~第52話 求婚~
本人自身から手渡された合い鍵を鍵穴に差し込んで開け、音を立てないようにそっと廻す。
鍵が開いたことを確認したあと、ゆっくりとドアノブを回して玄関のドアを開けて中に入ると、玄関の上りかまちに脱ぎ散らかされたパンプスが転がっているのが見えた。
それを苦笑しながらそっと揃えてやったあと、自分の靴を脱いで中に入り、玄関からリビングまで続く廊下のあちこちにスーツやブラウスや、下着やらが脱ぎ棄ててあって、リビングのテーブルの上にはコンビニで買ったと思われる食べさしの弁当に、飲みかけの酒瓶やら、ビールの入った小樽やら、あとはファッション雑誌や女性向の漫画雑誌などが散乱している。
キッチンのほうに目をやると、洗われることなく放置された食器の山が。
リビング横の寝室からは、普段のクールな彼女からは到底想像できないような凄まじい鼾の音。
見慣れた光景と聞きなれた音に驚くこともなく、持ってきた荷物をリビングの端っこのスペースに置くと、カバンの中から愛用のエプロンを取り出して身に着けて、手慣れた様子で部屋の中をテキパキと片付けていく。
まず部屋の中に散乱している食べ物をゴミ袋に捨ててしまい、飲みかけの飲み物で明らかに匂いがおかしいものはキッチンの流しから捨ててしまう(と、いうかほとんどそうであった。)、雑誌類はまとめて部屋の隅っこに重ねて置き、衣類は洗濯するものとクリーニングに出す物にわけ、洗濯するものはまとめて念動洗濯機の中に放り込んでしまう。
クリーニングに出すものはハンガーにとりあえずかけておき、別に置いておく。
そして、洗濯機のところにいって洗剤と水を流し込んでスイッチを押すと、今度はキッチンにもどりたまった食器をきれいに洗って片づけていく。
洗った食器類は持ってきた奇麗な布巾ですべて拭いてしまい、食器棚へ。
とりあえず、リビング、キッチンとあらかた片付いたのを確認したあと、今度は風呂場に行って風呂場の掃除を始める。
多分この部屋の主が知ると本気で嫌がるであろうから、寝ているいまのうちに、排水溝の掃除などもやってしまう。
勿論中の壁なども奇麗に掃除して流し、ぴかぴかにする。
いろいろなゴミを収納したゴミ袋は匂いがすごいことになっているので、とりあえずベランダに持って行き二重三重に袋をかぶせて密閉し明日の月曜日に出せるように用意しておく。
これらが終わり一段落ついたころにちょうど洗濯機が終わっていたので、洗濯物を中から取り出して、ベランダに干していく。
今日は幸い快晴で洗濯物を干すには絶好の天気である。
普通の衣類は外側に、下着類は見えないように普通の衣類の内側に来るように干していき、これらの作業が終わるころにはすっかり陽は昇ってしまっていた。
一つ大きく伸びをして深呼吸し、ベランダの手すりにもたれかかって見慣れた城砦都市『嶺斬泊』の街並みを見渡す。
たった数日離れていただけだというのに、非常に懐かしい感じがする。
徹夜明けで気が昂ぶっているだけなのかもしれないが、まあとにかく無事帰ってこれてよかったと心から安堵の溜息を吐き出し、もう一度大きく伸びをすると、よしっと気合を入れて中に入り、リビングに置いている自分の荷物の中から途中で買ってきた食材を取り出してキッチンに向かう。
いつも通りに手際よく食材を調理し、この部屋の主の為の朝食を作っていつでも食べられる状態にしたあと、カバンからメモ帳と筆記用具を取り出してキッチンのテーブルに座り、この部屋の主に向けた置手紙を書いて置いておく。
また、リビングに戻りこの部屋の為に買っておいたお土産を出してリビングのテーブルの上に出して並べておき、ここにも同じようにメモを置いておく。
そのあと荷物が減って軽くなったカバンを抱えたあと、鼾が聞こえなくなった寝室の襖のほうをしばらく見つめ、何度かその襖に手をかけて開けようとしたりやめようとしたりを繰り返していたが、やがてがっくりと肩を落とすと自嘲気味の笑みを作りその身体を玄関に向かわせる。
そして、玄関の前に到着して坐り込むと自分の靴をとってはこうとする。
初めてこの部屋を訪れたときと同じように、静かに去って行くつもりで。
が・・
突如、寝室の襖ががらっと開いて、中から飛び出した何かが疾風のような恐ろしいスピードで玄関に向かっていく。
ダダダダダダダダダ!!
物凄い足音を響かせながら突進していったその影は、いままさに靴をはこうとしていた人物の上に襲いかかる。
虚無を連想させるような怖いくらいに白い顔、突き出た鼻づら、耳まで裂けた大きな口、その口にはズラリと並ぶ凶悪な鋸刃のような犬歯、血走り赤々と光る吊り上がった瞳、全身を覆う金毛、二足歩行をしてはいるものの、その姿は紛れもない獣・・成人の『人』と同じくらいの大きさをしたその狐は、部屋を出て行こうとした人物を押し倒し、その肩に噛み付いた。
かぷっ。
その鋭い犬歯で鮮血が飛び散るかと思われたが、狐は噛み付く瞬間牙が当たらないように甘噛みすると、あごの力だけでぶんぶんと首を振り回す。
よく見ると、その目は恨めしそうに噛み付いた人物を見つめながらぽろぽろと涙を流している。
そんな狐の姿を押し倒されて下から見上げた人物は、バツが悪そうに狐の姿をそっと抱きしめる。
「ご、ごめんなさい、玉藻さん、てっきり寝ていらっしゃると思ったものですから」
〜〜〜第50話 求婚〜〜〜
連夜の心からの謝罪を聞いて一瞬心が動いたようだったが、すぐに表情を曇らせて、う〜〜と、唸り声をあげていやいやと口を連夜の肩から離そうとしない。
それどころか、口を離したかと思うと、しゃ〜〜っと口を大きく開けて押し倒した自分の真下の連夜を威嚇する。
パカッと開いた大きな口から覗くズラリと並んだ鋭い犬歯が異様にギラギラと光り、事情を知らない者が見れば恐怖に慄きそうな光景であったが、押し倒されている連夜はむしろ恐怖よりもなんだか悲しそうというか、困惑しきった表情を浮かべそんな狐の表情を見つめている。
しばらくどうしようか悩んでいた連夜だったが、すっと両手を伸ばして狐の顔を挟むと自分の顔のほうにもってきて、狐の口の周りをぺろぺろ舐める。
そのときに狐の犬歯が当たって連夜の口の周りが切れてしまい、血がだらだらと流れ出ていくのにも構わず優しくなめ続けていたが、その様子に気がついた狐がぎょっとして慌てて自分の顔を少し連夜の顔から離し、猛烈な勢いで連夜の顔の傷ついたところをぺろぺろと舐めていく。
連夜はそんな狐にされるがままの状態で、狐の瞳をじっとみつめながら口を開く。
「あの・・一度家に帰ってから改めて来るつもりだったんです。本当はまだ帰ってきたばかりで片付いてないこともあって・・でも、やっぱり玉藻さんに会いたくて・・その、大事なお話もあったりで・・」
一瞬連夜の傷口を舐めるのをやめてその言葉をじっと聞いていた狐は、真意を探るように真下の連夜の顔を見つめていたが、また傷口を舐めるのを再開しつつ、狐の姿のままで口を開いた。
『でも、結局会わないで帰ろうとしたじゃない・・』
「いつも通りに玉藻さんが、寝ていることがわかったら安心しちゃったんです。ああ、僕帰ってきたんだなって。それと、そのあの・・勇気がでなかったというか・・」
拗ねたように、というか、完全に拗ねているとわかる言葉を思念を通して伝えてくる狐に、本当に申し訳ないという表情で答えを返しながらも、どこかごにょごにょと言葉を濁す連夜。
もう、自分の真下にいる愛しい年下の恋人が本当に反省してる様子はよくわかっていたが、ここ数日の寂しさを思い出すとどうにも堪え切れず、またもやぽろぽろと涙を流して泣き始める狐。
『自分だけ安心しないでよ・・私だって・・私だって連夜くんに会いたかったのに・・』
「ご、ごめんなさい、本当にすいません、僕も玉藻さんの御顔を直に見たかったんですけど、どうしても寝ているのを叩き起こしたくなくて・・というか、その起こしてしまったあとにどう話を切りだそうかというか・・」
『う〜〜〜・・そういう時はいいから起こしてよ〜〜。ちゃんと起こして抱きしめてくれないといやよ〜〜』
またもや連夜の肩に涙目のまま”かぷっ”と噛み付く狐。
勿論歯を立てるような真似はしないが、さっきよりは若干力を入れる。
しかし、愛しい恋人の口の周りからまたもや血が流れ出しているのが目に入り、慌てて口を離すと口の周りから流れ出て行く血をぺろぺろと舐めとる。
『も、もうもう!! なんでこういうことするの、連夜くんは!! 狐になってるときの私の歯って結構鋭いのよ、ナイフみたいにスパスパきれちゃうのよ!! 傷になって残ったらどうするのよ、もう!!』
「傷がついた顔の僕はキライですか・・?」
『バカッ!! そんなこと言ってないでしょ!! 怪我しないでって言ってるのよ!! 馬鹿っ!! 鈍感!! 朴念仁!!』
「うう、すいません」
さんざんの連夜であったが、言われた内容については確かに言い返すことができないことばかりだったので、とりあえず素直に謝る。
狐は怒ったように連夜の顔を舐め続けていたが、このまま怒り続けて変な風に二人の関係にひびが入ってしまうのも嫌だったし、何よりもそろそろ連夜に本格的に甘えたくなってきたので、狐の姿から『人』の姿にもどると潤んだ瞳で連夜のほうを見つめたまま、噛み付くようにして唇を重ねる。
重ねた連夜の口からは鉄に似た血の味が広がってきて玉藻は悲しくなってしまったが、連夜のほうが構わずに優しく玉藻の身体を抱きしめたまま玉藻の求愛行動に応じてくれたので、ちょっと安心してしばらくの間お互いの口を重ね続ける。
何度か離しては重ね、重ねては離すということを玉藻はしつこいくらいに要求し続けたが、それでも連夜はいやがる素振りをみせずに、ずっとその行為に黙って付き合い続けてくれた。
そして相当しつこく続けた果てにようやく満足した玉藻は、連夜から口を離すと、その白い手で連夜の顔を挟み込み愛憎入り混じった複雑な表情で見つめるのだった。
「私に黙って帰ろうとした連夜くんに気づいたとき、本当に憎かったわ。憎くて憎くてたまらなかった。こんなに人が寂しい思いを抱えて三日も過ごしてきたのに、顔もみないで帰ろうとするなんて、なんてひどいやつだろうって。どこでもいいから噛み付いて肉ごと引きちぎってやるって思った」
「そうしてくれてもよかったのに・・」
連夜がそう言った瞬間、玉藻の白い手が思いきり連夜の顔を殴っていた。
一瞬のあと、玉藻は自分が反射的にやってしまった行動に気が付いてしばし呆然とする。
物凄い打撃音がしたあと、連夜の片頬がみるみる赤く染まってはれ上がっていくのを見て、顔を青ざめさせる玉藻だったが、連夜は殴られているにも関わらず薄い笑いを浮かべていた。
「ご、ごめん・・だ、だけど連夜くんがあんなこと言うから・・」
「そうですね、失言でした。僕が悪いので謝らないでください」
動揺して表情がみるみる歪んでいく玉藻とは対照的に連夜の表情はどこか穏やかであった。
そのことに気がついた玉藻は連夜がどこかおかしいことに気がついて、眉をひそめていたが、連夜から離れて立ち上がると、帰っちゃだめよと念を押しておいてキッチンのほうにもどり、水で冷やしたタオルを持って戻ってきて、そのタオルを自分が殴ってしまったほうの頬に当ててやる。
連夜は一瞬痛みと冷たさで顔を歪ませたが、すぐにまた元の穏やかな表情にもどりむしろ玉藻を気遣うような視線を送る。
「玉藻さん、手は大丈夫ですか? 怪我とかしてませんか?」
「私のことよりも、自分のことを心配しなさい!! もう、ほんとになに考えているのよ・・いや、ごめん、痛いよね」
「はい、痛いです。あはは」
「何笑っているのよ・・」
怪訝そうに見つめてくる玉藻に、なぜか朗らかに笑ってみせる連夜。
しかし、連夜は別に無理して笑っているわけではなかった。
痛みを感じることができるのも、恋人にこうして怒られたり喧嘩したりすることができるのも、全ては自分が生きて帰ることができたからだと思うと当り前のことだが死ななくてよかったと心から感じることができて、なんだかほっとしてしまったのだ。
やむを得ない事情があったとはいえ、自分は二つ・・いや、三つの命を奪ってしまった。
直接的にではなかったとはいえ、彼らを死に追いやったのは紛れもなく自分なのだ。
他にやりようがあったのかもしれないが、未熟な自分には他に方法がなかったし、あのときは自分以外の命も預かっていた、どうしても死ぬわけにはいかなかったのだ、だからこそ生き残るための選択だった。
だが、それでもそれが正しいことだったのかどうか未だに心のどこかで悩み続けている自分がいた。
もっと何か考えることができたのではないか、もっといい方法を考えつくことができたのではないかと。
しかし、このこともまた自分が生き残ったからこそできる悩み、悔恨なのだと気がついた時、本当に生きていてよかった、生き残れてよかったと思っている自分がいたのだ。
そう考えると、そんな風に思っている自分がおかしくなってしまい、思わず笑ってしまったのだが、なんだか、心の重みが大分楽になったような気がした。
恐らく彼らの命を奪ってしまったことに対する負い目は一生背負っていくことになるだろうが、それでももうそれに押し潰されそうになることはあるまい。
連夜は心配そうに見つめている目の前の恋人のほうに真摯な瞳を向ける。
「玉藻さん、ありがとうございました」
「は!? 連夜くん、何言ってるの?」
「いえ、気にしないでください。それよりも、ほんとにごめんなさい、くだらないことを口にしました。玉藻さんの気持ちも考えずにそうすればいいだなんて・・できることなら恋人に噛み付きたくなんてないだろうし、憎みたくもないですよね。思慮が足りない恋人で申し訳ないです」
突如として元通りの優しい恋人の表情に戻った連夜が、的確に玉藻の心情を理解して謝罪してくるのをしばし呆気に取られて見ていた玉藻だったが、物凄い不審な表情を浮かべてじ〜〜〜っと連夜の顔を見つめる。
連夜がその顔を見返してみると、なんだか物凄い悔しそうな視線でこちらを見つめている。
「連夜くん・・」
「は、はい?」
「今、一人で何かを乗り越えたよね? 私の力に頼ることなく一人で何かを乗り越えていっちゃたよね?」
(え、エスパーか、この人!?)
正確に連夜の心を読み取ったように鋭くツッコミを入れてくる玉藻にのけぞる連夜だったが、一瞬の間のあと、自分の母親にそっくりの笑顔を浮かべて口を開いた。
「・・そんなことないですよ」
「嘘付き!! 今、物凄い間があったじゃない、あれはいったい何よ!? ぜ〜〜ったい、そうなんだから、もうっ、何回言ったらわかるのよ、一人でなんでも解決するの禁止!! ちゃんと私に話しなさいってば」
「玉藻さんったら、そんなにいつもいつも僕が悩みを抱えていると思っているんですか? 僕、そんなに真面目な人間じゃないですよ」
「連夜くん、私の目を見て話をして」
玉藻がジト目で見つめると、一筋汗を流しながらつつ〜っと視線を外し、あ〜ほっぺ痛いなぁなんてあからさまに誤魔化そうとする連夜。
しかし、誤魔化し切れないと悟った連夜は、あ、そうだとわざとらしく手を打ってみせていそいそと立ち上がる。
「玉藻さん、起きていらっしゃったことですし、朝食の用意しましょうか、ね」
「待て待て待て、話終わってないでしょ!!」
キッチンに向かおうとする連夜の後ろからしがみつく玉藻、そんな玉藻をずりずりと引きずりながらキッチンに向かった連夜は、茶碗に白ご飯をよそってやり、保温している味噌汁をお椀に、霊蔵庫からは特性卵焼きと浅漬け、あとサバの味噌煮を取り出してテーブルの上に並べる。
そして、後ろにしがみついた玉藻をひょいと抱き上げて椅子の上に座らせる。
物凄いぶすっとした表情を浮かべてこっちを見ている玉藻に苦笑を浮かべて見せる連夜だったが、自分のカバンからなにやら新聞紙で包まれた何かを取り出してきてテーブルに並べた後、新聞紙をはずして中身を取り出すと流しで奇麗に洗う。
「連夜くん、それって」
玉藻が怪訝そうに見つめていると、連夜は照れくさそうにほほ笑む。
「はい、僕の茶碗とお椀と箸です。僕も一緒に朝食いただきますね。あと、この家に置かせていただきますから間違って使わないでくださいよ」
そう言って自分のお茶碗にもご飯をよそおい、味噌汁を入れる、あと予備で用意しておいたらしい卵焼きや浅漬け、サバの味噌煮も出してきて一緒に並べると、玉藻の対面に座りいただきますと言って食べ始めた。
しばらくもぐもぐと食べていた連夜だったが、なんだか呆然としたまま箸をつけようとしない玉藻を怪訝そうに見つめる。
「玉藻さん、食べないんですか?」
「え、ああ、食べる。食べるわよ」
連夜の言葉にはっと我に返った玉藻が慌てて箸を取り、ご飯を食べ始める。
相変わらず連夜が作ったものはどれもこれもよくできていて、腹が立つくらい美味しかったが、それよりも差し向いで連夜と一緒に食べているということが気になって気になって、なんだか無性にドキドキしてくる。
意識しないようにすればするほど目の前の連夜のほうに目が行ってしまうのだが、当の連夜は最初からこっちをにこにこしながらガン見しているので余計に照れくさくなってくるというか、しまいには食べているものの味がわからなくなってくる玉藻だった。
「あ、あんまりこっちをジロジロみないでよ、恥ずかしいじゃない」
「え、ああ、すいません、玉藻さんの顔を久しぶりに正面からみることができて嬉しくてつい・・」
と、言って今度は下を向いて食べ始めてしまう連夜。
そんな連夜を見ていると今度は急に寂しくなっていたたまれなくなってくる玉藻。
「む、無視しないでよ、物凄く寂しいじゃない・・」
「ええええ、で、でも、今、見ていたら恥ずかしいからって・・」
「こっちが恥ずかしくない程度に、私を寂しがらせないように見て食べて」
「む、難しいんですけど・・」
恐ろしく高度なテクニックを要求してくる玉藻に慌てふためく連夜だったが、目の前の玉藻はどうやら真剣に言ってるようで、なんだか涙目になってこちらを睨んでいる。
連夜はその姿を見て逆らうことを諦めると、乾いた笑みを浮かべて目の前の恋人を見るのだった。
「わ、わかりました、やってみます」
我儘言っていることは重々承知していたが、もう今日は甘えたい放題甘えると決心した玉藻は、とりあえず思いついたことはなんでも言ってやろうと思っていた。
連夜に嫌われたくはなかったが、それでも目の前の恋人が甘える自分を突き放すことはないと断言できるくらいには、玉藻は連夜が自分に対して抱いている愛情に自信を持っていた。
それに気が付いているのか、目の前の愛しい年下の恋人は目線でもうちょっと手加減してくださいよ〜っと言ってきているのがわかった。
しかし、それをスルーして気がつかない振りで朝食を食べ続ける。
その玉藻の様子にはぁっと溜息をつく連夜だったが、ふと目線を目の前の玉藻のほうに向けると、潤んだ瞳で今日だけはいいでしょ?と聞いてきているのがわかってしまい、何も言えなくなってしまうのだった。
連夜は連夜で、もう大概のお願いは聞いてしまおうと決心していたのだった。
そんな風に仲良く朝食を食べ終えた二人。
連夜は自分と玉藻の分の食器を流しにつけると洗い物を始め、後ろで食後の東方ブレンド茶を飲んでいる玉藻に声をかける。
「そういえば、玉藻さんそろそろ着替えていただけませんか? そのジャージ洗いますから」
「あ〜、ごめん、それじゃあお願いしよう・・か・・」
と言いかけて固まる玉藻。
途中で返事が止まってしまったことに気が付いて、怪訝そうに振り返った連夜は、物凄く情けない表情でこっちを見ている玉藻の視線とぶつかる。
「ど、どうしたんですか?」
「ま、また見られたのね・・私・・」
「え、何をですか?」
「この姿・・」
「あ・・」
物凄くダサいことでは定評のある御稜高校の正式ジャージ姿に身を包んでいたことに今更ながらに気がついた玉藻は、死んで消えてなくなってしまいたいという表情を浮かべてがっくりと肩を落とす。
そんな玉藻を、玉藻さんは中身が美しいんだからいいじゃないですか、と励ます連夜。
「ジャージが似あわないってことは、それだけ玉藻さんが奇麗だからでしょ?」
「ほんとに? ほんとにそう思う?」
上目づかいに連夜を見つめてくる玉藻に、力強く頷いてみせる連夜。
「当たり前じゃないですか。そもそも玉藻さんくらいの美人て僕、今までに数人しか見たことないですよ」
「そっか・・って、待て待て、私くらいの美人を数人見たことあるって、いったいどこでよ!?」
「・・その・・家で・・」
「ああ・・そうね」
連夜の言葉の中に聞き逃せない単語があって、問い詰めようとした玉藻だったが、その答えを聞いて納得し脱力する。
二人の脳裏に外面容姿は完璧に近いのに中身がまるでだめなある特定人物が浮かんできて、二人は溜息を吐きだしながら疲れた笑みを浮かべるのだった。
「まあ、確かにあれは外面だけはいいものね・・それにスカサハちゃんは確かに美少女だし」
「あはは、確かに」
そう言ってしばらくお互い笑いあっていた二人だったが、急に玉藻が俯いて何かを考え始め、しばらくしたあとに真剣な表情を浮かべて連夜のほうを見る。
連夜はそんな玉藻の表情をきょとんとして見つめていたが、やがて、玉藻は妙に艶やかな色を瞳に宿して口を開く。
「連夜くん、本当に私のこと奇麗だと思う?」
「はい、勿論です」
「連夜くんのこと疑うわけじゃないけど、もう一度聞くから、そのとき、ちゃんと私を見て言ってくれる?」
玉藻の言葉の意味がわからず首をかしげて聞いていた連夜だったが、玉藻は薄い笑みを浮かべていたかと思うと、いきなりジャージを脱ぎ始めた。
「た、玉藻さん!?」
吃驚仰天する連夜が止める間もなく、ジャージどころか下着すらも全部脱ぎ棄てて、すべてを露にして連夜のほうに向く。
「連夜くん、わたし・・奇麗? 結構身体のあちこちに傷があるし、性格だってほんとは悪いのよ。そんな私でも奇麗だって言える?」
連夜は一瞬目線を玉藻から外していたが、顔を真っ赤にしながらも玉藻のほうをまっすぐに見つめた。
「奇麗ですよ。誰よりも奇麗です。だって、僕が大好きな玉藻さんなんですから」
「じゃ、じゃあ・・」
そう言って近づいた玉藻は熱っぽい表情で熱い吐息を吐きだしながら連夜に抱きついた。
「お願い・・わかるでしょ?」
連夜はそんな玉藻をしばらく真剣に見つめていたが、やがてそっとその身体を離させる。
その連夜の行動にショックを隠しきれない表情を浮かべる玉藻。
しかし、連夜は慌ててその玉藻に自分の心を打ち明けるのだった。
「ま、待った待った、玉藻さん、いや、拒絶しているわけじゃないんです。近いうちにこうなるだろうなって思っていて、自分なりに決心がついているんですよ。でも、その前にお願いですからちょっとだけ僕のお話聞いてもらえませんか? それさえすめば、僕、玉藻さんの想いに応えますから」
なんだかわからないが、とりあえず、連夜が拒絶の意味で身体を離したわけではないとわかりちょっとだけほっとした表情を浮かべる玉藻。
そんな玉藻が風邪をひかないように、連夜は自分のカバンからコート出してきてとりあえず羽織らせて、キッチンのテーブルに座らせる。
そして、何やら物凄い真剣な表情を浮かべると、カバンの中に手を突っ込んで中から小さな箱を取り出した。
奇麗にラッピングされたそれを持った連夜は、非常に難しい表情をして考え込んでいるようだったが、やがて立ち上がると、玉藻の目の前にいってすっとその箱を両手で差し出した。
玉藻は何が何だかわからなかったが、連夜がその箱を受け取ってくれといってるものと察して受け取ろうとする。
が。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「?」
箱を取ろうとした瞬間、連夜が玉藻に声をかけて動きを止めさせる。
玉藻が連夜の顔をみると、非常に緊張しきった表情を浮かべていて何かを言いたそうにしているのだが、口を開けたり閉めたりを繰り返している。
「な、なんなの、連夜くん」
「あ、あの、その・・つまり・・」
「う、うん、何?」
「僕が十八歳になるまで無理なんですけど・・その・・」
「え・・」
「来年の僕の誕生日がきたら、つまり五月五日の日にその・・十八歳になったら・・僕と、け、け・・・・結婚してください。」
ついに言っちゃったという表情をする連夜と、言ってもらえたという表情を浮かべる玉藻。
しばらくお互いがなんともいえない表情で見つめあって固まっていたが、先に連夜が我に返り慌てて付け足すように言う。
「そ、それで、その、それを承知していただけるなら、その・・この、箱を受け取って中身をはめていただけると・・」
それを聞いた玉藻はひったくるようにしてその箱を連夜の手から取ると、ラッピングをもどかしそうに破って捨てて中の青い小さな箱を開けてみる。
そこには大粒の『念素石』がはめ込まれた見ただけで絶対高いとわかる指輪が燦然と輝いており、玉藻はそれを急いで取り出して自分の左手の薬指にはめる。
そして、その指輪をはめた手を胸に押し抱くようにして抱きしめると大粒の涙を流して泣き始めた。
「う・・うれしいよ・・連夜くん・・ありがとう・・うおう・・その・・うう・・結婚・・お受けします・・」
その言葉を聞いて連夜は全身の力を抜き、ほ〜〜っと安堵の吐息を吐きだした。
「よ、よかったぁ・・これで断られたらどうしようかと思いました」
「も、もっと先にならないと・・言ってくれないと思っていたんだもん・・う、うれしいよお・・」
いつまでも感激のあまりに泣きじゃくり続ける玉藻の姿を見て、自分自身も込み上げてくるものがあったのか、潤んだ瞳を見せないようにするかのようにそっと玉藻の身体を抱きしめる連夜。
「僕もね、ほんとはもっと先にならないと無理だなあって思っていたんですけど、ちょっと商売がうまくいきまして、ある程度見通しがついてきたものですから。もし、玉藻さんをすぐに養わなくてはならなくなってもやっていける程度には自立していけると思うのです。だから、その、つまり・・僕と玉藻さんの間にその新しい命ができたとしても、僕がちゃんと養いますから」
連夜の思いもかけぬ告白に、びっくりして思わず顔をあげる玉藻だったが、その言葉を聞いて今回の連夜の仕事についてなんとなく察しがついてしまった
「ま、まさか、その為に仕事に出かけていたの?」
玉藻の言葉を肯定するかのようにバツが悪そうに顔を背けて頭をかく連夜。
「その・・玉藻さんが、小さい時から都市在住の『療術師』になって小さな小児科医を開業するのが夢だっていうことはみ〜ちゃんから聞いていて、その夢の実現のために大学に通っているのは知っていたんです。でも、僕とのことで大学をやめないといけなくなったりしたら嫌だなって・・もし仮に一時的に大学を離れることになっても休学ってことにしてまた通うことができるように、ある程度まとまったお金があればって。一応今なら親子三人で暮らしたとして、玉藻さんが大学に通い続けたとしても十年は楽に暮らせますから」
照れくさそうに言う連夜だったが、玉藻は逆に顔面が蒼白になっていっている。
それだけの金額を稼ごうとすると、普通の方法で稼げるわけがないからだ。
と、いうことは・・
「れ、連夜くん・・また、危ないことしたわね・・」
「あ・・」
しまった〜〜〜!!という表情をする連夜に、玉藻の表情がみるみる怒気で真っ赤になっていく。
「れ、れ、れんやく〜〜〜ん!!」
「ち、ちょっと待ってください、玉藻さん、お願い、もうちょっと僕の話を聞いてください。そのあとでならいくらでも怒られますから!!」
本気で怒りを爆発させかけた玉藻だったが、連夜の必死の言葉にとりあえず怒りを保留させる。
しかし、事と次第によってはただでは済まさないとその表情は雄弁に語っていた。
それを見て困った表情を浮かべる連夜だったが、バレテしまったからにはもう怒られるのは仕方ないなと思いつつも、それでもそこに至った自分の心情だけはわかってもらわなければと言葉を紡ぐ。
「いや、玉藻さんだけの為に稼いだわけじゃないんです、むしろ自分の為にやったことなんですよ」
「自分の?」
「ええ、その・・もう僕のほうが限界だったんです。正直僕も男なので、玉藻さんみたいな奇麗な人と一線を越えてもっと深い仲になりたかったんですけど・・でもやっぱり玉藻さんの夢を壊すことも怖くて・・自分自身を納得させるためにもどうしても今回のことはやり遂げないといけなかったんです。確かに玉藻さんのお察しどおり少しばかり危険なこともありましたけど、おかげで今の僕は堂々と玉藻さんを求めることができます。僕は・・玉藻さんを抱きたいです」
少しばかりのところだけ、嘘をついたが、他の部分は間違いなく自分の本心だった。
自分の思った通りやっぱり危険なことをしていた連夜に怒りの炎が燃え上がりそうになる玉藻だったが、同時に初めて連夜にストレートに自分の身体を求められて嬉しくもあった玉藻だった。
内心でかなりの葛藤があったが、連夜に対する説教はあとで詳しくもう一度内容を聞いてからにすることにして、今は、連夜が命がけで自分に対して示してくれた愛に応えるべきだと判断する。
玉藻は連夜がかけてくれたコートを脱ぎ棄てて再び一糸纏わぬ姿になり、連夜を受け入れようとする。
「きて、連夜くん、私はいつだってあなたを受け入れるつもりだったのに・・ほんとに馬鹿なんだから」
が、しかし、この期に及んでまだ連夜は玉藻を押し倒そうとしなかった。
非常に重大な何かを隠して黙っているような表情を浮かべる連夜を、怪訝そうに見つめていた玉藻だったが、ついに痺れを切らして怒声をあげる。
「連夜くん、ちょっといい加減にして!! なんでも話すって約束だったでしょ!! 今心の中にたまってるもの全部吐き出しなさい、いますぐに!!」
その言葉にびくっとなった連夜だったが、物凄く言い辛そうに顔を俯かせ上目づかいで玉藻を見ながら口を開く。
「あの・・玉藻さん・・今晩なんですけど、僕と一緒にある人達に会ってほしいんですけど」
「今晩?」
「はい・・その、どうしてもというか・・絶対来てほしいです。来てくれないというのなら、今すぐ指輪を返して僕のこと忘れてください」
今まで見たこともないくらい緊張してしかも弱々しい態度で言う年下の恋人の姿に少しびっくりしたが、玉藻は自分の左手にはめた指輪をがっちりと右手でガードしながら言い放つのだった。
「わかった。絶対に行くわ」
その頼もしい言葉に連夜の顔がぱあっと明るくなるが、しかし玉藻は厳しい表情を浮かべたまま連夜を見つめて怒りの声をあげる。
「でも、これだけは言っておくけど、もう二度と私に向かって指輪を返してとか忘れてとか言わないで、次に言ったらそれが例え連夜くんでも、迷わずその脳天にカカト落としするからね!!」
「来てくださるなら、僕のことどうしてくださっても構いませんよ。よかった、とりあえず、第二段階クリアだ・・」
「第二段階?」
ほっとしながら安堵の言葉を吐き出す連夜だったが、その言葉の中に聞き逃せない単語があることに気づき、玉藻が不審そうな声を上げる。
そんな玉藻に連夜は、非常に疲れた表情で頷くのだった。
「そうです、第一段階がプロポーズを受けてもらうことで、第二段階が今晩一緒に来てある人物と会って頂くことで・・そのあともまだ続くのですよ・・」
「あ・・そうなんだ・・ところでズバリ聞くけどそれが最終段階までいくとどうなるの?」
なんとも言えない険しい表情を浮かべて聞く玉藻であったが、連夜は今までみたことのないような嬉しそうな、しかし、非常に邪悪な笑みを浮かべると、とんでもないことを口にするのだった。
「玉藻さんを拉致監禁して、誰にも邪魔されないところで二人きりで過ごします。」
そんな恋人の姿をしばらく呆気に取られて見ていた玉藻だったが、すっと近寄って恋人の華奢な身体を抱きしめると、連夜が浮かべているよりももっと凶悪で邪悪な表情を浮かべて連夜のほうを見つめる。
「嘘じゃないのね?」
「すいません、本気です・・」
「嘘だったら許さないし、その場合私が連夜くんを拉致監禁するけど、いい?」
「はい、勿論です」
「わかった、じゃあ、とことん付き合ってあげる。その代わり連夜くんももう途中下車できないから覚悟を決めてね」
「素敵ですね」
そう言って二人は自然と唇を重ねてお互いを求める。
今までのようにただ唇を重ねているだけではない、それは次のステップに進むというはっきり意思表示のある行為で、二人は上気した表情で唇を離したあと、どちらともなく寝室に入って蒲団の上でもう一度抱きあう。
「今度こそきてくれるよね、連夜くん」
「もう迷いません。玉藻さんは僕のものだ・・僕だけのものになってください」
「うれしい、やっと一つになれるのね・・」
そして、一つに重なろうとする二つの身体と心。
が・・
『ぴんぽ〜〜ん』
「「・・」」
部屋の中に響き渡る間抜けなチャイム音に、二人は一瞬動きを止めるが、玉藻が連夜に宅急便か何かだから無視してといって、再開させようとする。
が・・
『ぴんぽんぴんぽ〜ん』
「「・・」」
再び部屋の中に響き渡る間抜けなチャイム音に、二人はまたもや動きを止めるが、玉藻が連夜に新聞の勧誘か何かだから気にしないでといって、再開させようとする。
が・・
『ぴんぽんぴんぽんぴんぽ〜〜ん』
「「・・」」
三度部屋の中に響き渡る間抜けなチャイム音に、二人はまたまた動きを止めるが、玉藻が連夜に回覧板か何かだからほっとけばいいのよ・・と言いかけたところで、聞き覚えのある声がめちゃくちゃ大きな声で玉藻のことを外から呼び掛けていることに気が付き、二人は慌てて身体を放す。
『ちょっと、こら、玉藻、あけなさいよ〜〜〜!! あんたがいるってことはわかっているんだからね!!』
その声を聞いた連夜は茫然と呟いた。
「み、み、み〜ちゃんだ・・・」
一瞬呆然としていた連夜だったが、慌てて部屋の片づけを始める。
幸いまだ服はまだ脱いでなかったので、着直す必要はなかったし、帰る寸前で呼び止められたため荷物もまとめてある。
しかし、『アルカディア』で買ってきた土産物をこのままにしておくのはまずいので、リビングに置いてあるそれらをすべて寝室に放り込み、また、流しに洗っておいてあった自分の食器類を全て素早く拭いて食器棚へ。
そして、玄関においてあった自分の靴とカバンを持ってベランダへと走る。
『たまちゃ〜〜ん!! いい加減に起きろ〜〜!! 起きないとこの扉蹴破ってでも中に入るからね!!』
「あ、あ、あのバカおんな〜〜〜〜〜!!」
人生最大にして一番幸せな瞬間になるはずだった一時を完膚なきまでに台無しにされてしまった玉藻は、これ以上ないくらいに怒り狂っていた。
そして、外にいるお邪魔虫にこの怒りの全てをぶつけてやるべくずんずんと進んでいく玉藻だったが、その玉藻を慌てて連夜が引きとめる。
「だ、だめですよ、玉藻さん!!」
「止めないで連夜くん、今日こそはあのバカをシメル!! あの年中脳天気の頭上にわたしの踵をめり込ませてやるんだから!! どれほど私が今日という日を待ち望んでいたかわからないというのに、あのバカのせいで全部台無しよ!!」
「いや、それは構わないですけど、玉藻さん、いまはダメです、わかってますか? いま玉藻さん素っ裸ですよ!!」
「え、あ、ひゃあっ!!」
連夜の言葉でようやく自分が一糸纏わぬとんでもない姿であることを思い出した玉藻は両手で胸と大事な部分を隠しながらしゃがみ込む。
その姿を見て何やら考え込んでいた連夜は、素早く風呂場に行ってシャワーのお湯をだしっぱなしにすると、バスタオルを持ってきてこれを巻くように玉藻に言う。
そして、左手から指輪を外させて元の箱に戻させると、寝室の化粧鏡台の中に入れておき、その様子を玉藻に見せる。
「指輪はここに入れておきますからね。み〜ちゃんにはシャワー浴びててすぐには出れなかったと言ってください」
「わ、わかった、連夜くんはどうするの?」
「ベランダから逃げます・・なんか僕、本命から逃げる浮気相手みたいだな・・」
「何言ってるの、あなたが本命だし、私に浮気相手なんかいないわよ」
憤慨したようにいう玉藻に、そっと近付いた連夜は結構情熱的に唇を重ねる。
そして、かなり残念そうに微笑むのだった。
「次は邪魔されないところで・・」
「うん、今度は最後までちゃんとしようね」
「あ、そうそう、今晩ですけど、『サードテンプル』の駅の改札に十九時にお願いします。着てくるのものは、そこにスカイブルーのスーツと白いブラウスを出しておいたのでそれを着てきてください」
「うん、わかった。誰と会うのかわからないけど、必ず行くから」
「はい、待っています。あ、勿論、絶対にみ〜ちゃんには内緒ですよ。それから晴美ちゃんにも」
「あの馬鹿にだけは絶対言わないから安心してよね。まあ晴美には口を滑らせないように気をつけておくけど」
と、二人苦笑をかわし合うと、連夜はそっと玉藻から身体を離しベランダに行く途中寝室の襖をきっちり閉めておき、カバンと靴を持ってベランダから猿のように飛び降りていった。
そんな連夜の後ろ姿を心底残念そうに見送っていた玉藻だったが、その玉藻の切ない乙女心を粉微塵にするかのごとき悪友の声が響きわたる。
『たまちゃ〜〜ん、いじわるしてないではやくあけてよ〜〜!!』
「うっさいわ、この馬鹿女!! 一回馬に蹴られて死んでしまえ!!」
玉藻は怒りを露にしつつも、長年の悪友を放置することもできず、溜息を大きく一つついて仕方なく玄関に向かうのだった。