第3章 宵のかすがい〈1〉
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リッツオルフ王国の王都『ランタフェール』は水路の街である。
アルマティアには水路の文化が発達しており、「水路の街」と呼べる場所はいくつかあるが、特に有名なのがキウス帝国の帝都『ロワ・イヴェルカ』と、ここ『ランタフェール』の二つ。
この二つの都市は、初代聖戦の王の時代の天才魔術師で建築家の「アイネ・ルル」が手がけたもので、今はなき古の技巧が凝らされている。古の魔術と技が張り巡らされた水路の都市は、まるで迷宮のようで、一度細い路地に迷い込めば、二度と日の目は見れない、ということも少なくない。
お馬鹿な旅人が無茶をしては、翌朝水路の水死体になっているのも、よく聞く話である。どちらの王都の水路にも最後に“行き着く端”があり、そこら一帯は需要の為に墓場になっている。
大抵の水死体はそこの墓守が引き上げて、引き上げたは良いものの引き取り手がないので、無縁墓地に纏めて埋葬される事になる。そんな末路を辿りたくなければ、観光客は可能な限りしっかりとした水夫を雇え、と国に入る時は口酸っぱく言われるのだ。
そんな水路の街に、手っ取り早い小舟を使わずに、徒歩で歩いている者がいた。
時刻は夜半。子供も大人も、草木も眠る時間。
賑わうのは酒場と妓楼くらいの時間に、一人の老紳士が、盛大な悪態をつきながら、大通りから逸れた辺鄙な道を歩いていた。老紳士という風体をしているが、盛大な悪態をついている時点で、紳士という要素は遥か彼方に消し飛んでいる。
こんな時間にこんな道を通るのは、王都の道に慣れた都住まいの人間だけだ。道に他の人通りはないが、誰がみても厄介な老人にしか見えないだろう。
「なんで!! わしが……、せっかくこの国のために!!」
大きな声を張り上げては尻すぼみに消える、そんな酔っ払い特有の気弱な悪態をつきながら闊歩する彼は、身なりだけは上級仕官のそれだった。
かくいう彼は、この国の“元”政務長官である。
王都の上級貴族に生まれ、生まれながらに約束されたエリート仕官のコースを流されるままどんぶらこと進んで、つい昨年には─かなりの人手不足により─政務長官の座にまで上り詰めた者であった。少なくともこんな場末の酒場街からも外れた場所を、一人きりで歩いているようなものではないのは確かである。
つい三日前までは内政の長の一人である、宰相の元で自称 辣腕を振るっていたが、「とある事情」により引退した。いや、余儀なくされた。
彼が腹を立てて、気弱な悪態を繰り返しているのは、その事情によるものだ。
三日前から、ランタフェールは騒然とした空気に包まれていた。みんながみんな、浮き足立っているような雰囲気が、もう三日も続いている。
理由ははっきりしていた、三日前の深夜に鳴り響いた「聖戦の大鐘楼」の為である。この国の民は他国から響くその鐘を、もう十一回も聞いていた。そして自国の鐘がなるのを今か今かと待ちわびていた。
その待ちわびた鐘が、つい三日前に鳴ったのだ。星天の夜空に似つかわしくない大音声で鳴った鐘の音に、人々は驚き、眠っていた者もいなかった者も、老若男女皆大騒ぎとなった。
この老仕官も鐘とともに飛び起きて、召喚された王のために夜の王城へと、同僚たちと共に馳せ参じたが、そこで英雄から引退通告─実際には将門には帰れと言われただけで引退しろなどとは言われていないが─を言い渡されたのだ。
それから茫然自失の状態でなんとか自分の屋敷へ戻り、二日考えたが出てくるのは、澄ました顔をした英雄と、血筋だけで宰相の椅子に居座る若造への不満ばかり。昼過ぎから場末の酒場で飲み耽り、酩酊状態の彼が弱腰な悪態をついて、夜の街を闊歩しているのは、それが理由だった。
こんな下層の酒場街にはいつもなら絶対に来やしないが、今日ばかりは高層の高級店では漏らせないような愚痴であった為に、こんなに下まで下りてきた。しかも水路を使わずに徒歩で。隠蔽工作にかけては、右に出るものはリッツオルフにはいないと自負できると、老仕官は酒場で声高に言ったが、そんな酔っ払いの戯言を信じるものはこの辺りにはいなかった。
それが彼の不満に拍車を掛けたのだろう。後は店主に身なりを見られて、場末の酒場でぼったくられたことくらいであるが、相場をよく知らない彼は、それにはまだ気がついていないようだ。
「覚えていろ……あの英雄め……いつか、いつか吠え面をかかせてやるっ! わしを必要だと泣いて縋るまで許してやるものかっ」
「おやおヤ、勇ましイ」
暗闇の中、吐き捨てるように言った後に、どこからか聞こえた声に老仕官は思わず、悲鳴を押さえつけて短く息を呑み、後ろを振り返った。
だが、誰もいない。あるのは王都の暗闇だけだ。
なんだ、空耳か。酔い過ぎたなと自嘲を漏らし、帰路につくために前に向き直る。
「こちらデスよ」
「ヒィッ!?」
また突然聞こえた声。向き直った前を向くと、その声の主であろう、フードを目深にかむり、カーニバルマスクを顔に付けた、「誰か」がいた。
老仕官は今度こそ呑み下せなかった息と共に、金切り声のような悲鳴をあげた。
カーニバルマスクの「誰か」は、その彼の様子をじぃと見ている。本来付けている者の目があるであろう部分は、何か細工があるのか真っ黒になっていて、闇にしか見えない。
「誰か」の人の形をした体と仮面の奥には、闇が詰まっているだけなのかもしれない。
冷めざめする冬の雪みたいな殺気。降り積もる殺気は、容易に老仕官を取り殺せそうだった。老仕官はその異様さと恐ろしさに震え上がり、その場に尻餅をつく。下は硬い石畳なので痛いはずだが、そんな痛みは感じなかった。
ただ、目の前の「誰か」が心の底から恐ろしい。そればかりが頭の中を巡っていた。
「貴殿はリッツオルフ王国 内政官筆頭のギュースタス伯爵 バーナード様でお間違イないですネ?」
「ぁ、あ」
老仕官──バーナードが返事とも、悲鳴とも取れない、曖昧な声を口から漏らす。その声を聞いて、カーニバルマスクの奥の顔が、恐ろしく微笑んだように思えた。
顔は青ざめ、体は震える。先ほどまでの威勢は、とっくに尻尾を巻いて逃げ出していた。
「誰か」はこの国ではない、どこかの訛りを持っていた。以前は外交府に居たバーナードだからわかるが、不規則なそれは南の方の訛りに似ていた。
東方領域か、はたまたもっと南の海に近い国か。けれど、これといって断言できる場所は浮かばない。色々な訛りが、複雑に重なり合っているような気はした。もしかすると該当するような場所はないのかもしれない。
意識がはっきりとしていたらわかったかもしれないが、バーナードは心の底から怯えていたので、そこから先には思考が廻らなかった。
「私、貴方様にお聞きしたいことがありまシテ、こちラにてお待ちしておりマした」
まるで、バーナードがここを通ることが、ずっと前からわかっていたような言い方だった。
真実、「誰か」にはわかっていたのだろう。道化師が履くような先がくるりと上を向いた靴が、音を立てて近づいてくる。
あと二歩分、その距離まで差し迫る。「誰か」はバーナードへ手を伸ばした。
その時、建物を挟んだ大通りの方で、馬蹄が近づいて来るのが耳に届いた。音は三つ。かなりの速さで近づいてきているのが、音を肌に感じてわかる。
バーナードは咄嗟にそちらへ手を伸ばして、まだ誰とも知れぬ馬蹄の主に向かって、何とか助けを請おうとした。
「だっ、誰か!! ぐぎゃっ」
「おっと、危なイ危なイ」
だが、逃げようとした彼の背を、「誰か」の道化師の靴が踏みつける。その拍子にバランスを崩して、バーナードの体は地を這うことになった。衝撃で漏れた空気は、悲鳴を伴って口から出て行く。生まれて初めて感じる、見えぬ方からの体を走る痛み。
戦のない時代を生きた政務官は、体に走る痛みに苦悶の表情を作った。その間に高らかに響いていた三つの馬蹄は、遠く遠くへ過ぎていく。その遠ざかる音が何より、彼にとっては絶望に思えた。
「逃げなイでくださいまセ。まだ要件ハ済んでおりマせんかラ……ネ?」
その彼の様子を見ても、調子を少しも変えず、むしろより愉快そうな声で「誰か」はそう言う。まだ背に足を乗せたまま、体を折り曲げて「誰か」はバーナードに顔を近づける。
まるで幽鬼のような仕草。化け物が人間を取り殺す前に、値踏みをしているようだった。
そう考えれば、バーナードは脂がのった肥えた羊に見えてくる。
「誰か」は一度彼から足を下ろし、同じ足で老人を反対に転がした。そして、バーナードの首元のタイを襟ぐりごと掴み取り、持ち上げる。
首が絞まって、痛みに苦悶を浮かべていた顔が、青くなっていく。今にも泡を吹いて気絶してしまいそうであるが、そうならないように「誰か」は手先で加減をしているようだった。
辛うじて掴み上げる「誰か」の手を引き剥がそうと、自らの手を添えるが力は少しも入らない。
「何、お話頂ク必要は無イのでス。ただ、見せテ頂ケれば……」
「ヒィッ」
暗闇の中、バーナードを掴み上げている方とは反対側の手で、「誰か」は自らの顔を隠す仮面を取った。
月明かりを背にして、影にはなっているが、普通“ある”のなら、そこには何かしらの造形が見える筈だった。
いくらフードで明かりが遮られているとしても、少しは何かの形が。
だが、そこには何もない。何も、“無い”のだ。目も、鼻も、口も、顔の形も何もない。夜の井戸の中を覗いているような、何もない無限の虚無がそこにはあった。
「いタだきまス」
「誰か」のそんな言葉と同時に時空が歪むように、二人の間の景色がゆっくりと回転する。ズズ、ズズ、と何かを吸い込むような、引きずるような、音がバーナードの鼓膜に響く。「誰か」の顔の辺り、そこから目を逸らせなくなる。
まるで自分の中にあるものを、全て吸い出されて行く感覚。記憶が、心が、吸い込まれて行く感覚がした。反時計回りに空間が捻れて、何もないその奥へ座れていくように、彼には感じた。
ああ、ああ、と叫びにならない声が、漏れては闇に溶ける。それを拾って助けてくれるような人は、この路地にはいないようだった。
しばらくの時─バーナードにとっては数百年にも近い時間─が経った。「誰か」の手に添えていた、バーナードの手が力なく下に落ち、それを合図にでもするように、その体は宙へと放り投げられる。
「ご馳走様デした」
カーニバルマスクを付け直した、「誰か」の暗い声が路地に響いた。したたかに地面に打ち付けられたバーナードは、肺に酸素を急激に取り込んだことで、激しく噎せる。
荒い息を何度も繰り返して、やっとの事で平静を取り戻そうとする。その様子をカーニバルマスクの闇の瞳が、またじいと見ていた。もう興味はないと言うように、冷淡な視線が注がれる。興味を失っているのに、「誰か」はその場を離れなかった。
「まずは、お礼を。貴方様のお陰デ、欲シかったもノを、手に入レられました。これで、彼の王のお役にたテます」
ゆるりと長い衣を翻して、「誰か」は神にでもするように、優雅なお辞儀をバーナードに向かってした。
涙に霞む視界でそれを見て、バーナードは少し安堵の息を漏らす。何を取られてしまったのか。それはわからない。けれども、そうして礼をとる目の前の者が、これ以上の危害を加えるとは思わなかったのだ。
助かった、と本当にそう思った。
「お、お前は、どこの」
「……私? 私ハ、しがない旅人ですヨ。お気になさらず」
生まれた少しの余裕で、バーナードはついそう問いかけた。長らく国の重鎮を務めていた自分に危害を加えたのだから、然るべき処罰を……などと、余計な気を回してしまったのだ。
そのまま命からがらに逃げていれば、まだよかったのかもしれない。余計なプライドなど全てかなぐり捨てて。けれども、彼はそうしなかった。
怒りを込めた声の問いに、「誰か」は難なく答える。本当に興味無さげに聞こえた。事実、もう興味など、かけらもなかったのだ。
その殺気はとても静かだった。夜の闇に溶けるような、砂糖菓子のように甘やかな殺気。震え上がるような先ほどまでの雰囲気は消え失せて、漂った穏やかさに老仕官が安堵した時。
彼の平和じみた期待は、軽々と踏み躙られる。一瞬の事、フード付きマントの腰あたりに手を伸ばした、「誰か」の手には抜き身の剣があった。
「え?」
老仕官の漏らした声を搔き消す様に、「誰か」の白刃が月の光を反射して、暗闇の中を閃いた。
ゴトリと硬い音が路地に響く。血飛沫もあげずに、ただ大きな血だまりを作って、老仕官はそこに倒れる。目を見開いて転がった老人に、完璧に興味をなくした「誰か」は、少しだけそれを見ていると、おもむろに脇のあたりにひと蹴りを入れて、水路へ叩き落とした。
まるで、ただ要らなくなったゴミを、水路に投げ入れるように。そして、少しの前触れもなく歩き出し、路地から町の高い方へと消えていった。
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元内政官筆頭 ギュースタス伯 バーナードの無残な死体を“行き着く端”の墓守の老人が見つけたのは、次の日の朝方の事だった。




