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聖戦のアルマティア  作者: 佐伯 木綿季
リッツオルフ編
13/20

第3章 宵のかすがい〈3〉


     3


 顔を撫ぜる冷たい風の感覚で、糸恩は意識を浮上させた。

 目を開けると、周りは真っ暗で部屋の明かりは勿論なく、風で揺らめくカーテンから透けて入ってくる月の光だけが部屋を照らしていた。

 それも天蓋の外のことで、糸恩の視界ではもっと暗く見える。糸恩が鳥目なせいもあるだろう。まだ寝ぼけまなこで左右をゆっくり見ると、同じ天蓋の中で、リタとリアが眠っていた。左右対称に同じような寝姿で眠る二人を見ると、自然とほっとした。こんな胸を撫で下ろすような感覚は、初めてな気がした。

 気を失う前は熱くて寒かった体は、今はもう少しの火照りだけを残して、落ち着いていた。少し体と服が汗で湿っていたけれど、それでも随分とマシだった。

意識を落としたのは、また将門に抱き上げられていた時だった気がするが、彼はやはり側にはいなかった。

 同じ部屋はダメなのだったか、淑女の寝所に殿方は……と、アンナが言っていた気がする。

 彼が側にいないことがこんなに悲しいとは思わなかった。けれど、この胸のざわざわとした感覚と、何かを落っことしたような気持ちは、はたして「悲しい」なのか、糸恩にはわからなかった。

 ルシアならば知っているだろうか。そういえば将門よりも彼女の姿を見ていないことにも気がつく。今は真夜中らしく、初めてルシアを見つけた夜ときっと同じくらいの時間だ。月はあの日よりも翳っているが、今探しに行けば、もしかしたらまた会えるかもしれない。

 けれど、糸恩には今日は出会えない気がした。カンテラの首飾りが、少しも暖かくない。今はまだルシアに会う時ではない、そんな気がしたのだ。

 窓が開いていた。少し寒い気もするが、空気を入れ替える為に、誰かが開けたのだろうか。糸恩は何故かその窓の先が気になった。あの鏡合わせの間の感覚と同じ、呼ばれているような気分。そこに行かなければいけないような、そんな気がした。

 隣のリタとリアを起こさぬように、ずるずると這いつつベッドを降りる。幸い二人は寝入ってくれていたようで、起こさずには済んだ。

 慎重に足を絨毯の上に降ろす。音を吸い込む床は糸恩の足音を、しっかりと飲み込んでくれた。まだ少し痛みが残り震える足で、白木の窓枠までなんとか辿り着く。窓枠に捕まり、ひとまず立ち止まると、その瞬間にふわりとカーテンが宙を舞った。

 糸恩の視界に王都 ランタフェールの賑やかな夜が映る。道々に灯り、王都を照らすランタンの灯り。蜘蛛の巣のように張り巡らされた水路からの水音。木々のざわめきと、遠くの人々の喧騒。

 糸恩が初めて見た、アルマティアの、「城の外の」世界だった。


「きれい……」

 糸恩が思わず呟き、窓枠を超えて、細いバルコニーへ歩を進める。

 ヒタ、と素足が石の床に触れる音がした。包帯越しの足には少し冷たかったけれど、糸恩は気にもしなかった。

 その目は真っ直ぐに王都の街並みに注がれていた。いつもは動かない表情は今も乏しいままだが、目だけは輝き、少しだけ瞠られている。

 しばらく、王都の夜景を眺めていた。夜風に体が冷えていくのも気にせずに。

 その様子を見ていた、彼が声をかけるまで、ずっと。


「……、綺麗だろう? 君の国は」


 右側からの突然の問いに、糸恩は少しだけびくりとして、そちらを見る。そこには夜の闇に紛れるように、紫黒の英雄が佇んでいた。

 糸恩が気付かなかっただけで、彼はずっとそこに居たのかもしれない。そう思えるくらい、彼は闇の中に溶けるようだった。微笑みを湛えた様子はいつもと変わらないが、今は何故か少し悲しげ。

 糸恩はその表情だけが、少し気にかかった。


「眠れないのかい?」


 こちらに微かな足音を立てて、近づく将門が問いかける。

 糸恩は首を左右に振った。眠れないわけではない。多分、横になればすぐにでも眠れると思う。眠りたくない理由は実はあったが、そちらは彼は聞かなかった。理由があるとは考えていなかったのだろう。


「将門は、ねむれない、の?」


「いや、私は……、少し、ここから街を見ていたくなってね、それだけだよ。今日は風が冷たい。そんな格好では、また熱が上がってしまうよ」


 糸恩の今の格好は、白のネグリジェと体に巻かれた同じ白の包帯だけ。靴もなく、靴下もなく、上着もない。

 特に寒いとは思っていなかったので、彼の言葉に何も反応できなかったが、しばらくしたら冷えてくるだろうと将門は言った。将門は自分の羽織を糸恩の肩にかけてくれた。今の将門はいつもの軍服の上着を脱いで、その羽織を引っ掛けただけの姿だった。

 羽織から微かに花のような香りが鼻をかすめて、糸恩はくんと鼻を動かす。


「いいにおい」


「そうかい? 特に何もつけていないのだけれど……」


「将門、のにおい、ね」


 糸恩がまだ羽織に鼻をくっつけながらそう言うと、少しだけ将門の顔が赤らんだ気がした。また違う彼を見られた気がして、糸恩はまた胸のあたりがほわりと暖かくなった。

 糸恩の体を労わるように優しく抱え上げて、将門はバルコニーに置いてあった、古ぼけたベンチに座らせた。確かにもう立っているのは辛かったので、運んでくれるのも座らせてくれるのも、とてもありがたかった。鳥目の糸恩にはそこにベンチがある事すら、わからなかったから。


「まだ少し熱いな……寒くはないかい?」


 右隣に腰掛けた将門の左手が、するりと頬と首を撫でて、首元で止まった。彷徨うような、寂しさを持った手。

 彼の問いに糸恩は頷く。手袋越しの将門の手の熱が首に沁みて、糸恩の火照った体温と溶け合っていく。将門の手もよっぽど熱い気がした。


「将門は、大丈夫?」


「私? 私は何も……何も問題はないよ」


「そう……」


 糸恩なりの不器用すぎる気遣いだったが、言葉足らずで彼には今回は通じなかったらしい。腑に落ちないままに、糸恩は返事をして、黙りこくる。もう何も、言えることはなかった。

 ただ、将門が自分の首元に添えたままの寂しげな手に頬ずりをして、少しだけうな垂れた。

 静かな夜だ。街の喧騒も淡く、遠くに広がっているだけ。

 いつかの王も英雄とこうして王都を眺めたのだろうか。この古ぼけたベンチは幾度も王と英雄を乗せて、時を過ごしたのだろうか。少し煤けたベンチを指でなぞりながら、糸恩は心の中で少し考えていた。

 この世界に来て、何かを考えるたびに頭の中で、赤錆びた歯車が音を立てて進むような、鈍い音がする。それは長いこと思考を止めていたが故の不具合だろうか。仮定や推測の話はまだ糸恩には難しく、先ほどの思考の答えも出してはくれなかった。


「ああ、でも。やっと、二人きりになれた」


 ぽつりと、(かたわ)らの英雄が呟いた。暗くて静かな、この夜に溶ける声で。糸恩は右側の将門を見上げる。月の影になって、彼の顔は見えなかった。

 いつもの様に、微笑んでいるのかもしれない。けれど、笑っているようには、思えなかった。言葉の意味を介そうと、糸恩は将門をじっと見つめながら思案するが、顔が少しも見えないからか、その言葉の意図するところはよくわからない。それに、将門は糸恩からの返答を求めているわけでもないようだった。

 その証拠に彼は糸恩の言葉を待たずに、次の言葉を続ける。


「……我が君。この国の人々は、君にはどう見えた?」


 将門が顔を背けるように、街の方を見る。横顔になったお陰で、彼の表情が少しだけ見えた。

 いつも通りに、微笑みを湛えたままの顔をしている。けれど、やはり悲しげな雰囲気は消えていなくて、首に添えられた熱い手も寂しげなまま。

 糸恩は傷の痛みで億劫な右側の手を、首元の将門の手に添わせる。将門の手がぴくりと揺れて、きつく固まったように思えた。


「……リタと、リアはすごくやさしいの。ふたりとも、わたしと、手を繋いでくれた。アンナは、綺麗な服をくれて、クラリベルは、手当てしてくれた。ルシアンとイグニスは、わたしがわからないことを、たくさん教えてくれた。ベルナデッタも、エイブラハムも、みんなとても、やさしい。……悲しくなる、くらい」


 決して合わない将門の目を見上げて、糸恩は途切れながらもそう伝えた。

 言葉を垂れ流すたび、どれだけ自分が与えられたのか身に染みてわかる。今は、与えられたものに見合うものを、返すことができないことも。

 喉の痛みは引いていて、少し(つか)えるが話すのにもあまり不自由しなくなっていた。寝ている間にクラリベルが、また薬を飲ませてくれたのかもしれない。

 ぽつりぽつりと糸恩の零す言葉を、余すことなく掬い上げるように、将門は頷きながら聞いていた。けれど、一度もこちらを見ることはなくて、それが少し悲しい気がした。会えて、側にいても、悲しいなんて糸恩は知らなかった。


「私、は……」


「将門……?」


「私は、少し、寂しかったよ」


 見上げていた将門が、不意に動いて、自分の手と重なっていた糸恩の手を握り、そのまま前で傅く。跪く形になって、彼はそう呟いた。

 今やっと、糸恩と将門の目が合う。

 彼の藍色の瞳はなぜか酷く揺れていて、まるで泣き出す前の子供のよう。触れ合っている手だけが、まるで二人をつなぐ鎖のようだった。


「君に、たくさん伝えたい事があったんだ。伝えないといけない事もあった。けれど、何も言えなかった。言葉を選ぶばかりで、声にならなかった」


 糸恩の小さな右の手が将門の手から離れ、彼の柔らかい黒髪を優しく撫でる。

 拙い手つき、まるで小さな子にするように、いつもとはまるで逆の立場に少し戸惑いながらも、彼はそれを甘んじて享受した。手持ち無沙汰になった繋がれていた手は、少し彷徨った後に膝へと不時着していく。

とても居心地が悪そうだった。

 何も言えなかったと、彼はそう言ったが、糸恩は将門からずっと沢山のものをもらっている、と思った。

これ以上貰えないほどに、糸恩の中は将門で詰まっている。

 けれども、彼はまだ足りないと言うのだ。その理由はきっと、彼の中に何かが足りていないからじゃないだろうか。

 さっき将門は『寂しい』と言った。糸恩の胸の中の『悲しい』だった感情も、将門の言った『寂しい』と似ている気がした。何かを取り落として来てしまったような、心がぽっかり空虚になる様な感覚。

 このがらんどうのような感覚が、彼の言う、『寂しい』なのかもしれない。

 糸恩にはいくら考えても答えは出ないけれど、それは何かを与えることで埋められるものなのだろうか。足りないものを得る為に与えても、返ってこないかもしれないのに。


「……聞くよ、将門が言いたいこと、全部。しっかり聞く。だから話して。わたし、将門からたくさん、教わらないといけないの」


 将門の顔から、まだ薄っすらと残っていたいつもの微笑みが削げ落ちて、表情が固まる。驚いたような読めない表情から暫くして、丸めた紙のように綺麗な顔がぐしゃりと歪んだ。

 今までも将門の悲しげな顔は何度か見たけれど、こんなに悲痛に歪む顔は初めてだった。何かを噛み砕いて、飲み下しているような、涙を必死で堪えるような表情に、胸を締め付けられる。

 酸素が薄いところにいるように、息が詰まるような苦しさが訪れる。将門に触れていない左の手で、糸恩は自分の洋服の胸をぎゅっと握った。

 けれども、それでは締め付けられるような感覚も、息の詰まるような苦しさを消えない。


「どうか、泣かないで。我が君」


 あの時、正餐室で言った事と逆さまの事を、将門は糸恩に言った。

 糸恩は泣きそうなわけではなかった。胸の締め付けられるような感覚も、息の詰まるような苦しさも、泣くような苦しみではない。

 そんな顔をしているなら、きっとそれは、彼の方ではないか。見えていないだけで、自分もひどい顔をしているのかもしれないけれど、それでも彼よりはマシなはずだった。

 ここで立派な王ならば、勇気付けようと笑うだろう。安心させようと微笑むのだろう。

 けれども、糸恩にはそれはできなかった。悲しみ方はわかっても、笑い方はわからないのだ。

 服を握り締めていた左の手を、彼が取って指先で優しく握った後、こつりと額に当てた。

 何かに祈るような仕草だった。下を向いてしまった彼の顔は見えないけれど、まだ泣きそうな顔をしているのだろうか。指に絡む事もない彼の黒髪を、もう一度梳くように撫でながら糸恩は彼が顔を上げるのを待った。

 言いたいことを、知りたいことを、全部聞くために。


「まず、一つ目」


 暫くの間、そうして祈るようにしていた将門が、意を決したのか顔を上げて、厳かにそう呟いた。向き直った顔は、いつものように微笑みを灯していた。

 もう泣きそうで無くなった顔を見て、糸恩はどうしてかまだ安心ができなかった。あの胸の暖かくなる感覚は無く、一つ、重いものが積み重なったように思った。無くなったのではなく、隠れてしまったのなら、あれはまだ彼の中にあって彼はまだ苦しいままな気がした。

 けれど、そこに踏み込む事も、それを癒す術も糸恩には何も思い浮かばない。そうしている間に、将門が話し始めた。


「我が君の力のことから、はじめたい」


「わたし、の?」


 将門が真剣な顔で言うので、少し考えてみるが、自分に何かしらでも力があるとは思えなかった。将門の髪から手を離して、無意識に手のひらを胸に当ててみる。けれど、やはり何も感じ取ることはできなかった。

 糸恩が少し考えている間に、将門は待ってくれるつもりだったのか、糸恩の右隣に腰掛ける。手は繋がれたまま、さっきよりも深く握り込まれて、きっと彼が離さない限り離れることはないだろう。ぼんやり我が身を見つめていると、頭上から優しい声で次の質問が降ってくる。


「君の瞳の色は生まれつきのもの?」


「……わから、ない」


 生まれつきかと問われれば、そんな気もするし、そうでないような気もする。過去のことを思い出そうとすると、頭に靄が掛かって、頭がずきりと痛むのだ。あの感覚は何とも言えず辛くて、糸恩は過去のことを、無意識に少しも考えないようにしていた。

 そもそも、考えられる暇なんて無かったからというのも、もちろんあるだろうけれど。


「昔のこと、なにも思い出せない。ここにくる前のこと、ぜんぶ。でも、アルティナのことだけは、覚えてる」


「……そうかい」


 将門はそれ以上はなにも言わなかった。糸恩は拒絶するような態度をとってはいないけれど、「嫌なこと」である事を悟ってくれたのだろう。

 彼はそういう事が上手だと糸恩は思う。そんな分析ができるほどには、ここに来た時より少しは頭が明晰になっている気がした。わからない事しかないのは、勿論変わらないけれど。


「私は君には二つの力があると考えている。わからなくていいから、聞くだけ聞いてほしい」


 将門のその言葉に、糸恩は従順に頷く。聞きたいと言ったのは自分なので、夜が明けるまででも、いつまででも聞くつもりだった。


「一つ目は魔力。君の目は、綺麗な紫色をしている。……紫の目はこの世界でも、とても珍しくて、その目を持つものは強い魔力を持っていると言われている」


 糸恩はその彼の言葉を聞いて、自分の目の近くを触れた。

 鏡の間と部屋の鏡台と、その二つでしか自分の顔は見た事が無く、そういえばそんな色だったと思う。大切な色だった気がするが、何故かもわからなければ、本当にそうだったのかも思い出せはしなかった。


 将門の言うことによれば、この世界の魔力の階級は目の色で決まるのだそうだ。大まかに分けられて七色。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。

 その色の階級を総称して、「虹の七階位」という。色は淡ければ淡いほどに、純度が高い魔力であるとされる。

 糸恩の朝焼けの色の淡い紫の瞳は、七階位の中の第七位階、その中でも格段に純度が高い。この世界の人にとっては、わかりやすい力の象徴だという。

 将門は口にはしなかったが、その瞳は純粋憧れる人も者もいれば、人ならざると言えるほどの魔力を持つという意味としては、畏怖の象徴にもなり得る。

 けれど、今この城から出ない糸恩にとっては、それは知り得ないことであるので、伝えることはしなかった。傷付ききって疲弊して、動くのをやめた少女の心にこれ以上の重石を乗せることは、将門にはできなかった。きっと、それが自らの王ではなかったとしても、そうだっただろう。

 王としての糸恩も、ひとりの少女としての糸恩も、将門は守りたかった。確かにある自分の傷は無視できても、相手の傷を無視することはできなかったのだ。

 けれども、糸恩は将門の庇護の中身を、無視はしなかった。彼の表情に映った一瞬を、糸恩は目にしてしまったから。


「この目は、悪い、もの?」


「え……?」


 静かに糸恩が口にした問いに、将門は瞠目する。将門には人生経験─人としてではない経験も多いが─として、何かをひた隠すのが得手である自信があった。顔にも出さなければ、醸し出しもしない自信が。

 ルシアンのような、交渉や人心掌握に長けた文官に見破られるならまだしも、糸恩に言い当てられるという予想は無かったのである。

 糸恩自身には、言い当ててやると言うような気持ちはなかった。記憶にはない何処かで、人の顔色を窺う事をよくしていたのだろうか。

 将門の雰囲気が一瞬揺れたのが、少し気になっただけだったのだ。それが、良い方向ではないという事だけを、何となく察していただけだった。


「そんなことは……いや、……そうだね。正直に言おう。我が君の瞳は見る人によれば、恐ろしく感じてしまうかもしれない」


 糸恩は将門が答えをくれるのを、しっかりと耳で受け止めた。時折頷いたり同意したりするような、聞き手側のスキルなど糸恩には無いので、ただ彼から目を逸らさずに聞いた。

 「そうだね」と彼は言ったが、誰に対しての同意だったのだろうか。ほんの少しだけ憂いが晴れた将門の顔を見て、糸恩は小首を傾げた。その誰かは知らないけれど、将門が納得できるのなら、それは良い事だと自分の中だけで頷く。

 少しだけ黙っていた将門が、また踏ん切りをつけたのか、ぽつぽつと話し始める。


「それに、その髪色も珍しいものでね」


「髪……?」


「ああ、君ほどに真っ白な髪は、スオミという民族のみが持つとされている。きっといつか会うことにもあるだろう。彼らは白髪(はくはつ)に赤い瞳の一族でね、保有魔力が極めて少ないとされている」


 将門が言うには、スオミという一族はアルマティア世界でもかなり数の少ない少数民族で、その特徴が白い髪に赤い眼。そして、生活に使用する魔法も使用ができないほどに、魔力が極めて少ない事だそうだ。

 それ以外の民族は人数の多寡はあれど、多くが橙や黄色や緑に属していて、ルシアンの様な青い眼も比較的に少ない方だという。

 このアルマティア世界には、金髪や赤髪など多くの色を持つ種族が存在しているが、白の髪だけはスオミ族にしか存在しない色だという。染めれば話は別だが、染めた髪と地毛では目への映り方が全く違うらしい。

 その無魔力の象徴とも言える髪の色と、魔力値の最高階位である淡い紫の瞳を持つだけで、糸恩はこの世界では、かなり異質な存在であるという。

 王という前提があれば、納得も得られるだろう。けれども、彼女が王という事を知らない民が見れば、化け物のような扱いも受けかねない、そう言って将門は顔を少し(しか)めた。

 その話を聞いて糸恩は、少し胸が詰まるような感覚がした。ここにも自分の居場所はないかもしれない。

 “ここにも”だと思った理由は、思い出す事はできず、よく分からなかった。けれど、ここ以外にはないと自分が思っていたらしい事は分かった。

 だが、胸の詰まるような感覚は、その事実のせいではないようだった。


「見た目で区別がつくなんて、本当は良いことでは無いけれど、これがこの世界のルールだ。仕方がないね。一人で城下に降りなければ済む話だから、君はあまり気にしなくていいよ」


「将門、は……」


「ん?」


 俯いて黙ってしまった糸恩に、将門が諭すような口調で言ったが、区別される事やルールに従うしかない事は、糸恩にはどうでもよかった。

 頭痛を恐れて思い出そうとはしていないが、それは「ここではないどこか」でも同じだった気がしたから。そんな事よりも、将門が顔を少しでも顰めたのが、糸恩の心を詰まらせたのだ。


「将門は、わたしの髪が、白くて、目がむらさき色だと、嫌いになる……?」


 糸恩は彼の顔を見ずに、俯いたままで問いかけた。

 夜風に消えてしまうほどの、細やかな声で。きっと先に名前を呼んでいなかったら、将門でも聞き逃してしまっていただろう。糸恩の耳にハッと息をのむ声が聞こえた。思わず将門の方を見上げると、瞠目した彼の目と視線が交わる。

 悲しげな表情。あの日の鏡の間で見たような、何か色々なものが綯い交ぜになった顔をしていた。


「ごめん、なさい……」


 口をついて出た謝罪に、変なことをきいて、とまた心が転び落ちるように言葉がひっついて落ちてくる。また赤錆びた歯車が鈍い音を立てて、動こうとしているような、そんな音が耳の奥で響いた。思考を進ませている音のはずなのに、この音が響くと、考えが端から消えていく。

 ズキズキと頭が痛んだ。何も思い出すなと、堰き止められているように。


「我が君……いや、糸恩。謝るのは、僕の方だ」


 将門が糸恩の名前を呼んだのは、初めてだった。

 星空の色と同じ将門の瞳が、糸恩の朝焼けと交わる。星の光と彼の瞳の色が乱反射して、糸恩の瞳にはそれがとても眩しく見えた。

 眩しくて、輝きすぎていて、いつものように表情で彼の気持ちを考えることを、思わず止めてしまう。チカチカと、月明かりと星明かりだけの暗闇の中でも眩む感覚が不思議で、糸恩は将門から目を離せなかった。

 頭の痛みもゆっくりと引いて、噛み合わない歯車の音も静かになっていく。視界とは真逆に、頭の中は靄が晴れていくのを、糸恩は思考の外で感じた。

 ふわりと花が綻ぶように将門が微笑む。


「不安にさせてしまったね、すまない。……我が君、私が君を嫌うことなど有り得ない。私は君が何より大切だ。君の朝焼けの瞳も、雪白の髪も、全てが美しいと思う。嫌うことなど決して無い」


 糸恩の髪に愛おしげに触れながら、将門はそう諭すように言った。将門が触れている髪に視線を落としながら、糸恩は胸の中にじんわりと暖かさが広がるのを感じた。

 この暖かさを一番くれるのは、彼だった。

 これが、嬉しいと言うことなのだろうか。悲しい時の胸が熱くて痛くなる感覚とはまた違っていて、むしろ、愛おしいような暖かさ。ルシアはここにはいないから、訊ねることもできない。


「将門がいいなら、わたしは知らない人のことは、なんでもいい」


「……そうかい」


 糸恩の言葉はリタやリアたちの反応から、周りに特にそんな反応をする人が居なかったからの言葉だった。きっとその時に直面したのなら、どうでもよくなどなくなるだろうという事は、将門はわかっていたけれど、口には出さなかった。

 その事より、糸恩が将門がいいならいいと言ってくれた事が、堪らなく嬉しかった。

 年甲斐もなく、泣きそうになってしまうなんて示しがつかない、と心の中で自分を叱咤する。言葉に詰まってしまったのを、必死に取り繕うが、きっと他人(ひと)の機微に鈍感なようで敏感な王は気づいているだろう。


「それなら、この話はもう終わりにしよう。何があっても、僕が君を守るから、君は心配しなくていい」


「ありがとう」


 将門がいつもの調子で微笑んでそう言うので、糸恩もその声に応えて頷く。


 そして彼はまた次にする話を考えているようだった。

 外に出た時は中天にあった月は少し傾いて、将門の顔が月明かりでよく見えるようになっていた。先ほどのような胸につかえるような微笑みではなくなっていて、糸恩はやっと少しだけ安心できた気がした。

 先ほどまで髪のひと房に触れていた将門の手は、髪から離れて、ベンチに付いていた糸恩の手と重なっている。夜の少し冷たい風に冷えていた体に、右手からじんわりと熱が登ってくる。

 糸恩はこの感覚をどこかで知っているような、そんな気がした。けれど、それがどこかは思い出せなかった。


「それじゃあ、次は玉璽と王鍵についてにしよう」


「ルシアンが言ってた?」


「そう、よく覚えていたね」


 糸恩が聞き返すと、将門が微笑んで頷く。そんな小さな事で褒められると、何となくむず痒くなる感覚がした。それが何かわからず、糸恩はただ小首を傾げた。

 糸恩のそんな様子を少し観察しつつ、将門は話を始める。


「これは、王と英雄だけが知ることだから、ルシアンたちには話さないように。今はよくわからないかもしれないけれど、これも神が定めたルールなんだ」


「わかった」


 将門はまずはじめに、そう忠告を置いた。

 糸恩には彼の言う通り、その理由は思い至らなかったが、聖戦にも色々なルールがある事と、将門以外には話してはいけないという事、最低限のその二つはだけ理解した。


「まず、玉璽のことから。これはルシアンが言った通り、判子のようなものだ。判子は……わかるかい?」


 将門に尋ねられ、糸恩は首を横に降る。糸恩がそうしたので、将門はまず判子の説明から始めた。

 彼が言うには判子は自分の身分を示すためや、大切なものなどに自分の印を残すためにあると言う。実物を見た事があるかも聞かれたが、それにも首を横に振った。将門は今度見せよう、とだけ言って説明を終わった。物の説明は実物がないと始まらないそうだ。


「玉璽とは、その国の王様の判子と捉えてくれていい。これがないと、この国に関わることを決める時にとても困るんだ。例えば、戴冠式を行うための決定書なんかは玉璽がいる。国王命令になるからね」


「なる、ほど」


 糸恩はとりあえず頷いた。漠然とではあるが、それが無いと困ることはわかる。

 ルシアンが戴冠式をしないことには、と言っていたのを思い出した。戴冠式をしなければ、この国が危ない。玉璽が無いと、戴冠式ができないのであれば、それはとても大変なことなのでは無いだろうか。


「玉璽は、えっと、グロワール、の選帝侯が持ってる」


「そう。だから、ルシアンはそちらとの交渉に入ると言っていた。それに関しては、彼に任せておいたらいいよ。何か考えがあるのだろう」


「ルシアンならきっと、大丈夫」


 糸恩は正餐室でルシアンに任せると言っているので、それについてはもう手は出すまいと思っていたが、それでいいと将門に同意をもらえると少しだけ安心した。糸恩自身では気がついていなかったけれど、あの時頷いたことをよかったのだろうか、と心の奥底では思っていたようだった。

 ルシアンはアーヴェントリアの選帝侯の事を良くは思っていない事はわかったが、グロワールの選帝侯の事も好き、なようでは無いように見えた。

 合意の上とはいえ、彼をその話し合いに押し込めて良いのかと、思考の範疇外で思っていたことをはじめて自覚した。将門は自分の頭の中まで見えているのだろうか、と糸恩は少し不思議に思った。

 いつになく早い速度で回る思考に、糸恩の体力はそろそろ追いつかなくなってきているようだった。じいん、と目の奥が痛くなってくるが、糸恩はその慣れない感覚が不快で眉根を寄せる。そうするとすぐにじんわりとした痛みは治まった。

 辺りが静かになっていたので、はたと将門を見上げると少し心配そうな表情で、こちらを見ていた。何か言おうとしてやめたのか、口が開きかけてまた閉じるのが、目の端で見えた。

 何も聞かれてはいないけれど、平気と呟くように返した。


「それじゃあ、続きを。次は王鍵の話だ。王鍵は国の運営ではなく、聖戦に必要なもので、形はその時の王によって変わる。この国の王鍵が、今どんなものは私にもわからない」


 将門の説明を糸恩は頷きながら聞いた。

 彼が言うには、王鍵とは聖戦の王の証であるという。これを持っていなくては、王とは認められない。王の魂を模るもので、その形は手にしなければどんなものかはわからない。仮に王鍵なしに戴冠式をしたとしても、その王は聖戦に参加する事はできないのだそうだ。

 その理由は明確にある。聖戦のルールの一つに、「神々の楽園への道を開くためには十二の王の王鍵を揃える事」があるという。

 将門が言うには、このアルマティア大陸の丁度中心には神域という場所があり、その場所にははじめにアルティナと出会ったあの花畑、「神々の楽園」へ通じる門があるのだそうだ。神域の中には王から許されれば、この世界の者も入ることができるが、その門の中には王と英雄、そして天使のみしか入れない。

 その門を開くには、鍵となる王鍵が十二個必要である。聖戦とは、王鍵を奪い合う戦いのことだ、と将門は言った。

 アルティナはそんな事は微塵も言っていなかった。少し説明不足なのではないだろうか。


「どうしても、アーヴェントリアの、選帝侯に、その、王鍵を、返してもらわないと、いけないってこと?」


「そうだね。でも、近々どちらも返す事になる。過程はどうなるかはわからないけれど、王鍵も玉璽も片方だけではどうにもならないものだから」


 将門のその言葉に、糸恩は眉を寄せて首を傾げた。その様子を見て、彼はまた説明を始める。


「玉璽も王鍵も魔法で保護された箱に入っていてね。それぞれがそれぞれの鍵になっている。二つを合わせなくては、どちらも手にすることはできないんだ」


 ルシアンの詳細な話を将門が聞いたことによると、箱に入ったままでどちらも持ち出されているということらしい。その箱は、どんな剣でも魔術でも壊す事ができない、特殊な魔法仕掛けの箱なのだそうだ。その開けられない箱のことだけは、ルシアンもみんなも知っていると言う。

 どちらも使えないと言うことはみんな知っているなら、なぜ選帝侯の二人はその箱を持ち出したのか。そう将門に問うと、それは本人に聞かなければわからないけれど、渡したく無い理由があったのだろうね、とそう言った。

 その渡したく無い理由は察しもつかなかったけれど、ルシアンが嫌な顔をした理由とは別のような気がした。

 彼はもっと違うところで、選帝侯に嫌なものを抱いている気配を何となく察していた。それはとても個人的な重い感情で、まだ足を踏み入れてはならない領域であることも、糸恩は漠然と感じている。その理解を口にすることは、ついぞなかったが。

 糸恩が少し俯きつつ思案するような振りをすると、将門が続きを口にする。


「王鍵の形は様々で、我が君の王鍵がどんな形かはわからない。私が見たことがあるものでも、剣や杖……扇もあったかな。触れてみるまでのお楽しみだね」


「お楽しみ……?」


 少し茶化すような将門の言い方に、糸恩は思わず言葉を反芻する。彼は楽しそうに笑っていた。こういう少し悪戯っぽいところは、彼の根本にある部分のように思える。


「とりあえずは玉璽と王鍵についてはこんなものかな。後の事は君の手に戻った時にでも教えよう。とはいえ、そんなに教える事もないのだけどね」


 将門がそう言って、柔らかく微笑む。糸恩は手早く肯定を示すために、首を縦に振って応えた。

 口にはしないが、情報量で頭が追い付かなくなってきていたのだ。こんなに頭を働かせる事は今まで─覚えていないが─なかったと思う。

 糸恩のその様子も将門は言葉にしなくても、察してくれていたようだった。


「次はこの聖戦の事を。君の『祝福』と私の『叡智』の話をしたい」


「しゅくふく?」


 言葉を覚えたての子供のように、将門の言葉を糸恩は反芻した。彼のいうそのどちらも、全くもって聞き覚えがないものだったので、少し困って首を傾げる。


「まずは祝福と叡智のついて、一通りの説明をするよ」


 さっぱりわからないという様子の糸恩に向かって、穏やかに微笑みながら将門はそう言った。糸恩は一度頷いて、ありがとうと返す。

 ざあと城の外の木々が揺れる音がした。夜の闇の中で形も見えなくなった木々は、影のように揺れていて、少しだけ座ったままでそれに目を向けた。木々の影の中で、小さな何かが揺れた気がしたが、何かは分からなかった。

一瞬のことで目で追うこともできなかったので、糸恩はそのまま静かに視線を将門に戻した。

 彼は糸恩の目が向くまで、話を始めずに待っていたようだった。考え事をしていると思って、遠慮したのだろうか。しばらく見つめていると、クスリと微笑んで口を開いた。


「『祝福』と『叡智』は、この聖戦の主催である世界神から与えられるもので、王には召喚時に一人ひとつ、英雄には望むものにはひとつの力を与えられることになっている」


「望むもの、は……?」


「英雄の中には不要と拒む者も居てね。自分の力のバランスが崩れるから、とか色々理由はあるけれど……でも、大抵の者は拒まずに貰っているはずだよ」


「将門、も?」


 苦笑を交えつつ話していた将門に糸恩が問いかけると、彼は苦笑から苦だけを取って、また優しく微笑む。

 先程から将門はずっと微笑んでいて、糸恩にはそれが何かを押し殺しているように見えた。また何か彼の心に憂いが伸びているのかと、糸恩は目を凝らすが変化はその程度しか見られない。その変化もじんわりと馴染んで消えていっているように思えた。

 うまく指摘もできず、糸恩は表情の動かない目で彼を見つめることしかできない。その糸恩の様子を察してか察していないのか、将門は取り繕うこともせずに話を続ける。


「私の叡智は『感得』という。人の心や思い、思念などを見て、理解する力だ。この能力で大抵の悪意は跳ね除けられる」


「……すごい、ね」


 糸恩の口から素直な賛辞が転び出る。将門はそれを受けて、くすぐったそうに微笑んだ。先ほどまでの微笑みとは違って、糸恩は首を傾げた。本当に錯覚だったのだろうか、と腑に落ちない何かが心につかえた気がした。

 けれど、つかえものだらけでもう少し重くなったくらいでは鈍くなった心は、その腑に落ちない感覚も融解させていってしまうようで、少しずつ違和感がなくなっていった。

 まるで、何かに意図的に消されていくように、すんなりと。


「どんな王でも必ずひとつ『祝福』を持っている。ただ、英雄の『叡智』と違って、王の『祝福』は開花という段階がある」


 糸恩は魔力の話を聞いた時と同じように、自分の掌を見つめた。握って開いてを繰り返す。

 けれど、やはりあの時と同じで特別な何かがあるようには思えなかった。


「今は何もわからなくても、君が何かを成したいと強く願った時に、祝福は君に力をもたらすよ」


「なにかを成したい……」


「いつかはわからない、けれど、きっとその時は必ず来る。それまでは待つしかない」


 諭すような将門の声に、糸恩は頷く。

 彼が必ずと言ったのなら、必ず来るのだろう。それを疑う選択は糸恩には全くなかった。

 けれど、無力なまま力が目覚めるまで待つという事には、少しだけ不安と苦しさが残っていた。無力であることが苦しいことを、糸恩はもう知っていた。

 その感情の種類や名前は知らなくても、心の重たさと苦しさはしっかりと。


「将門が、そう言うなら、そうする」


 糸恩のその答えに、将門は微笑んで頷いた。声にして答えを返したが、糸恩の持つ選択肢はその一つしかなかったのだ。

 そのほかの答えなんて、何も知らなかった。



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