~第26話 急転直下~
ミネルヴァは目の前に立つ少女の姿を見て少なからぬ衝撃を受けてよろめいた。
ありし日の自分が一緒に青春を駆け抜けた、掛け替えのない親友であり同志でもあるその人物が、かつて共に過ごしたあの日のままに今自分の目の前に立ってこちらをきょとんとした表情でみつめているのだ。
いや、勿論かつてだけではない、それよりもずっと以前からその親友とは深い付き合いがあり、過去から今に至る現在までずっと一貫して彼女は自分の側にあり続けているはずだ。
なのにどうして彼女は、あの運命の日、よりによって彼女が己の宿命に自らピリオドを打った日に自分が見た同じ姿で立っているのか。
もし、ミネルヴァの記憶が間違いなければ、現在の彼女は二十歳のはず・・なのに、目の前の彼女はどうみても中学生にしか見えない。
いや、もっと言うなら、あの日、家を出て一緒に全寮制の中学校でがんばろうと誓いあった中学一年生の春に、もどったとしか思えない姿なのだ。
少しだけ違うのは、彼女が着ている制服が自分達のものではなく、妹スカサハと同じ中学校の制服に、かわいらしい小狐のアップリケがついたエプロンをしているということだろうか。
それでもどう考えても本人としか思えない少女によろよろと近づいたミネルヴァは、呆気にとられているその少女の肩をガシッと掴んで血走った目で睨みつけるように見つめた。
「た、玉藻!! いったい、どうしちゃったの!? どう見ても、中学生じゃない!? いったいどんな呪いを受けたのよ!?」
「え、え、、た、玉藻って・・」
目の前の美しい女性から飛び出た意外な名前に、戸惑いを見せる少女に気づく風もなく、ミネルヴァはさらに言葉を重ねる。
「で、でも、今のこの城砦都市でそこまで強力な若返りの魔法を使える奴がいるわけないし・・かといって、タイムスリップじゃ・・あ!! ま、まさか、玉藻じゃなくて、私がタイムスリップしてるのかしら!? ここは、7年前の世界なのか!? そうなの、玉藻!?」
「へ、え、い、いったいなんの話なんですか? それよりもどうして玉藻姉さんのことを知っているんですか?」
「は? 玉藻姉さん?」
お互いがお互いの言ってる意味がわからず、きょとんとした顔を見合わせる二人。
そんな二人の後方でその様子を見ていた連夜が、疲れたような表情でやってきて、痛いくらいに少女・・晴美の肩を握りしめているミネルヴァの手をそっと放させる。
「あのね、み〜ちゃん、タイムスリップって・・そんなわけないでしょ」
「れ、れ、連夜、でも、大変なんだ!! た、玉藻が中学生になっちゃった!!」
「落ち着いてってば。だから、そんなわけないでしょって、言ってるでしょ、もう〜〜。ほら、晴美ちゃん、すっかり怯えてしまっているじゃない」
興奮気味のミネルヴァと晴美の間に連夜が割って入ると、晴美はささっと連夜の背中に隠れてその後ろからびくびくと身体を震わせてミネルヴァのほうを見ている。
その様子を見て、連夜の言葉の中に聞きなれない人名を確認したミネルヴァは、小首をかしげながら連夜のほうに視線を向ける。
「は、はるみちゃん?」
「そそ、姉さんはバイトで家を留守にしてたから知らなくてもしょうがないんだけど、つい先日から一緒に住むことになった、玉藻さんの妹の如月 晴美ちゃん。ほら、この前の土曜日に玉藻さんと飲んでるときに話しに出てたでしょ? あの妹さんが晴美ちゃん。晴美ちゃん、こっちは僕の三つ年上の姉、ミネルヴァ。晴美ちゃんのお姉さんである玉藻さんとはもう十三年近くになる付き合いがあって、玉藻さんにとっては大親友にあたる人。今も一緒の大学に行ってるんですよ」
連夜のにこやかで無邪気な紹介に、二人は一瞬互いを呆けたように指さし、そして今度は連夜を指さし、またお互いを指さしたあと、再び連夜のほうに同時に向きなおる。
そして、二人は連夜に詰め寄りながらあらかじめ示し合わせたようにぴったり同時に絶叫するのだった。
「「ええええええええ〜〜〜〜〜っ!! どういうこと〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」」
至近距離から力いっぱいの大声を浴びせかけられて、流石の連夜も耳を押さえてぐらりとよろめきかける。
「ちょ、二人とも、朝から大声出さないで・・」
ちょっと涙目になって抗議する連夜だったが、二人はそれどころではないと、怒りとも困惑ともつかぬ表情で連夜に迫ってくる。
「何言ってるのよ、連夜、どういうこと、ねえ、どういうこと!? 玉藻の妹がうちにいるってどういうことなのよ!? しかもあんたとお揃いのエプロンでまるで新婚カップルみたいな姿をしている理由はなんなの!? 説明しなさいよ、早く早く!!」
「何言ってるんですか、連夜さん、どういうこと、ねえ、どういうことなんですか!? 玉藻姉さんの親友が連夜さんのお姉さんってどういうことなんですか!? つまり連夜さんは私のこと最初から知っていたってことなんですか!? 説明してください、早く早く!!」
二人同時に胸倉をつかんでツープラトンで連夜の身体をガックンガックン激しく揺さぶり続ける。
「ちょ、ま、ふ、二人とも、そ、そんな、ゆら、された、しゃべれ、な、い」
しばらくの間揺らされ続けたせいで、どんどん顔色が悪くなってきた連夜に、流石に気がついた二人は仕方なく手を放す。
げほげほと演技ではなく本気で咳きこんでなんとか調子を取り戻した連夜は、ちょっと力が抜けてはいるものの、明るい笑顔を作って二人を見た。
「じゃあ、朝御飯の用意するからみ〜ちゃんは席に座っておいてね。晴美ちゃんはお味噌汁を入れてくださいね」
「「は〜〜い」」
と、連夜の言葉に素直に従い、ミネルヴァは食卓にある自分の定位置に、晴美は味噌汁を入れるべく鍋のほうに向かったが、二人同時にはっと気がついて連夜のほうに再び詰め寄っていく。
「「説明は!?」」
「むう・・完璧に誤魔化したと思ったのに・・」
二人から顔をそらして悔しげにつぶやく連夜。
「まったく油断も隙もないんだから。連夜は」
「本当です。連夜さんて肝心なところはほんとにズルイんですから」
ブツブツと自分の文句を言ってくる二人を、あっはっはと爽やかな表情で誤魔化す連夜。
「わかった、じゃあ、説明するね。実は先週の土曜日の話なんだけど・・あ、そうだ、み〜ちゃん、新聞取ってきてくれた?」
「あ、ごめん、まだだった」
「晴美ちゃん、ご飯混ぜておいてくれました?」
「す、すいません、忘れてました」
「もう〜二人とも早くしてね、みんな起きてきちゃうから。さあ、いっていって」
と、連夜に急かされて、ミネルヴァは新聞を取りに玄関へ、晴美は炊きあがってるはずのごはんを混ぜるためにしゃもじを持って炊飯器の前に・・行こうとして、はっと気がついて三度連夜に詰め寄っていく。
「「せ・つ・め・い!!」」
「ん〜・・あと一歩何かが足りないんだろうなあ・・もう少しで手が届きそうなんだけどなあ・・誤魔化すのって結構大変なんだなぁ・・」
「連夜!!」
「連夜さん!!」
と、流石にもう騙されないぞという怖い表情を浮かべる二人に、連夜は苦笑を浮かべてみせると今度こそきちんと説明するのだった。
ミネルヴァには土曜日から続いた一連の晴美の騒動のことと今晴美に料理を教えて手伝ってもらうことにしていることを、晴美には小学校時代から続くミネルヴァと玉藻の交友関係についてと自分が晴美をみつけ声をかけた理由が晴美の想像通り晴美の姿が玉藻に酷似してたためであることを、それぞれ説明する。
連夜の説明が終わったあとも、二人は終始無言で何かを考えている様子で、連夜はそんな二人をそっとしておいて朝御飯の支度を着々と進め、あとからやってきたスカサハや母親の御飯の用意を優先させる。
「ねえ、レンちゃん、あの二人なにぼ〜〜っと考え事してるのかしら?」
まだ台所の横で突っ立ったまま考え事を続けている二人の様子を見ながら、ずず〜〜っと味噌汁をすする母親が、そっと連夜に聞いてくる。
連夜は母親同様に二人を見た後、なんとも言えない困ったような笑顔を浮かばせて母親のほうに向きなおる。
「いや、まあ、お互いまだ知らなかった衝撃の事実を知って、今自分の中で整理してる最中かと」
「ふ〜〜ん」
と、なんだかわかったようなわからないような答えに生返事を返しておいて、母親はそれっきり興味を無くしたように自分の大好物の一つである卵かけごはんを食べることに集中しだした。
逆にその横で、母親をそのまま若くしたような姿のスカサハが、気にし始める。
「いや、それはいいんですけど、そろそろ食べ始めないと学校に行く時間が・・」
「ああ、もうそんな時間なのか、しょうがないね」
スカサハの言葉に合点がいった連夜は、二人の側に行ってパンパンと手を叩き、注意を自分のほうに向けさせる。
「はいはい、二人ともそろそろご飯食べてください。姉さんはまたバイト、晴美ちゃんは学校あるでしょ?」
「「・・・」」
なんだか連夜に非常に言いたい何かが二人にはあるようだったが、とりあえずお互いの顔を見合わせ、ふ〜〜〜っと溜息を同時に吐き出すとのろのろと食卓に座る。
「あの、さ、連夜・・」
「あ、そうそう、み〜ちゃん。まだ玉藻さんには晴美ちゃんのこと言わないでね。ちょっと考えがあるから」
「・・・わかった」
なんだか恨めしそうな視線を送りながら、連夜を見つめるミネルヴァ。
「あの、ね、連夜さん・・」
「あ、そうそう晴美ちゃん。今日は放課後付き合ってくださいね。ちょっと行くところがありますから」
「・・わかりました」
なんだか釈然としない視線を送りながら、連夜を見つめる晴美。
そして、二人揃ってやけくそ気味に朝ごはんを掻きこみはじめるのだった。
「なんだいなんだい、お姉ちゃんのことをそんなにないがしろにしたいのかっていうんだ。玉藻は私の友達なのにさ、私には全然事情もなにも説明しないで勝手にどんどん進めちゃってさ。いいよいいよ、どうせ私は連夜に信用されてませんよ・・連夜のバカ・・」
「なんですかなんですか、そんなに私は頼りないですか。私のこと知ってたくせに全然知らない振りして、私、知らないから結構ひどいことも言ってるのに全然怒りもしないで。いいですよいいですよ、どうせ私はおこちゃまですよ・・連夜さんのバカ・・」
「二人とも怒りながら食べると消化によくないですよ」
「「うるさい!!」」
半分涙目になっている目に怒りの炎をたぎらせて連夜を一喝する二人。
そんな二人の態度に少なからず傷ついた表情を浮かべる連夜だった。
「僕、なんで怒られているんだろ・・」
「レンちゃんはもう少し乙女心をわかるようになったほうがいいわね」
「非常に残念ですけど、お母様と同意見ですわ」
「・・とほほ」
〜〜〜第26話 急転直下〜〜〜
「おはよう、連夜」
「え、あ、お・・はよ・・」
登校してきたあと、早速一時間目の授業の用意をしようとしていた連夜だったが、右隣りから朝の挨拶をされて振り返るが、そこに自分がよく知る人物を見出すことができずに、きょとんとして固まってしまった。
しばらく横に座る人物の挙動をしげしげと見つめる連夜。
別にどこがどうおかしいというわけではない。
むしろ女性として自然なくらい自然な行動を行っているといえる。
椅子に座るときにスカートが広がったまま座らないようにきちんと膝のうしろのところを押さえながら座ったり、長い髪が前に落ちてこないように片手で押さえながら教科書を取り出したり、男性ではほとんどいない内股気味の足の置き方など、男だったら絶対気にしないであろう部分にやたらと細かく注意がいっている。
いや、明らかに注意してやってるのではないということは、流石の連夜にもわかる。
女性として生まれて女性として育って来た普通の少女なら当たり前なことだし、男っぽい女性であったとしてもやはりどこかにそういう部分が残っていて不自然には見えないのが当たり前だ。
しかし・・
連夜の隣に昨日まで座っていた人物は絶対そうではなかったはずだ。
なのに、今日はどういうことか全くの別人にしか見えない。
連夜は我知らず呟いていた。
「だ・・誰?」
「は? 何言ってるの、連夜?」
連夜と同じく一時間目の授業の用意をしていた白髪の少女リンは、あほみたいに口をぽかんと開けて意味不明なことを口走る連夜を怪訝そうに見つめた。
「え、だ、だって、そこに座ってたのは・・リンだよ?」
「う、うん、私よね? それがどうしたの?」
「いや、だから、昨日までそこに座ってたのはリンなのに・・」
「いや、だから、昨日も今日もここに座ってるのは私だけど・・」
要領を得ないまま全く噛み合わない二人の会話。
しかし、連夜のほうはなんとなく噛み合ってない部分を察してなんとか自分の気持ちを言葉にしてみようとがんばってみる。
「なんというか、その、昨日そこに座ってたリンは、どこかしら元のリンの仕草とか癖とかそういうなんかわかるところが・・」
「仕草や、癖? あ〜〜〜〜〜、そういうことか。」
連夜の説明ともいえない説明をなんとか理解したリンが、ぽんと一つ手を打って何かを納得すると、やけに色っぽい流し目で連夜を見た。
「私、やっぱり変わった?」
いたずらっぽく言うリンに、首をぶんぶんと縦に振る連夜。
そんな連夜の吃驚仰天している表情を見て嬉しそうな顔になるリン。
「あ〜、そうなんだ。そっか、じゃあ、私は私として定着したってことなのね」
「ちょ、わ、わからないよ、どういうこと? やっぱり君はリンなの? それとも違うの?」
さっぱりわけがわからない連夜はますます混乱した表情を浮かべて、目の前にいる親友と同じ顔同じ姿の少女を見る。
「う〜〜ん、説明が難しいんだけど、そうね。やっぱりこうかな・・改めて初めまして、連夜。女として、というよりも、ロムの親友ではなく恋人として望まれた性格のリンよ。よろしくね」
リンがそう言って差し出してくる小さくて華奢な手を、無意識に握って握手する連夜だったが、どうにも複雑そうな表情で見返す。
「ちょ、ちょっと待って、ひょっとして今のリンって、ナチュラルに女性ってこと?」
「そうね、ごめん、混乱するのはわかるわ。昨日までの私は、元の性格だった男性のリンをベースにした女性だったものね。でも、今は違う、連夜の言う通り女性としての私」
「な、なんでそんなことになったの?」
「説明が難しいなあ。言い方が難しいんだけど、私の伴侶であるロムの希望が昨日までは男性としてのリンにも側にいてほしいと思っていたから起こっていた現象なのよね。でも、身体がこうなってしまった以上、男と女の人格が両方居続けるのは非常に不安定でよくない状態だったのよね。どっちもがどっちかわからなくて、男の行動を取ったり女の行動を取ったり。それで昨日ロムを説得して、彼の心の中を整理してもらったのよ、女としての私を認めてくれるように。詳しくは言えないけど、伴侶になる人物の精神状態が私の性格に深く関わっているからなんだけどね。それで一旦男の人格は私の中から消えることになったの。女の体になってる以上、女の私が残るほうが自然でしょ?」
「・・『性別変化』だけじゃなくて『人格変化』もってこと?・・それも白澤族の能力?」
「ごめん、親友の連夜でもこれ以上詳しくは言えないの。私だけの問題じゃないし、プライバシーにすっごい関わってくる問題だから。許して、ね?」
可愛らしく謝ってくる親友の姿を茫然と見つめる連夜。
確かに、これは演技ではない。
昨日までのリンでは、例え演技であったとしてもこんな女の子らしい態度で謝ったりできるわけがない。
連夜は途方に暮れたような顔で、目の前にいる別人になってしまった親友を見つめた。
どうやら本当にあの狂犬のように危なげで、いつも心配ばかりかけさせる火の玉みたいな無鉄砲な少年は、連夜の前からいなくなってしまったらしい。
どうしようもない寂寥感に襲われている連夜に気づいたリンが、物凄い不満そうな表情で連夜を見る。
「ほんと、ロムといい連夜といい、あいつのことが本当に心から好きなのね。こんな美少女が目の前にいるのに、あんなガリガリの狂犬みたいに危ない中学生のことがなんで好きなのかしら」
ブツブツと不満そうにつぶやくリンに、連夜は心底呆れたような表情を浮かべてみた。
「をいをい、あいつって他人事みたいに言わないでよ。あれも君でしょうが」
「あのね、恋人も親友の心も鷲掴みにしてる奴のことを、いくら頭では自分だったって理解しても女として感情で納得できないのよ。親友の連夜はまだいいわ、まだ許せる。でも、ロムの心まで掴んで離さないのはどうなのよ、私に奇麗に譲るのが筋じゃないのかしら」
折角のかわいらしい顔が台無しになってしまうのも構わず、ぶすっとして不機嫌な表情を隠そうともしないリンの姿にかつての親友の片鱗を確認し、ちょっと表情を和らげる連夜。
「ロム・・泣いたでしょ?」
「・・別に、あいつが消えたって、私がいるんだから、泣くはずないんでしょ」
「・・そっか、やっぱ号泣したんだ」
「ちょ!! 連夜、あなたひょっとして人の心の中読んでる!?」
連夜の言葉にあせって椅子からずり落ちそうになったリンは、恐怖に慄く表情で連夜を見ると、連夜はいたずらが成功した子供のような表情でこちらを見て笑っていた。
「ただの人間の僕にそんな超能力あるわけないでしょ、君たちじゃあるまいし。ちょっとカマかけてみただけだよ、ほんと男になろうと女になろうとリンのそういう根が正直なところって変わらないよね」
「な、なんですって!?」
「でも、やっぱり号泣したんだ・・そりゃそうだよなあ・・」
なんだかやるせない気持ちと切なさで胸が締め付けられるようになってしまい自然と顔が下に向いてしまう連夜。
「私がいるでしょ?」
「それとこれとは話が別。あ〜、もう、僕だってここが教室じゃなかったら号泣してるよ。だめだ・・この話題は考えないようにしよう、あとで静かに一人で泣くことにするよ」
「もう〜、連夜といいロムといい、そんなことばっかり言って。私が消えたほうがよかったってこと?」
「そんなこと言ってないでしょ。いや、むしろ君のことはよかったと思ってる。ロムは生まれが生まれだから家族とか暖かい家庭とかに縁のない人だからね、君がいてくれることは親友としてすごい嬉しいよ。それについては心の底から感謝する。彼の側にいて彼の心の支えになってあげてほしい」
「じゃあ、そんなこと言わないでよね。私だって結構傷ついているんだから」
お互いすでに結構涙目になってきていることに気づき、流石に話題を変えることにする。
別にお互いのことが嫌いなわけではないし、心の傷を広げあって血を流させようとするつもりもない、ただただお互いの立場的にどうしてもそうなってしまうだけなのだ。
自然とお互いがこの話題を笑って話せる時が来るまでそっとしておこうと、目線で会話しあったあと、リンが改めて別の話題を口にした。
「ところで、連夜、晴れて女になったのはいいんだけど、ちょっとお願いしたいことが」
「ん? なに?」
なんだか恥ずかしそうに言うリンをきょとんとして見返す連夜。
「いや、あの、料理を教えてほしいのよ、できるだけ早く」
一気にそう言ったあと、非常に気まずい表情で目線を泳がすリン。
顔はゆでダコのように真っ赤だ。
そんなリンをしばらくじ〜〜っと見つめていた連夜は、前を向くと無表情のままにぽつりとつぶやいた。
「・・愛妻弁当か・・」
「みゃっ!!」
連夜の言葉に過剰反応を起こしたリンは、わたわたと手を振り回して必死に何か弁解めいたものをしようとする。
「ち、ちが!! ・・いや、違わないけど、そういうなんか、いかにも的なものじゃなくて、普通に、なんというか、ただ、ロムにおいしいものを食べてもらいたいだけというか・・そ、そりゃ、ちょっとでも手の込んだものを作ることができたらそれにこしたことはないし、作れるなら作ることに対しての想いはやぶさかではないというか・・」
「ふむふむ・・つまり要約すると、リンは心の底から愛してるわけだね、ロムのことを」
「みゃみゃっ!!」
ぶしゅ〜〜〜っと、蒸気でも吹き出しそうな勢いで顔を真っ赤にし、恥ずかしさのあまり机に突っ伏してしまうリン。
そんなリンの姿を見て流石にやり過ぎたと思ったのか、連夜は苦笑しながら先程のリンの頼みを了承することにする。
「からかって悪かった、リン。その件なら引き受けるよ、男の性格の君の時にも約束していたわけだしね。ただし、明日からにしてくれるかな、今日はちょっと外せない大事な用事があるからさ」
「う〜〜〜〜、わかった」
連夜の了承の言葉を受け取ったものの、想像以上に恥ずかしかったらしくなかなか復活できずにいるリンを、微笑ましく見つめながら再び授業の準備をしようとする連夜。
しかし、何者かが連夜の肩をぐっと掴んで振り向かせる。
何奴!っと、未知の敵に備えて戦闘態勢を整えようとする連夜だったが、その人物を確認して一気に意気消沈していく。
それどころか、顔はみるみる青ざめていく。
連夜は、なんとか弱々しいながらも笑顔を作ってその人物を見る。
「や、やあ、おはよう、姫子ちゃん」
連夜の左隣に座る美少女、龍乃宮 姫子は、美しい顔に光り輝くばかりの笑顔を浮かべて連夜を見ていた。
目は全然笑っていなかったが。
「おはよう、連夜。リンとの会話が終わるのを待っておったのだが、連夜。わらわがなんの話がしたくて、お主を呼んだか、勿論わかっておろうな?」
「いたい!! 姫子ちゃん、肩、肩!! 爪が食いこんでる、爪が!! いたたたたたたたたたたっ!!」
ギリギリと連夜の肩を女の子とは到底思えない力で片手で締め上げてくる姫子に、たまらず悲鳴をあげる連夜。
「いや、これはすまん、連夜、悪気があったわけではないのだが、ついつい気持ちが昂ぶってしまってな。しかし、わらわは元々気が長いほうではないのだよ。あまりに焦らされると・・ふっふっふ・・わかるであろう」
「ひ〜〜〜〜〜〜っ!!!」
ギラギラと危険な光を宿す瞳でこちらを睨みつけてくる獰猛な雌龍を、なるべく直視しないように目をそらそうとする連夜。
そんな連夜の態度に気づいて容赦ないツッコミが。
「何を目をそらしておる、連夜。こっちを見よ」
「いや、だって、姫子ちゃん怖いんだもん」
「ん? 何か言ったか、連夜?」
「いだいいだいいだい!! 姫子ちゃん、アイアンクロー禁止!! 暴力反対!!」
にっこり笑いながら、ギリギリと連夜の顔をその掌で鷲掴みにし締め上げてくる姫子。
なんとかもがいて逃げようとする連夜だったが、結局その怪力から逃れることはできず、力尽きてぐったりしたところでようやく姫子は連夜を解放した。
「まったく、余計な手間を増やしおって。わらわの頼みごとをなんと心得ておるのやら。連夜、そろそろわらわの頼んでいた件について調べておいてくれたであろう。聞かせるがよい」
余裕がなくなっているのかいつもと違い龍族特有の傲然とした態度で聞いてくる姫子。
しかし、流石の姫子もこれは大失敗であったと言わざるを得ない。
友人ならば皆が知っている、連夜に絶対にやってはいけないいくつかのタブーの一つを知らぬ間に破ってしまっていたのである。
連夜は親しい人物の頼みは、快く引き受ける人間である。
それが少々厳しい内容であっても、連夜は嫌な顔一つせず引き受ける。
しかし、上から見下されて命令されることには絶対に首を縦に振らない人間であった。
それは自分が差別される側である人間として連夜が生まれてしまったことに大きく起因しているが、とにかく誰であろうともそれだけは絶対に譲れないのだった。
姫子は生れてから、いままでずっと人に傅かれ跪かれて来た龍の姫である。
それでも他の王族に比べれば、社会的弱者に対する気配りは並々ならぬものがあるわけだが、それでも根本的なところでは差別されている種族の者達の本当の心はわかってはいなかった。
ゆえに、完全に失念していたのである、連夜もまた差別されている側の種族であることを。
親しすぎるが故に、自分の周りにいる家来と同様に連夜を見てしまっていたことを。
確かにすぐにしゃべろうとしなかった連夜も悪いが、姫子も聞きたい内容が内容であったがために焦り過ぎた結果、連夜の触ってはいけない部分に見事にヒットしてしまったのだ。
連夜は、姫子の傲然とした態度を、痛む頭をさすりながら、ちらっと確認したあと、もう姫子の方を見向きもせずに授業の用意を始めて口を閉ざしてしまった。
姫子はそんな連夜の急変した態度を怪訝そうに見つめていたが、やがて、激昂して連夜を怒鳴りつける。
「連夜、わらわの方を見ぬか!!」
しかし、もう連夜がそっちを見ることはなかった。
なぜ連夜が態度を硬化させてしまったのか、全く気がついていない姫子は、さらにエスカレートして実力行使にでようとする。
ここで、姫子にとってさらに不運だったのは、いつものお付き二人が朝当番で朝配るプリントを職員室に取りにいっていていなかったこと、そして、もう一人の理解者である腹違いの兄、剣児が遅刻寸前でまだ学校に来ていなかったということにより、誰も彼女の暴走を事前に止めることができなかったということである。
姫子は連夜のブレザーを掴んで引きづり起こし、強引に自分の方を向かせようとした。
それよりも一瞬早く、連夜の手が姫子の手を左手で掴んでブレザーを掴ませるのを阻もうとする。
連夜の手が姫子の手を掴んだと思った瞬間、姫子の掴まれた手が翻り連夜の力と自分の力を絶妙なタイミングで乗せて連夜の体を逆さに向けて宙へと舞い上げる。
無意識の連携攻撃なのか、姫子の身体が自然に次の攻撃に移り、宙に浮いた連夜の腹に向けて容赦ない、しかし見事なまでに美しい形の上段蹴りの一撃が放たれる。
それを事前に予測していたのか、連夜は咄嗟に右手に掴んでいた鞄を盾にして蹴りそのもののダメージは防ぐが、その反動までは消すことができず正面の黒板まで吹っ飛ばされて背中から叩きつけられる。
「ごふっ」
強烈な激突音が教室中に響き渡り、一瞬あとに異様な呻き声をあげて連夜は血の塊を吐き出す。
そして、そのまま黒板から下に頭から落ちていく。
「連夜!!」
教室の堅い床の上に頭から落ちるところだったが、連夜の惨事に気がついたリンが、身体ごと連夜の下にスライディングしてマット代わりになりその身体を受け止める。
しかし、男ではない女の身であるリンに連夜の全体重全てを支え切ることなどできるはずもない。
頭から落ちることは防ぐことはできたものの、その体は横倒しになり、結果的に頭から落ちるよりはマシだったものの、その体は少なからず床の上に叩きつけられることになり、連夜はあまりの痛みに意識を失いそうになる。
だが、相手が相手だけにここで意識を失うと、命にかかわると知っていた連夜は無理に横に転がりながらリンから離れて片膝を立てた状態で戦闘態勢を取ると、蹴られても放さなかった自分のカバンに手を突っ込んで戦闘用の道具を引き出し、こちらを傲然と見つめている龍族の王姫に向けて構えた。
「リン、助けてくれてありがとう。でも、これからは僕から離れていて、ちょっと巻き込まれたら命がないような洒落にならない相手だから」
「ちょ、ちょっと何言ってるの連夜!? あれ、姫子ちゃんなんでしょ?」
悲鳴じみた声をあげて立ち上がり、両者の間に立とうとするリンだったが、連夜は困ったように笑ってリンにその場を離れるようにいう。
「誇りを傷つけられるような態度を取られると、たとえ自分が悪かったとしても簡単にキレるのが龍族なんだ。そうなったらもう止められないし、理性もなにもあったものじゃない。相手を叩きのめして自分のプライドが満足するまで戦い続ける。それは僕の目の前にいる王姫であっても例外じゃないよ」
「そんな!!」
その連夜の言葉を肯定するかのように、目の前で半身に構えた姫子からはとてつもない闘志と、ギラギラと殺意を宿して光る目と、異様なリズムで繰り返される呼吸音が聞こえてくる。
連夜はそっと道具の中から『回復薬』を取り出すと油断なく目の前で殺意を放っている人物から目を離さないようにして飲み干す。
徐々に身体からダメージが抜けていくのを感じ、先程と違いいつもどおりに身体が動かせることを確認する。
そして、相手が仕掛けてくるのを静かに待つ。
まともにやっては絶対に勝てない。
ならば、知恵を使ってなんとかするしかない。
すでにカバンを開けた時に初歩的とはいえいくつかの仕掛けはしておいた、あとはこれに引っかかってくれるかどうかだが。
とてつもない集中力によって両者の間に目に見えない駆け引きがいくつも繰り返された果て、やがて、必勝へとつながる光の筋道を見出した姫子の身体が矢のように解き放たれて連夜に迫る。
ダンッ、ダンッと姫子の強烈な踏み込みによって床が踏み砕かれ、そして三歩目でいよいよ連夜にその必殺拳が到達する。
落鵬破通背拳。
龍族に伝わる無手の格闘武術 形意黄龍拳の奥義の一つ。
鍛え上げられた下半身による踏み込みが生み出す破壊力をその下半身が絶対的な安定感を持って支える上半身から乗せて、繰り出される掌底が、直接的なダメージとは別に相手の体にとてつもない波紋を生み出して、腹から背中へとその威力を貫通させる。
防御は全くの無意味。
打たれれば即死すらあり得る恐るべき必殺拳。
それを迷うことなく級友に向かって打ってきた姫子は、完全に我を失っていると見て間違いない。
しかし、だからといっておとなしく打たれるわけにはいかない。
三歩目が踏み込まれるそのとき、その一瞬に来るはずのチャンスを連夜は、迫りくる死の恐怖と必死に耐えながら待った。
そして、連夜の布石がここで見事に生きる。
連夜がカバンから道具を取り出すときに、わざといくつかの薬の瓶を割って床にぶちまけておいた。
それは、どこにでも売っている普通の医薬品であったが、連夜はここの床を形成している高硬度粘土石と相性が非常に悪いことを熟知していた。
いずれ不良達に絡まれたときに使おうと思って買っておいたものであったが、まさか親しい友に仕掛けることになろうとは夢にも思わなかったわけであるが。
ともかく、その薬は急速に床の石を侵食し、腐らせていた。
そこに姫子の恐るべき踏み込みが見事に突き刺さる。
姫子が踏み込んだ場所を中心として、床が下に突き抜けて落ち、姫子の身体が半分床の下に埋まる。
片足を踏ん張って下に落ちることを耐えて見せたものの、その瞬間を連夜が見逃すわけがなかった。
今度は連夜が姫子の間合いに踏みこんで、片手に握った薬瓶を、姫子の頭に叩きつける。
流石の姫子も、身体のバランスを崩してそれを持ち直すのに必死だったため、連夜の手を払いのけることができなかった。
ガラスの砕ける音がして、砕け散ったガラスの破片と何かの液体が姫子の頭に降り注ぐ。
連夜は姫子が体制を立て直す前に素早く後ろにバックステップして間合いをあけると、それを追いかけるように姫子は穴にはまった片足を抜き出して、再び連夜を追いかける。
今度は後ろが黒板で逃げる場所はないし、仕掛けらしい仕掛けもしていない。
姫子は獲物を追いつめたことを知り、凶悪な笑顔を浮かべて吠えると、その拳を連夜に叩きつけようとした。
逃げることをせずに今までずっと二人の戦いを見つめていたリンだったが、それに気づいて掛け替えのない親友を守るべく親友の前に飛び出して盾になろうとする。
しかし、その次の瞬間、姫子の頭に異様な激痛が走りだし、姫子は頭を押さえて床を転がりまわりだした。
あまりの痛みに涙と鼻水が溢れ出て、口からは獣のような唸り声が。
その様子を呆気に取られてみつめているリンと、冷めた表情で見つめる連夜。
振り返って目線で聞いてくるリンに、連夜は口を開いた。
「龍族の角には病気や怪我を治す『神通力』が尋常じゃない量で蓄えられているんだ。それがましてや王族ならなおさらで、一角獣族や双角獣族の角もそうなんだけどね。しかし、ただでさえ過負荷気味のそこに、さらなる神痛力を注ぎ込むようなものをかけたらどうなるか?」
「姫子ちゃんにかけた薬っていったい」
淡々と語る連夜に、恐る恐る聞くリン。
そんなリンに、面白くもなさそうに投げやりに答える連夜。
「ただの『治療薬』。別に普通の常『人』にかけてもよくなることはあっても悪くなることはないよ。ただしこの薬を構成しているのは過分に『神通力』の成分が入ってる成神草でね、龍族の頭、特に角の部分にかけると、ただでさえ過負荷気味で制御している『神通力』が暴走しとんでもないことになる。あんな風に」
「ああああああああああああああっ!!」
姫子の頭の角は暴走して止まらないのか、今や大鹿の牡鹿の角並の大きさに成長しきっていた。
「ちょ、大丈夫なの、姫子ちゃん!?」
「『魔力』や『神通力』を吸い取る『害獣』の刃物があるでしょ。あれで適当な長さに切ればいいだけ」
連夜は床をのたうちまわる姫子を冷めた目でもう一度見た後、席にもどろうとする。
だが、姫子の戦闘力を無効化することで完全に油断していた連夜はすぐ後ろで一部始終を目撃していた
二人組に気がついておらず、その二人が取った行動に気がついた時には回避が間に合わなかった。
迫りくる殺気に気がついた連夜が振り返ると、憤怒の表情になった姫子の世話役の姿が目の前に迫っていた。
「貴様、姫様に何をするかあぁぁぁっ!!」
怒号があがり、その太った体からは想像もつかない素早い動きで繰り出された警棒による横なぎの一撃が連夜の脇腹に深々と突き刺さり、連夜の身体を吹き飛ばす。
めきめきとあばらを何本か折られて、吹き飛ばされた連夜の移動先には、姫子の護衛役が待ちうけていた。
「姫様に手を出す奴は、地獄へ落ちいや!!」
素早く連夜の真下に潜り込んできたミナホは、正確に連夜の顎を狙って強烈なアッパーカットを繰り出す。
最早避けられないと踏んだ、連夜は頭を振って、その拳に叩きつけるように己の額をぶつけていく。
ごんっという衝撃が頭を走りぬけ、連夜は後方に吹っ飛ばされ再び黒板の前に崩れ落ちることに。
しかし、目の前には姫子のお付き二人が迫っていた。
連夜は横っ跳びに転がりながら、まだ残っている『回復薬』を口に流し込むと、容赦なく蹴り込んでくる二人から逃れるように机の間に逃げ込もうとする。
とはいえ、床を転がりながらでは十分な回避がとれるわけもなく、次第に追い詰められ、立ち上がったときには教室の隅に追いやられていた。
『回復薬』がまだあるとはいえ、ただの人間に過ぎな連夜に十分な攻撃の手段はない。
それに比べてお付きの二人は、龍族の王の一族に仕える武術の達人である。
姫子ほどではないにしても、無手でも十分な強さを誇っている。
謝って許しを請えば助かるかもしれなかったが、謝るつもりはさらさらなかった。
さあ、どうしよう。
絶望的な状況ではあったが、絶望するつもりもさらさらない、中学時代には日常茶飯時だったことだ。
連夜は久しぶりに中学時代にいつも見せていた獰猛な表情を浮かび上がらせて、目の前に立つ二人のお付きにニヤリと笑って見せた。
二人はその表情を挑発と受け取ったのか、再び連夜に襲いかかってくる。
無傷は無理でも、絶対倒れないで逃げきって見せると、連夜が活路をどこかに見出そうとしたそのとき、新たな人物の一喝が教室に響きわたった。
「やめなさい、あなたたち!!」
連夜をまさに私刑にしようとしていた二人のお付きは、担任の声に我に返り動きを止める。
足跡の形に踏みぬけた床に、ひびの入った黒板、そして、あちこちに散乱してる机といす。
床を転がり続ける姫子、満身創痍の連夜、物騒な得物を持って級友をリンチしようとしていたはるかとミナホ。
今まで見たこともないような教室の中の惨状に目を剥いた、このクラスの担任のティターニア・アルフヘイム教諭は、失神しそうになる自分を必死にこらえ、この惨状を作り出したもの達にいままで聞いたこともないような冷たい声で言い放った。
「誰か、龍乃宮さんを保健室へ。宿難くん、水池さん、東雲さんは生徒指導室へ来なさい。いますぐに」