~第30話 朝日の中へ~
御稜高校のすぐ近くに、都市が管理している大きな市民グランドが存在している。
グランドの全面を良質な芝生が覆い、水はけもよく、休日は家族連れなどで賑わう憩いの場所にもなっている。
そこは常に草妖精のグラスピクシー族の管理人によって整備されているので、いつ来ても禿げて地面が剥き出しになっていることなど見ることはないため、平日の放課後は、高校の各部活動によっても使用されている。
とはいえ、いくらなんでも早朝から使われることはそうそうあるわけではない。
部活によっては早朝練習で使用する場合もあるが、いまの時期に使われることはない。
だが、普段の朝は誰も訪れる者のいない静寂が支配するだけの場所に、今日はいくつかの人影がそんな静寂を破って存在していた。
まだ夜明けまでには少しの時間がある今この時に、存在する人影は全部で七つ。
そのうちの二つはグラウンドのちょうど真ん中で対峙するようにして立っている。
「こんな朝早くで、ごめんね。放課後とかだと周りがうるさそうだったから」
一つの人影が口を開く。
雪のような美しい白さのロングヘアーを後ろでくくり、その髪の間を縫うように突き出た二つの角はあくまでも凛々しく、高校の体操服である白の体操着と黒いスパッツの上下を見につけたリンは、申し訳なさそうな表情を目の前の人物に向ける。
「別に時間は問題ないが、お主本当にわらわとやるつもりか? 見たところなんの武術も身に着けていないと見えるが・・」
もう一つの影が口を開く。
目の前の人物とまるで対になっているような艶やかな漆黒の黒いロングヘアーを同じように後ろでくくり、その黒髪を縫うようにして突き出た二本の角の先端は切り取られたような切り口をさらしている。
リンと同じように高校の体操服である白い体操着と黒いスパッツだが、その上に青い道義を身に着けた姿で、怪訝そうに対峙する相手を見ているのは龍族の少女、姫子。
そんな姫子をいたずらっぽい表情を浮かべてリンは見つめ返す。
「あらあら、勝負する前から相手の気遣い? 余裕ねえ。流石、ナイトハルトくんが姫子ちゃんにはどうやっても勝てないって言うだけの実力を持ってるからなのかな?」
「なっ!?」
相手から出た自分の想い人の名前に少なからぬ動揺を見せる姫子だったが、目の前のリンはそれに気づかぬ風を装って言葉を続ける。
「でもね、武術の実力=実戦での強さではないと思うのよね。それは、私も姫子ちゃんもよく知っていると思うけど」
そう言ってリンは後方を振り返り、少し離れたところで仁王立ちしてこちらを睨むように見守ってくれている自分の想い人に、艶やかに華が開くような笑顔を見せてひらひらと手を振ってみせる。
そのリンの想い人で事実上の夫であるロスタムは、心配そうな表情を浮かべてみじろぎもせずこちらを見つめている。
きっと、内心で物凄い心配しているんだろうなあと、わかってはいたし、それについては申し訳ない気持ちでいっぱいではあったが、だからといってやめるつもりはさらさらなかった。
心の中でごめんねと謝っておく。
すると、なぜか後方にいる想い人が苦笑を浮かべて頷いていた。
ああ、通じ合っているんだなと思うとちょっと涙が浮かんできそうになったが、そこはぐっとこらえて姫子のほうに振り返ると、わざと不敵な笑みを浮かべて見せる。
「確かに・・確かにあそこにいるオースティン殿が武術の心得もないのに、あのナイトハルトを打ち破ったということについては良くわかっておる。しかし、オースティン殿とお主は違うであろう」
以前、ロスタムとナイトハルトの壮絶な一騎打ちの決着の場にリンと共に居合わせた姫子は、いやというほどリンの言うことを理解してはいた。
しかし、だからといって目の前の人物があの後方で仁王立ちしているバグベアの闘士ロスタムに匹敵するような実力を持っているとは到底信じてはいない。
むしろ、最初ここに来たときに、リンがロスタムを連れてきたのを見たときは、ロスタムを自分の代わりに戦わせるのだと思っていた。
それをリンに確認すると、リンは苦笑を浮かべながらこんなことを言った。
『いや、確かに似たようなものなんだけど、実際に戦うのは私だから』
その言葉の意味がいまいちよくわからず小首をかしげる姫子だったが、リンの言葉を曲解して受け取ったもの達もいた。
姫子の決闘を知って、危ないからと一緒についてきてしまったお付きの二人はるかとミナホだった。
二人は、リンがロスタムと二人がかりで姫子に戦いを挑もうとしていると思い込み、二人を威嚇するように戦闘態勢で姫子の前に躍り出る。
しかし、それを呆れたように見たリンは、苦笑を浮かべながら否定してみせる。
『そんなわけないでしょうが。ロムには勝負を見届けてもらうだけ、何もしやしないわよ。それよりもあんた達、ほんといい加減にしなさいよね。姫子ちゃんのことが心配なのはわかるけど、あんた達が四六時中べったりくっついているから姫子ちゃんにまともな友達ができないのよ。少し距離を開けて見守ってあげることも必要なんじゃないの?』
その言葉を侮辱と受け取ったのか、二人はリンに襲い掛かる素振りを見せたが、姫子の一喝を浴びてすごすごと背後にもどったのだった。
その後、木陰で体操服に着替えて出てきたリンは、先程の言葉通り、ロスタムを後方に待たせておいて、一人で姫子の前にやってきたのである。
しかし、本当にこの目の前の人物に自分と渡り合うだけの力があるのだろうか?
どこからどう見てもただの非力な少女にしか見えないのだが。
「私とロムが違うというのは確かに違うわね。でもね、同じなの、同じだと思って戦ったほうがいいと思うわよ。ほんとはね、今、説明してあげてもいいんだけど、それだと興ざめでしょ?だから、終わったあとに説明してあげるってことで今は納得しておいて」
姫子の疑問の言葉に、屈伸運動をしながら謎めいた言葉を返すリン。
勿論、そのリンの言葉の意味は姫子にもちんぷんかんぷんで全くわからなかったが、リンの妙な自信には確かな裏づけがあるのだということだけはわかった。
やがて、屈伸運動という準備運動が終わったらしいリンは、自分の右手、姫子から見て左手のほうに視線を向ける。
するとそこには、いつの間に立っていたのか白銀の毛並みを持ち、御稜高校の制服に身を包んだ狼獣人族の大柄な少女、アルテミスがうっそりとたたずんでいた。
リンはそのアルテミスのほうを済まなさそうに見ながら言葉をかける。
「ごめんね、アルテミス。私って知り合い少なくて、他に公平に審判できそうな人で頼める人っていなかったものだから」
そのリンの言葉に、アルテミスは首を横に振って、微笑を浮かべてみせる。
「いや、気にすることはない。元々私は朝が早いのだ。自分とクリスの弁当をいつも作っているのでな」
「そう言ってもらえると助かるわ。でも、この借りは必ず『サードテンプル中央街』地下のパーラー『グリム』名物デラックスジャンボチョコレートパフェで返すから」
「うむ、期待している」
と、女同士、熱い友情を確認しあうように頷く二人。
そんな二人の会話をロスタムと一緒に聞いていたアルテミスの伴侶、エルフ族の少年クリスは、物凄い嫌そうな顔を浮かべて二人を見る。
「おいおい、それはやめとけよ、アルテミス。また太るぞ」
「うるさい、黙れ、クリス」
「・・」
最愛の女性からの心無い言葉にがっくりと肩を落とすクリス。
そんな傷心なクリスを慰めるように、ぽんぽんと肩を叩いてやるロスタム。
そういう男達のどうでもいいやり取りをよそに、白い髪の少女と黒い髪の少女の間を走る緊張感はいよいよ高まりつつあった。
「そろそろ、はじめましょっか」
「本当にやるんだな? 今なら、取りやめても構わんが」
苦く辛そうな表情を浮かべる姫子に、リンはあくまでも自然な笑みを浮かべたまま見返す。
「あら、それだと、姫子ちゃんと本当のお友達になれないでしょ? 私は、姫子ちゃんと本当の意味で友達になりたいの。だからやるわ。姫子ちゃんは私と友達になりたくない?」
「・・わらわは・・」
リンの問いかけに言葉を詰まらせて声にならない姫子。
しかし、リンには助けを求める姫子の声がはっきりと聞こえていた。
だから、微笑んで大丈夫というのだった。
「姫子ちゃん、私なら大丈夫だから、全力を出して。時にはそういう風に相手を信じることも必要だと思わない?」
殺意も気負いもそこにはない、ただ闘志というにはあまりにも無邪気なオーラを出してこちらを見つめている目の前の人物をただ眩しそうにみつめていた姫子だったが、頭を一つふって何かを吹っ切る。
そして、武術家として、戦う者としての表情を浮かべると、目の前の敵に意識を集中する。
「そう、それでいいと思うわ。遠慮したままじゃ、お互い苦しいだけだもんね。さあ、始めましょうか」
〜〜〜第30話 朝陽の中へ〜〜〜
にっこりと笑って見せたリンのその声を合図に、姫子は後ろにバックステップして半身に構える。
急所が集中している身体の中心線を隠すように構える、基本的な構えである。
左手を前に、右手は軽く拳を握って腰の辺りに構える。
腰はやや落とし、相手の動きをよく見てどんな風にも対応できるようにしている。
それに対してリンは自然体のまま、構えらしい構えすらしていない。
腕はだらりと構え、足は半歩分開いたまま、顔は気負いも何もなくただニコニコと笑っているだけ。
はっきり言って全くその意図が読めない。
武術家の姫子からしたら隙だらけにしか見えないし、どこを打っても当たりそう。
困惑する姫子を不思議そうに見つめていたリンは、しばらく小首をかしげて考えていたが、不意にゆらりと身体を傾かせた・・ように姫子には見えた。
そして、不意に自分の前を風が通り過ぎようとしたと感じたときには、姫子は無意識のうちに拳を突き出していた。
拳に人の肉を叩く感触が伝わってくる。
しかし、拳が突き抜ける寸前で、その感触は後ろへと遠ざかっていき、十分なダメージが与えられなかったことを悟る。
自分の今の一瞬に起こった出来事がなんだったのか?
姫子がそれを思考して答えを出すよりも早く、その答えそのものが、自分の目の前を転がって行くのを目撃し、姫子は武術家にあるまじきことではあるがしばし呆気に取られてしまった。
「いたたたたたたた」
ほっぺたを押さえながら地面を転がって行ったリンは、しばらくしてから立ち上がりしきりに口の中を気にする。
「いったぁ〜〜い。もう、まさかいきなり顔面パンチとは思わなかったなぁ〜〜。うわ、鉄の味がすると思ったらやっぱり口の中切ってる」
どうやら、自分が目の前の敵を無意識に迎撃したのだとわかった姫子だったが、いったいあの一瞬に何があったのかまではわからず、得体の知れない冷たい感覚が背筋を走り抜けるのを感じる。
「お、お主、いったい何をした・・」
「あ〜。痛かった。ん? ああ、今のわからなかった? そっか、無意識に迎撃したのね、流石武術家。
漫画ではよく読んだけど、ほんとなのねえ・・あれでしょ、毎日のたゆまぬ鍛錬によって身体が自然と動くのよね」
うんうんと、腕組みをしてやけにわかったような顔で頷くリン。
しかし、殴られたほっぺが痛むのかすぐに手を顔のほうに持っていく。
ただ、その顔はやけに嬉しそうでもあった。
「しかし、懐かしいわ、この感覚。当たり前だけど、あいつの感覚で、あいつの記憶なんだけど、私も懐かしく感じるのねぇ・・なんだか新鮮だわ」
と、今はもう戻れない男だった時の懐かしい思い出が脳裏をよぎったが、頭を一つふってそれらを一時封印すると、今度こそ戦う者の表情を浮かべてリンは正面に立つ姫子を見つめた。
「ごめんごめん。ちょっと気合いいれたくてね。なんせ一年以上のブランクがあるのものだから、身体に直接思い出してもらったほうが早いと思って。姫子ちゃんのおかげでばっちり目が覚めたし、気合いも入ったわ。ああ、そうだ、そういえば姫子ちゃんの疑問に答えてなかったよね? 気合いも入ったところで、それじゃあ、今度はわかるように行くね」
気合いが入ったというその言葉を実証するかのように、リンの身体に凄まじいばかりの闘志がみなぎっていく。
白い美しい髪は逆立ち、瞑想するかのように目を閉じたリンの周囲の芝生がリンを中心として風もないのに円を描くようにたなびいている。
姫子は、リンの一挙手一投足を見逃さないように、油断なく構えを取りどのような角度からの攻撃も迎撃できる体制で待ち受ける。
二人の間に緊張感が高まり、そして、それが頂点に達しようとしたとき、リンの目がかっと開く。
まるで満月のように金色に輝く瞳、そして、獣のように咆哮するとリンは、恐るべきスピードで姫子との間合いを詰める。
『ヴァルヴァルヴァルヴァルウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!』
黒い瞳を極限まで開いて驚く姫子だったが、一瞬で我に返ると、間合いを詰めてきたリンを迎撃する。
鋭く隙のない前蹴りで姫子は牽制をかける、リンは避ける、すぐに正拳突き。リンは避ける、横なぎの手刀、リンは避ける、足を止めるためのローキック、リンは避ける、続けて姫子はまだ攻撃を仕掛ける、避ける、仕掛ける、避ける、仕掛ける避ける仕掛ける避ける仕掛ける避ける。
まるで姫子が繰り出す攻撃のことごとくを読んでいるかのように避け続けるリン。
やがて、姫子の連携攻撃が単調になってきたところの隙をついて、リンは姫子の身体を両手で突き飛ばして自分から間合いを広げると、構えをといてニヤリと笑ってみせる。
「どう? ちょっとはわかった?」
そのリンの言葉に、困惑の表情を浮かべる姫子。
「お主・・今、わらわの攻撃の全てを読んでいたな? 『サトリ』か? わらわの心を読んだのか?」
姫子の答えに、リンは首を横に振って否定すると、自分の目を指さしてみせる。
さっきまで美しい金色に光っていた瞳は姫子と同じ元の黒い瞳に戻っている。
「『月光眼』っていうの。だいたい数秒先までの相手の動きを読むことができるわ、連続で使用すれば数分先まで読むこともできるの。あと、私の高速化した動作は、『凶戦士化』って能力。自分の肉体能力を一時的に数倍に跳ねあげる」
「待て待て待て、なんだその能力は!? お主麒麟種であろう? 麒麟族といえば、戦闘に特化した能力を持たない、それどころか他者を傷つけることもできない種族として誰もが知っている。お主はその派生種であることは知っておるし、宗家の一族である麒麟族のように他者を傷つけることができないというわけではないのだろうが、それでも戦闘能力などないはずだ。少なくともわらわは聞いたことがない。それになんだ、そのでたらめな能力は!? 相手の動きを数分先まで読むだと? 自分の肉体能力を数倍に引き上げるだと? いったいどこの高位種族の能力なんだ?」
全く納得がいかないと言う顔で言いつのってくる姫子を、おもしろそうに見つめたリンはいたずらが成功した子供のような表情を浮かべた。
「あら、よく知ってるわね。そう、私達麒麟種は自らの肉体を使った戦闘能力なんて全く持ってないわ。元来はあなた達龍族と同じく『神通力』を磨いてきた種族で、異界の術を得意とする一族。その証拠にあなたと同じ角持ちだしね」
「なら、なぜそんな能力が使える!? あ、そうか、お主ハーフか何かか?」
「そんなわけないでしょ? あなただって知ってる筈よ、たとえ両親が違う種族同士だったとしても、混ざり合って生まれてくるものはいない。どちらかの親の種族伝子を受け継いで生まれてきて、もう片方のは受け継がない。まあ、近親種なら話は別だけど、その場合種族特性はほとんどかわらないから意味ないしね。たった一つの例外、唯一両方の特性を持って生まれてくる場合がある種族として人間族があるけど・・ああ、ごめん、姫子ちゃんを落ち込ませようと思って言ったわけじゃないの。彼のことはあとで手伝うから、心配しないで。ちゃんと仲直りさせてあげる」
急激に落ち込んでいく姫子に、慌てたように優しく言い悟すリン。
そして、再び表情を引き締めて言葉を紡ぐ。
「ズバリいうとね、私達『白澤族』は、自分の伴侶からその能力を借り受けることができるの。ただし、その借り受けられる力の程は相手から注がれる愛情の深さに左右されるし、勿論永続的なものでもないわ。相手から見放されてしまうと全く能力が使えなくなるし、例え愛情が深かったとしてもあまりにも距離が離れてしまうとほとんど使うことができなくなってしまうわ。ちなみに、今使ってる能力はどちらもオリジナルの種族が使ったとして九十九.九秒しかもたない。もう答えはわかるでしょ? 少なくともこの力は高位種族のものではない」
「そうか・・だから、お主は同じだと言ったのか。その力の真の持ち主は、あそこで見守っているオースティン殿のものか」
「はい、正解」
姫子とリンは二人同時に少し離れたところから仁王立ちしたままこちらを見守っているバグベア族の少年のほうを見た。
そして、再び視線を合わす。
「そうか、それがお主の余裕の正体か。しかし、ここまで相手に手の内をさらすとは・・ずいぶんとわらわをなめてくれたものだな」
姫子の周囲から凄まじい怒気が噴き上がる。
自分の強さをなめられることは姫子にとって非常に耐えがたい屈辱だ、本来ならここでキレていてもおかしくない状態だったが、昨日の一件が相当堪えている今の姫子は流石にそれを自重する。
とはいえ、このままで済ますつもりはないという気を全面に噴き出して戦闘態勢を再び作りだす。
そんな姫子を見て、リンも真剣な表情で見つめ返す。
「ううん、なめてはいないわ。でもね、ここまでしないと姫子ちゃん本気にならないでしょ? 本気の姫子ちゃんに勝たないと、全力を出し切った姫子ちゃんに勝たないと意味がないの。だから、私は今の姫子ちゃんに勝つわ」
「やってみろ・・」
「さてと、それじゃあ、第二ラウンド開始しましょうか。行くわよ」
ゆっくりと眼を閉じたリンが、両手を広げたような状態で開いた両拳をぐっとを握った、と見えた瞬間、リンが今までいた地面に突風が巻き起こりそこからリンの姿が消える。
加速したと姫子が感じた瞬間、圧倒的な力を持つ何かが迫る感覚を感じる。
気づいた時にはもう何らかの攻撃を加えられている。
先程までの姫子なら。
しかし、今の姫子は本気であった。
一瞬目をつむり、次の瞬間かっとと目を見開いた姫子の身体から青い炎のようななにかが噴き出してその身体を包み込む。
そして、姫子が今までいた地面に旋風が巻き起こり、そこから姫子の姿も消える。
「なっ!?」
バシッと何かが弾ける音がして、まるで何もないところから転がり出たようにリンが空中を横っ跳びに飛んで芝生の上を転がっていく。
転がりながら立ち上がったリンの眼前に、突如として現れた姫子の右の正拳が無造作に突き込まれる。
筋力強化した腕でそれを払いのける、しかし、すぐに左の手刀が襲いかかる、それも腕で払いのける。
次々と襲いかかってくるとてつもないスピードの姫子の攻撃を払い続けるリン。
先程と同じ展開に見えるが、実際には全然違う。
さっきまでかすりもしなかった姫子の攻撃から避けることができなくなっているのだ。
今のところスピードは予測の範囲を超えるものではないので捌ききってはいるが、このままだと能力の使用時間のほうが先に切れてしまう。
リンの予想通り姫子もそれを狙っていた。
そんな出鱈目な能力がいつまでも続けて使えるわけはないのだ。
いつかはガス欠を起こす。
そして、それを示すかのように目の前で自分の攻撃を捌き続けているリンの満月状に輝いている瞳の光が欠け始めているのが見えた。
月の満ち欠けそのもののように、瞳が急速に元の黒い色を取り戻そうとしている。
リンは勝負に出た。
わざとわかりやすい軌道での裏拳を放つモーションと見せかけて背後を見せる。
しかし、それはフェイクである。
背後を見せての強烈な体当たり、『形意黄龍拳』の中でも破壊力の高い突進技。
『関壁撤山荒』
身体全体の突進を捌くことはほぼ不可能、しかもこの至近距離なら避けることもできない。
まさに必勝の攻撃だった。
だが、リンは逆にそれを絶好の好機と感じていた。
迫りくる姫子の背中に絶妙なタイミングで飛び上がって両足を乗せると、体当たりの衝撃を利用してそのまま足を伸ばし後方へと美しい体制で大きくトンボ返りして、姫子から間合いを取ってしまう。
「うあ〜、危ないところだった。姫子ちゃん、今のなに? なんか姫子ちゃんの体から青い炎みたいなの出てたけど」
今の必勝の一撃を見事にかわされたのは悔しかったが、本当に驚いた顔をしているリンを見て少し溜飲を下げたのか、姫子は不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「『青龍気炎』。異界の術が使用禁止になってから、我らが祖先が編み出した技の一つ。本来ならなんの使用用途もない『神通力』を『闘気』に変換することによって、己の身体能力を一時的に上昇させることができる。とはいえお主が使っておる『凶戦士化』と似ておるといってもそんな数倍にも引き揚げる能力ではないがな。そのかわり、こちらは『神通力』が尽きぬ限りいつまでも使用できる。言っておくが、角を切られておるからといって、わらわの『神通力』の保有量が少なくなっておるとは考えぬことじゃ。角と身体の保有量は別個のものゆえな。先程お主が言っておった通り、わらわはずっと鍛練を続けてきた。毎日毎日欠かさずな。そのわらわが地道に身に着けてきた技術と力と、お主の借り物の力ではおのずと結果が見えておるような気がするのじゃがな? それでも、まだやるかえ?」
憐みとも慰めともとれる中に、がっかりしたような感情も見え隠れしている姫子の表情に、なんとも言えない複雑な笑顔を向けるリン。
「うん、まあ、まだ全力を出し切ってないしね。あと、私、姫子ちゃんとは絶対意地でも友達になってやろうと思っているからさ。ところで、姫子ちゃん、二つだけ質問に答えてもらってもいい?」
「なんじゃ、勝負の最中に? 時間稼ぎか?」
「ううん、すぐに済む質問。というか、二つって言ってるけど実際内容的には一つだから。それさえ聞いたら、今度こそ決着をつけましょう。もう私も間合いを取るような真似しないから」
リンの言葉を聞いてしばらく考え込んでいた姫子だったが、やがてこっくりと頷いた。
「よかろう、答えられる内容であれば答えよう」
「ありがとう、姫子ちゃん。あのさ、姫子ちゃんすごいよね、毎日毎日努力してさ、そうやって強くなってきたわけじゃない。聞いたよ、小学校の頃はほとんど負けなしだったんでしょ? 上級生にもほとんど負けなかったって聞いたわ。そして、さらに修行してどんどん強くなって、ついにはナイトハルトくんとかよりも強くなって。今こうして実際戦ってみてもわかるけど、ほんと姫子ちゃんて強いよね。努力の果てに強くなったんだよね」
「何が言いたいのじゃ、お主? 質問ではないのか?」
苛立ったように言う姫子に、リンはしばし迷う素振りを見せたが、やがて、哀しい色を瞳に宿らせた笑顔を浮かべてその残酷とも言える質問を口にした。
「ねえ、姫子ちゃん、私に教えて・・その強さは誰のためのものなの? その強さはなんのためのものなの?」
「なんだそんなことか・・それはっ!!・・・それは・・」
リンの言葉はあっというまに姫子の心の奥深くにある一番もろい急所に突き刺さる。
姫子は何度も何度も口を開いて言葉を紡ぎだそうとするが、何も出てこない自分に唖然とする。
リンは姫子の気持ちが痛いほどわかっていた、それはかつて自分が通ってきた道なのだ。
自分の場合は求めるだけでほとんど努力はしなかったが、ただ強くなりたい一心で無謀な喧嘩を繰り返し、いつか自分がそこに辿りつけると思っていた。
辿りついて・・
そう、辿りついたとしてどうなのだ。
今度はかつての自分のようなものを虐げていくのか。
そして、また蹴落とされてまた這い上がるために同じことを繰り返すのか。
なんのための力なのか、なんのための強さなのか。
きっと今の姫子は同じことを考えているはずだった。
リンはあえて自分の心を鬼にして、言葉を続ける。
「それは・・その力は姫子ちゃん自身のため? それとも好きな人のため? それとも・・」
そして、恐らく自分の推理はあっているはずだ。
リンはトドメの言葉を放つ。
「それともそれは・・龍の一族のため?」
「!!」
衝撃が走ったように硬直し固まってしまった姫子の姿に、リンは自分の考えが正しかったことを悟る。
溜息を一つ大きく吐きだして空を見上げる。
もうじき夜が明けようとしているのか、東の空にうっすらと光が見え始めていた。
一度目を閉じて、再びゆっくりとそれを開くと、優しい色を浮かべて目の前にいる姫子を見つめる。
「ねえ、姫子ちゃん。私それが間違いだとは思わないよ。立派だと思う。私なんか、そんなこと考えたこともないしね。ひょっとしたらそれは親兄弟や周りにいる人達に押し付けられたものかもしれないし、姫子ちゃん自身がこうしないといけないと思ってやってきたことかもしれない。でも、それを姫子ちゃんはどのような形であれ選択してここまできたんだよね、えらいと思う。だけどね・・」
姫子が呆然とリンの言葉を聞きいっていると、リンの表情がくしゃっと歪む。
なぜかリンの目から涙がこぼれていた。
「それよりもまず、姫子ちゃんにはやらなきゃいけないことがあると思うよ。一族を守るために強くなる、偉くなる、それは悪いことじゃないとおもう。でも、いまのままじゃだめだってことはわかってるんでしょ? 姫子ちゃんは、もっといろいろなことを自分自身の目で『見て』自分自身の耳で『聴いて』自分自身の体験で『知る』ということをしないとだめ。それから強くなっても全然遅いことはないと思う」
「い、今までだって、私は見てきたし、聞いてきたし・・」
「誰かの見てきたことや、聞いてきたことでしょ? いったいどれだけのものを姫子ちゃんは見てきたの? あなたが見てきたことなんて、この世界のほんの一部でしかないのよ? しかも、あなた自身じゃなくて、そこにいるあなたのお付きの人達に行かせて報告を受けるだけだったんじゃない?」
何一つ否定できない自分自身に、姫子は愕然とする。
傲慢だったのだ。
自分が、そして異母兄である剣児が嫌っている父親と全く同じに自分は傲慢で、そして空虚だった。
勉強ができても、スポーツができても、武術ができても、それは、一族のためという自分自身でも納得できないような理由のためであって、本当にそれを望んでいる自分はどこにもいないのだ。
なんだこれは。
私はいったいなんなんだろう。
不意に足もとが崩れるような幻想に囚われ、崩れ落ちそうになる姫子。
しかし、そのとき不意に聞こえてきたリンの言葉に姫子は我に返る。
「まだよ、姫子ちゃん。まだ終わっちゃだめ!! あなたは今、自分自身を知ったの。ようやく知ったの。自分を知ることができたのなら、変えることだってできるはずよ。一人じゃ無理かもしれないけど、そのために友達がいるの。だから・・だから、あなたは友達を作らないとだめ。あなたが間違ったときに本気で止めてくれる友達を作らないとだめ。そのために、最後にもう一度、私は全力であなたと戦うわ」
「お主・・」
「お主じゃないでしょ、私の名前はリン。さあ、構えて! 姫子ちゃんも本気でかかってきて!」
「だ、だけど、お主の・・・リンの能力はもう・・」
姫子にはわかっていた、リンの言葉通りだとするならば、もうあの『月光眼』も『凶戦士化』も時間切れでほとんど使えないはずだ。
しかし、リンは涙の滲んだ目を片手で拭きとって不敵に笑ってみせる。
「姫子ちゃん、私最初に言ったよね。私なら大丈夫って。そういう風に信じることも大事だって。だから、大丈夫。例えそれで私がどうかなったとしても姫子ちゃんのせいじゃない。絶対そんな風には言わないから」
「・・わかった。わらわも全力でやる」
心の葛藤は尽きなかったが、それでも姫子は目の前でこんな自分の友達になるために命を賭けようとしてくれているリンの想いにだけは応えなければならないと思った。
そして、再び表情を引き締めると凄まじい闘気とともに青い炎を全身から噴出させる。
「行くぞ、リン!!」
「うん」
芝生の上に再び旋風を巻き起こして飛び出した姫子が眼前に迫る中、リンは両手を前に突き出した状態の異様な構えを取る。
そして、姫子の突進しつつ放たれてくる肘打ちが鳩尾に正確に向かってくる瞬間、リンが口を開いた。
「『掌底開眼』! 『手甲開眼』!」
姫子はそのとき見た。
リンの突きだした白い両手の手の平に横一文字に傷のようなものが走り、それがぐわっと開くのを。
そこには満月のように美しく輝く目があった。
「ぬう!」
どういう能力かは、わからなかったが、あの金色の目の光が意味するものは・・
「ぐ、『月光眼』!!」
『ヴァルヴァルヴァルヴァルウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥ!!』
リンの口から再び獣の咆哮があがり、絶対不可避と思われた姫子の身体をすり抜けていく。
「べ、『凶戦士化』までもか!? なんだ、あの目は!?」
混乱しつつも必死で高速移動を繰り返すリンを追いかけようとする姫子。
それを少し離れたところで見ているクリスは、リンのとんでもない能力を見て姫子同様に驚きの表情を浮かべて隣にいる彼女の伴侶に説明を求めた。
「お、おい、ロム、ありゃ、いったいなんだ?」
「『白澤族』の能力で『百眼』というらしい」
隣にいる友の問いかけに鷹揚に応えたロムだったが、クリスはそれだけではわからないぜと、更に詳しい説明を求める。
「さっき、リン自身も言っていたが、麒麟種というものは基本的に戦闘能力がない種族だ。そこで彼らが自らの身を守るために考え付いた方法が伴侶に庇護してもらうという方法だったらしい。中でも『白澤族』は、自らの身を伴侶に捧げる代わりに、その能力を借り受ける力を手に入れることができる」
「ああ、それらしいことリンがさっき言っていたよな」
「それで、ここからが本題なのだが、『白澤族』にはその能力を受け取る受信機となるものが百個体中についている。普段は閉じていて、俺達と同じ顔にある両目だけで見ているんだけどな。自らの身の危機においてそれは自由に開眼させることができるらしい」
「おいおいおい、まさか、それが・・」
「そう、それが『百眼』だ。まあ、百個目があるといっても、百回分能力が使えるわけじゃない。目は二つで一対。つまり実質はその半分というわけだな。しかも、伴侶となる人物の愛情の深さで使用できる眼の数も相当限定されるらしい。リンに言わせると、普通は年齢分の目の数くらいが相応なんだそうだ」
「ってことは、十七個か・・一対で一つと考えて、元々ある両目の分は使ってしまったし、いま両手の掌底と手甲を開いて使っているから、あと実質五回はまだ使えるってことか」
「いや、それはどうかな」
ロムの言う通りに計算して見せたクリスだったが、隣にいるロムは意外に苦虫をかみつぶしたような表情になっている。
「え? なんで?」
「それは普通に愛情があった場合だ。俺はそんなにいい伴侶でもなければいい夫でもないからな。下手をすると、もっと少ないかもしれん」
「なに!?」
二人は再び、目の前で繰り広げられている白と黒の少女の戦いに目を向ける。
黒の少女の苛烈な攻撃の中を、白の少女がひたすら舞い続け、その軌跡が残像となって現れては消え、消えては現れる。
「くう、まだだ、わらわの力はこんなものじゃない!!」
その闘気に導かれるように、姫子の身体から噴き出す青い炎が更に大きく膨れ上がって姫子を包みこむ。
そして、そこを境にして、姫子の攻撃はやがてリンの作り出していく残像のスピードにどんどん追いつき、やがて、避け続けていたリンは捌き続けなければかわし切れなくなってしまっていた。
「捕まえたぞ、リン・シャーウッド!!」
このまま姫子の攻撃スピードが上がり続ければ、リンのスピードを凌駕してしまうのも時間の問題であった。
万事休す。
姫子は自分の勝利を確信する。
しかし、姫子は、目の前で攻撃を捌き続ける白い髪の少女の目が全く諦めておらず、それどころか何かを狙って欄々と光っているのを見つけた。
「り、リン、貴様・・まだ、何か、隠しているな!?」
「ご明察。姫子ちゃん、今度こそ本当に本当の最後。行くよ、私の全力」
いよいよ姫子の攻撃がリンの身体をとらえようとしたそのとき、リンの身体全体が光り輝く。
「『真眼全開』!!」
姫子の眼前に、眼のお化けが姿を現す。
腕、足、首筋、そして、顔。
衣服が隠していないリンの身体のあちこちにいくつもの一文字のキレ目が現れて一斉に開いていく。
その数はさっきクリスが計算した数とは全く違っていた。
明らかに三十を越える数の目が開いているのだ。
そして、その次の瞬間、リンの身体が姫子の前から完全に消えて見えなくなった。
「くそ、どこだ!!」
必死になってリンを探す姫子だったが、彼女の姿は全く見えずその代りに大地を踏みしめて走る何者かの足音だけが聞こえてくる。
(死角だ、その光速のスピードでわらわの死角に常に入り続けている・・ならば)
姫子は追うのを諦めて、眼を閉じるとその場にて腰を落としてどっしりと構える。
相手が手を出してくる瞬間を狙う。
そのために神経を研ぎ澄ませて、相手の動きを感じるのだ。
動きを目で追うことはできなくても、身体全体で感じることはできる。
姫子は、そのときが来るのをじっと待ち続けた。
風が吹きすさぶグラウンドの中央に、いま、ゆっくりと朝日が差し込もうとしていた。
ゆっくりと光を浴びて姫子の影が伸びていく。
そして、決着の時。
今まで一度も攻撃を仕掛けてこなかったリンが姫子の眼前に不意に姿を現し、左手を恐るべきスピードで姫子の眼前に繰り出してくる。
姫子はその直前かっと眼を見開くと、その手を払いのけるように合わせ、リンの力そのものの流れをそのままに少しずつ軌道を変えることによってリンそのもの跳ね返す。
『形意黄龍拳』当て身技、『龍爪小手返し』。
姫子がキレるきっかけになったこの技を、今度はキレることなく使ってみせる。
鮮やかに宙を舞うリンの身体。
無防備な状態でさらけ出され身動きままならないまま姫子の前にあぶりだされてしまったリンに姫子の攻撃を防ぐ術はない。
・・はずだった。
相手の力を受け流した・・そう姫子に錯覚させるほどにリンの力加減は絶妙であった。
そして、それに気がついたときには、姫子自身の身体が宙を舞う。
「しまっ・・き、きゃああああっ!!」
「うおおおおっ!!」
リンは姫子に飛ばされて宙を舞ったわけではない。
姫子の手首が翻るその瞬間にあわせて自ら飛んだのだ。
一瞬。
ほんの一瞬姫子がそれに気がつくのが遅かった。
気づいた時にはリンの左手は、添えられた姫子の手首をがっちりと掴んでおり、高速で宙を舞い地面に降り立ったリンの姿を視認したと思ったときには姫子自身の視界がすでに反転していたのだ。
己が宙を舞っていることを悟り離脱しようとするが、リンの左手はそれを許さない。
大きく弧を描いて半円を描く姫子の体はすぐに地面へと近づく。
己の右手はリンに掴まれており、態勢を立て直すことが満足にできない今の状態では、受け身を取ることしかできない。
姫子は衝撃に備えて腹に力を入れる。
「ぐふっ!!」
したたかに地面にたたきつけられて、一気に息が詰まる。
すぐには視界が定まらず、地面に叩きつけられた衝撃が予想以上に重く立ち上がることがすぐにできない。
しかし、姫子はすぐに状況を把握する。
リンの攻撃が終わったわけではない、すぐに次の一撃が来る。
寝転がった状態で自らの右腕の先にいるはずのリンのほうへ視線を向けよう・・とした瞬間、不意に自分の顔の上に影が落ちる。
トドメの一撃が落ちてくる、そう確信した姫子は残った左手でガードしようとするが、地面に叩きつけられた時の衝撃でしびれて動かず、最早これまでと覚悟して目をつぶる。
だが、結局、その一撃は落ちてはこなかった。
恐る恐る眼をあけると、自分の顔の上には、逆さの状態で見えるリンの顔が覗き込んでいることを知る。
姫子が目を開けたのを確認すると、リンはにっこりとほほ笑んだ。
「はい、私の勝ちね。やっと、姫子ちゃん捕まえたわ」
「あ・・」
姫子はその言葉に、自分が負けたことを悟った。
しかし、不思議と敗北感はなく、どこか安堵している自分がいることに気づいた。
「・・そうじゃな、わらわの負けじゃ・・」
悔しくも恨めしくもない。
先程とはちがった空っぽの何かがあった。
そこに、新しい何かが目の前の人物から注ぎこまれていく。
「姫子ちゃん、約束通りこれで友達よ」
掴んだ自分の右手を放さないままにっこりと笑うリンに、姫子は疲れたような笑みを浮かべて好きにしたらいいと言う。
ちょっと涙が出てきそうになった残った片手で顔を覆い隠そうとしたが、それよりも早くリンが掴んだ右手をひっぱりあげて姫子を立たせ、自分の正面へと向かう。
そして、笑顔を少し引き締めて真剣な瞳を姫子に向けるのだった。
「でも、覚えておいて、姫子ちゃん。私はいま握ってる手を放さないけれど、あなたが間違ったらこの掴んだ手で何度でもまた投げ飛ばすわ。私はそれが友達だと思っている。そしてそれはね、姫子ちゃんも同じ。私が間違いそうになったら、今度はあなたが止めるの。この手は相手を助けるためだけに掴んで握られるわけじゃないって、覚えておいてね」
「・・そうか・・それが、友達なんじゃな・・」
「そうよ、友達でいるのって結構体力も精神力もいるものなのよ〜」
そう言って心からにこりと笑って見せたリンに、姫子も笑顔を返そうとしたが、不意に近づいてきたリンが姫子の身体を抱きしめる。
「姫子ちゃん、がんばったね、ほんとにがんばったね。でも、ちょっとだけがんばるのをおやすみしようよ。姫子ちゃんにはもっと休憩が必要だと思うよ。それで姫子ちゃんが十分休憩した、もう休憩が終わりと心から思ったときに、もう一度自分が何を本当はしたいのか考えよう」
「わ、わらわは休んでもいいのか・・もう、本当に休んでもいいのか?・・」
「いいのよ、姫子ちゃん、誰が認めなくても私が認めてあげる。友達の私が認めてあげる」
「あ・・ありがとう・・う・・ううう・・・」
自分の腕の中で小さな子供のように泣きだした姫子の身体を、リンはそっと母親のように抱きしめ続けた。
二人の小さな影をゆっくりと昇り姿を現し始めた優しい朝日が包みこんでいった。