今はそれが先決です。……全てはその後です」


 ルシアンの声に、その場の全員が頷く。明日になればここに王と英雄が加わるだろう。

 その場所できっと亡き彼女のことを口に出すことはない。王に背負わせることではない事は、誰もが理解していた。

 それでも願ってしまう。どうか、この暗く澱んだ過去を、王の力で切り開いてはくれないかと。

 夜は全てを押し留めたまま更けていく。

 どこかで、小鳥の羽ばたく音が聞こえた。



   ❁ ❁ ❁ 


 レオンハルト・フリーシオには忘れられない言葉がある。

 今は亡き最愛の義妹 エルフェシア・メルヒェン・アーヴェントリアの遺した言葉。彼女から受け取ったはずの、だから、の続きを彼はずっと探している。

 心を蝕むように痛く苦しかった記憶は、今はどこか恋しいものになっている。義妹と似通うものを持つあの王と歩めば、いつの日にか、彼女の言葉の先が見つかるような気がした。

 きっと、あの浜辺で隣にいた、頑固で愚直な朋友もそうであろうと願っている。


 故郷の湖の都から遠く離れた、北の果ての古城で息絶えた彼女と、彼女の傍にいた血濡れの友の姿と、何もできなかった情けない自分のあの日の無力さを、レオンハルトはいつまでも忘れない。

 いつか、真実が白日の元に晒される日まで、ずっと。



エブリスタからの転載に際して、人名を変更致しました。

キルフェーザ大公→グロワール大公

フリーシオ家→ヴァイスハイト家

もし変更ができていない箇所がありましたら、大変申し訳ございません。

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