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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
14/20

第3章 宵のかすがい〈4〉


 また木々がざわめく音がした。今夜の風はしつこいらしい。まだ夜は深いが、もう少しすれば朝日の方が近くなるだろうという時間だった。

 将門の羽織は暖かいので腕や上半身は寒くはなかったが、少しだけ素足のままの足が冷えてきているのは感じていた。ここに来た時のような、痛いほどの冷たさではないのでまだ平気だろう。

 将門はまた何か思案しているのか、何も話さなくなった。もしかすると糸恩が頭の中を整理して、落ち着く為の時間をくれていたのかもしれない。

 ぼーっと星を見ていると、目がチカチカとしてくる。こんなに星がたくさん見える空は、初めて見たような気がした。

 今まで星空を見上げた記憶も、何も無いのに。

 少しして、将門がまた口を開いた。


「さて、我が君。これで最後の話だ。この聖戦での、君の願いと私の願い。その擦り合わせ……相談、を最後にしよう」


 将門が口にした「願い」と言う言葉に、糸恩は少し思案した。確かこれはアルティナにも問われた事だ。

 あの花園での記憶は、まだくっきりと頭に残っている。その前のことはよく思い出せないけれど、あの美しい神々の庭でのことだけは。

 あの庭で「願いはない」と言えはせずとも、伝えたことも覚えていた。将門の方をじっと見据えて、口を開く。彼もこちらを優しげな瞳で見つめていた。


「わたしの願いは、わたしにはよく、わからない」


 糸恩が小さく呟くように声を零す。

 何か目的があって、ここにきたわけではない。欲しいものも、願い事も、自分の事では一つとしてないのは、糸恩はもう気がついていた。

 アルティナが言った、「無欲」と言う言葉の意味も少し理解できていた。けれど、それを全て肯定はできない。自分で欲しいものがなくても、彼の欲しいものが自分も欲しかった。それは無欲ではなく、むしろ強欲ではないだろうか。


「だから、わたしは将門の願いを叶えたい」


 まっすぐに彼の顔を見て、そう伝える。小さいけれど決意の篭った声は、夜の空気を裂いてよく響いた。

 将門は一度藍の双眸を(みは)って、その後ほんの少しだけ顔を歪ませた。伏せられた目は悲しいような、苦しいような色をしていた。

 糸恩の方を見ていた瞳が、一瞬揺れて、また泣きだしそうな光を帯びた。それも一瞬のことで、すぐにまた逸らされてぎゅっと瞑られてしまう。彼はそうやってずっと、泣きそうなのを隠してきたのだろう。

 流れるような仕草は、糸恩のようにじっと注意深く見ていないと、誰も気がつけないだろう。そのくらい自然な仕草だった。


「私の願い、か……。もう、随分考えてなかったな」


 ずっと、王の願いを叶えるために必死だったから。そう将門は消えるような声で零した。こんなに重たくて感情の詰まった声は、初めて聞いたような気がした。

 彼はどこか心を隠して話していたから、心の内を吐露するような言葉が出てくるとは思わなかった。

 将門自身もそう思っていなかったのだろう。言葉を出し切った後に、はっとして口を押さえていた。それでも出てしまった言葉は取り返せないとすぐに諦めたのか、観念してそのまま話を続ける。


「どんな事をしてでも、何度この戦いに喚ばれることになっても、最後に我が王の願いが叶えばとずっと必死に努力してきたから、自分の願いは……よく思い出せなくなってしまったんだ」


 倦んで疲れ切ったような声だった。今彼はきっと疲れ切った手で、どこかから願いを探しているのだろう。

 探して見つかる願いかはわからないけれど、将門の願いが見つかるまで糸恩は待っていることにした。今聞けなくても、彼ならいつか見つけた時に教えてくれると何となく確信があった。


「私は何を願ってここにきたのだったかな。随分ぼやけてしまった。大切なことのはずなのに」


 乾笑いを吐き出しながら、将門がそう言う。彼はまだ言葉を重くして、苦しげだったけれど、糸恩はその思い出せないことが少し胸の暖かくなる思いがした。

 この感情が「嬉しい」なら、自分はとても悪いやつだと糸恩は思った。


「じゃあ、二人で探そう。きっと、二人ならみつかるよ」


 滑るようにそんな言葉が出てきた。喉はたくさん喋ったことで嗄れかけていて、ザラザラとした声になっていたけれど、言葉だけは流れるように出てきたのだ。

 まるで誰かの言葉を借りたような、自分が腹話術の人形(パペット)になったような気分だった。糸恩自身もスラスラと出た言葉に驚いたが、一番驚いているのは将門のようだった。

 彼に目を向けるとまた目を瞠っていて、糸恩は今日は彼のこの顔をよく見る、と呑気に思っていた。


しばらく固まっていたが、ゆっくりと動きを取り戻して、将門は小さく息を吐いた。そして、吐息に混じる声で「うん」と呟いた。どこか自分と同じくらいの子供のような声で。

 その声を聞いて、糸恩はなぜか少しだけ安堵した。


「我が君。願い事はこれから探すとして、ひとつだけ私から頼みごと……いや、願いがある」


「……? なに?」


 彼がまた少し、重苦しいような声を落とした。糸恩がきょとんとした顔で将門を見つめる。

 将門の横顔を見つめていると、両の手が暖かいものに包まれる。

 大きくて暖かいそれは、将門の手だった。糸恩の少し指先の冷えた小さな手を、彼の大きな手が包み込む。何故かその手は少し震えていた。

 糸恩が、ずっと将門の顔を見つめたまま待っていると、彼は何度か小さく息を吐いて、糸恩の手を一度強く握って、宝石のような願いを一つ口にした。


「ひとつだけ、私と約束してほしい。……どうか、生きてほしい。この先君を待ち受けるものが、どんなに恐ろしい未来でも、諦めず生きて欲しい」


「生きて……」


 将門の言葉を、糸恩が繰り返し舌の上で転がす。それは、まるで味のないキャンディのように、意図もわからず零れ落ちていった。


「ああ、これから戦が起きるだろう。必ず戦わねばいけない日が来る。だが、君のその美しい朝焼けは、悲惨な世界を見るためにあるものじゃない。だから、私が君のために戦う。それが、今回私がここに喚ばれた意味だと思う。我が君、どうか、君を守る役割を私にくれないか」


 震えた声は、確かに伝えられなかった事をやっと伝えられたような少しだけ安堵の音をはらんでいた。糸恩への言葉であることは間違いないのに、彼は糸恩を通して何か、誰かを見ているようだった。

 その誰かが糸恩には見当もつかないけれど、将門の気持ちが楽になるならそれでいいのだと思い込んだ。先ほどの飲み下したような、重い何かをまた飲み下して、心を無理矢理に落ち着けて、糸恩は彼の言葉を反芻して考える。

 生きて欲しいと彼は言ったが、糸恩は生きたくないと思ったことなど、今まで一度も無かった。死んでしまいたいとは何度も思ったけれど、生きたくないと思ったことはない。いつだって死んでしまう方が楽な世界だったからだ。けれども、だからこそ、彼は願ったのかもしれない。

 焼け野原は見ていないが、地獄はたくさん見た、気がする。血で汚れない事は、きっと随分前に手遅れだ。だってもう、十分に傷だらけだ。

 けれど、彼が望むなら、彼が欲しいと言うものが、自分に差出せるなら。それは渡さなければならないものだ。あげられるものが自分にあるのなら、剥がせないものでも引き裂いてでも与えたい。そう思うこの思いは、きっとまだ理解するべきでは無いものだった。

 「今まで」はもう望まれてもあげられないが、これから生きる時間は、まだ差し出せるものだった。糸恩はその事だけに安堵して、飲み下したものや抱えてしまった何かのことは今は見ないふりをする事にした。

 向き合うための時は今はない。そして、向き合ってもそれを解決するだけの手立ても、糸恩にはなかったからだ。それをなんとなく察してしまっていたからだった。


「わかった、約束する」


「ありがとう……」


 糸恩は少しだけ息を整えるように吐いてから、そっと頷いた。

 将門も嬉しそうに微笑んで、謝辞を返す。夜風がふわりと二人を包んで、通り過ぎていった。

 王城の夜は、今日も静かに過ぎようとしていた。こんなに長く彼と二人で過ごすのは、出会ってからまだ数日だがはじめてだ。

 明日からも何度あるかわからない。もしかしたら、これで最後になるかもしれない。糸恩はその気持ちだけ、伝えておくことにした。


「将門とお話しできて、よかった」


「私も王と過ごせて楽しかったよ。外に長居させてすまなかったね。体が冷えてしまっただろう」


 羽織を借りているので、訴えるほど寒くはなかったが、着々と足元から寒気が這い上がってきているのは感じていたので、糸恩はどちらとも答えられず曖昧に頷いた。

 そろそろ部屋に戻ろうか、と将門が口にした時、下階の俄かな騒ぎが糸恩の耳に届いた。

 声自体は小さくて、何を言っているのかなど拾えないが、確かに誰かと誰かが口喧嘩をしているような音が聞こえた。首を傾げて将門を見ると、彼も同じ音を聞いているようだった。


「ルシアンの部屋からだね。ここの二つ下にある部屋が彼の部屋なんだが、ここまで声が届くほどのことなら、少し気になるね。先ほど強い風に紛れていたけれど、何かを壊す音もしたかな」


「そうなの……?」


 英雄の耳はそんなによく聞こえるのか、と糸恩は素直に驚いた。自分も耳を澄ませてみるが、遠くに何か騒がしいものが聞こえるだけで、やはり内容なんて聞き取れなかった。

 そうして耳を澄ませていると、不意に糸恩の部屋からカタンと物音がした。とても微かで風の音にすぐ攫われてしまうくらいだったので、将門と話していた時や耳を澄ませていなかったら、きっと聞き逃していただろう。

 糸恩はゆっくり立ち上がり、よろよろとした足付きで、部屋の方へ行こうとした。


「我が君、足が冷たいだろう」


 するとすぐに慌てたような将門の腕に、掬い取られて体は宙へ浮く。確かに石でできたバルコニーの床は冷たいけれど、そんなに痛いほどではなかったので、問題ないと伝えようと顔を上げたが、将門の顔を見て言わない事にした。彼の心配そうな顔を見ると、どうにも声が出にくくなるのだ。

 窓の入り口まで来ると、風もないのに微かにカーテンが不自然に揺れたのが見えた。糸恩が気が付いているくらいなのだから、将門はもちろん気が付いているのだろうが、彼は何も言わなかった。

 もしかすると、そこに誰がいるのかも既にわかっていたのかもしれない。


「誰かいる、の?」


「あっ……あの、私、です」


 将門に抱き上げられたまま、臙脂のカーテンに手を伸ばして退けると、そこには縮こまった体制のリアがいた。怯えた風にカーテンを両手で掴んで、扉の横の暗がりに立っている。

 ずっとそこでそうしていたのだろうか。


「盗み聞き、するつもりは無かったのです。ただ、窓が開いていて、王様がいなかったので……」


「リア……?」


 リアが捲したてるように、早口でなぜか弁解を口にする。どこか様子のおかしいリアが気になって、糸恩は首を傾げた。

 こういう時はどうしたら良いのか、よくわからない。ちらりと将門に視線を向けると、意図を汲み取ったのか、糸恩を絨毯の上に下ろした。

 そうして一つ、ゆっくりと頷く。将門が頷いた意味は、はっきりとは汲めなかったが、なんとなくしたいようにして良いと言われた気がした。

 糸恩は二、三歩、リアに歩み寄る。


「心配に、なって。本当に悪気は」


 何かに怯えているような、リアの青い顔に糸恩が手を伸ばすと、彼女はぎゅっと目を瞑る。

 その仕草にどこか糸恩は覚えがあった。いつか、どこかで見たような。した、ような。

 糸恩は頬に伸ばしかけた手を引っ込めて、カーテンを掴んでいたリアの手を、ゆっくりと包み込む。


「リア、誰も、何も言ってないよ」


 素直に事実をそう口にすると、リアの手がびくりと跳ねて、閉じていた目がうっすらと開かれる。

 ぐしゃりと歪んだリアの顔を見たのが最後。糸恩は次の瞬間には、彼女の腕の中にいた。今日は抱き抱えられたり、抱き締められたりをよくされる日だ。

 手も自然と解けていて、リアの手は糸恩の背中に回っていた。傷に気遣いもない、強く引き込むような力で抱き締められて、糸恩は少し顔を歪める。

 痛みは少しあったが、それより震えるリアの体と耳元で聞こえる、獣のような荒い息がずっと気になった。

 まるで威嚇するような、荒い息。そんなのをずっと続けていたら、苦しくなる。そう思って、糸恩は落ち着かせようと手をリアの背中に伸ばして、羽の間辺りをゆっくりと撫で付けた。


「リア、大丈夫。大丈夫よ」


 正餐室でアンナにしてもらったのを真似て、ゆっくりと撫で付けて、落ち着かせようと試みる。

 だんだんと息が収まっていくのを、耳で聞いていた。将門は何も言わずに、糸恩の後ろに立っていて、今のその表情を伺うことはできないけれど、リアが見て落ち着かないような顔をしているのだろうか。

 将門の微笑みはいつも見ると落ち着くのに、と糸恩は背中を撫でつけながら考えていた。


「……申し訳ありません、お手数をお掛けして」


「もう、いいの?」


 しばらくして、リアの体がまた勢いよく離れた。

 肩を掴まれて引き剥がされるように離れたので、

リタの言葉遣いは糸恩には難しいので、あまり噛み合ってないことは糸恩自身わかっていたが、まだ青い顔をしているリアの状態の確認の方が先だと問い掛けた。

 多少ちぐはぐでも察して、リアは「はい」といって頷いてくれる。綺麗な翠玉(エメラルド)の瞳は、まだ少し覚束ない風に揺れていた。

 少し赤みが戻ってきた顔のリアから目を外し、糸恩は後ろの将門の北に向き直る。肩に置かれたままだった、リアの手が少しびくついたのが気になったが、すぐに手は離れてしまったので、振り向いて確かめるにも遅かった。

 将門は部屋に入らないという決まりを律儀に守っているのか、足はまだ扉の外にあった。糸恩の素足に絨毯の長い毛足が絡まる。冷えて動きの鈍った足では、縺れて転んでしまいそうだった。

 いざ向き直ったはいいものの、何を言ったらいいものかと何も言えずにいると、先に将門が口を開いた。


「ルシアンたちの事が気になるだろう。私も一緒に行くよ」


「うん」


 将門はいつもの微笑みをたたえて、またあの夜に解けるような声でそう言った。その様子が先ほどまで二人で話をしていた時とは、少し違うようで糸恩は首を傾げた。

 まるでいつもの、「英雄 平将門」に戻ったようだった。

 糸恩は小さく頷いて返す。少し思考の歯車の動きが鈍くなってきていたので、掠れて返事は将門には届かなかったかもしれない。


「ここに入るとアンナやベルナデッタに叱られてしまうから、私は私の部屋から回って、廊下で待っている。君は天使たちと……もうすぐ来るアンナと来るといい」


 今度は糸恩が返事をする間もなく、将門はいつものように微笑みを浮かべてに頷いて、踵を返して行ってしまった。糸恩はその背を追いかけて行きたくなったが、絨毯から冷えた足は動かなかった。

 彼に言われた通り、ルシアンの部屋へ行く準備をしようとしようと、将門と同じように踵を返す。


「リア。ルシアンの、ところに行くの」


「はい、わかりました。英雄さまがおっしゃってましたから、すぐにアンナさんがいらっしゃいますよ」


 リアに向き直ると、彼女も力強く頷いてくれる。頬に赤みが完全に戻っていて、もういつものリアと同じように見えた。あの取り乱しようのわけは、聞けずじまいに終わりそうだった。

 リアに促され、部屋の壁際の鏡台の椅子に座ろうとした時、ふとベッドの方を見ると起き上がって座っていたリタと目があった。天蓋の暗闇の中に、翠玉(エメラルド)の瞳が星屑の様に光っている。いつの間に起きていたのだろうか。


「リタ」


「あっ、お、おはよう、王様! ん、おはようはまだ早いか……?」


「お姉様!そんな事はどうでもいいですから、用意です!すぐに出なくてはならないのです!」


 名前を呼ぶと、リタもなんだか慌てたふうで、糸恩は顔には出さずに首だけを傾げた。みんな少しずつ、噛み合ってない気がする。

 今度こそ、鏡台の椅子に座らされた時、寝室の扉がノックされた。


「陛下、アンナでございます。火急の要件により、お休みのところ失礼致します。…………陛下?」


 アンナは糸恩がベッドで寝ていると思い込んでいたのか、椅子に座っているのを見ると、かなり驚いた顔をした。けれど、すぐにいつものキリッとした表情に戻り、こちらへと歩いてくる。


「陛下。落ち着いて聞いてください。この様な時間で本当はお断りして待っていただくべきなのですが、相手が相手ですので、まことに恐縮ながら陛下にご無理を強います。…………グロワール選帝侯領のヴァイスハイト大公様がご来訪されました。陛下、謁見の準備を」


 アンナが糸恩の前に跪き、思いもよらない人物の名を告げる。

 糸恩は動かない表情の奥で、確かに心臓がドクリと脈打つ音を聞いた。顔には出ずとも、体は確かに緊張している様だった。真剣なアンナの表情に答えるように、糸恩が頷くと、謁見の準備が開始される。

 リッツオルフの聖戦の王・糸恩の長い戴冠までの日々の静かな始まりだった。



     ❁ ❁ ❁


 王の居室のバルコニーから、東側に少し離れた高い塔の上。尖塔の頂きの、人が立てるはずもない場所に二つの人影があった。

 一人は小柄で一見すれば、子供にも見えかねない背丈。もう一人はそれと比べればまだ背丈はあるものの、決して大柄とはいえない背丈の影。

 二人に共通するのはその体格を隠すように、夜の闇に紛れる大きなローブを身につけているということ。

 二人とも闇の中では漆黒に見えるが、よく目を凝らせば小柄な影の方は紫がかった紫黒、もう一人の方は青みのある藍色のローブであるとわかる。

 その二人は闇に紛れつつ、バルコニーにあった王と英雄の姿をじっと観察していた。だがそれも先ほどまでで、今はバルコニーには誰もいない。

 ふと、予兆もなく小柄な方が踵を返した。尖塔の頂き、そもそも動ける場所などないのに。そこには目には見えない足場があるようだった。


「もうよろしいので?」


 もう一人の背丈のある方の影が、踵を返した小さな影に問いかける。声は中性的なもので、声だけでは男性か女性かは判別できなかった。背丈もそうであるので、見た目ではその影の性別は判断できない。


「うん。もう大丈夫」


「そうですか。陛下が満足なされたならよかった」


 バルコニーに背を向けたまま、小柄な影が答える。こちらは明らかに高い女性の声だった。まだあどけなさの残る声は、影がまだ年端もいかない少女であると言うことを教える。

 影の言った、風にさらわれるような微かな声の「大丈夫」だけが、いやに残響を残した。もう一人の影はその残響を無視して、小柄な影に微笑みかける。

 そしてもう一人の影も、余韻もなく踵を返した。

 もうここに用はないようだ。


「もう、帰ろう」


「ええ、みなさん心配なさいますからね」


 小柄な影ともう一人の影はそんな応酬をして、夜の闇に一歩踏み出した。その先で足場は途切れているらしく、二人の体は下方へ重力に従って落ちていこうとする。

 落ちる寸前、つい、と小柄な影はもう一度だけバルコニーを見た。

 まだそこに探していた人がいた気がして。

 けれど、バルコニーには誰もいなかった。小柄な影はすぐに目線を外して、重力に身をまかせる。

 すぐにもう一人の影が手を伸ばし、抱き止められるように二つの影が(くう)で重なった。二人の影は地面に叩きつけられるわけでもなく、虚空で泡のように散らばって消える。

 夜の闇だけが、まだそこに残っていた。



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