Act.43 『誰かの為に』
『もうもう!! いい加減にしてくださいませ、こんなに騒いだら折角眠りにつけた四郎が起きてしまいますわ!!』
「え、僕はしっかり起きているけど?」
『あなたじゃなくて、あなたの弟のほうの四郎ですわ!!』
日差しがほとんどない深い森の中に響き渡る少年少女の声。
1人は紛れもなく『少年』という年齢と思われる『人』影であったが、非常に珍しい外観の持ち主。
まず正面から見た場合の頭半分の髪の毛の色が、右と左で違う。
右は海のように深い碧い色をしており、左は炎のような紅い色をしている。
しかも右のほうの耳を見ると魚の鰭のような耳になっているのに対し、左のほうは何かの獣のようなふさふさと獣毛に覆われた耳になっている。
顔のほうに目をやると、鼻の上を通るようにまっすぐに入った線を境界にして、上半分は鱗で覆われたような緑色の皮膚、下半分はやけに白い肌になっていて、右目は猫のような明るい黄色の瞳をしているのに対し、左目は夜のように黒々とした瞳になっている。
顔だけではない。
泥だらけの戦闘用コートの袖を捲りあげて見えている両腕は、右腕は何かの深い緑色の鱗にびっしりと覆われた禍々しい爬虫類らしい腕になっているのに対し、左腕は白い肌の普通の腕。
合成種族の少年 瀧川 士郎。
それに対して、もう1人の声の主は、声こそ美しい『少女』のものであったが、その外観はとてもではないが『少女』とかいう代物ではなかった。
巨大な白銀の爬虫類の胴体に、4本の太い足、1本の長い尻尾、胴体からは長大な大蛇そのものといった首が9本伸びている。
その9本の首のうちの8本を、今は後ろに折り曲げて器用にその背中の上に丸めて団子状にしてしまっており、まるでかたつむりの姿をしたドラゴンといった姿をしていた。
『多頭大蛇』型の『魔王』の少女 スカサハ・スクナー。
2人は『人造勇神』タイプゼロツーとの激戦の果てに、連れ攫われていた士郎の弟 瀧川 四郎の奪還に見事成功、傷つき疲れ果てた四郎の身体をスカサハの体内に取り込んで再生しつつ、今、束の間の休息を取っている最中だった。
「わかったわかった、落ち着いてスカサハ。大丈夫、四郎はしばらく起きやしないよ。僕黙っておくから、ね」
『黙っておくからってなんですの? いや、静かにしてくださるにこしたことないですけど』
「もう、とぼけなくてもいいのに」
大きく長い首をゆっさゆっさと揺らして怒りの声をあげ威嚇する『ヒドラ』姿のスカサハの足元で、士郎は妙ににやにやしながら恥ずかしそうに身体をくねらせる。
そんな士郎の様子を見ていたスカサハは、首をゆするのをやめると背中に妙に嫌な悪寒を感じながらもじっとその赤い瞳を士郎に向けて問いかける。
『だから、なんの話ですの? あなたの言ってることはさっぱりわかりませんわ。男ならはっきり仰ってくださいませ、はっきりと!!』
「そ、そんなの僕の口からは言えないよ・・スカサハったら四郎が寝ている間に・・その・・」
『寝ている間に? ・・にゃ、にゃああああああっ!! しませんわ、そ、そんなこと絶対しませんわ!! な、な、何言ってるんですか、士郎のバカッ!! そんな、そんないやらしいことしたりしませんわ、しないったらしないですわ!!』
白銀の巨体を大きくゆすって『イヤンイヤン』、『ドタバタ』と暴れ始めるスカサハの側から慌てて飛びのいた士郎は、わざと両手で恥ずかしそうに顔を隠して、その指の隙間からスカサハをおもしろそうな視線で見つめる。
「え、スカサハったらいやらしいことするつもりだったの? 僕、具体的に何も言わなかったのに・・スカサハのえっち」
『・・』
「そっか、スカサハったら、そうだったのか、四郎にいやらしいことをするつもり・・って、あぶっ!! あぶない!! 何するのさ、スカサハ!? ちょ、マジで攻撃しちゃダメ!! 死ぬ!! 本気で僕死んじゃうから!!」
両腕を組んで物凄くわざとらしい感じで『わかってる、俺には全部わかってるから何も言うな』みたいな雰囲気を醸し出して頷いていた士郎を、音もなく近寄ってきたスカサハが踏みつぶそうとする。
その巨大な足に踏み潰されそうとした寸前、猛烈な殺意に気がついて慌てて飛びのいた士郎は、目の前の『ヒドラ』がとてつもなく危険な光を宿して自分を見つめていることに気がつき戦慄する。
『ふっふっふ、お願いだから士郎・・今すぐ死んで頂戴。大丈夫、四郎やちょびくんやゆかりちゃんは私が責任もって見守っていくから、あなたは安心して天国のお姉さまのところに逝ってくださいませませ』
「う、うわあっ、スカサハ、目がマジぢゃん!! や、やめっ、僕、謝るから!! 実は四郎みたいなタイプが好きってこともみんなには黙っておくから!! 寝ている間にあんなことやこんなことをしようとしていたことも全部黙っておくから、やめてやめてやめてえええええっ!!」
『うっふっふ、最後まで私を虚仮にするつもりですのね。消去ですわ、あなたの存在そのものと共にこの世からいろいろと私に都合の悪い全て・・いえいえ、悲しい記憶の全てを消去いたしますわ』
「びみょ〜に、本音漏らしていたね・・って、やめやめ!! 暴力反対!! なんでもかんでもなかったことにしようとせずに現実に向き合うべきだと思います!!」
『このっ、このっ、ちょこまかと・・大人しく踏みつぶされなさいよ!!』
「うわあ、だめだあ、全然『人』の話を聞いてな〜い!!」
まるでモグラ叩きのように容赦なくフットスタンプ攻撃を繰り返すスカサハから、ひょいひょいと逃げ続ける士郎。
凄まじい攻撃の嵐に悲鳴を上げてみせてはいるが、結構その表情には余裕があり、それがさらにスカサハの怒りに油を注いでいたりする。
しばしの間、その攻防が続き士郎は器用にスカサハの攻撃をよけ続けていて、このままスカサハのスタミナ切れかと思われたが、どっこいスカサハも馬鹿ではなく、やがて、その巨体を利用したスカサハが徐々に士郎の逃げ道を塞いでいき、いつの間にか大木を挟んで士郎を完全に追い詰めることに成功する。
『ふっふっふ・・はぁはぁ・・ようやく追い詰めましたわ』
「うっわ、大人げない!! なんて大人げないんだ!! ひどいよスカサハ、お茶目な冗談じゃないか、もっとそこは笑って許していこうよ!! 僕の顔に免じてここは1つ全て水に流してしまう方向で・・」
『・・すぐ、踏みつぶそう』
「うわわわわわっ!! ちょ、だから、話を聞いてぇぇぇ!!」
いい加減士郎の挑発に対してうんざりしていたスカサハは、本気全開ではないものの、ある程度懲らしめてやるべく8割方本気でその前足を大きく持ち上げる。
いよいよ審判が下る・・と、思われたが足を踏み下ろす寸前、スカサハは自分の体内に取り込んだ別の意識が覚醒しようとしているのを感じて身体を硬直させる。
そして、その意識は物凄く悲しそうで寂しそうな声でスカサハの名前を呼ぶのだった。
(す・・スカサハ・・どこか・・いっちゃったの?)
胸を締め付けられるような悲しげな声に、スカサハは大慌てで足をいったん地面に下ろす。
そして、自分の体内にてその身体を横たえているもう一つの意識の主、瀧川 四郎の元に、『人』の姿をした自分の上半身を作り出して向かわせると、虚ろな視線で自分を探している四郎の側に寄り添っていって抱きしめる。
(あうあうあう、ご、ごめんなさい四郎、起こしちゃった!? だ、大丈夫ですわ、私はずっと側にいますわ、だから、安心して眠ってていいんですのよ)
(うん・・ごめんね・・)
(私こそ、ごめんなさい。ずっと側にいるっていったのに離れてしまって。大丈夫、今度はちゃんと側にいますよ)
(・・ありがとう)
『人造勇神』の体内に取り込まれずっと孤独な戦いを強いられてきた少年にとってようやく得られた安息の時間であっただろうに、それを妨げてしまったことに非常にバツの悪い思いを感じてしまうスカサハ。
しかし、幸いにも少年はスカサハの腕の中にいることを感じて安心したのか、すぐに眠りについた。
体中のあちこちにひび割れが走り、放っておけばそう長い時間を待たずして間違いなくこの世から旅立っていたであろう傷だらけの身体を横たえ、今、少年は深い深い眠りに入っていきつつある。
安心しきってはいるものの、明らかに疲れきってボロボロになったその少年の顔をしばらく見つめ続けていたスカサハだったが、なんだかたまらなくなってその身体をきゅっと抱きしめる。
そうやってしばらく少年の身体を優しく抱きしめていたスカサハだったが、ふと自分の腕の中に視線を移すと、腕の中で規則正しい寝息を立てて眠っている四郎が、非常に安らいだ表情をしていることに気がついて満足そうに頷くと、もう一度その身体を抱きしめなおし、その自らの分身をそこに残して再び意識の大部分を大蛇の頭へと戻すのだった。
大蛇の頭のほうに意識をもどしてからも、少しの間自分の体内で眠っている少年が起きてこないか心配でちらちらと意識をそちらに向けて様子をみたりもしていたが、少年が起きてくる気配がないことを確信すると、大蛇の頭で深くアンニュイな溜息を吐きだし、なんとも幸せそうな笑みを浮かべる。
しかし、はっと誰かの視線に気がついて慌てて周囲を見渡すスカサハ。
すると自分の足元で、物凄く意味深な笑顔を浮かべ、やたら生暖かい視線をこちらに向けている士郎の姿が。
スカサハは顔を真っ赤にしながら誤魔化すように身体をわたわたとくねらせると、わざとらしい怒り声をあげて士郎を非難してみせるのだった。
『ま、まったくもう、あれだけ騒いだらダメって言ったのに・・四郎はほんとに疲れて眠っているんですからね!! 静かにしてくださいませ!!』
「いや、確かにそうだけど騒いでいた一番の張本人にそう言われると、なんだか物凄く納得いかないなあ・・ってか、いちゃいちゃしたかっただけなんじゃ」
『な、な、何言ってるんですか、だいたい士郎が・・』
「いや、スカサハが・・」
「をいをい、2人とももうそのあたりにしとけよ。もうぼちぼち夕方だ、俺達の目的は達成したとはいえ、完全に日が暮れて闇に覆われてしまう前に移動しちまわないと、まだここは敵地ってことを忘れるなよ」
と、近くの切り株に座ってぼんやりと年少組2人の様子を眺めていたロムが呆れたような口調で割って入り、再び口論を始めようとしていた士郎とスカサハを止める。
2人は一瞬不満そうな表情を浮かべて、いかにも『こいつが』と指さしそうになっていたが、切り株から腰を浮かせて立ちあがったロムが、すでに全く自分達のほうを見ておらず、それどころかスタスタと移動を開始したのを見てとると、しぶしぶ主張することを諦めてその後ろに続くように歩きだす。
『人造勇神』タイプゼロツーとの激戦の跡があちこちに残る森の深部、ゼロツーのとんでもない攻撃でそこかしこに『人』の胴体よりもはるかに太い幹をした木々がぽっきり折れて散乱している中を、器用にさけながら進んでいったロムは、戦闘途中で投げ捨てておいた自分のボロボロの戦闘用コートのところまで行ってそれを拾い上げ、油断のない鋭い光が宿る瞳で周囲にその視線を走らせていたが、やがてあることに気がついて顔をしかめる。
「ったく・・最後の最後まで厄介な」
移動しながらそう呟いたロムは、一瞬立ち止まって天を仰いでいたが、すぐにその視線を前にもどすと厄介事を片づけるべく、その気がついてしまったことのほうに歩みを進めていく。
焼け焦げたあとがあちこちに見られる地面を踏みしめて進んでいったロムは、前方にある一際大きな大木の前で一塊りになり、周囲を警戒している満身創痍の武装集団の元へとやってくる。
すると、その集団のリーダーであるハイエルフ族の少女はロムがやってきた気配を察して顔をのろのろと上げる。
ロムに負けず劣らずの泥だらけになった顔には疲労が色濃くにじみ出ていて、なんとか瞳に強い意志を宿してはいるものの、いつその緊張が切れてもおかしくない危うさを醸し出していた。
「な、何か私達に用ですか? もしそうでなく、またあなた達の目的を達成できたのなら、早くここから撤退してください」
そう言って気丈にふるまってみせるハイエルフ族の少女 フレイヤの言葉を頭をかきながら黙って聞いていたロムだったが、そこに座りこんでいる残りのメンバーの様子を見て、顔をしかめて盛大な溜息を吐きだす。
地面に座り込んで魂が抜けたようになっている風狸族の少女と、麒麟族の双子の少女達はともかくとして、ダークエルフ族の少女と、白甲冑姿の少年は、目を開けて他の少女達と会話をしていることから意識はあるとはわかるものの、地面に横たわったままで動こうとしないことから相当な重傷であるとみられる。
腕利きの『療術師』が2人もいるわけだからさっさと治せばいいものをと、思いかけたロムだったがフレイヤと麒麟族の少女の目の前で散乱している薬瓶の有様を見て現状を把握する。
どうやら、先程の激しい戦いに薬瓶が耐えられず、全部割れてしまっていたらしい。
流石の腕利き『療術師』といえども、肝心要の『回復薬』がなければ何もすることができない。
ロムは、しばらくの間顔を上げたり下げたりと忙しく動かして、心の中でいろいろと葛藤していたようだったが、どこか諦めたような表情を浮かべると、怪訝な表情をして自分を見つめているフレイヤに黙って先程拾ってきた自分のコートを手渡す。
「これは?」
差し出されたものの、ロムの意図、そして、その用途がさっぱりわからず困惑した表情を浮かべるフレイヤ。
ロムはコートを手にしたまま呆然としているフレイヤの姿をしばし凝視し続け、やがて呆れたように背中を向けて立ち去ろうとしたが、2、3歩歩いたところで盛大に舌打ちをして戻ってくると、フレイヤの手の中のコートを裏返し、内ポケットを指で指し示す。
フレイヤは何がなんだかわからなかったものの、目の前のロムがあまりにも怖い顔をしているので、半ば脅迫されているような気持でその内ポケットをまさぐる。
すると、指先によく知っているいくつもの固い感触が。
慌ててそれを掴んで外に取り出したフレイヤは、それが喉から手が出るほど欲しかったものであることを知り、大きく目を見開いてしばし固まってしまう。
「し・・『神秘薬』」
「「「え、えええっ!?」」」
フレイヤとロムのやりとりを、生気のない瞳でぼんやりと見詰めていたメイリン達だったが、フレイヤの呟きを耳にし、またその手の中にあるものがまさしくそれであることを確認して素っ頓狂な声をあげて驚く。
フレイヤはしばらく自分の手の中の『神秘薬』を凝視し続けていたが、本当に使っていいものかどうかの判断がつかず、恐る恐る目の前に立ち尽くしているバグベア族の少年に視線を向ける。
すると、フレイヤの視線を受けたバグベア族の少年ロムは、なんだか照れたような怒ったような表情でぷいっと顔を横に背けると、大仰に両腕を組んでぶっきらぼうな口調でフレイヤに言葉を投げかける。
「目の前で死なれたら目覚めが悪いし、何よりも見殺しにしたとか言われてはかなわん。さっさと使って仲間を治してやれ」
「い、いいんですの? そちらにとっても大事な『回復薬』でしょうに・・それにあなたは私達のことを」
「つべこべ言うな。使っていいと言ってるんだから、いいんだよ。しつこいぞ」
申し訳なさそうに聞いてくるフレイヤに、ますます怒った口調で言葉を紡ぐロムだったが、それでも一向に薬を使おうとしないフレイヤに怒声を浴びせようとしたが、その姿があまりにも弱々しいのを目にすると、喉まで出かかった怒声を飲みこんで困り果てた表情を浮かべる。
そして、しばらく頭をかきながら何か考え込んでいたが、ズボンのポケットから2本の『神秘薬』を取り出してフレイヤに見せる。
「ほら、俺の分は俺の分で持ってる。それに俺達の目的はもう達成したからそれ以上はもう必要ない。だが、お前達は違うだろう? まだ奴との決着をつけないといけないんじゃないのか? それとも何か、もうここで終わりか?」
「そ、そんなことありませんわ!! 回復さえできれば・・」
「じゃあ、さっさと回復して奴を追いかけろ。それがお前達の仕事だろ? 手段はこの際問題じゃない、何としても目的を達成することが大事なんじゃないのか?」
しばらくの間、ロムとフレイヤは睨みあっていたが、やがてその手の中の『神秘薬』に視線を移したフレイヤは、一瞬だけ目を閉じて何かを考えたあと再び闘志を宿らせてロムに背を向ける。
「今は、ありがたくお借りしておきますわ」
「かえさんでいいし、そもそも借りと思ってもらわなくていい。そんなことを考える暇があったら、きっちり回復して逃げたあいつを仕留めてくれ。くれぐれも逃がすなよ」
ロムのあまりの言葉に思わず激昂し振り返って一瞬殺意を込めた視線をロムに向けるフレイヤ。
しかし、自分が視線を向けたときには当の本人は背を向けてすでに遠ざかっていこうとしており、声をかけるタイミングを逸してしまったまま傷だらけの大きな背中を見つめ続ける。
その間に冷静になってくると、先程の言葉がロムの本意ではないことがなんとなくわかってしまい、フレイヤは結局怒声を上げることを諦めもやもやした複雑な心境で口を閉ざす。
そして、途中で士郎やスカサハを伴ったロムが、自分の視界から姿を消してしまうまで見送るのだった。
「いって・・しまったわね」
姿が見えなくなったあともなんとなくそこに立ち尽くしていたフレイヤだったが、なんとも言えない気持ちで視線を下に移すと、そこには使い込まれてボロボロになった戦闘コート。
今日、昨日でついたとは思えないいくつもの斬撃や打撃のあとがあるコートをなんとはなしにしばし見つめていたフレイヤは、思ったよりもコートが重いことに気がついて慌ててコートを裏返し、そのいくつもあるポケットをまさぐってみる。
すると、『神秘薬』だけではなく、貴重な『特効薬』や、『快方薬』までもが入っていて、合計15本も中に入っていることが確認できた。
そういえばロムは『人造勇神』と戦う直前にこのコートを戦闘範囲外に投げ捨てていたが、ひょっとするとこの中の薬瓶を守るために・・そして、それは最初からこの薬瓶を自分達にわたすために・・
フレイヤは涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえながらコートをぎゅっと握りしめる。
「惚れた?」
フレイヤの様子を横で見ていてなんとなくその心中を察したメイリンが、いたずらっぽく問いかけると、フレイヤは慌ててぶんぶんと首を横に振ってみせるのだった。
「な!? ば、バカバカッ!! それよりもみんなを回復させるわよ、そして、『害獣』化したあいつを追いかけます!! メイリン、リエ、手伝って頂戴!!」
「「了解、隊長代理殿」」
Act.43 『誰かの為に』
「そうじゃ、確かにわしはあの秘密結社に協力しとった」
中央庁の対『人造勇神』作戦司令本部がある大型『馬車』のトレーラーの一室、錬気蛍光灯のぼんやりとした頼りない光が照らし出す薄暗い一室の中で、小柄なノーム族の老人はきひひと不気味な笑みを浮かべながら得意そうにしゃべりはじめた。
老人の名はドクター ヘルツ。
知る人ぞ知る、ホムンクルス、ゴーレム作りの伝説的名匠。
その作り出すホムンクルス、ゴーレムは美術的にも、機能的にも凄まじく高水準のものばかりであり、一部の好事家ばかりでなく世の一般男性の大部分から絶大な支持を受け、今もその作品はとてつもない金額で取引されているほど。
それだけの傑作名作を生み出すまさに伝説的名匠と呼ぶにふさわしい人物ではあるのだが、一般社会においてその作品は道徳的、倫理的に決して受け入れられない種類の物であったため、どの都市からも居住を認められず、城砦都市『嶺斬泊』のすぐ近くにある『不死の森』にてひっそりと暮らしていたはずだったのだが・・
どういうわけかこの老人、新進気鋭の養蜂家セイバーファング氏が育てている蜜蜂の巣の最深部に存在する『虹の蜂蜜』を強奪するために『不死の森』からのこのこと出てきて、自らが用意したゴーレムの群れを操って大暴れした挙句、待ち構えていたセイバーファング氏のスタッフ達に取り押さえられ、中央庁の特殊部隊に身柄を引き渡されたのだった。
そして、現在取り調べの真っ最中。
本来であれば軽く取り調べておいてすぐにでも中央庁本部にこの老人の身柄を送ってしまう手筈であったのだが、作戦指揮官の詩織がトレーラーから飛び出して行ったすぐ後、『害獣』との交戦の真っ最中に最高責任者である詩織の上司であるドナ・スクナーの秘書を名乗る3人の女性がトレーラーに乗り込んできて老人の取り調べをさせてくれと要求してきた。
詩織から現場の指揮を任されている狼獣人族の副官 時田は、この申し出に苦虫を噛み潰したような表情を見せたが、ドナ直筆の命令書を見せられてしまっては断ることはできない。
こうしてトレーラーの外では『害獣』と中央庁直轄部隊との激戦が繰り広げられている最中、秘書3人によるホムンクルス作りの名匠の取り調べが始まったのだが、その内容は今回の蜂蜜強奪騒ぎのものではなく、この戦いの発端にまで遡るもっと根源的なものになっていた。
「よくわしがあの秘密結社に協力しておったことがわかったな?」
「恐れ入ります」
「だが、言っておくが協力しておったのはわしだけではないぞ、各種族の名のあるその道の権威達がこぞってあのプロジェクトに参加しておった。面白かったのは大半の者が、表向きでは『倫理や道徳を守るべきだ』、『弱小種族に『人』権を』、『差別されておる種族に市民権を』、『『人』体実験などもってのほか』などと言っておる連中ばかりじゃったが、いやいや、裏に回ればひどいものよ。生まれたばかりの人間の赤子のクローン体や、年端も行かぬ子供達、何も知らぬままに眠らされた状態で連れてこられた女達の身体にどんな実験を施しておったか・・ひっひっひ。いやいや、しかし、あれはあれで実に面白い日々ではあったがのう」
心の底から愉快そうに、しかし、不快極まりない笑みを浮かべてしゃべり続ける老人の言葉に、向かいに座る3人の人物達は不愉快そうな表情を隠そうともせぬまま、黙ってその話を聞いていたが、老人の真向かいに座る妙齢の人間族と思われるビジネススーツ姿の女性が口を開き、まるでその言葉そのものが一種の音楽のようにすら聞こえる独特なイントネーションで問いかける。
「それで、ドクター ヘルツ、その研究所はやはり人間族だけで運営されていたわけではないのですね?」
「あたりまえじゃ。このあたり周辺の各都市の財界、政界の大物クラスが後ろ盾となり、あの組織を影から操作しておった。よくよく考えてみよ、たかが一種族、しかも奴隷種族とそう変わらんほどの地位と最弱と言っていいほどのコミュニティしか持たぬ人間が、あれだけ大規模な組織、研究施設を独力で作り出せるわけがなかろうて。別に彼らからすれば、人間の組織でなくても、バグベア族でも犬人族でも、なんでもよかったんじゃろうが、『勇者』という生物兵器を生み出すためには人間を苗床にするしかなかったからのう」
「やはり『勇者』ですか? 『神』や『魔王』をはじめとする他の超越者ではなく・・」
「そりゃそうじゃ、『神』にしろ、『魔王』にしろ、『悪魔』にしろ、『御使い』にしろ、それらの『超越者』が持つ超常能力の根本となっておる力の源は『異界の力』じゃ。500年以上前の『世界』ならばともかく、『世界』の支配者たる『害獣』が跋扈しておる今のこの世界で、どれだけ強力と言えども『異界の力』ではなんの役にもたちはせぬ。だが、『勇者』は違う、あれが持つ力は『異界の力』ではない、この『世界』そのものが、人間という弱小種族を守らせるためだけに戯れに稀に与える力、つまりこの『世界』そのものが使うことを認めて与えている力であるわけだから『害獣』と言えども無効化することはできぬ。その強大な力をうまくすれば自分達の力として利用できるかもしれんのだ、いくら人間嫌いで、『勇者』という存在に嫌悪感を抱く上位種族の長達といえども、その魅力にはかなわなんだということよのう、くっくっく」
「そして、その思惑通り『人造勇者』や『勇士』、『人造勇神』を生み出すことに成功したというわけですか」
「思惑通り・・というわけではなかったのう。本来の目的はオリジナルであり、最強の生物兵器である『勇者』そのものを生みだすことにあったんじゃ。なのに、一向にその肝心の『勇者』が生まれてこないんじゃからな。全く失敗で端から無理であったならすぐに諦めたのやもしれぬが、なまじ『勇者』の劣化版である『勇士』や『人造勇者』の作成、量産に成功してしまったからのう、あと少し手を伸ばせば掴み取れると思っても無理はなかろうて・・その為に、それはもう様々な上位種族の長達が、トチ狂って普通では考えられん暴挙に踏み切っておったわい。まあ、それだけどうしても『勇者』を生み出したかったんじゃろうがのう」
「暴挙というと?」
「それはもういろいろじゃな、とてもじゃないが実に様々あってのう細かく説明しておれんし、どのみちそれらは失敗したからあまりよく覚えておらんよ。成功した例で良ければ話そう」
「お願いします」
「うむでは一番の成功例を話すことにしよう。それはな、この秘密結社の運営に深く関わっておった上位種族の長達が己の種族の優秀なメスを無理矢理眠らせて拉致し、『勇者』を生み出すための苗床として差し出すというものじゃった。いや、そんな単純な方法で成功するのかと研究者達の間では不評であったがのう、これが意外や意外、そこそこ成功したんじゃ。成功したのは2つの種族が差し出した2匹のメスが産んだ『勇士』達じゃった。眠らされた状態で連れてこられたメスをそのまま特殊羊水の中に放り込み、メスから取り出した卵巣と優秀な『人造勇者』の精子を古代秘術によって受精させてから再び体内へともどす、あとは眠った状態でそのまま放置し出産できるほどに育ったところで体内から実験結果を取り出すというわけじゃ・・そうして生まれてきたのがその成功例の『勇士』達でな、1つは天空巨神族のメスから生まれてきた2体の『勇士』で、うちの1体は、『勇者』には遠く及びはせんかったがそれでも唯一の完全体の『勇士』での、その戦闘力、特殊能力共に申し分ないものであった」
「もう1つは?」
「この都市の龍族の長が差し出してきたメスでな、いや、こちらもなかなかのものじゃったよ。元々武術に長けている者が多い龍族の中でも際立って凄まじい武術の達人だったそうじゃが・・そのメスがな双子の2体の『勇士』と、1体の『龍神』を生み落としたのじゃ。双子の『勇士』は天空巨神族のメスが生み出した『勇士』には及ばなかったが、それでも優秀な能力を持っておった。しかし、本当に惜しかったのは『龍神』のほうじゃ、世が世なら大成功といっても良い産物じゃったんじゃがのう。その『龍神』はの、ただの『龍神』ではなかったんじゃ、『龍神』として生まれてきたそ奴は、同時に『勇士』としての力も有しておった。それも相当の力を有しておったんじゃが・・惜しいのう、実に惜しい、あれだけ『異界の力』の1つ『神通力』まで強くてはのう、折角の『勇士』としての力も台無しじゃ。本来ならそういった失敗作は廃棄処分することになっておったから、わしが貴重な実験サンプルとして貰い受けるはずだったんじゃ。ところが龍族の長がの、その『龍神』とメスに使い道があるとかいって引き取っていってしもうたわい。できれば譲ってほしかったがのう、あれほど面白い素材はなかなかお目にかかれないんじゃが・・今頃どこで何をしておるやら、もし生きているのならどのような変化、あるいは成長を遂げたのか見てみたいものじゃが・・」
おもちゃを取り上げられた子供のような顔をしながら語り続けるノーム族の老人 ドクター ヘルツの言葉に、質問を続けている女性の背後に控える2人の女性達が顔を見合わせて、ひそひそと老人の耳には届かないくらいの低い声で会話をする。
(ね、ねえ、ミルカちん、まさかその龍族のメスって、考えたくにゃいけど・・)
(多分ね・・ほんと、この組織に関わった奴ら全員ロクな奴いないわね。長官が激怒し続けているの無理ないわ)
(にゃ〜・・この話が長官の耳に入ったら大変なことになるにゃ。今まで手出しせずに放っておいた龍族の領域も・・)
(いよいよ地獄の釜の蓋が開くわね、下手すれば今日すぐにでも)
「カトー秘書官、フォエーンバーグ秘書官、少し静かにしてくださいませ」
「「し、失礼しました、筆頭秘書官!!」」
しばらくひそひそ会話を続けていた後方の2人の女性を前に座る人間族の女性が静かに注意すると、2人は慌てて居住まいを正して会話を中断し、椅子に坐り直す。
2人が神妙な態度に戻ったことを確認した人間族の女性は再び老人のほうへと顔を向ける。
「失礼しました、ドクター。ところでドクターは、その『龍神』はともかく、『人造勇神』のほうは手に入れられていらっしゃったようですが?」
「タイプゼロツーのことか? いや、あれは捕獲するのがちと遅かったわい。数年前に『不死の森』をうろついていた時に、『強くなりたくないか』と誘って手ゴマにしたのじゃが、今から思うとあのときすでに狂っておったのじゃろうなあ。一応、強大な古代術力をコントロールする能力を持ったものと、同種族の者を取り込んで自らの力とする2つの古代遺物『宝貝』を埋め込んで強化してやったのじゃが、流石に『害獣』の力というべきか。最初出会った頃はまだある程度己の思考で動いていたようじゃったがのう、ここ最近の行動は矛盾だらけじゃった。もうぼちぼちその意識も消えて本物の『害獣』になるじゃろうよ。どのみち近いうちに切り捨てるつもりじゃったから、まあええわい」
「『虹の蜂蜜』は彼の強化のために強奪しようとしたのではなかったのですか?」
「馬鹿を言え、あんなポンコツいくら強化したところでたかがしれておる。それにわしは戦闘用が作りたいわけではない。『虹の蜂蜜』はわしが目指す究極のホムンクルスを生み出すために必要なのじゃ!! 世の男性の欲求を限りなく限界まで満たしてくれる究極の・・む、そう言えばなぜわしはさっきから、ぺらぺら、ぺらぺらと絶対機密扱いの情報を敵に話しておるのだ?」
自分の得意分野に話が進み掛けてさらに饒舌になりかけた老人であったが、突然目が覚めたような表情を浮かべ、キョロキョロと周囲を見渡す。
そして、首を捻りながら目の前に座る人間族の女性に再び視線を向けたとき、更にその困惑の度合いを深めるのだった。
「そういえば、お主。どこかでわしと会ったことはないか? どうにもその顔に見覚えがあるような気がするのじゃが・・」
疑問だらけと言わんばかりの表情を浮かべる老人に、人間族の女性はにっこりと笑顔を浮かべて老人を見つめ返す。
おとなしそうで、優しく柔和な笑顔が魅力的な女性に一瞬見惚れかけた老人であったが、その目の光を見て身体を硬直させる。
そこにはまるで・・まるで獲物に食らいついた『人』食い鮫のように冷たく、なんの感情も映っていない暗黒の光が冷え冷えと輝いていた。
「ええ、勿論お会いしておりますわ、研究所で」
「けんきゅう・・しょで?」
「私が眠っていると思ってさんざんいろいろなことをしてくださりましたわね、ドクター。そして、最後には私の身体に『害獣』の力を埋め込んでくださった」
一瞬何を言っているのか、という表情でぽか〜んとした表情で女性を見返していた老人だったが、目の前にいる女性が何者かを知ると一気に顔を青ざめさせる。
「き、きさ・・貴様た・・た・・たい・・タイプゼロエイト!? な、なんでここに!? はっ!! そ、そうか、わしの自白は貴様の『人魚の魔声』のせいか!!」
「ご名答ですが、残念ですわ、ドクター。もう少ししゃべっていただいた後に、全てを忘れていただくことになりますから、今正解したことも忘れて覚えていらっしゃらないことになりますわ」
「お、おのれ、ポンコツ人形!! 下等種族の上に下賤な売女の貴様が偉大なわしを愚弄するのか!? だ、だがまあいい、どうせ最早存在しない組織の情報じゃ、好きなだけしゃべってやるわい。それにこの場の記憶を消されたところでどうということもないしのう」
開き直ったように下卑た笑い声をあげる老人、しかし、その老人の姿を見た人間族の女性はなんともいえない妖艶な笑みを浮かべて低く笑い続ける。
しばし2つのなんともいえない笑い声が狭い部屋の中をこだましていたが、やがてそのことに先に気がついた老人が怪訝そうな表情を浮かべて女性を見つめる。
「な、何がおかしいんじゃ」
「うふふふ・・ごめんなさい、失礼いたしました。いえ、ドクターが勘違いされていらっしゃるから、とても面白くてつい」
「か、勘違いじゃと?」
「ええ、私言いましたわよね? 全て忘れていただきますからって・・それはこの部屋の中で起きたことだけって意味ではないのですわよ?」
「は?」
「全ては全てですわ、ドクター。あなたが生きてきた『人』生という道のりの全てを忘れて頂くって言ったのですわ。ドクターが大事にしていらっしゃる、その脳内に貯めこんだ膨大な知識は勿論、記憶や思い出、身に着けた技術、技能に至るまで全て。そうですわね、ドクターにわかりやすくご説明させていただくとするならば・・何もしらない無垢な赤子にもどっていただく・・といったところかしら」
「な、な、なんじゃとおおおおっ!?」
人間族の女性の言葉の意味がはっきりと理解できるようになった老人は、一瞬呆然としてみせたあと、老人とは思えない身のこなしで部屋の出口へと逃げ去ろうとする。
だが、すぐに女性の背後に控えていた2人の女性が老人のほうに回り込んで捕獲する。
老人の動作は動作が遅いことで有名なノーム族にしてはかなりのスピードであったが、全種族の中でも屈指の機動能力を持つ狼獣人族と猫獣人族の2人には敵わない。
「おじいちゃん、逃げちゃだめにゃ〜」
「因果応報よ。諦めなさい」
「くそ、放せ、放さないか貴様らあああああっ!!」
ジタバタと暴れまわる老人であったが、老人を捕まえている2人の女性との体格差はあまりのも圧倒的でそれを覆して逃げるのは到底無理というものだった。
その様子をしばし満足気に見つめていた人間族の女性は、やがて氷の微笑を張りつかせたままゆっくりと老人へと近づいていく。
「さあ、お話を再開いたしましょうか、ドクター。しっかりしゃべってくださいな。長くしゃべればしゃべるほど、あなたの知識が失われるまでの時間が延びるのですからね」
「き、きさまああああああああっ!!」
・・そして
老人の怒りと恨みの断末魔が、絶対防音結界が張られた取調室に空しく響き渡ってから数十分後、部屋からそっと静かに退出してきた3人の女性達。
その中のリーダーである人間族の女性は、このトレーラーの現在の責任者である狼獣人族の初老の副官に取り調べが終わったことを告げようとしたが、その肝心の副官殿が指令本部のたくさんのモニターに映っている中央庁各部隊の戦闘の様子を睨みつけるように凝視しながらせわしなく指示を飛ばしているのを見て、声をかけることをやめる。
そして、代わりにすぐ近くのオペレーターのエルフ族の女性下士官に声をかけて副官への伝言を頼み、自分達はそっとトレーラーから出ていくのであった。
3人の女性達が外に出てみると、トレーラー周辺での激戦は一段落を迎えていたらしく、視界に入るあらゆるところに無数の大山椒魚型『害獣』の死骸が散らばって放置されているのが見えた。
そろそろ太陽が西に見える山脈に近づき始め、赤味を帯びた光を降り注ぐ戦場の跡に広がる死屍累々たる光景。
いくら相手が『害獣』であると言えど、生き物の死体が広がる光景は決して見ていて気持ちのいいものではない、幸い、その死体の海の中に浮かぶ『人』の姿は見当たらなかったが、3人はなんとも言えない複雑な表情を浮かべ、一斉に溜息を吐きだすのだった。
「高級官僚の秘書だから、こんな光景とは無縁だと思っていたんだけどなあ・・甘かったなあ」
「いや、普通は無縁だにゃ。長官のところだけにゃ、こんな仕事ふられるのは」
「だよね〜」
20代前半と思われる狼獣人族の女性と猫獣人族の女性は互いに顔を見合わせると、引き攣った笑みを浮かべてあはははと乾いた笑い声をあげてみせるのだった。
「そう言えば、筆頭秘書官。結局、あのご老人の記憶は・・」
「そうそう、ほんとに全部消しちゃったのですかにゃ?」
ひとしきり笑ったあと、狼獣人族の女性がふと思いだしたかのようにリーダーの人間族の女性に問いかけると、猫獣人族の女性も興味津々といった態で人間族の女性の顔を覗き込む。
すると、人間族の女性は先程見せていた氷の微笑とは全く違い、愛嬌に満ちたかわいらしい笑顔を浮かべて2人の部下にぺろっと舌を出してみせるのだった。
「嘘に決まってますでしょ。勝手にそんなことしたら長官に怒られちゃいますわ。まあ、でも、ここ数カ月の記憶はすっぱり消しておいたし、すぐには正気にもどったりしないように暗示はかけておきましたけど・・逃げられたら困りますからね」
「確かに、あのご老人ならほうっておくと逃亡しようとしかねませんものね」
「あのおじいちゃん、物凄い往生際悪そうだったにゃあ」
人間族の女性の答えにどこかほっとしたような表情を浮かべた2人だったが、人間族の女性の最後の言葉を聞いて、いやに納得したような苦笑を浮かべて頷いてみせるのだった。
そんな2人の部下を穏やかな笑みを浮かべて見つめていた人間族の女性だったが、何か嫌なことを思い出したのかこめかみにそのほっそりした指をあてて顔をしかめながら言葉を紡ぐ。
「昔から知ってますけど、本当に往生際が悪いというか、変な意味で諦めの悪い方なんですよ・・しかも、超がつくド変態でドスケベだし」
「ド変態で・・」
「ドスケベ・・て、美咲姐さん、研究所でいったいあのジジイに何されたのにゃ!?」
普段から穏やかで清楚で上品なリーダーの口からとんでもない単語が飛び出したことに思わず目を丸くする2人。
特に猫獣人族の驚きは大きく、思わずプライベートの口調になって人間族の女性に問い掛けながら、その腕に自分の腕をからませる。
その様子を後ろから見ていた狼獣人族の女性は一瞬眉を吊り上げたあと、頬をひくひくとひきつらせながらなんとか冷静な口調で、同僚をいさめにかかるのだった。
「フユカ・フォエーンバーグ秘書官・・美咲さんじゃなくて、『筆頭秘書官』」
「あ、ご、ごめんなさいにゃ、ミルカちん」
「あたしに謝ってどうすんのよ、もう。筆頭秘書官殿に謝りなさい」
「そうだったにゃ・・ごめんなさい、キャゼルヌ筆頭秘書官」
「うふふ、いいですよ、別に。他に誰もいないし、公の場の時は困るけど、今はいつも通りにしてていいんですよ」
「やった〜! ほらほら、美咲さんがいいっていってるにゃん!! ミルカちんは固すぎるにゃ!!」
「あたしが固いんじゃなくてあんたが緩すぎるのよ!! 美咲さんも美咲さんです、あんまりその馬鹿を甘やかさないでください!! ただでさえ頭の中身がユルユルなんですから!!」
「ミルカちんはガチガチにゃ」
「なんだとおっ!? ・・ってそれよりも、美咲さんほんとにあのジジイにひどいことされたんですか!?」
年少の部下2人の会話を穏やかな表情で見つめていた人間族の女性、ドナ・スクナー直属の筆頭秘書官 美咲・キャゼルヌは、喧嘩を中断して物凄く心配そうな表情で見つめてくる2人にそっと首を横に振ってみせる。
「危なかったのは確かだけど、結局何もされませんでしたわ。当時の上司がよくできた『人』で、そのときの不穏な空気に気がついてくれて間一髪のところで助け出してくれましたから」
「そうだったんだ・・よかったぁ」
「うんうん、よかったのにゃ」
美咲の言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす年少組の2人。
美咲はそんな2人を優しい表情で見つめていたが、ふと何かを思い出して顔を伏せるとほっそりしたその美しい指を自分の頬にあてながらアンニュイな表情でブツブツと呟く。
「・・でも、どうして、ああいうことにはすぐ気がついてくれるのに、肝心な女心はわからないのかしら? いつになったら私の気持ちに気がついてくださるのやら・・やっぱりこっちから直接言わないとだめなのかしら?」
「え、美咲さん、何の話?」
「あ、ううん、なんでもありませんわ。それよりもお2人にお仕事をお願いしたいのですが、よろしいかしら?」
「「承ります、筆頭秘書官!!」」
狼獣人族の女性に問い掛けられて慌てて我に返った美咲は、再び公人としての顔をに戻ると、真剣な光を宿した瞳で部下の2人を見つめて口を開く。
「お2人は急いで『嶺斬泊』に戻って、先程の取り調べ内容を記録した『音声記録水晶』を、長官に直接手渡してください。言うまでもないことではありますが、恐らくそこですぐに次の指示があると思いますから、続けてその指示に従ってくださいますよう、よろしくお願いいたしますわ」
「「了解しました!!」」
元気よく返事を返し、手の平サイズの小さな水晶を受け取った2人は、自分達が乗ってきた小型の『馬車』に移動しようとしたが、あることに気がついた猫獣人族の秘書官 フユカ・フォエーンバーグが振り返り、美咲のほうに視線を向ける。
「美咲さんは・・ううん、筆頭秘書官はどうするのにゃ? 一緒に帰らないのかにゃ?」
「・・そう言えばそうだった!! 筆頭秘書官はまだここに・・って、なんで服を脱いでいるんですか!?」
同僚の言葉に気がついて、同じく立ち止まった狼獣人族の秘書官 ミルカ・カトーは、上司である美咲に同じように問いかけようとしたが、視線をそちらに移してみると、なんと美咲は着用していた中央庁の碧い制服をさっさと脱いでしまっており、下に着込んでいたと思われる身体のラインがはっきりわかる淡い水色のボディスーツ姿になっていたのだった。
「私はここに残りますわ」
「の、残りますわって・・まだここって危険ですよ!! さっきの司令室のモニターみたでしょ? 中央庁直轄部隊があちこちで『害獣』と戦っているのに、護衛も付けずにここに残るなんて!!」
ミルカの問い掛けに、屈伸運動をしながらにっこりと微笑みかける美咲。
そんな美咲の姿をしばし呆然と見つめていたミルカだったが、わたわたと両手を振り回しながら美咲に駆け寄り、なんとかそれを思いとどまらせようとする。
しかし、当の本人は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま首を横に振り、ミルカに『馬車』のほうにもどるよう指示してみせるのだった。
「大丈夫ですわ。ここで戦うつもりはありませんし、大山椒魚型の『害獣』ならいくらでも逃げようがありますからね。それよりもカトー秘書官とフォエーンバーグ秘書官は急ぎ『嶺斬泊』へ。多分、長官が首を長くしてあなた達の報告が来るのをお待ちしていらっしゃるはずですわ」
「・・でも!!」
「心配してくださってありがとう。でも、本当に大丈夫ですから。それにこれは長官のご指示でもありますの。この作戦に関わる『人』員の全てが無事帰還するための布石の一つ。おろそかにするわけにはいきませんわ・・何よりもあの人の命がかかっているとなれば、行かないわけにはいきませんもの。もう、ほんとにいつもいつも無茶して心配ばっかりかけさせるんだから」
心から心配してくれているとわかる表情を浮かべている年少の部下に、美咲は力強い表情で心配ないときっぱりと言ってみせる。
・・ただし、その言葉の最後のほうは自分にしか聞こえないような小声であったが。
「ともかく、あとはお願いしますね。あなたがご自分で仰ったように、この森の中にはまだまだ『害獣』の群れが数多くいます、完全に森から抜けて出るまではくれぐれも油断しないように、いいですね」
「あ、ちょ、筆頭秘書官!!」
「そうそう、その制服は持って帰って私のデスクの上にでも置いておいてください、頼みましたよ」
美咲はそう言ってミルカの側を離れると、持って来ていた刀を一本だけ持って大河『黄帝江』のほうに向かって走っていってしまった。
その後ろ姿をしばし呆然と見送っていたミルカだったが、不意にその肩を叩かれて我に返る。
「そろそろ行くにゃ、ミルカちん。美咲さんには、美咲さんの、私達には私達の役目があるにゃ」
「・・そうね。って、筆頭秘書官でしょ!!」
「私達だけしかいないから、別にいいのにゃ、やっぱミルカちんは頭がガチガチなのにゃ」
「あんたみたいにユルユルよりかはよっぽどましよ!! って、コラッ、話はまだ終わってないっ、待ちなさい、フォエーンバーグ秘書官!!」
ミルカの小言を鬱陶しそうに聞いていたフユカであったが、地面に残された美咲の制服を拾うと、頭から突き出た猫耳を伏せさせて『馬車』に向かってスタコラと逃げ出すのであった。
そんなフユカから少し遅れて、自分自身も『馬車』に戻るべく小走りに駆けだしたミルカであったが、一瞬立ち止まり美咲が消えて行った背後に振り替える。
欝蒼と茂る木々の闇の中、もう美咲の姿を探し出すことはできなかったが、片手の拳を胸にあてて目を伏せ美咲の無事を祈る。
そして、すぐ目を開けると自分を呼びかけるフユカの声に応えて再び『馬車』に向かって走りだしていくのだった。