~第49話 待ち人~
見慣れた城門を潜り抜け、鋼鉄の通路を走り抜けた先にある検問所で、『嶺斬泊』の武装検閲官達の指示で一旦停車した連夜達が乗る『馬車』は、他の『馬車』同様に検閲官達の検閲を受けるはずであったが、両親が用意してくれていた中央庁の専門通過許可証を連夜が提示したことですんなり通ることができ、連夜達は急いで南出口近くの『馬車』預かり所に『馬車』を収納した。
それまでに連夜が都市中央病院の方に連絡を入れており、預かり所の連夜達が『馬車』を止めることになっている場所にはすでに病院の救急車が止まっており、車から降りてきている救急隊員達の姿が見えていた。
「すいません、先程念話で連絡した通り、怪我人は四人で、一応容態は落ち着いていますが、いまのところ意識がもどっていません」
『馬車』から降りた連夜が救急隊員達に傭兵達の容態を簡単に説明し、それを補足する為に、カダも降りていき、自分が施した治療の詳細を話している。
その間にロスタム達は救急隊員に手を貸して怪我人を『馬車』から運び出し、大型の救急車の中に次々と収納していく。
連夜は不安そうな表情を浮かべ収納されていく仲間達の姿を見守っているレンとファナリスのほうに近寄って行くと、自分が持っている携帯念話をレンに差し出した。
「一応君達の後見人はカダ老師が引き受けてくれることになっているけど、もしそれでも困っていることがあったらいつでも念話してきて。僕のルーン番号は登録してあるから。僕につながらないときは父さんと母さんのルーン番号も登録してあるから、そっちにかけてね。二人ともこの都市の中央庁に顔が利くから、もしものときは力になってくれるはず」
その携帯念話をおずおずと受け取ったレンは泣き出しそうな表情で連夜の顔を見詰める。
「助けてもらっただけでもありがたいのに、ここまでしてもらっても本当にいいの? 私、ここまでしてもらっても何もできないよ?」
そういうレンだったが、連夜は首を横に振る。
「君は覚えていないだけだろうけど、僕はもう君に十分してもらってる。今の僕があるのは君のおかげでもあるんだ、だから恩を感じる必要はない。今は僕のことよりも仲間達のことを考えてあげて。いいね?」
優しい表情でレンにそう言ったあと、今度はファナリスのほうに連夜は視線を向ける。
「ファナリスさん、病院の治療費や入院の費用については気にしないでください。さっき父に連絡を取りまして、中央庁のほうで援助を受けられるようにしてくれるとのことでしたから。ただ、いろいろと書類を書かないといけなくなると思いますので、向こうについたら病院側の受付で指示に従ってください。ファナリスさん自身の名前を出していただければ通るはずです。それからこれ」
連夜は戸惑うファナリスに一枚のメモ用紙を渡す。
「ひょっとしたらカダ老師のほうで宿泊施設のほうをご用意してもらえるかもしれませんけど、とりあえず、もしもの場合に中央庁の宿泊施設があるので、そこも利用できるように父に許可をもらっておきました。そこの住所と一応地図も書いておいたのですけど・・すいません、僕、地図書くのが苦手で・・あ、そうだ」
メモを広げて説明していた連夜は、自分の書いた地図があまりにもへたくそすぎて顔をしかめていたが、ふと地図を覗き込むレンに気づいて、はっと顔を上げる。
「そうだ、レンならわかるはずだ。ほら、レンが昔住んでいた家の近くに、大型スーパーの『盛況』があったでしょ?」
「え・・それって、都市営地下鉄サイドテール駅前の『盛況』のこと?」
「そそ、あそこ今すっかり変わってていろいろな専門店が入ってる集合体みたいな建物に変わっているんだけど・・いや、それはどうでもよくて、そのすぐ西に郵便局あったの覚えてない?」
「ああ、あったわね、フラワーバレー公園の出口のところの小さな郵便局よね?」
「そうそう、あの郵便局のすぐ目の前に緑色の建物があって『中央庁サイドテール宿舎』って表札が書かれているから、そこ」
「あ~、あそこって中央庁の施設だったんだ。どこかの企業の保養施設かと思ってた」
「いや、よく誤解されるみたいだけど、ちゃんと中央庁の施設だから。とりあえず、病院からちょっと離れているけど、駅には近いし便利もいいと思うんだよね。なによりもあの辺りならレンもよく知ってるでしょ?」
「うん。小さい頃ずっと住んでいたから・・って、あれ?」
何か引っかかることがあったのか、首を傾げるレンであったが、連夜はとりあえずそちらは置いておいて、再びファナリスのほうに視線を向ける。
「そういうことでレンに案内してもらってください。あと何か困ったらレンに言ってレンに渡した携帯念話で僕か僕の両親にすぐ連絡してください。できるだけのことはさせてもらいますから」
その連夜の力強い言葉を聞いたファナリスは、涙ぐみながら頭を深々と下げる。
「何から何までお世話になってしまって・・連夜さんや皆さんに受けたご恩はいつか必ず・・」
「いえ、気にしないでください。それよりも二人とも救急車のほうに、そろそろ怪我人の皆さんの搬入が終わりそうですし」
いつまでも頭をあげようとしないファナリスに慌てて近づいた連夜は、優しくその肩に手をかけて頭を上げさせると、レンとファナリスを促して救急車のほうに行って乗り込むように進める。
すると、救急車の方からカダが手で二人を招いているのが見え、連夜は二人に頷くと二人の背中を押して救急車のほうに進ませる。
まだ何か悩んで”なんで連夜は私が小さい時に住んでいた場所しってるの?”とかぶつぶつ言っているレンと共に、ファナリスはもう一度連夜に頭を下げて救急車に乗り込んでいった。
やれやれと思って、連夜は『馬車』に戻ろうとしたのだが、そのとき視界に士郎とアンヌが救急車のすぐ側で二人きりで話しているのが見えた。
別に盗み聞きするつもりはなかったのだが、狭い場所でよく音が反響するため、少しばかり離れていても結構話し声がよく聞こえ、なんとはなしにその会話が聞こえてきてしまう。
「手伝ってもらった晴美ちゃんや、スカサハちゃんにも挨拶していきたかったけど・・」
「ぐっすり眠ってましたね」
士郎とアンヌは、『馬車』の中で仲良く並んで子供のように眠っていた二人の様子を思い出してくすくすと笑った。
そうしてひとしきり笑いあったあと、アンヌは弟を見る姉のような優しい微笑を浮かべて目の前の士郎を見詰めた。
「士郎もご苦労様。あなたもゆっくり休まないとだめよ」
「え、でも、アンヌさんこそ一睡もしてないじゃないですか。これからまた病院に付き添っていって・・大丈夫なんですか? ちょっと休ませてもらったほうがいいのでは?」
「私は大丈夫よ。家で商売を手伝ってるからね、徹夜には慣れているの」
本当に心配そうに自分を見詰めてくる士郎に、少し疲れている様子は見えるものの、力強く笑ってみせるアンヌ。
「でも、心配してくれてありがとう。そんな風に心配してくれる人って私にはいないから素直に嬉しいよ。おばあちゃんは見ての通り厳しい人だしね」
「あ、あの、その、僕が心配するっていうのも変かもしれないですけど・・」
「ううん、そんなことない。ありがとうね」
そう言って、士郎の手を自分の両手でぎゅっと握り締めて、華のように艶やかな笑みを浮かべるアンヌ。
そのアンヌの眩しい笑顔と、自分の手を握り締めている小さなアンヌの両手があまりにも柔らかいことが、士郎の思考回路を完全に混乱させてしまい、顔を真っ赤にさせてもう何もいえなくなってしまう。
そんな士郎が困っている様子を見て、アンヌは余計に心配させてしまったのではないかと誤解して、そっと士郎の身体を優しく抱きしめる。
「そんな心配しないで、ほんとに士郎は優しいね。今まで誤解して、嫌なことばっかり言ってごめんね。今回士郎とこんな風に仲直りできてほんとによかったと思うよ。ありがとうね」
「ぼ、僕のほうがいつも突っかかってばかりいたのに、謝らないでくださいよ!!」
「うふふ、そっか。じゃあ、お互い様ってことでいいね。じゃあ、私そろそろ行くから、次に会えるのはいつかわからないけど、元気でね」
「・・」
そう言ってそっと士郎から身体を離してカダのいる救急車のほうに向かって行くアンヌをしばし、無言で見送ろうとしていた士郎だったが、急に大声でアンヌを呼びとめる。
その声にびっくりしながらもきょとんとした表情で振り返り士郎を見つめるアンヌ。
「どうしたの?」
「あの・・」
「うん、何?」
「アンヌさん・・しばらくこっちにいらっしゃるんですよね?」
「う、うん、連夜のお父さんに修行を受けることになっているから、しばらくはいると思うけど・・」
「あの、その・・たまに・・会いに行ってもいいですか?」
なんだかひどく切なそうに自分を見つめてくる士郎に、戸惑いの表情を浮かべていたアンヌだったが、やがて甘えん坊の弟を見守る優しい姉のような表情を浮かべて士郎を見つめ返す。
「ここには知り合いなんてほとんどいないから、士郎が会いに来てくれるなら嬉しいな。でも、無理しないでね。平日には学校にちゃんと行くのよ?」
「わ、わかってます!!」
「ふふふ、じゃあ、またね」
そう言ったあとアンヌは今度こそ救急車に乗り込んで行った。
病院に行くメンバー全てが乗り込んだことを確認したカダは、救急隊員に車を出すように指示を出しかけたが、思いなおし見送るために側に立っている連夜に顔を向ける。
「連夜、先程おまえから預かっていた携帯念話で父親に話を通してな、例の件の参加許可は得た。あとはおまえの意志次第だが、それについては直にここに来るであろう父親とよく相談しておいてくれ」
「そうですか・・わかりました、父と相談して早急にお返事させていただきます」
「うむ、頼むぞ。すまん、話はすんだ、車を出してくれ」
連夜との話が終わったカダが、運転手を務める救急隊員に声をかけ、救急車は馬車預かり所をサイレンを鳴らしながら出発して行った。
それをしばらく様々な思いを胸に見送っていた連夜であったが、一つ頭を振って『馬車』に戻ろうとすると、何やらそのすぐ後ろでまるで戦いに赴く直前のような真剣なやたら気合いのはいりまくった表情を浮かべた士郎が救急車が去った搬出入口を見つめており、その視線はどこか遠くにいる誰かを見つめているようであった。
連夜は士郎に近づいて片手の掌を目の前でひらひらとさせてみるが、全く無反応なのに溜息をつくと、その脳天に空手チョップをスコンとお見舞いしてやるのだった。
「いたっ!! 誰だ、空手チョップするのは!? って、連夜さん?」
ようやく我に返った士郎を、しばらく無言で見つめていた連夜だったが、非常に複雑な想いをこめて溜息を吐きだすと、そんな連夜に戸惑いの視線を送っている愛弟子の肩にそっと片手を載せて何度か口を開きかけるが、結局全てのアドバイス的なことは自分の心の中に飲みこんでしまい、別のことを口にする。
「士郎さあ、僕の分と士郎が乗って帰る分の二台のサイドカーは用意してくれているんだよね?」
「あ、はい、連夜さんに指示された通りに持ってきておきました。・・でもそれがなにか?」
「アンヌと老師さ、荷物置いて行っちゃったんだよね。早速で悪いけど、届けてきてよ。病院の住所はわかるよね」
連夜の言葉に、士郎はしばらく呆然としていたが、その言葉の意味することを理解すると、まるで飼い主を迎えに行く飼い犬のような嬉しそうな笑顔を浮かべ、返事もそこそこに『馬車』の最後尾の車両にある荷物を取りに全速力で走って行ってしまった。
それを見送っていると、いつのまにか来ていたのかクリス、ロスタムの二人が訳知り顔で頷いている。
「赤面するくらい自分の気持ちに正直なやっちゃなあ」
「にしても、あれだけ士郎から秋波を送られているのに、全然気が付いていないアンヌもどうかと思うが・・」
二人の言葉に、連夜は苦笑を浮かべる。
「アンヌは昔からそうなんだよねえ・・他人のことはよく見えているみたいなんだけど、自分に向けられる好意にはすごい鈍感で・・士郎のこともきっと弟としてしか見てないんじゃないかなあ。今までずっと喧嘩ばかりしてきた相手に懐かれてすごく喜んではいるみたいだけど、絶対あれって世話の焼ける弟の面倒みてるつもりなんだよね」
連夜はそう言い、持ってきたサイドカーに一生懸命アンヌ達の荷物を載せている士郎の姿を見守っていると、深い・・深すぎる溜息を吐きだした。
そして、それを忘れるかのように首を横に振ってクリスとロスタムのほうに視線を向ける。
「兄さんが小型トラック持ってきているらしいから、それでみんなを送ってくれるって。もうすぐしたら来るから、来たら荷物を積んでしまおう」
「それなんだが、連夜、俺達の荷物の中に明らかにおまえが買ったものが大幅に混じっているんだが、あれはなんだ?」
戸惑うロスタムが、最後尾の車両から下ろした自分達の荷物を指し示すと、そこにはそれぞれ旅行鞄以外にいろいろなお土産物とわかる荷物が置いてあり、それぞれに名前の書いた札が貼ってあるのが見えた。
クリスとアルテミスも困惑した表情で連夜を見つめているが、連夜は苦笑を浮かべて三人を見る。
「あのねえ、確かに買い物を急かした僕が悪かったけどさ、みんなほとんどお土産まともに買ってないよね? まず、ロスタムのところに置いてあるお土産はリンにあげるやつね。一応僕がリンに似合いそうな化粧品とか服とかいれているけど、絶対僕が選んだとか言わないようにね。好みじゃないって言ってもロスタム自身が選んだって言い通すように。リンにとってはロスタムが選んだってことが重要なんだからね。返事は?」
「あ、ああ、うむ、すまん、完全に土産を買うのを忘れていたので助かった。正直どういいわけしようか迷っていたのだ」
そう言って頭をぽりぽりとかいて詫びるロスタムに、連夜は絶対自分が買ったといわないようにねと念を押しておいて、次にクリス達に視線を向ける。
「クリス達の分は、お世話になってる各族長達へのお土産ね。アルテミスは自分達の分は買っていたみたいだけど、他買ってないでしょ? ご両親の分は自分達の土産の中から渡せばいいと思っていたのかもしれないけどさ、一応その分も買っておいたから。『アルカディア』の特産品であるゴールデンフラワーボアのソーセージ詰め合わせセットと、南方諸国の銘酒セットを各族長分よりも弱冠多めに買っておいたからあとでわけて渡してあげてね。二人とももうすぐ、部族間で先に結婚式あげるんだし、そこはちゃんとしておかないと揉めるよ、絶対」
連夜の言葉を恐縮して聞いていた二人だったが、最後の下りは完全に秘密にしていただけに、知られていたことに仰天する。
「れ、連夜、なんでそんなこと知っているんだ!?」
「え、だって、この『馬車』を借りに行った時に、ロボさんとブランカさんから、『ようやくクリスとアルテミスの部族間結婚式の日取りが決まったから、連夜も絶対でてくれよな』『アルちゃんの花嫁姿是非みてあげてね』って言われたんだもん」
「犯人はお父さんとお母さんなのね? もう、あの二人ったら、絶対秘密にしてねって言ったばかりなのに、もうもうっ!!」
クリスの両親こそ、連夜に狼が牽引する『馬車』の運転術や騎乗術を教えてくれた師匠であり、今回『馬車』を貸し出してくれたのも彼らであった。
自分達の両親の口の軽さに思わず頭を抱える二人を、連夜はまあまあとなだめる。
「お二人とも本当に嬉しそうだったよ。もう、言いたくて言いたくて仕方なかったんだってば、それくらい許してあげなよ。とにかく二人ともおめでとうございます」
「そうか、二人はもう結婚式をあげるのか、それはよかった、本当によかったな、クリス、アルテミス、おめでとう」
「いや、まあ、その、ありがとう」
面白そうに見つめる連夜と、無骨ではあるが心のこもった様子で二人におめでとうと声をかけるロスタムに、クリスとアルテミスは物凄く照れくさそうに身を縮める。
この都市の条例では十八歳未満は結婚できないが、都市で認定されている部族間の特殊な仕来たりがある場合はそちらが優先される。
今回はそれが受理されて二人は一年早く籍を入れることを許されることになったのだ。
まあ、その背後に連夜がよく知っている夫婦の暗躍があったような気がしないでもないが、とりあえず、幸せそうな二人にこれ以上何かを言う必要もなく、ただ祝福してやればよいと思って口をつぐむ。
そう言って二人を見つめていると、兄の乗った小型トラックがこちらに向かってくるのが見え、連夜は三人に声をかける。
「兄さんが来てくれたみたいだし、荷物を運びこんでしまおう。僕はあとから来る父さんと『アルカディア』から運んできた商品の運搬仕分け作業があるから残るけど、みんなは先に帰って、今日はゆっくりやすんでね。そうそう、商品を売捌いた代金とみんなへの配当については必ず後日詳しく説明して渡すからね」
その言葉に三人はこっくりと了承してうなずき、やってきたトラックに荷物を運びこみ始めた。
時間はまだ四時にもなっていない朝日が昇るにはまだまだ時間がある真夜中、眠りにつけるのはまだ先になりそうだなと思いつつ、連夜はみんなの荷物をトラックの荷台に運びこみ始めた。
〜〜〜第49話 待ち人〜〜〜
朝、肌寒くて目が覚めそうになったリンは、蒲団の中で生きた暖房にしがみつこうとしたが、すぐにそこに何もないことを思い出し
半泣きになりながら伸ばした手を止める。
「私、ほんと進歩ないなあ・・」
最愛の恋人にしてそう遠くない未来の自分の夫ロスタムが城砦都市『アルカディア』に旅立ってから、四日目の朝、そんなにすぐに恋人が帰ってこれるわけないとわかっているのに、ここ三日間、朝、目が覚めるたびに恋人の身体の温もりを探してはそれがないことに気が付き、しばらく泣き続けるということを繰り返しているのだ。
「馬鹿だ、私・・」
そう一人呟いて、あるはずのない恋人の温かい身体を探す。
恋人は今手にあたっているような逞しい分厚い筋肉に覆われた身体をしていて、自分が抱きついたくらいでびくともしないのだけど、すがりつくと寝ていても無意識にそっと今みたいに片腕を優しく回して抱きよせてくれるのだ。
こうしてすがりついていると、温かくてなんだか心まで満たされてくるのだ。
だからついつい朝になると恋人の身体を探してしまうのだが、今はいない最愛の恋人を思いだして涙を流すリン。
「ロム・・会いたいよ・・」
『ぐお〜〜』
そう呟くリンの言葉に答えるように聞こえてくる、聞きなれた鼾の音。
最愛の恋人は滅多に鼾をかかないが、非常に疲れた時などにかくことがある。
殴り合いの喧嘩のあととか、試験勉強のあととか、あとは・・リンと激しく愛し合ったあととか・・。
「ふふふ、そうだったね、こんな風に鼾をかくんだよね・・ごめんね、私が激しく求めるからだよね」
『ぐお〜〜』
と、逞しい身体にすがりついたまま、再び眠りに落ちそうになったリンだったが、『ん!?』と、なんか変なことに気がついた。
なんだろう、なんかいつも通りすぎて違和感がないことが、逆に違和感ありありというか、
『なんかおかしい・・なんだろう?』
と、思って周囲を確認する。
いつもと同じダブルサイズの敷き蒲団に掛け蒲団、それにいつもと同じ二人用の長い枕に、いつもと同じ恋人の身体、いつもと同じように自分を抱きよせてくれている逞しい恋人の腕、いつもと同じ恋人の鼾。
『いや、全部普通にいつも通りだけど・・』
と、思いかけて、いつも通りだけど、今だけがいつも通りじゃないものがあることに、はっと気が付く。
「いや、待て待て待て!! おかしいおかしい!! いつもと同じロムの身体に、ロムのいびきはどう考えてもおかしいでしょ!!」
自分自身にツッコミを入れながら蒲団を跳ねあげて起き上がったリンが、自分の横を見ると大鼾をかきながら爆睡している最愛の恋人の姿が。
そのいつもと変わらぬ愛しい、いや愛しすぎる恋人の姿に思わず口元を押さえ、込み上げてくる激情を抑えきれずにぼろぼろと涙を流してしまうリンだったが、しばらく見守っていても一向に起きてこようとせず、号泣している恋人をほったらかしにしたまま爆睡し続ける恋人に段々腹が立ってきて、リンは拳をぶるぶると震わせて握りしめる。
そして。
「起きろ、この宿六!!」
ガスッ!!
「ぐ、ぐっはああああ!! な、なんだ、なんだああああ!!」
無防備な鳩尾に思いきり拳を叩き込まれたロスタムは、たまらず息を詰まらせ鳩尾を抑えながら飛び起きて蒲団の上を転げまわる。
ひとしきり蒲団の上を転げまわったあと、まだダメージが残る腹を押さえながら起き上ったロスタムが横を見ると、もう涙ぼろぼろ流しながら怒ったような表情でこちらを恨めしそうに睨みつけている最愛の恋人の姿が。
「り、リン、どうした?」
ただ事ではないと思ったロスタムが恐る恐る尋ねると、リンはきっと目を怒らせる。
「どうしたじゃないわよ!! なにこれ? なんで黙って帰ってきて普通に寝てるのよ!! 私がどれだけ寂しい思いをしていたと思うのよ!! 謝りなさいよ!!」
「あ、す、すいません、ごめんなさい」
なんだかよくわからないが、とりあえず最愛の奥さんがマジで怒っているのははっきりわかったので、おどおどと頭を下げて謝るロスタム。
そのロスタムに、怒ったような表情のまま両腕を伸ばして差し出してくるリン。
一瞬そのジェスチャーの意味がわからずきょとんとするロスタムに、リンは更に怒ったような表情で口を開く。
「寂しい思いをしていた奥さんを慰めなさいよ、早く!!」
「あ、そ、そっか」
いそいそとリンに近づいたロスタムは、その華奢な身体を押し潰してしまわないようにそっと包み込むように抱き寄せる。
恋人の腕の中に納まったリンは一瞬ちょっと表情を緩めたが、やっぱりまたぶすっとした表情を浮かべてぶちぶちと恋人に聞こえるように恨み事を口にするのだった。
「この三日間どれだけ私が寂しい思いをしていたか、ロムはほんとにちっとも全然さっぱりわかっていないんだから。私がどれだけ愛しているのかだってわかってないんだわ、きっと。私のこと空気か何かとだと思っているんでしょ・・ほんとに・さびしか・・ったのに・・」
自分で言ってて寂しさが余計込み上げてきたのか、またもやぽろぽろと涙を流して泣きだしたリンをどうしていいかわからず、おろおろとしだすロスタム。
「お、おい、ほんとに悪かったてば、帰ってきたときに起こさなかったのだって、お前が泣き疲れて寝てたみたいだから・・」
「泣き疲れて寝てるってわかっていたんだったら、余計に起こすべきでしょ!! 私が泣き疲れるほど泣く理由があなたにわからないはずないわよね!?」
「すまん、本当に悪かった、ほんとにほんとに反省しているから許してくれないか、リン」
「嫌よ、だって、簡単に許したら、また私を置いてどこかに行っちゃうんでしょ、あなた。・・もう・・もう置いて行かれるのは嫌だもん・・嫌よおおおぉぉぉ・・」
しくしくと泣き続けるリンを、どうしようかと見つめていたロスタムだったが、真剣な表情に真摯な瞳で腕の中の最愛の恋人を見つめる。
「わかった、もうお前を置いていくことはしない。何があったとしても絶対お前を連れて行くと約束する。遠くに行かないといけないときは必ずお前と二人で行動すると約束する」
その言葉を聞いたリンはちらっと涙がまだ残って光る眼を、上目遣いで見つめて口を開いた。
「私の夫として誓ってくれる?」
「おまえの夫として誓う」
間髪入れずに約束してくれる未来の夫の力強い言葉に、しばらく考え込むリン。
こういうとき、こういう約束をこの恋人がするときは、絶対に破るつもりがないときであることを熟知しているリンは、嬉しさで顔が弛みそうになるのを必死で堪え、わざと怒ったような顔を作ってみせながら、腕組みをしてしょうがないな〜という感じを見せる。
「もう〜、今回だけなんだからね。次に私を置いていったら、ほんとに許さないんだからね」
「ああ、わかったよ、ちゃんと覚えておく」
そう念を押すように誓ってくれる未来の頼れる夫に、今度こそ極上の笑顔を見せながら、リンは甘えるようにささやく。
「じゃあ、はい、いつものやつ」
「ああ。いつものやつな・・って、い、いつものやつぅ!?」
リンの言葉に反射的に頷きかけたロスタムだったが、なんだか戸惑ったような表情を浮かべるとちょっと心なしかリンを抱きしめる力が抜けていくような、そして、顔には一筋の汗らしきものが見え始め、そっとリンの身体から自分の身体を放そうとしているような。
「ロム?」
笑顔を浮かべながらも目は全然笑ってないリンが逃がさないとばかりにロムの身体にしがみついてくる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、リン、実は昨日の夜いろいろと大変なことがあってだな、一睡もしないまま『嶺斬泊』について、ついさっき帰ってきたばかりなんだよ、だからだな・・」
「じゃあ、ちょっと運動してから眠ればもっとすっきり眠れるじゃない」
すでに完全にその気になっているリンは荒い息を吐きながら上半身裸のロスタムの身体のあちこちに歯を立てて甘噛みしはじめている。
「いやいやいや、ちょっとの運動ですまないだろ、頼む、今日は見逃してくれ、夜はちゃんと相手するから」
リンの相手をするということは、お互いに相当本気になってしまうということをよくわかっているロスタムは、なんとか逃げれないかと無駄と思いつつも言葉を重ねる。
しかし、リンの目を見つめるとすでに妖しくも艶やかな色を帯びていて、完全に戦闘モードに入ってしまっていることがわかってしまい絶望的な表情になるロスタム。
「ダメ。ロムだってわかっているでしょ? 私達白澤族にとって伴侶と身体をつなぐ行為って別に快楽の為や次代の子孫を残すためだけの行為じゃないのよ。伴侶の愛情を受け取らないと死んでしまう私達にとって、直に愛情を感じて受け取ることができる一番効率がいい摂取方法でもあるの。勿論、伴侶を定めていない状態ならそうはならないけど、今の私はもうあなたを伴侶として定めてしまったし、あなたはそれを受け入れた。もう今の私にはあなたの愛情は不可欠なものなの。あなたは、私が衰弱して死んでしまったほうがいい?」
この世で一番愛しい恋人にそんな潤んだ瞳でそんな風に言われたロスタムに、逃げ道などあろうはずがなかった。
がっくりと肩を落としながらも、リンの顔を見つめ直す。
「おまえなあ、俺の心なんかよ〜くわかっているくせに、そういう聞き方するなよな・・おまえを失って俺が平気でいられるわけないだろ」
「そうよ、わかっているわ。でも、ちゃんと態度で示してくれないと不安になるの・・特に今回みたいに置き去りにされちゃうとね」
「おまえ、ほんとは俺のこと許してないだろ?」
ロスタムはジト目で腕の中のリンを見つめるが、リンは呆れたような表情を浮かべてロスタムを見返す。
「もう〜、ほんとに女心がわかってないんだから、ほら、私に愛情を注いで・・寂しかったんだから・・」
ロスタムは嘆息すると、腕の中のリンの身体を潰してしまわないようにゆっくりと押し倒し、その腕の中でリンが大輪の華のように嬉しそうに微笑むのが見えた。
そのとき、ロスタムは初めてようやく自分が帰るべき場所に帰ってきたことを実感したのだった。