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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
16/20

第4章 湖の都の選帝侯〈2〉


       2


「お待たせ致しました。陛下のご準備が整いました」


「ああ……ご苦労様。我が君、それでは行こうか」


 将門の言葉に糸恩は小さく頷いた。アンナが部屋に来てから、ものの数分。

 その数分で着替えと髪を整える事と、顔色を隠すのだと説明しながら薄化粧も施された。お待たせ致しました、とアンナは言ったけれど、将門もほんの少しくらいしか待っていないと思う。それほど、アンナの仕事は早かった。

 糸恩が寝間着に着ていた白のネグリジェは、昼のものと似たような紺地のワンピース・ドレスに着せ替えられ、髪は昼と同じく三つ編みに編まれて背中でぶら下がっている。昼と全く違うのは、今はステッキなしで将門に抱えられて、目的地に向かっている事ぐらいだ。

 夜の回廊はアンナの準備の早さに間に合わなかったのか、蝋燭が疎らにしか付いておらず、かなり暗い。けれども、将門もアンナも道を間違えることもなく、まるで昼間と同じかのようにいつも通りに歩いている。

 リアとリタは時たまぶつかって、お互いに「いたっ」と漏らしていたが、すぐに目が慣れるのかその声も次第にしなくなった。回廊には静かに靴音だけが響く。

 糸恩には区別がつかないが、ルシアがいた回廊とはここはきっと別物のような気がした。彼女のいた場所はもっと月明かりが差し込む場所で、蝋燭の灯りに頼らなくても、目を凝らさなくてもルシアの姿は見えたからだ。

 コツリコツリと、歩く誰かのヒールの音が響く。この音には糸恩はどこか聞き覚えがあったが、今はよく思い出せなかった。


 階段を何度か下り、少し歩くと光の漏れた部屋が見えた。漏れている、というよりはどう見ても扉が無くなっていた。

 あたりに木屑が散っているので、おそらくは元々扉が付いていたのだろうが、今は見る影もない。


「うわわ、なにこれ」


「何があったのでしょうか……」


 あまりの有様に思わず立ち止まり、リタとリアがそう漏らした。将門とアンナは何となくわかっていたような顔を浮かべ、ただ合わせて立ち止まっている。

 扉の中から、夜にしては大きく、けれども密やかな話し声を糸恩は聞いた。ルシアンとイグニスの声と、後は聞いたことのない声がいくつか。正確には糸恩の耳では聞き取ることは叶わない。


「何があったかは、行けばわかるよ」


 将門がそう言って微笑み、歩き出そうとする。その彼の首元を糸恩は慌てて、少しだけ引いた。このまま抱っこされた状態で会いに行くのは、どうなのかと考えたのだ。

 将門なら平気だと思うが、何かあったときに腕が使えない状態では困るのではないかと。


「歩く、おろして」


「私は構わないが……平気かい?」


「うん、平気」


 バルコニーで冷えた足はまだ冷たいままだが、感覚はちゃんとある。傷も痛み止めの効果は切れていると思うが、そこまで痛まなかった。

 アンナが障らないような服を選んでくれたおかげだろうか。


「将門様。いざとなれば陛下のお体は私がお支えします。天使様方も侍っておられますので」


 アンナが後ろからそう声を掛けると、何かまだ不服なのか渋々といった様子で将門は、糸恩を下におろした。ありがとう、と呟くと、小さく微笑みが返ってきた。怒っているわけではないようで、糸恩は無意識に安堵の息を漏らした。


「行こう」


 糸恩の呟きと同時に、もう一度歩き出す。冷えて、震えて、心許ない足を奮い立たせるように、糸恩は浅い息をした。

 扉の付近まで来ると、話し声はかなり聞こえるようになった。けれども気配もわからない糸恩には、人数まではわからなかった。

 将門が一歩下がり、アンナが前に出る。糸恩の細い両の腕に、リタとリアが支えるように手を添えてくれた。二人の手から大丈夫、怖がらないで、と、温もりと一緒に伝わってきた。足の震えは少しだけだが、おさまってきた。


「宰相閣下。国王陛下付き一等王宮侍従のアンナでございます。糸恩陛下がお付きになられました」


 扉自体がないので、扉の枠を何度か叩き、部屋の中に来訪を告げる。アンナがそう告げると、中からガタリと椅子が倒れたような音がする。

 驚いて中を覗き込もうとするが、将門の背に隠されて見ることはできなかった。


「お、お入り頂いて下さい」


 どこか緊張したような固い、ルシアンの声が糸恩の耳に届く。その声と同時に、将門が一度こちらを見てから中へ進み出た。

 中にはルシアンとイグニスと、糸恩の知らない者が何人かいた。将門の顔を見上げるが、珍しく難しい顔をしている彼も面識があるようではなかった。

 顔と名前を知らないものは三人、この中の誰かがアンナの言っていたグロワールの大公、ヴァイスハイト選帝侯なのだろう。

 糸恩は将門の影からじっとその三人を見つめる。

 一人は恐らく糸恩がこの国で会った誰より年かさであろう男性。印象で言うなら、エイブラハムと同じくらいだろうか。透けるような白にも似た金髪は肩口で切り揃えられ、瞳は空の色に似た青い色味をしている。

 もう一人はルシアンやイグニスと同じような年の男性。この男性も金髪だが先ほどの男性やルシアンとは違って、淡い色合いの木漏れ日に似た色をしている。新緑の緑瞳も、リタとリアの瞳より淡い色をしている。

 最後の一人はルシアンによく似た面差しの女性。容姿も髪の色も目の色も、よく似ているのに、纏う雰囲気が糸恩にはルシアンより寒々しく感じた。

 皆一様に値踏みをするように糸恩を見ていて、おさまった足の震えが戻ってくるようだった。


「陛下、こちらへ」


 アンナに誘導されるがままに、糸恩はルシアンとイグニスのいる部屋の奥まで歩いて進む。リタとリアが支えてくれているおかげか、倒れる事はなかった。

 奥へ着くと、ルシアンに譲られる形で糸恩は椅子に座らされた。

 右側にリタとリアとアンナが、左側にルシアンとイグニス、真後ろに将門が控えて、まるで守る様にシオンを囲み立つ。

 ルシアンの執務机を隔てた先には、おそらく選帝侯なのであろう男性が座り、その横には各々槍を携えた男女がこちらも選帝侯を守るように立っている。

 睨めつける様な視線に耐えかねて、下を向こうとしたときに、後ろから将門の凛とした声が響いた。

 糸恩は小さく息を漏らして、顔を前に向き直した。変わらずの指す様な視線に、胸はドキドキと高鳴る。表情はピクリとも動かないけれど、体は強張って、緊張しているようだった。


「お待たせして、申し訳ない。……こちらがこの国、リッツオルフ王国に召喚されし聖戦の王、糸恩国王陛下だ。そして、私は陛下の命により降臨したこの国の英雄を務める、平将門という。以後よしなに」


 将門の声はいつになく硬く、けれども緊張とは違う硬さを帯びていた。剣呑といえば一番近いだろうか。それは、選帝侯側からの糸恩への視線と、比例する様だった。

 将門の手が糸恩の肩に置かれる。まるでその手から安心が流れ込んでくる様に、少しだけ震えと胸の高鳴りは治まっていった。

 将門の声の余韻が消えると同時に、あちら側からフッと嘲笑が聞こえた。それを向けてきたのは、左側にいた女性のようだった。

 ルシアンによく似た、けれども彼よりずっと冷ややかな瞳の女性。彼女の瞳は先ほどよりも、怜悧さと剣呑さをました様に糸恩には思えた。


「陛下、ねぇ……。まだ戴冠も終えていないのだから、そうお呼びするのは少しおかしく感じてしまうのは私だけでしょうか? ねぇ、レオンハルト様?」


 体面上はニコリと微笑みで見せたが、その女性はいかにも刺のある声でそう言い放った。問い掛ける形で終えられた言葉に、真ん中で黙したまま座っていた選帝侯が、溜め息に近い息を吐く。


「ルティ」


「は」


 選帝侯が一声右側の男性──ルティに声を掛けると、彼の三叉槍が銀の光を真一文に残して閃き、槍の先の恐らく斬れないのであろう部分が、女性の後頭部を見事に殴打した。

 急なことで対応できなかったのか、女性は二、三歩前によろめく。かなり大きな音がしたが、糸恩の目には血は見えなかったので傷にはなっていない様である。

 よろめいた後に後頭部を抱えながら、蹲っているので全く無事とは勿論言えないが。「くおぉぅ」と痛みに耐えるような、変な声を漏らしていて、とても痛そうだ。

 これはこの場の選帝侯とルティ以外のものにも予測できなかったことなのか、各々目を見開いたり、あんぐりと口を開けて驚いている者もいた。表情に出ているのは、主にリタだけであるが。


「私の配下が無礼な口を聞いた。謝罪しよう。これは賢いが少々他者に厳しすぎる面がある。許してやってくれるとありがたい」


 選帝侯が糸恩の目を見て、抑揚のない声でそう言った。まるで人形が話している様な一定のリズム。表情も糸恩と負けず劣らずの無表情だ。

 彼がそう声をかけたあと、なんと返したものかと将門を見上げると、彼は幾分硬さのとれたけれどもまだ厳しい顔つきで糸恩の目を見て頷くだけだった。

 今は糸恩の好きに返してもいい様だ。


「気にしてない、です。わたしはなんにも」


「寛大なお心に感謝する。……ライオリア、聖戦の王と会って気が昂るのは構わんが、場と状況と立場と慎みを弁えた言動をしなさい」


 選帝侯が横に蹲る女性──ライオリアにそう声を掛けると、彼女は綺麗な碧玉の瞳に薄っすら涙を溜めながら顔を持ち上げた。

 一度先ほどの剣呑さとは違う、どんよりした様な表情で糸恩を見た後に立ち上がり、右側の二人に抗議の声を上げる。


「いたた、酷いじゃないですか、ルティもレオン様も! 二人がまるで死んだような顔してるから私が代わりに代弁したんでしょう」


「代弁になってないし、僕もレオンハルト様も別に死んだような顔なんてしていないし。それと、淑女の仮面また外れてるよ、さっきはうまく被ってたのに」


「でも、思った事は事実でしょう。あと顔は死んでる。それは確実」


 ルティとライオリアの口喧嘩にもなっていない応酬とそれを全く動かない表情で慣れたように静観する選帝侯──レオンハルトを、糸恩はただ見ている事しかできなかった。横に立っている面々も同じようで、誰も口を挟むことはしなかった。

 目の前で起こることに驚きすぎていて、できなかったと言ったほうが正しい。


「その、ライオリア様とルティアス様。話が進まないので、一度止めて頂いてよろしいでしょうか……? 陛下……糸恩様もお待ちですので」


 まだその応酬に耐性がある方だったのか、いち早く思考回路を復旧させたルシアンが、二人に声を掛ける。きっと彼がいなかったら、止める者のいない二人の口喧嘩もどきは果てしなく続いていただろう。あの将門だって、黙ってみているくらいなのだから。

 そういえば、と彼が黙っている事が気になり、ふと、将門の様子を見るために目線を上げると、彼は呆気にとられている風でもなく、ただ静かな目で静観しているだけだった。

 態度としてはおそらくレオンハルトに似ている。

 糸恩の目には外面(がいめん)しかわからないが、二人は似たような構えで静観しているのは確かだった。どこか遠くから俯瞰しているような、そんなふうに見える。また少しだけ厳しさの取れた瞳は、静かに凪いだような光を落としている。


「コホン、糸恩陛下。改めて紹介させて頂きます。こちらが……」


「この国の南を預かっている、グロワール大公ヴァイスハイト家の現当主、レオンハルト・ヴァイスハイトという。この場にはこの国の選帝侯として来た。この二人は私の配下だ」


「リッツオルフ最南部の領地を預かる、ネーバ辺境伯家の ルティアス・ネーバです」


「ヴァイスハイト家食客のライオリア・メルヒェン=アーヴェントリアと申します。以後お見知りおきを」


 ちらりと視線を向けたルシアンの言葉を継ぐように、レオンハルトたちが名を名乗る。ルティは気怠そうな声のままだが、ライオリアはもう一度淑女の仮面をしっかりと被り直したのか、少し丁寧な口調になっていた。スカートは履いていないので、マントを少し摘んでお辞儀の真似事までしている。物言いはさておき、仕草はこの上なく優雅だった。

 糸恩はルシアンたちと会った時のように、口の中で彼らの名前を反芻して覚え込む。反芻している内に、最後のライオリアの名前で一つ引っかかりがあった。

 それを思わず、こぼれ落ちる様に口に出す。


「ルシアンと、同じ?」


「……ええ、ライオリア様は私の実の姉にあたります」


 ルシアンが少し目を伏せながら、呟くような小さな声でそう言う。その表情がアーヴェントリアの選帝侯の話をする時の表情と少し重なって、これは触れてはいけない場所だと糸恩は判断する。

 将門も同じようなのか、彼もそれ以上を聞かなかった。リタとリアは少し何か騒いでいたけれど、それも小さな声ですぐに収まる。


「それで……かなりお早いお着きだが、此度はどう言った用件だろうか」


「……特に用件ということではないが、聖戦の鐘が鳴ったので定例通りに参じた次第だ。選帝侯として、召喚された王を見極める必要もある」


 将門の問いかけに答えた、レオンハルトの声にまた張り詰めた空気が漂う。リタとリアの息を飲む声が聞こえた。ルシアンとずっと黙ったままのイグニスも、張り詰めた表情をしている。勿論将門も、少し無くなったはずの剣呑さが戻って来た様だった。

 この場で張り詰めた表情をしていないのは、糸恩とレオンハルトだけだった。レオンハルトの視線は糸恩一点に注がれている。彼のその一途なまでの視線は、糸恩には居心地が悪くて顔を逸らさない様に気をつけながら、スカートの裾を握りしめる。

 肩に置かれた将門の手に力が籠るのを感じた。つい、と視線を上げて彼の顔を見ると、張り詰めた表情は残したまま、ぎこちなく微笑んでくれていた。

 きっと彼も何かを耐えているのだろう。その様子が少し無理をしている様に見えて、糸恩はなぜか胸の辺りがざわつくのを感じた。


「見極める、と貴殿は仰るが、我が君は世界神より選定された正統なる聖戦の王だ。誰がなんと言おうとね」


「それはそうだろう。世界神様の思し召しに反論するつもりはない。だが、如何に正統に選ばれた王といえど戴冠するまでは、正式な王ではない。そして、君たちは今のままでは戴冠式はできない」


 私とアーヴェントリア家が王鍵と玉璽を持っているからだ、そうレオンハルトは抑揚のない声で言い切った。ルシアンの何かを言おうとする気配と、同時に言い淀む気配が隣からする。

 見上げると苦々しい顔をして、彼は俯いていた。顔色は青白く、とてもじゃないが良い顔色とはいえない。今にも倒れそうな、最悪な顔色だ。

 対してあちら側のライオリアは、ルシアンととても似ている血色の良い顔で、レオンハルトの言葉に頷いている。似ているのに相対しているようだった。糸恩には、ルシアンの顔色の悪さの一因は、ライオリアにもある気がする。

 誰も何も言えないまま、少しの間を置いて、レオンハルトがまた口を開いた。


「だからこそ、玉璽をお返ししても良い王であるか、見極めるために私は来た。愛する我が国を託すに値する王だと、私が一瞬でも思えたなら、この玉璽は貴女にお返ししよう」


 そう言ってレオンハルトは、懐から小さな小箱を取り出した。謁見の間で見たような、幾何学模様の彫刻に彩られた琥珀色の精緻な小箱。

 あの中にリッツオルフ王国の玉璽があるのだろう。玉璽があれば、戴冠式へは大きく近づくはず。ならば、ここで糸恩がレオンハルトに認められるのは、きっと至上命題になる。普通の者ならばここで奮起したり、後退りしたりするのだろう。

 けれども、糸恩の胸の内は少しのさざなみも立たなかった。期待も興奮も、後悔も憂慮もない。将門の叡智のような力は、勿論糸恩にはない。けれども、目の前の選帝侯が望んでいるのは、口に出している事とはどこか違うような、そんな気がしたのだ。


「二人で話をしたい。ルシアン宰相には人払いを頼みたいが、良いだろうか」


「それは致しかねます。糸恩陛下はまだ幼く、とても一人で交渉など……」


 ルシアンが糸恩を庇うように、選帝侯の前に進み出る。糸恩には心なしか彼の足も、自分と同じように震えているように見えた。顔色だって、さっきよりも悪くなっている。

 きっと彼も逃げ出したくて、泣き出したくて堪らないのだ。けれども彼は強いから、糸恩のように涙を止められない事がないのだろう。

 糸恩は将門を見上げた。彼は優しく微笑んでいる。やっぱり糸恩に考えられるようなことは、将門にはお見通しのようだった。


「ルシアン、ここは王に任せよう。……我が君、構わないんだね?」


「お話するだけだから、平気。ルシアン、ありがとう」


「……私は、感謝されるようなことは何も、」


 ルシアンが罪悪感に塗れた顔で言い淀む。何も、と彼は言ったがルシアンにしてもらったことで感謝しなくていいことは、一つもなかった。彼はいつだって、糸恩の事をしっかり考えてくれていた。その彼にまずお礼を言わないで、他の誰に言えるだろうか。

 レオンハルトが視線をやると、ルティとライオリアが渋々部屋の外へ出ていく。二人も人払いする事には不服だったようである。

 続いてリタとリアたちが退出していく、二人は心配そうな表情をくれたが糸恩は無表情に頷くことしかできなかった。イグニスと、ルシアンもかなり後ろ髪引かれるように出て行く。

 一番心配そうな顔をしていたのは、意外にもアンナで「何かあればすぐにお呼びください」と何度も念を押して行った。

 最後に将門が頭を撫でて、柔らかな微笑みを残して出て行った。信じるよ、と英雄の声なき激励が聞こえるようだ。それだけで、何とかやってみる気になれる。いつでも背中を押してくれる、彼の微笑みはとても不思議だ。



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