~第47話 死闘(後編)~
『梟の目』という傭兵旅団の怪我人達を全て『馬車』の中に運び込み、キャンプ場に戻ってきたクリス達は、大いそぎで仕掛けを設置し始める。
リーダーである連夜が説明した作戦はそんなに難しいものではない、非常に単純なもので同じ『人』が相手であればまず引っかかることはないと思われるような代物だ。
相手が獣であるからこそ有効な作戦で、だからこそ成功する確率は高いとも言えた。
黙々と作業を続けるクリス、ロスタム、アルテミスの三人だったが、その横ではいらいらと腕組みをして同じ場所をぐるぐる回り続ける士郎の姿が。
最初は無視して作業を続けていたクリスだったが、流石に我慢できなくなって声をあげる。
「おい、士郎、犬みたいに回ってないでちったぁこっちに来て手伝え!!」
「だ、だって、連夜さんが!!・・クリスさんは心配じゃないんですか!?」
クリスの言葉に涙目になって訴えてくる士郎だったが、クリスは顔を顰めて士郎を見る。
「心配に決まってるだろ」
「だったら!!」
「俺達がここで心配することで連夜の危険が少しでも減るというならいくらでも心配していらいらしてみせるさ。しかしな、そうじゃねえだろ? そんなことしたって何の役にも立ちはしねえぇじゃねぇかよ。今できることはあいつが戻ってきたときに、あいつが少しでも有利になるようにしておいてやることだけだ」
「だ、だけど・・こうやってる間にも連夜さんは・・」
クリスの言葉も今の士郎の心には届かないようで、どこか虚ろな瞳で遠くを見つめながら涙を溢れさせている。
そして、自分の想像に耐えきれなくなったのか、ついには膝を屈して両手で顔を覆って泣き始めてしまう。
「もし・・もし、連夜さんに何かあったら・・僕は、僕はどうしたらいいんですか? いったい、これから誰の背中を追いかけてついていけばいいんですか?」
あまりにも弱々しく、親を亡くした子供のように泣きじゃくる士郎をどうしたものかと思っていたクリスだったが、すっと士郎に近寄る影が。
クリスが見ていると、その影はそのまま士郎のそばに近寄って、優しく士郎の身体を抱きしめてやるのだった。
アンヌだった。
怪我人達の治療を終えて、外の様子を見に来た時に、子供のように泣きじゃくる士郎を放っておけなくなったのだ。
「大丈夫だよ。そんな簡単に連夜は死んだりしないって」
これまでに聞いたことのないような優しい声で話しかけられて、士郎はきょとんとしてアンヌを見上げる。
アンヌとはこれまでも何度か連夜や連夜の父親と一緒に『アルカディア』に訪れた時に顔を合わせてきたが、いつも連夜のことで喧嘩ばかりしており、士郎はアンヌのこんな優しい表情を見たことがない。
これまで見てきた表情は怒ったりすねたりばかりで、全然いい印象を持ったことはない士郎だったが、今目の前で自分に優しい表情を浮かべてこちらを見ている人物が同じ女性だとは思えず戸惑うばかり。
しかし、溢れる感情を吐き出してしまいたくて、士郎は心のままに弱音を吐いてしまう。
「だ、だけど、連夜さんは、僕達ほど身体が丈夫でも力が強いわけでもないんですよ。あ、四腕黒色熊なんて化け物にもし出くわしたら・・」
自分で言っておいてその言葉の内容に本気で怯える士郎。
しかし、そんな士郎に対していつものような厳しい言葉を投げかけることはせず、むしろアンヌは母親が子供に安心させるように言って聞かせるのだった。
「確かに戦闘能力は私達の中で一番最弱だろうね。でも、小さい時からいじめられ続けて、いろいろな危険な目にあってきた連夜は、危険を察知してそれを回避、脱出する能力が異常に発達してるんだ。だから大丈夫。必ず友達を助けてここにもどってくるよ」
「で、でも・・」
「それとも士郎は、連夜のことを信じてないの? 信じられない?」
いつものような喧嘩相手を挑発するような聞き方ではない。
泣き虫な弟を優しく包み込むように士郎の身体を抱きしめる手に力を込めていく。
そんな風に覗き込むようにして聞いてくる年上の女性の優しい微笑みに、なんだかドキドキしながらも、士郎ははっきりとぶんぶんと首を横に振るのだった。
「信じています!!」
「そっか。・・うん、私も信じているよ。だから、今は連夜が帰ってきたときのことを考えて、私達に今できることをしようよ、ね?」
「はい!!」
完全に復活した士郎は、アンヌの腕の中から出ていくことに一瞬名残惜しそうな表情を見せはしたものの、アンヌに力強く頷いてみせて離れると、クリス達のところに駆け寄って猛然と作業を開始した。
士郎の豹変ぶりに呆気に取られているクリス達が見ている前で、士郎は恐ろしいスピードで仕掛けを次々と設置させていく。
流石は連夜の愛弟子というべきか、それとも自分が進むべき道を再びはっきり確認した者が見せる意志の強さというべきか、ともかく、慣れない作業で遅延していた仕掛けの設置作業の遅れをあっというまに取り戻し、士郎は瞬く間に作業の最終段階まで進めてしまっていた。
「な、なんだ、あいつは」
「なんだか吹っ切れすぎたような気もするが・・」
顔を見合せて肩をすくめるクリスとロスタム。
そんな二人がふと横を見ると、アンヌがまるで実の弟を見守る姉のような優しい表情で士郎のことを見守っている姿が見えた。
時折、作業の合間に士郎がそんなアンヌの姿を確認しては、嬉しそうにぶんぶん手を振り、アンヌも優しい表情で手を振り返している。
そんな二人の様子を見ていたクリスとロスタムは再び顔を見合わせる。
「なあ、ロム、俺思うのだが・・あいつの好みが今はっきりわかった気がする」
「奇遇だな・・実は俺もだ」
二人は期せずして同時に溜息を吐きだした。
「あいつ母性本能が強い女に弱いんだな・・」
「ああ、しかし・・士郎はともかく、アンヌはそういうつもりじゃ絶対ないよな?」
「泣いている子供をただ放っておけなかっただけだと思うのだが、士郎からすれば・・」
二人は再び期せずして同時に思っていることを口にするのだった。
「「ややこしいことになりそうな気がする」」
そう言って、はぁ〜っとため息を吐きだした二人だったが、いきなり後頭部を何者かに殴られて、思わず頭を抱えてしゃがみ込む。
誰だっと思って二人が振り向くと、そこには怒った表情でこちらを睨みつけているアルテミスの姿が。
「さぼってないで、さっさと手伝わないか!! 設置作業が終わったら次は撤収作業もあるんだぞ!! いつまでもここに我々がとどまっていれば、今度は連夜が作戦を実行しずらくなるんだからな!!」
「あ〜、そうだった」
「すまん、アルテミス。よし、じゃあ、ここの作業は士郎に任せて俺達は撤収作業に移ろう、連夜の作戦通り、この先にあるポイントまで移動だ」
アルテミスの言葉に慌てて頷いたクリスは、同じく慌てて立ち上がったロスタムを促して『馬車』へと走って行く。
そんな二人の姿を嘆息交じりに見送ったアルテミスは、ふとすぐ側にいるアンヌに気が付いて歩み寄っていく。
「助かったよ、アンヌ。おかげで士郎は立ち直ることができたようだ」
そう言ってほほ笑むと、アンヌは嬉しそうだが、どこか寂しそうな表情でほほ笑んだ。
「士郎ってさ、あたしが小さい時に死んじゃった弟によく似てるんだよね・・なんだか放っておけなくてさ」
「そうだったのか」
気まずそうな表情になってしまったアルテミスに気がついたアンヌは、慌てて手を振ってみせる。
「ご、ごめん、変なこと言っちゃったね。気にしないでね、もうずいぶん昔の話だし、私も士郎の泣いている姿を見るまではすっかり忘れていたんだ」
「そうか・・ところでそろそろ撤収の準備をしないといかんのだ、一緒に『馬車』に戻るとしよう」
「あ、そ、そうか・・」
と、アルテミスの言葉に頷いて『馬車』に移動しようとしたアンヌだったが、ちらっと横目で見たときに士郎の様子が目に入り立ち止まる。
そして、しばし考え込んでいたが、首を横に振るのだった。
「ごめん、やっぱ先に行ってて。私、あの子と一緒に戻るから。あの子一人だけ残っていたら寂しいだろうし、まあ、見てるだけの私が何をするでもないんだけど」
何とも言えない困ったような笑顔を見せるアンヌに、口を開きかけたアルテミスだったが、ちらっと作業を続けている士郎のほうを見ると、本人はわからないようにしているつもりなのだろうが、ちらちらとこちらに視線を向けているのがわかってしまい、口にしようとした言葉を飲み込む。
その代りに苦笑を浮かべてアンヌのほうを見るのだった。
「すまん、手のかかる子供で申し訳ないが、終わったら『馬車』に連れてきてくれ」
「うん、わかった。ごめんね、無理言って」
「いや、こちらこそすまん」
そう言ってアルテミスは『馬車』に向けて走って行く。
そのアルテミスの後ろ姿を見送ったあと、アンヌは一生懸命に作業を終わらせようとしている士郎のほうに再び視線をもどし、温かく優しい姉の表情になって、士郎の姿を見守り続けるのだった。
〜〜〜第47話 死闘(後編)〜〜〜
月明かりすら差し込まぬ漆黒の闇が支配する中を、特殊暗視サングラスで見通しつつ一気に駆け抜けていく一騎の狼騎兵の姿がある。
狼上の騎手が時折足もとに目をやると、あちこちに『労働者』クラスのいもむし型やカニのような形をした『害獣』達の死骸が転がっているのが見えた。
そればかりではない、中には危険な『兵士』クラスの二足走行恐竜型の『害獣』の死骸まで転がっている。
五百年前に世界に『害獣』が姿を現わしてから、この森は彼らが支配する場所となり、このような事態に陥ったことはなかったはずだが、やはり、ここ最近になって目覚めて暴れ出していた古代ゴーレムの影響であろうか。
どちらにせよ、今自分達を追いかけてきている相手は相当に厄介な相手であることに間違いはなさそうだった。
とりあえず、この森を抜けないことには話にならない。
狼上の騎手・・連夜は走りっぱなしで疲れているであろう眼下の狼にすまないと思いつつも、その速度をあげさせる。
しかし、老師カダにもらった薬の影響であろうか、狼はそれほど疲れた様子をみせることなく、連夜の要望に答えてどんどんスピードを上げていく。
「は、はやい!!」
自分の前に横乗りになっている小柄なレンは、振り落とされまいとして連夜に必死にしがみついてくる。
その身体がずりずりと落ちそうになっていることに気がついた連夜は、片腕をレンの身体に横から巻きつけてよっこいしょともう一度押し上げて坐り直させる。
そして、呆気に取られているレンの顔を覗き込み、済まなさそうな表情を浮かべて口を開くのだった。
「もうちょっとだけ我慢してね、もうすぐ森を抜ける。そしたら、そこで奴を待ち伏せるから、そのときに僕の背中に座り直して」
「あ、う、うん、わかった」
なんだか顔を真っ赤にして自分を熱っぽく見つめてくるレンに、あ〜、そう言えば昔からこういう風に人のこと見てくる娘だったよなあと、なんだか懐かしい気分になってくる連夜。
そんな連夜の顔をじろじろというほど無遠慮にではないが、なんだか物凄く気にしながら見つめていたレンが、おずおずと口を開いた。
「あ、あの・・」
「え、何?」
「そ、その名前教えてもらえないかと・・」
レンの言葉の意味がわからず、しばし、呆気に取られてぽか〜んとする連夜だったが、ああっ!!とある事実に気が付いて愕然とするのだった。
(そ、そういえば・・僕って、レンに本名言ったことないじゃん!!)
レンから先に名前を教えてもらったときに、自分の名前とかぶるからと思って『ボロ』という呼び方しか教えてなかったことを思い出し、幼き頃の自分の浅慮に頭を抱える連夜。
(ち、小さい時の僕って・・馬鹿だったんだなあ)
なんだかすっかり疲れてしまった表情を浮かべた連夜だったが、気を取り直してレンに改めて自己紹介する。
「連夜。宿難 連夜だよ。改めてよろしくね」
「あ、私は・・」
「レヴェリエントリエス・ホーリーヘイムダル」
「え、なんで、私の本名を・・」
「ファナリスさんが、すごい心配していたよ。君のことを助けてやってくれって必死になって頼み込んできていた」
「ふぁ・・あの、ファナリス姐さんは無事なの!? 怪我とかしてなかった!?」
連夜の口から出た自分の親しい知己の名前に、思わず動揺の声を上げるレンだったが、連夜は優しい表情で大丈夫と頷いて見せる。
「さっきも言ったけど、とりあえず、君の仲間達はみんな無事。怪我した人達も命には別状ないらしいよ。なんせ、治療した人が『アルカディア』でも屈指の『療術師』だからまず間違いないって」
「そ、そうなんだ・・よかったあ・・」
ほっとした表情を浮かべるレンをしばしの間、優しい表情で見つめていた連夜だったが、不意にその表情を引き締めて幼馴染の顔を見る。
「なあ、レン、。ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ。答えられる範囲でいいから答えてほしい」
「う、うん、私で答えられるなら」
戸惑いながらも頷いてくるレンに、連夜はいくつかの質問をぶつけていく。
「君が最初に乗って逃げたのは快速鳥だったよね?」
「ええ、そうよ」
「その快速鳥は怪我してるとかで走るスピードが落ちたりとかなかった?」
「いいえ、むしろその逆よ、恐慌状態でいつもよりも早いスピードで走っていたわ」
「なるほど。次に、君が森に向かって走りだしてから、一度でもあの熊に追い抜かれたことがあった? あるいは君自身が進路を逆方向に向けたことがあった?」
「いいえ、ずっと直線だったと思うわ、途中でちょっとずつ曲がっていたかもしれないけど、私は直線を走っていると思った」
「なるほどね、最後にもう一つだけ聞きたいんだけど・・最初に出会った熊の手の爪って何本だったか覚えてる?」
「え・・」
その質問にしばらくレンは考え込む様子を見せた。
そして、思い返したのはあのとき、自分があの熊のどてっぱらに拳を叩きこんだあのあと、こちらにむかってくるあいつの腕の先に延びた禍々しい爪の光景だった。
たしか、あのとき爪の数は・・
「四本・・四本だったと思うわ」
その答えを聞いた時、連夜は大きく深く頷いて見せた。
「やっぱりね、よくわかったよ」
「な、何がわかったの?」
戸惑いながら聞いてくるレンに、連夜はなんとも言えない苦い表情を浮かべながら口を開いた。
「僕の想像通りだってことがわかったてことだよ。あ〜、どうしてこっちにでてきちゃったんだろうね、彼らも・・もっと森の深い所にいればよかったのに」
「なに? なんなの?」
なんだかわからないが、自分が見つめる少年の表情がみるみる曇っていくのに不安を感じたレンは、その顔を心配そうに見つめる。
「生きるために・・お互い生きるためにやってることなんだけど、やりきれないよね。彼らも生きるために必死なんだろうけどさ・・でも、僕らもだからって殺されてやるわけにはいかないんだよね。だから・・」
だからどうするのか・・
もう答えはわかりきっている、しかし、その言葉を言いたくなかった連夜は、頭を一つ振って別の言葉を口にする。
それが自分を誤魔化している言葉だとわかっていて口にしているが、今からやろうとしていることを誤魔化すつもりはない。
生きるために。
「全力を尽くす」
その言葉とともに連夜の目に再び強い意志の光が宿る。
それを見ていたレンは、目の前の少年が抱える葛藤がなんなのか見当もつかなかったが、それでもこの少年を信じようと改めて決心するのだった。
やがて、眼前に赤く燃える炎の色が見えてきて、森の木々の数が一気に減ったと思った次の瞬間には、連夜達が乗る狼は森を抜け、元いたキャンプ場へとたどり着いていた。
連夜は、そのキャンプ場の中心に篝火を四方に置いた奇妙な場所があることを確認し、まっすぐにそちらに狼を走らせる。
そして、その中心に狼を移動させた連夜は、狼から素早く降りると、レンに一旦下に下してからもう一度狼の上にきちんと坐り直させて手綱を握らせる。
「レン、ちょっと怖い思いをさせると思う、だけど、狼から絶対降りちゃだめだし、僕が合図するまでは絶対に動かないで。いい?」
「なにするの?」
「生きるために必要なこと」
狼上のレンは下にいる連夜に、もっといろいろと聞きたそうな顔をしたが、結局それらをすべて飲みこんで黙って頷いた。
それを見届けた連夜は、にこっと笑って見せると、四方に設置してある篝火のほうに行き何かの仕掛けを施していく。
やがて、三つまで仕掛けを終えたらしい連夜が、四つ目に移動したそのときに、異変が起こった。
正面の森から聞こえてきた獣の咆哮とともに、巨大な黒い塊が飛び出してくる。
その黒い塊は森から飛び出したところで急速に動きを止めて立ち上がると、自分のすぐ斜め右前近くに位置する篝火の前の連夜と、その連夜がいる篝火を角に他三つの篝火で正方形になった場所の中央にいるレンとを交互に見つめて睨みつける。
しばらく対峙する両者だったが、やがて熊は自分よりも遠い位置にいるレンの方に視線を固定した。
レンは熊が自分に標的を定めたと知って恐怖に身体を震わせる。
逃げたい、今すぐにも狼の腹を蹴って走り出すように指示を出し、一刻も早く逃げ出したい、とレンの全身が恐怖と共に訴えかけてくるが、レンは連夜の言葉を思い出して必死にそれを我慢する。
(信じよう・・信じるんだ)
呪文のように心の中でそう唱えて自分と戦うレン。
ほんの数十秒が永遠にも思える時間が過ぎ、やがて熊がレンに向かってのそりと動き始めたその直後、連夜のところの篝火が消えてしまった。
それを熊の視線が捉えていたのか、熊は急にレンから連夜に目標を変えて襲いかかっていく。
だが、連夜は屈みこんだまま動かない。
「に、逃げて、連夜!!」
一瞬遅れて自分から熊の目標が連夜に変わったことを悟ったレンが悲痛な絶叫をあげる。
だが、どうみても、もう逃げられる距離ではない、レンは次に起こるであろう惨劇を予感して両目を極限まで開き両手で口元を押さえる。
迫る四腕黒色熊はその恐るべき黒い丸太のような剛腕を振り上げて、小さな連夜の体に叩きつけようとする。
夜空に向けて高々と降りあげられた手の先の三本の爪が不気味な光を放ち、その踏み込みとともに振り下ろされる。
「君達獣の習性だよね・・火が怖い君は最初僕ではなく彼女に標的を絞った。あそこは火に囲まれているといっても火の側じゃないものね。だけど、僕のところの火が消えたものだから、咄嗟に標的を変えた。あれだけ注意深くて用心深い君も、火の恐怖が消えたことで警戒を怠ったよね」
そう振り下ろされてくる爪を悲しげに見つめながら連夜が一人呟く。
当然熊は連夜の言葉などさっぱり理解してはいなかったが、次の瞬間、自分の身に起こったことだけははっきりと理解した。
突如、片足を踏み込んだ地面が崩れて前のめりに倒れる熊、驚愕の表情を浮かべながら倒れていく四腕黒色熊は、なんとかその四つの腕を駆使して倒れるのを防ごうとするのだったが、片足に何かが絡みついて地面の奥底に引きづり込んでいく力に抗しきれず、無様に転倒する。
その瞬間を連夜は見逃さなかった。
自分よりも低い位置に来た熊の顔、正確には口に恐ろしく素早く近づいた連夜は、手に持った何かの珠を押しこんで突っ込む。
そして、それを吐きだそうとするまえに、力いっぱい下から顎を蹴飛ばしてその珠を飲み込ませるのだった。
「【召集勅令 発動 期限:無制限】」
必死に落とし穴から抜け出ようともがき続ける熊から離れた連夜が、何かの呪文らしきものを唱えると、残った篝火の中から無数の光の精霊達が飛び出して熊へと集まって行く。
まるで一つの照明と化したような熊の姿を確認した連夜は、急いでレンの元に戻るとレンを後ろに下がらせて狼の背にまたがり手綱を握るのだった。
「え、連夜、あれいったいなにしたの?」
「何もしていない、光の精霊を集める召集珠を奴の腹の中で発動させただけ。光の精霊が無数に集まってくるけど、別に殺傷能力はないよ」
「は!? なんのためにそんなことを!?」
連夜の意図が全くつかめないでいるレンが悲鳴にも似た声を上げる目の前で、四腕黒色熊が落とし穴からのっそりと立ち上がる。
そして、光の塊と化しながらもこちらに明確な殺意のオーラを放って襲いかかろうと身構えるのだったが、連夜はそちらから視線を外して狼を走らせようとする。
その行動がやっぱり理解できないでいるレンが、熊と連夜を交互に見つめて戸惑った声を上げる。
「連夜? 熊どうするの?」
「どうもしない」
「ど、どうもしないって!! あっちは戦う気満々なんだけど・・」
「もう戦う必要はない」
「へ?」
「力に頼る強き者はより強き者によって淘汰される」
そう言った連夜は黙ってある方向を指さして見せる。
最初は熊のほうを指さしていると思ったレンだったが、その指先が微妙にずれていることに気がついた。
その指は熊の背後に広がる闇黒広がる『不死の森』を指さしているのに気づき、今まさに襲いかかられようとしているにも関わらず、レンが一瞬その恐怖を忘れてそちらに視線を移した時、それは姿を現した。
怒りに震える四腕黒色熊が今まさに突撃を敢行しようとしたまさにそのとき、森という闇の中から伸びてきた爬虫類の大きな手が熊の頭を鷲掴みにする。
「見るな」
次に起こることを察知した連夜が慌てて後ろにいるレンの目を塞ぎ、その惨劇を見せないようにする。
その直後、あっけないまるで風船がしぼむときに漏れ出る短い何かの音が聞こえ、連夜がレンの目から手を離したときには、熊の姿は消えてしまっていた。
ただ、ついさっきまで熊がいたと思われる地面には濡れ濡れと不気味に光る何かの液体がぶちまけられていた。
得体のしれない恐怖にとらわれて呆然とするレンをそっと抱きしめるようにして支えながら、連夜は優しくもどこか悲しげな表情でレンを見つめる。
「大丈夫?」
「あ、あれはいったい・・」
「あの森の主・・『貴族』並の力を持つ『騎士』クラス最強の『害獣』・・暴君恐竜型ティー・レイ・ウス。強力な精霊力を発動させている存在を滅するために森の中からでてきたんだ。あいつのテリトリーは森限定だからこっちにはこないけどね」
そういうと、連夜はレンに自分の腰にしっかりつかまるように言って、大牙犬狼を走らせる。
無意識に連夜の腰にしがみつきながらも、レンは茫然と前に座る連夜に話しかける。
「光の精霊を熊に集めさせたのはあいつを呼び寄せるためだったのね・・」
「うん、『害獣』は自分のテリトリーの中、あるいはそのすぐ近くで無視できない異界の術を感知すると一瞬でそこに移動することができるからね。ましてやあれだけの精霊が集まっていたらいやでも目立つ」
「そうだったんだ・・」
死闘が終わり再び静寂が支配するだけの闇の中を、二つの影を乗せた一頭の狼が風のように疾駆していく。
しばらく二人は黙ったままいたが、やがて連夜が思いだしたように後ろに座るレンに話し始めた。
「怖い思いをさせちゃってごめんね、でも、よくあそこで動かないで我慢してくれたよ。助かった」
「ううん、連夜のこと信じていたから・・なんだかよくわからなかったけど、なんとかしてくれるんじゃないかって・・」
「そっか、信じてくれてありがとうね」
ちょっとだけ後ろを振り返り温かい笑みをもらす連夜の横顔を、顔を真っ赤にして見つめていたレンだったが、やがて、何かに気づいたように連夜のほうに視線を向ける。
「ね、ねえ連夜・・」
「ん? 何、レン」
「連夜ってさ・・ひょっとして前から私のこと知ってた?」
その今更ながらの問い掛けに、ちょっとびっくりした連夜だったが、ぷっと吹き出してその答えを伝えようとする。
「それはね・・」
『ボンッ!!』
連夜が口を開いて言葉を紡ごうとしたまさに次の瞬間、連夜達が走る交易路のすぐ横の森の木々が爆発したように弾けて飛んで、黒く巨大な何かが飛び出してくる。
その姿を闇の中で確認したレンは自分の見ているものが信じられずに、何度もその姿を見直す。
しかし、それは紛れもなく・・
「あ、四腕黒色熊!? な、なんで!? あいつはさっき『害獣』にやられたんじゃなかったの!?」
自分達を追いかけてくるその追撃者の正体を知って唖然とするレン。
だが、連夜はまるで予想していたかのように落ち着いて狼の速度を上げていく。
「思ったよりも早かったな・・」
その呟きを聞き逃さなかったレンが驚いた声を上げて問い掛けてくる。
「どういうこと!? あいつが追いかけてくることがわかっていたの!?」
レンの問い掛けに連夜は一瞬躊躇う素振りを見せたが、しょうがないという風に口を開いた。
「四腕黒色熊はね、常に雌雄一対、夫婦で行動を共にするんだ。夫であるオスが狩りに出かけて獲物を捕まえ、大木などの上を住処にして待っている妻であるメスの元に獲物を運ぶんだ。つまり・・」
「さ、最初に私達のところに来たのが夫で、あとで森の中であったやつが妻だったってこと?」
「うん・・」
「どうしてそんなことが・・あ!! まさか爪の数が違うの!?」
「そう。オスは四本爪、メスは三本爪。さっき『害獣』に淘汰されたのは・・」
「メスなのね・・」
恐らく妻を奪われた怒りの矛先がこちらに全て向かってしまっているのだろう、怒りと悲しみに彩られた哀しい咆哮がレンの心にやけに響く。
沈痛な面持ちで黙ってしまったレンに、それ以上の説明をせず、連夜はひたすら狼の速度を上げていく。
実はまだ説明には先があった。
本来四腕黒色熊は大人しい生物で、人の前に姿を現すことは滅多にない。
しかし、ある特定の条件においてのみメスの恐ろしい食欲を満たすためにこの夫婦の生物は凶暴化して危険な生物となる。
それは・・メスが妊娠している時である。
胎内の子供を養うために、様々な栄養を取り込もうと、二匹は冷徹な狩人と化し、周囲の生き物を手当たり次第に襲って食らう。
恐らくあのメスのお腹の中にも新しい命が宿っていたはずだ。
それを思うと連夜の心にやりきれない気持ちがわき上がってくるし、ましてやもしこの事実を知ればレンの心にも何かしら重い何かが刻まれてしまうかもしれない。
だから、連夜はそれ以上の説明をしなかった。
妙に優しいところのあるこの幼馴染に、そもそも傭兵稼業など向いていないと思うのだが・・いったい全体なんでこんなことになってしまったのか・・
はぁ・・と溜息をつく連夜であったが、レンの悲鳴が連夜を現実に引き戻す。
「れ、連夜!!」
切羽詰ったレンの言葉にはっと横を向くと、いつのまにか自分達のすぐ横まで来て並走している熊が、怒りと悲しみに震える目をこちらに向けているのが見えた。
こちらは老師カダの秘薬でかなりのスピードアップを果たしているというのに、なんという脚力か。
最愛の妻を奪われて怒りに我を忘れたものの力ということなのだろうか。
ともかく、大ピンチであった。
追いかけてくることは予想していたが、まさか振り切れないとは思っていなかった連夜である。
このスピードを保ったまま攻撃を仕掛けてくることはできないだろうが、しかし、このまま進めば仲間達がいるキャンプ場までたどり着いてしまう。
そうなったら、この熊はそこで大暴れすること間違いない。
「なんてことだ・・」
焦りの声を上げるが、今の手持ちの道具でどうこうできるものはない、むしろこのままスピードを上げて振り切るくらいしか方法はないのだが・・
やはり、二人乗りになっているのが最大のネックなのだろう。
自分だけでも飛び下りれば、レンを逃がすことができるであろうとも考えたが、レンはしっかりとしがみついたまま離れようとしないし、今この状態でそれを説明しても絶対納得してくれないだろう。
(どうする・・どうする・・)
そうこうしている間にも、目的地である次のキャンプポイントは着実に近づいている、だが、熊のスタミナは一向に落ちる気配がなくぴったりとこちらに張り付いたまま離れる様子がない。
思い切って狼で体当たりを敢行しようかとも思った連夜だったが、そのとき、連夜の身体から身を乗り出して前を見ていたレンが、何かを見つけて声を上げる。
「れ、連夜、何かこっちにくるよ!?」
「な、なんだって!?」
まさか、まだ他にも四腕黒色熊の家族がいたのかと思って戦慄する連夜。
しかし、遠くからこちらに疾駆してくるその姿を認識したとき、連夜は別の意味で驚愕の表情を浮かべるのだった。
「ちょ、う、うそでしょ!? なんで? なんでここにいるの!?」
自分の見間違いではないかと何度も目をこすって前方から駆けてくるものの姿を確認するが、それが自分の目の錯覚ではないと知って更に唖然とした表情を浮かべたあと、そして苦笑にも似た安堵の表情を浮かべると、連夜は狼を少しずつ熊から放すように走らせ、自分と熊の間に、何かが通り抜けられるくらいの道を作る。
「連夜、向こうから来るのが何か知ってるの?」
「うん・・まあね・・多分もう大丈夫・・あれは、あれこそは、牙持たぬ『人』々を守るために生まれてきた最強の剣だから」
「最強の・・剣?」
連夜の言葉に前を見つめ直したレンの瞳に、こちらに近づいて来るものの姿がはっきりと視認できるようになってくる。
八本足の巨大な白馬、多脚俊足神馬に跨ったその人影は、漆黒の鎧甲冑に身を包み、自分の身の丈よりも超大で幅の広い包丁のような太刀を振りかざしながら一直線にこちらに疾駆してくる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
天に轟く雄叫びを挙げながら、疾風を切り裂き、迅雷のような激しき闘気を身に纏い、大嵐のような怒濤の勢いで迫る。
眼前に迫るその騎影に気がついた四腕黒色熊が、その軌道を変えて迎え撃とうと更に速度を上げていくが、こちらに向かってくる騎影も怯むことなく更に速度を上げて黒い暴風と化した熊へと向かっていく。
そして、二つの影は激突するかに見えたが、二つの影はすれ違うようにして交差し、離れて行った。
その様子を並行して走行し見ていたレンと連夜は、一人は何が起こったかわからずに呆気に取られ、一人は全てを目撃して納得しもう横を走る熊を見ようとはしなかった。
「高杉一刀流 斬技 【笹舟流し】・・確かに見届けましたよ、兄さん」
「え・・」
誰に伝えるでもなく呟く連夜の言葉にはっと横を見つめると、横を走っていた熊の身体が前のめりに倒れ込み、砂ぼこりをあげながら転がって行くとともに、四本の腕と頭が宙を舞って闇の中へと消えていった。
悲しげな様子で一瞬そちらを見つめた連夜だったが、すぐに正面に顔を向けると、仲間達が待つキャンプ場へと狼を走らせる。
一方、連夜達とは逆方向に離れたところで立ち止まり、自らが切り捨てた相手の末路を見届けた獅子頭の侍は、静かに片手の掌を立てて瞑目して呟くのだった。
「南無阿弥陀仏」
闇の中で続いた死闘は、獅子の侍の一刀によって幕を閉じたのであった。