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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
17/20

第4章 湖の都の選帝侯〈3〉


     3    


 二人以外誰もいなくなった部屋には、ただ静寂が流れた。執務机に隠されて、レオンハルトから見えない膝の上で糸恩はスカートの裾を握って、緊張を抑えた。こうするまで自分でも気がついていなかったけれど、自分は緊張しているらしかった。

 震えたり、胸が鳴ったり、強張ったり、体は忙しくそれを教えてくれていたけれど、糸恩の頭は変わらず馬鹿のままらしく、今になるまで理解ができなかった。

 けれども、糸恩はこの沈黙を居心地の悪いものとは感じなかった。目の前の選帝侯はきっと元々寡黙な方なのだろう。黙っていることは苦にならないようだ。

対する自分も会話はとてもじゃ無いが、(うま)くなんてない。だから、この静寂がずっと続くような気すらした。

 目だけは彼から逸らさなかった。彼も糸恩の事をジッと見ていて、ここで逸らすのはレオンハルトに対して良くない事だと思ったからだ。理由は、糸恩にはわからないけれど。

 壊れかけた壁掛けの時計がボーンと四回鳴った。明け方の四時になったらしい。壊れかけなので、正確かはわからない。部屋の外の世界は白み始めていた。

 永遠に続く気がした静寂は、かなり呆気なく終わりを告げた。ギギッと木の軋む音をたてて、レオンハルトが座っていた椅子から立ち上がる。


「……もう少し近くへ、遠いと話しづらいだろう」


「……はい」


 糸恩へ手を差し伸べるような仕草をして、彼はそう言った。その申し出に糸恩も応えようと頷き、そちらへ行くために椅子からズリズリとおしりを引きずって降りた。何とか着地をして、はたと自分の座っていた椅子を見た。

 その椅子はルシアンの執務用の椅子なのか、見るからに頑丈な作りで重そうだった。あちらへ行って話すのは構わないけれども、自分の足で立っていられる自信はとても無い。

 ならばこの椅子を持っていく他ないが、果たして持っていけるだろうか。とりあえず試してみようと、背もたれに手を掛けて引いてみるが、ビクともしなかった。どうしたものかと少しだけ俯いて考えて、どうしようもないので杖を頼りに立ったまま話をしようと、ジクリと痛む足で踵を返すと、そこにはこちらを同じような無表情で見る、レオンハルトが立っていた。

 いつから後ろで見ていたのか、糸恩にはまるでわからなかった。足音もしなかった気がする。


「怪我を、しているのか……かしなさい」


「?」


 レオンハルトは糸恩の隣をまで来て、椅子の背もたれを持つと片手で持ち上げた。糸恩の腕にはかなり重たかった椅子は、いとも容易く宙に浮いて、机の前へと運ばれていく。ありがとう、と小さな声で先にお礼を言って、糸恩も机に掴まりつつ、その後を追った。

 前をいく彼の顔は少しも見えなかったが、どこか先ほどより優しげな顔をしているような気がしたのが、糸恩には不思議だった。

 レオンハルトに椅子を置いてもらい、再び着席して、やっと王と選帝侯の話し合いが始まろうとしていた。足を前に伸ばしたら、うっかり当たってしまいそうな距離で糸恩とレオンハルトは相対する。

 また少し沈黙の静寂が訪れた。糸恩は何を言っていいかわからず何度も小さく首を傾げ、レオンハルトもレオンハルトで何かを言いあぐねるのを何度も繰り返している。

 先ほどの永遠に続きそうな静寂より、ずっと長くなりそうだった。糸恩は何度かまばたきをして、視線をレオンハルトの顔と自分の膝とを行き来させてから、深呼吸をした。

聞きたい事は、一つだけだけれど決まっていた。

 心に決めた言葉は見えない意図をたぐるように、するりと口からこぼれ落ちる。


「ひとつだけ、聞きたいことがあり、ます」


「……お聞きしよう。何だろうか」


 レオンハルトは何かを言おうとしては、閉じてを繰り返していた口を閉口して、糸恩の目をまた真っ直ぐに見た。

 糸恩の中で何かが繋がった気がした。それは思考の回路、あの赤錆て動かない歯車が回り出す時よりずっと鮮明な感覚だった。

 彼の目は糸恩の目に似ていた。きっと、彼も何かを失って、何かを探しているのだ。


「わたしが王様なのは、いやですか。わたしは全然王様らしくできない。これからもきっと、全部完璧になれない、から。でも、それでも、」


 嗄れかけて喘鳴も混じるような声で、糸恩はそう言った。

 糸恩にはレオンハルトが、自分がここに来るまでの間ずっと、この国を守ってきたことはしっかりと理解できていた。

 靄のかかるような、鈍い歯車が回らないようなそんな頭の中でも、自分の方がこの国に突然訪れた波紋である事は、しっかりと。

 だからこそ、この国をずっと見てきた彼が否というのなら、自分はこの国の王になるべき資格がないと言うこともわかっていた。

 けれども将門が望むのなら、自分は彼の願いを見つけて、叶えるために王にならなくてはならない。それが自分の唯一の存在意義だと、糸恩は思っていた。

 きっと、こんな事を将門に言うと悲しい顔をさせてしまうだろう。

 彼は糸恩が知る中で、誰よりも優しい人だから。将門は何を置いてもきっと、糸恩を一番に優先する。その次が周りの人たちで、国の人たちで、最後に来るのは絶対に彼自身なのだ。

 彼自身が自分を優先することは、きっと絶対にない。だからこそ、彼を一番に考える人が必要なのだ。

 糸恩には今彼に返せるものなど何もなくて、してやれる事も何一つない。唯一出来る事といえば、彼のことを考えることだ。何を置いても糸恩を優先する彼を、一番に考えること。それだけが、糸恩に今できる唯一。

 だから、レオンハルトが自分のことを王と認めても認めなくても。玉璽をくれても、くれなくても。糸恩は一縷の希望すらも潰えるその時まで、王であらなければならないのだ。

 だからこそ、それをまず初めに聞いておきたかった。それだけが、糸恩にとっての本題だった。けれど、一番伝えたかった「それでも、」の先は口に出すことができなかった。レオンハルトの指先が、糸恩の唇に触れて、言葉を遮ったからである。


「その先は聞きかねる」


「? どうして?」


「必要がないからだ」


 簡潔で要領を得ないレオンハルトの返答に、糸恩は首を傾げる。

 今までにもわからないことは多かった。けれども、糸恩に何かを教える彼らは言葉を尽くしてくれていた。それ故に、何とか断片を拾い集めて、意味を捉えることができたのだ。

 けれども、一言二言しか答えを返さないレオンハルトでは、断片を捉える事も難しい。今わかったことは、レオンハルトが話の続きを聞いてくれない事だけ。

その理由はわからないままだ。


「私は、君を否定するつもりはない」


 どうしたらよいか、答えが見つからず遂に俯いてしまった糸恩に、頭上からレオンハルトはそう声を掛けた。その言葉に糸恩はゆっくり顔を上げる。

 彼の顔はまだ凍りついた無表情のままで、先ほどと何ら変わりはない。怒っていると言えば怒っているように、何でもないと言えば何でもないように見える、どちらとも判断のつかない表情だ。察しの悪い糸恩には、その機微はわかるはずもなかった。

 糸恩は意図の掴めない、レオンハルトの顔をじっと見据え、次の言葉を待った。彼も彼で、何を言おうか思案している風にも、見えた。ピクリとも動かないので、憶測以下であるが。


「私は君を否定するために来たわけではない。その権利は私にはない。確認したい事と、あとは……君がどんな人なのか、知りたかっただけだ」


 レオンハルトの言いたいことの大枠は理解できたが、糸恩にはその先が掴みかねた。その彼の尋ねたいということに、どれだけの答えを自分が出せるだろうか。不安と疑念に圧されて、少しだけ小首を傾げて、彼の目を見据える。

 ほんの少しだけだが、顔つきが柔らかくなったように糸恩には見えた。言いたい事を言えて、少しほっとしたからだろうか。その仕草がやはりどこか自分と似ているようで、糸恩は少しだけ嬉しくなる。

 よくわからない心がじんわりと暖かくなる感覚は、繰り返すうちに「嬉しい」だと知った。また一つ何かが自分の中に増えていく感覚が、また嬉しかった。


「先に確認したいことから話す」


 ある種の決意のような声音で、レオンハルトは糸恩に向けてそう言った。けれどもすぐに話し出しはせず、どこか視線をちらつかせたり、ぎゅっと目を瞑ったりしている。糸恩はじっと彼を見据えて言葉を待った。

 何度か深呼吸を繰り返して、漸くレオンハルトは口を開く。


「……わたしが君に問いたいことは一つ。君は、この聖戦で戦乱を望むのか、否か。その一つだ」


「……戦うか、戦わないか、ということ?」


「概ね合っている。ただ、これはそうしなければならないかではなく、君の意志の問題だ。アルマティアは今、武力による聖戦の終結を望む王と、交渉による聖戦の終結を望む王とによって、ほぼ二つに分かれている。傍観している王も多くいるが、心情だけならば、皆決まっているだろう」


 それはあの正餐室で、ルシアンとイグニスから教わったことと重なる話。糸恩は心の底から、あの場で話を聞いておいて良かったと思った。

 文字も読めないし、言葉の意味も半分も理解できはしないけれど、何もないよりは付け焼き刃の知識でも貰っておいたことは、無駄ではなかったのだ。

 糸恩は少しだけ俯き、逡巡する。心の中で答えはもう決まっている。その答えを出すに値する理由もある。けれどもそれでいいのか、この答えは将門に聞かなくても、答えてもいいのか、それがつかえて言葉が詰まった。

 何においても将門より正しい人は、ここにはいないと糸恩は思っている。

 彼は正しい。それはこの世界にとってではなく、彼自身にとって、ひいては糸恩にとっての正しさだ。彼の正しさはきっとこの世界に添うものではないことを、核心ではなくても、漠然と感じていた。彼の正しさを信じる糸恩もまた、この世界の正しさには添っていない。

 将門ならここでどう答えるだろうか。考えてみても、彼に出せる答えなんて糸恩には出せはしなかった。

 自分の持つ答えで、選帝侯は納得するのだろうか。考えているだけで時間は刻々と過ぎていく。いつもより明晰で動きの良い頭の中でも、いくら考えても良い考えは浮かばない。

 ほとほと困り果てて、どうしようかと一度視線を持ち上げ、レオンハルトを見た。南の選帝侯の真摯な瞳は、じっと黙ってこちらを見ていた。

 彼はずっと糸恩の答えを待っている。その瞳は迷う糸恩をどこか見透かしていた。糸恩の迷いも戸惑いも、全て見透かした上で、どのような答えが返ってくるのか待っている、そんな瞳だ。

 糸恩がどんな事を考えて、どんな答えを返しても、彼の答えはもう決まっているのではないだろうか。そんな風にも感じた。

 もう一度目を伏せて、一度大きく息を吐いて、膝に乗せた手を強く握る。将門が握ってくれた手、その暖かさを思い出すだけで、少しだけ背中を押された。


「わたしは戦いたいとは、思わない」


「……そうか。理由は? あるのだろう」


「将門と、約束をしたから」


「英雄と約束?」


 糸恩は無表情を少し崩して怪訝な顔したレオンハルトに頷く。

 あの星の下のテラスで、将門と約束した事。

"生きることを諦めないこと"

 何も糸恩に望まなかった英雄が、一つだけ欲しがった約束。実を言えば、糸恩はこの聖戦で戦おうと戦うまいとどちらでも良かった。

 勝つことは多分大切なことだけれど、戦うことも戦わないことも、今の自分に選べることではないと分かっていたからだ。

 この世界の流れは自分を中心には流れていない。自分が流されていくだけのただの王の一人である事を、糸恩は分かっていた。

 分かっていて、それでも戦わないという意志を示すのは、将門との約束ゆえだ。彼との約束を守るのなら、自分は戦わない事を選ぶべきだと理由はなしに思った。自分に生きてほしいと言ってくれた英雄にも、糸恩は戦わず傷つかず、生きて欲しかった。

 なら自分は彼を傷つけるような答えを出すべきではない。それが何かを望む意志もないはずの糸恩に、たった今、一つぽつりと浮かんだ望みだった。


「将門と約束をしました。生きて欲しいと、言われました。わたしは、将門にも誰にも、死んでほしくない。戦うことになったら、それはきっとむずかしい。だからわたしは、戦いたいとは思わない」


「そう、か」


 レオンハルトは糸恩の答えにそう頷き、呟いただけで黙り込んだ。どこか安心したような、そんな声に糸恩には聞こえたけれど、彼の顔はまた固い無表情に戻っていて、どう思っているのかはわからなかった。

 糸恩も無表情のままに、また俯く。先ほどまで居心地の良かった沈黙の空間は、少し居心地が悪くなっていた。

 しばらく沈黙が続いて、糸恩がもう一度目線を上げると、レオンハルトがこちらを見ていた。また真っ直ぐな青い瞳と視線がかち合う。少し見据え合っていると、レオンハルトが口を開いた。


「君の答えはわかった。次の話をしようか」


「……はい」


 今までより幾ばくか柔らかな声でそう言った。レオンハルトの雰囲気が変わったことは、鈍感な糸恩でもわかった。

 次の話をしようと口にした割には、レオンハルトは次の言葉をすぐには発さなかった。その間もじっと黙って彼を見ている。

 また永遠にも思える沈黙が、二人の間に降りた。まるで天蓋の中にいるように、シンと静けさだけが過ぎる。もう夜明けも近いのに、世界は夜の静寂そのものだった。

 やがて、夜の帳が開けるようにレオンハルトが開口する。彼が糸恩を見つめ返した瞳は、どこか先ほどまでと違って、柔らかく優しいものだった。


「どうしてだろうか、君を見ていると穏やかな気分になれる。そういう力が君にあるのかもしれない。私は未だに未婚だが、もし娘がいたのなら、こんな気持ちを知れたのかもしれないな」


 二言三言、レオンハルトは取り止めのない事を呟いて、またもう一度黙りこくる。

 糸恩には今の彼の意図が全く掴めなかった。今までだって何か意図を掴めていたかと言えば、そうではないが、先ほどまでと違い何が言いたいのか、その断片すらも理解できなかった。

 きっとレオンハルト自身もそうなのだろう。自分の意図を掴みかねている。だから取り留めなく話しては黙りこくるのだ。


「先ほどあの英雄殿には、王を見極めにきたと私は言った。その言葉に偽りは特にない。含む意味は、英雄殿とは少し違うが」


「違う?」


 迷っている様子のレオンハルトを急かすことも何もできず、曖昧に頷くばかりだった糸恩が、ひとつだけ鸚鵡返しに問いかけた。

 けれどもレオンハルトは、緩やかに頷くだけで答えをくれはしない。先ほどの将門の問いかけのことを言っているのだろうことは糸恩にもわかったが、違うと言ったレオンハルトの言葉の意味は理解できなかった。


「正直な話をすると、私はとても臆病者だ」


「おくびょう?」


「ああ、ここへ来たのも臆病者だったからこそなのだ。異世界からくるという聖戦の王が、どのような者なのか、それが恐ろしくて確かめに来た。言葉だけ聞けば勇敢に思えるやもしれない。けれども、違う。恐ろしくて、知らなければ逃げ方もわからないから、確かめに来た。それだけだ」


 話の切れ目もなく唐突にレオンハルトが話し始める。糸恩はまた一言を問い返す事しかできなかった。

 こうして糸恩自身のことを考えてではなく話をしてくる者に会って、糸恩はどれだけ今まで会話をして来た彼らが心を砕いてくれて来たかを痛感した。

 彼らはこちらの現実を突きつけながらも、糸恩を混乱や不安から救ってくれていたのだ。手を差し伸べられてばかりの自分が嫌になると同時に、優しさが溢れて涙が溢れそうになる。けれども、目の前の選帝侯(かれ)の前で泣くわけにはいかない。

 泣いては、いけない。それはしてはいけないことだと、理解している。彼の前で泣くことは、王としての自分の弱みをそのまま見せることだ。

 泣くだけで解決する事は決してないと、糸恩は何故だか知っている。きっと、どこかで感じた事だけれど、それを思い出す事はできない。糸恩は下唇を噛んで、目の奥と鼻の奥からくる痛みを知らないふりをした。

 その間にもレオンハルトの話は進んでいく。それはもう、目まぐるしく。


「本当はあの最上階の小部屋から、どんな怪物が出てくるのか、とても恐ろしかった。異世界から呼び出される王だ。傑物か怪物でしかない」


「そうなの……?」


 糸恩は掠れた声でそう言うレオンハルトを見て、首を傾げる。自分自身、他の王には会ったことがないし、傑物や怪物というものがどういうものがさっぱりわからないが、それが自分に当てはまらないようなことであるのは何となくはわかる。

 糸恩は自分が「すごいもの」ではない、その確信だけはある。将門を一番近くで見ているからこそだろうか。一番高い基準が彼であるから、それを超える者の想像は、今は少しもつかなかった。


「いや、君を見れば確信ができる。王はみな傑物だ。けれど、見ないままではわからなかったろう。……私は臆病者だ。だからこそ、この国はこうなった」


 レオンハルトが拳を強く握り締める。ぎりりと音がして、きっと爪が食いこんで傷ができているだろう。

 糸恩は握りしめるのをやめさせようとしたが、手も届かなければ、レオンハルトの剣幕に言葉をかけることもできず、少し項垂れて終わった。


「私はかつての友と、敵対するのが恐ろしくて避け続けた。知りたいことを知ってしまうのが怖くて、逃げ続けた。その結果がこれだ。君には、いや、陛下には本当にすまないと思っている」


 懺悔するように悲痛に絞り出される声に、糸恩は胸が苦しくなる。彼がここまで自分を卑下することがあるだろうか。すまないと謝ることが、国の有様を恥じる必要が、彼だけにあるだろうか。

 糸恩には彼が今までどうやって生きてきたかは、一つもわからない。けれども、今ここで話している彼は、それがたとえ自らであろうとも卑下していい人物だとは思えなかった。

 目の前の彼を救う言葉が、手を差し伸べる言葉が糸恩にはわからない。将門なら何というだろうか。彼なら何と声をかけて、微笑むだろうか。

 「彼なら」と考えると、言葉が少しずつ湧き上がってくる。凍りついた心と渇いた喉が熱くなって、吐き出さずにはいられなくなる。


「あなたの、やってきた事は、よくなかったかもしれない。わたしには、それがどうだかはわからない。けれど、あなたは今日ここにきた。何かをした人が、何もしてない人より悪いことなんて、ない、と思う。だから、きっと、あなたが自分に怒るほど、悲しむほど、あなただけが悪いわけじゃない」


 レオンハルトの息を呑む音が、鼓膜に鮮明に聞こえた。彼は先ほどまで少しも動かなかった表情を、後悔と不安だけが巻きついて凝り固まっていた表情を歪ませて、まるで泣き出す寸前の赤子のようだった。

 糸恩を見ているようで、それでいてどこか遠くを見ている。遠くの誰かを糸恩を透かして見ている。

 その悼むような表情に糸恩はまた胸が苦しくなった。けれども、溢れ出した言葉は止めどなく溢れて、あの時の涙ようにほたほたと落ちていく。

 枯れた声で糸恩は、止めどなく自分の内側から溢れる英雄の言葉をレオンハルトに差し出した。


「むずかしいこと、わたしにはまだわからない。けれど、きっとみんな他に行くところが見えなくて、ここにきてしまっただけ。なら、きっと、」


「やり直せると、思うのか。この国の有様を、貴方の置かれた立場を知っても、この先に歩く道があると言うのか」


 糸恩の言いかけた言葉を継ぐように、レオンハルトは捲し立てる。自分の考えをまるきり読まれているようで、糸恩は少しむず痒くなった。

 耳に熱が篭るのがありありとわかる。今まで冷えていた手足も、熱を持っている。この感情はなんだろうか、ルシアならわかるだろうか。

 糸恩はレオンハルトの方に視線を向ける。いまだ彼は泣き出しそうな苦しげな顔をしていて、今まで堰き止めていた何かが溢れ出しそうな、そんな風だった。


「ある、とわたしはいえない。叶えてあげる力もない。でも、将門もみんなも、まだ諦めてないから。きっと、……レオンハルトも、そうでしょう? だから、わたしもみんなが諦めないなら、その先を信じる。わたしも諦めない」


 糸恩には諦めないことしかできない。

 この手はあまりに小さく、この体はあまりに脆く、少し小突けば崩れてしまうほど、脆弱だ。だからここに折れずに立ち続けて、ただ諦めないことしかできない。

 支えてくれる彼らのため、最後の一人になっても、あるいは将門を送り出す役目がくるまで、諦めず立ち続けることしかできない。手を伸ばしても届かないものに、無理に手を伸ばしたりできるほど自分は強くない。だから支えてくれる誰かのために、折れず立っている事しかできない。

 これが糸恩も自覚していない、彼女の魂に刻まれた王としての矜持である。将門を信じ、臣下たちを信じ、未だ敵やも味方やも知れない選帝侯すら信じる。ただ信じ、諦めず、だが傀儡にもならず立ち続ける。

 それがどれだけ難しいことか、糸恩は知らない。

 だが、その矜持がどれだけの覚悟を強いるのか、レオンハルトは知っている。糸恩が無自覚に持つその矜持こそが、なによりも少女を王たりうる者としているか。

 きっと糸恩だけがそれを知らない。

 レオンハルトはあまりに脆弱でひどく弱りきった、この国の新しい王をじっと見た。

 きっとこの無垢な少女は、混迷するこの国を良い方へ導いてくれるだろう。それを自分が支えられたなら、どれだけ幸せだろうか。

 その隣に仏頂面の旧友の姿があったなら、どれほどの幸福だろうか。簡単には訪れはしない幸福を夢想させてしまうほど、少女の光はレオンハルトには眩しいものだった。

 糸恩のように信念を持つことができたなら、どれだけ良いだろう。こんなにも眩しく見えるのはきっと、自分から遠く離れたものであるからだと、レオンハルトは独言(ひとりごち)る。


「私も、それを支える一人になれるだろうか」


 微かな音で紡がれた、彼の願いを糸恩は確かに拾った。悲痛な瞳は変わらず、疲れ倦みきった表情も少しも変わらない。

 けれども、その声音は少しの希望を孕んでいた。レオンハルトの手は硬く結ばれていて、祈るように合わされた両の手は、力の入れすぎで白くなっていた。

今にも傷になって血が出てしまいそうなほどに、硬く結ばれた手。

 その手が、揺れる声音が、悲痛な瞳が、彼の真意を熱意を、失意を表しているようだった。


「この国に惨状を招いた者である私が、虫のいい話だが。貴方の道行きを支える一人になれるなら、私はきっといつか、胸を張れる日がくる気がする」


 レオンハルトが顔を上げ、糸恩を見据えて、そう告げる。

 彼の空の色のような碧眼が、儚く揺れていた。糸恩は咄嗟に長くもない手を伸ばして、硬く結ばれた彼の手にそっと添える。無理に手を伸ばしたせいで、椅子から滑り落ちてしまった。

 覚束ない震える足で、それでも立って糸恩はレオンハルトの手を握る。

 今伝えなくては、きっと彼は消えてしまう。自分の中の何かが、誰かが、きっと心が、そう叫んでいる。

 糸恩にはそのあるかもわからない心に従うことしか、今はできない。


「わたしはあなたに側にいてほしい。わたしに返せるもの、今は、何もないけれど、きっといつかあなたに返せるようにがんばるから、だからここに居て欲しい、」


 最後の一言、「居なくならないで」はレオンハルトの肩口に消えた。背中に手を添えられて、上向きにぐっと引き寄せられる。

 抱き締めているというよりは、抱え上げられているのに近かった。それもゆっくりと降下して、レオンハルトは膝をつくような体勢になる。

 糸恩の身体中に纏った包帯の上から、傷の上にも彼の手が触れる感触がしたけれど、不思議と痛くは無かった。

 レオンハルトの力はそこまで強くなく、糸恩の弱い腕でも押し返そうとすれば、簡単に抜けられるくらいの力。彼の気遣いと、未だ抱えた迷いが滲み出ているようだった。

 今日は抱き締めたり抱き締められたりが多い日だと、部屋でリアにされた時と同じような事を考える。こんなことが頭にちらつくくらいには、糸恩は自分が落ち着いているのだと理解した。

 リアの時もそうだった。あの時もリアの方が取り乱していたから、自分は冷静になれたのだろう。

 今もレオンハルトのことを考えているから、少しだけ冷静になれる。誰かのことを考えている時の自分だけが、少しだけ自分のことを考えている自分よりも冷静なのだと、糸恩はただそう漠然と捉えた。

 レオンハルトの肩は、小さく震えていた。痛くはないけれど、胸の奥が熱くて少し軋むような感覚は、はじめてだった。この感情は何というのだろうか。尋ねる人も答える人も、今はここにはいない。

 糸恩は胸の感覚を抑えるように、体が許すままにレオンハルトの背中に手を伸ばした。彼の肩から流れる柔らかいマントに、指を滑らせて、小さくて薄い掌でそっと背を撫でつける。

 リアにするようなことをしても、レオンハルトに効果があるかはわからないけれど、こうする以外に糸恩にはどうすれば良いかわからなかった。


 糸恩の小さな肩に額を押し付け、レオンハルトは零れそうになる嗚咽を呑む。他人がこうも似るものなのだろうか、と心の中にぐるぐると、熱くて重いものが巡った。

 それを呑み下さなければ、年甲斐もなく泣きだしてしまいそうだった。彼女の言葉は、自分の心をこうも揺さぶる。まるで今は亡き義妹と話しているようだった。純真無垢なようでいて、聡く賢い。

 糸恩と、義妹──エルフェシアはよく似ている。姿形ではなく、心や在り方がよく似ている。

 レオンハルトはあの日から少しずつ取り零し続けていたものが、少しだけ取り戻せたような気がした。忘れてしまった彼女の言葉が、「だから」の続きが少しだけ聞こえたような気がした。

 いつまでもこうしてはいられないと、ゆっくりとレオンハルトは顔をあげる。そのままの所作で少しだけ体を離して、糸恩の両の手を優しく握り締めた。


「言ってくれないか、王よ。貴方は私に何を望むのか。私はそれに従おう。私が、私を取り戻すために」


 レオンハルトの悲痛でけれども、どこか希望を孕んだその願いに、糸恩は頷くしか無かった。彼に返せる言葉は、してやれる事は、今は一つしかない。

 王であるが故なのだろうか。自覚も資格もまだない王でも、心の奥底に刻まれた王としての血が糸恩の喉を、体を奮わせる。


「わたしは、あなたに、そばにいてほしい」


 レオンハルトは息を呑んだ。そこには神聖なまでの王の姿があった。糸恩の淡い朝焼けの瞳は凪いだ水面のようなままで、こちらを見ていた。

 少女の瞳には少しの揺らぎもない。けれども、淡い瞳に溶けるように広がる虹彩が、ガラスが散らばるようにキラキラと煌めいていた。まるで意志を持って動くように、炎のように揺らめいて、瞳の奥へ沈んで消えていく。

 それを静かに繰り返している。夢なのではないかと思うほど、溶けて消えてを繰り返す、波のような美しい煌めきから、レオンハルトは目を離せなかった。

 暫く見つめ合っていると、糸恩の表情が不安げに歪められる。それと同時に収束する様に、煌めきも少女の奥底へ沈んでいく。まるで、今はまだ全てを表す時ではないと、レオンハルトに伝えるように。

 煌めきの鎮まった目の前の少女は応えないレオハルトに、どうすればいいのかわからないと言う表情で、居心地悪げに見つめ返していた。



「……わかった。いつか命果てる時まで、貴方の側で力を尽くすと誓おう」


 貴方、と言葉を紡いだ時、レオンハルトの吐息混じりの声が震えた。自らは目の前の年若い王に誓ったはずなのに、脳裏に亡き義妹が焼き付いて離れない。凍り付いた心に酷く熱いものが駆け巡るのを感じる。体の中で暴れ出すそれは、久しく忘れていたもののように感じた。

 あの夕暮れの浜辺の波の音がする。記憶が溶けていく様だ。今まではひどく息苦しいものだったそれは、今はただ心地よいものになっていた。

 糸恩はレオンハルトの言葉に小さく頷く。重い誓いも切実な願いも、糸恩にはとても背負い切れるものではないかもしれないが、それを背負うことが自身にできる唯一だった。

 壊れかけの壁掛け時計がボーンと五回鳴った。いつのまにか夜は明けて、外は光に包まれていた。

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