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~第10話 大事な人~ おまけつき

 小高い丘の上にある都市立十音小学校としりつじゅおんしょうがっこうの真下を横切るように走る道を通り抜け、閑静な一戸建ての住宅街の中をひたすら北に歩いて行くと、右手に今日も子供達が元気いっぱいに遊ぶ児童公園がみえてくる。


 その斜め向かい側にある日当たりのよい、クリーム色のお洒落なマンションの中に入った連夜は、エレベーターは使わず螺旋式の階段を上がって二階にあがると、廊下の一番奥から手前にある目当ての部屋にゆっくりと進んでいった。


 別にことさらゆっくりと進んで行ったわけではない。


 単に買い物袋を両手に抱えるほど持ってるせいで動きが遅くなっただけである。


 連夜は目当ての部屋の前まで来ると、器用に買い物袋をまとめて片手に持ちかえて、あいた手で部屋のチャイムを一回押し、また買い物袋を両手に持ち変える。


 ぴんぽ〜んと鳴るはずが、ぴん・・くらいなったところで、『ダダダダダダダダダッ!!』とはっきりわかる何者かの足音が響き、本能的に扉から一歩離れた連夜の行動の数瞬の後、勢いよく扉が開けられて何かが飛び出して来た。


 呆気にとられて硬直している連夜に、金髪金眼の美しい女性が半分笑顔半分泣き顔の複雑な表情で抱きついてくる。


「連夜くん!れんやくん!レンヤくん!」


「ちょ、うわ、玉藻さん、ストップ、ストップ!!」


 両手を買い物袋で塞がれており、見動きが思うように取れない連夜に覆いかぶさるように抱きついて身体全体を擦りつけてくる玉藻。


 非常にナイスバディで柔らかい身体をしている上に、温かい人肌が心地よい大好きな恋人の抱擁のはずなのだが、流石の連夜もこの体勢は苦しくて、悲鳴を上げる。


 しかし、感情が溢れ出してしまっているのか、玉藻はなかなか気がついてくれない。


「さびしかった! 淋しかった! 寂しかったのぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


「わかった、わかりました! 僕もですけど、とりあえず、ストップ!」


「昨日一日会えなかっただけだけど、すっごいさびしかった!いったい昨日は何をし・・て・・」


 連夜の悲鳴じみた説得にも耳を貸さず、しばらく力いっぱい連夜を抱きしめてタイトスカートから伸びる三本の尻尾をぶんぶんと振り回していた玉藻だったが、急に何かに気がついたように身体を離した。


 とりあえず、身体が自由になりほっと安堵のため息を吐きだした連夜は、一刻も早く両手の荷物を下ろしたくて、最初その恋人の表情を見逃した。


「すいません、今日はお昼御飯作って一緒に食べようと思って買い物してきたんですよ。キッチンに荷物おろさせてもらってもいいですか?」


「あ・・うん・・」


 飛び出して来たときとはうって変って、何か困惑する玉藻だったが、とりあえず連夜の言葉に身体をどけて、連夜を部屋の中に通す。


 連夜はそのまま玉藻の部屋に入っていくと、キッチンまで行き、持ってきた食材を手際よく霊蔵庫に入れていく。


 そして、家から持ってきたひよこのアップリケのエプロンを身につけると、料理の用意に手をつけようとした。


「玉藻さん、お昼は神州長いもとタイレン豚しゃぶのぶっかけうどんでいいですかね?」


「あ、え・・え・・ええ・・」


 振り返った連夜の言葉に生返事の玉藻。


 なんとなく歯切れの悪い恋人の言葉に違和感を感じたが、とりあえず流しを一度さっと洗い、マナ板と包丁の準備をしようとする。


 しかし、その連夜の手は途中で横から伸びてきた白いほっそりした腕に掴んで止められる。


「玉藻さん?」


 不審に思ってその手の主を見ると、その表情は恐怖と悲痛でいまにも崩れそうになるのを必死で踏ん張っているかのようで、顔色は真っ青。


 流石に何事かと連夜が吃驚していると、その連夜の手をそっと引っ張っていく。


「ごめん、連夜くん。やっぱり、気のせいだって思って自分をごまかせない・・」


「え?」


「ちょっとこっち来て・・座って」


 玉藻は呆気にとられる連夜を引っ張ってリビングまで来ると、テーブルの横に連夜を座らせて、自分はその連夜の目の前すぐ間近に座る。


 そして、真剣な表情でしばらく連夜を見つめたあと、連夜の手を両手で取ってぎゅっと握りしめた。


「お願いだから正直に応えて」


「は、はい?」


 もうこれ以上ないくらい真剣で切実な何かを秘めた色を湛えた瞳で連夜を見据える。


「昨日・・いったい何があったの?」


「・・昨日ですか?」


 玉藻の問いかけに、連夜は昨日あった出来事を思い出す。


 真友ロスタムと共に体験したあの忘れられない衝撃的な出来事を。


 しかし・・それをこの年上の恋人に聞かせていいものかどうか・・心配させるだけではないのか


 そう悩み無言を貫く連夜に、玉藻は焦れたように口を開く。


「本当だったら、私とまた会う約束をしていたのに、それをキャンセルしてまで、何をしていたの? 確か、急に中学校時代のお友達が来て、どうしてもこっちに来られなくなったって携帯では聞いたけど」


「嘘じゃないですよ、本当に友達と会っていました。あ、浮気とかじゃないですよ!! 相手は男ですから!!」


 慌てて弁解しようとする連夜に、玉藻はゆっくりと首を横に振った。


「そこは心配してないわ。あなたってそういう人じゃないのはわかってるし、もしそうだとしてもすぐわかると思うもの」


「いや、すぐバレルっていうのもなんだか・・」


 複雑な表情でおどけるように苦笑する連夜だったが、玉藻の表情は一向に晴れない。


「でも、そのお友達とのことで何かあったでしょ?」


「・・いや、あの、まあ、その・・つまり、友達のバイトの手伝いをしていただけです」


「バイト?」


「そそ、掃除のバイトです。いや、なかなか範囲が広くて苦労しました」


 連夜から視線を決してはずすことなく、連夜の言葉に耳を傾け続けた玉藻だったが、それでも納得する表情を浮かべない。


「連夜くんが嘘を言ってないことはわかる」


「でしょ?」


「・・でも、真実全てを言ってないこともわかる。連夜くん、さっきから嘘を言わないように、肝心なところは避けるようにして口にしてないでしょ」


「あ〜・・」


 連夜は心の中で、浮気を追及されて逃げられない夫の心中ってこういうものだろうかと、大量の冷や汗をかいていた。


 しかし、玉藻自身も迷う何かがあるのか、先ほどから何かを口にしようとしてはつぐむという行為を繰り返している。


 お互い言うに言えない状態でしばし無言で見つめあう。


 だが、結局最後に決断を下したのは玉藻だった。


 明らかに意を決した表情で、連夜をまっすぐ見つめる。


「連夜くん・・あなたの手、気が付いてる?」


「へ?」


 玉藻がそっと連夜の手を自分の手で包み込むようにして上に持ち上げて、連夜の目線のところまで持ってくる。


 連夜は視線で玉藻に促されて、自分の手を見た。


 最初、それを見た時、連夜は玉藻がわざとそうしているのかと思った。


 しかし、すぐにそれは違うということに気づく。


 玉藻がやっていることではない。


 玉藻の持ち上げた自分の両手は小刻みに震えていた。


 それは・・自分が・・自分自身が・・


 震えているのだ・・恐怖で!!


「!!」


 全く気がつかなかった自分。


 そして、自分が気がつかなかったものに気がついていた玉藻。


 その両方の事実に驚愕の表情を浮かべる連夜。


 追い討ちをかけるように玉藻は連夜にトドメの言葉を投げかける。


「連夜くんは人間だから気がついてないかもしれないけど・・霊狐族の私には匂うの・・」


「匂う?」


「私の人生の中でこんな匂いは一度も臭ったことがないわ・・こんな強烈で圧倒的な・・『死』と『破壊』と・・そして『恐怖』の匂いは!!」


「!!」


「いったい何に遭遇すればこんな匂いを与えられるというの? いや、与えられるなんてものじゃない・・そんな生易しいものじゃないわ・・無理矢理相手の心にこれほどの傷を刻み込む・・連夜くんの心にはっきりと大きな傷跡が見えるくらい刻み込むことができる相手っていったいなんなの!? 答えて、連夜くん!!」


 連夜の脳裏に一つの巨大な影が浮かび上がる。


 大空を金色に染め上げる、三つ首を持つ巨大な竜の姿。


 『人』類の永遠の敵、『害獣』の頂点近くに君臨する十匹の『王』の中の一匹。


 圧倒的な力と圧倒的な存在感と・・そして生物の本能の根底にある原始的な感情に直接響く圧倒的な恐怖を持ったモノ。


 玉藻の悲痛なまでの絶叫にも似た問いかけに、がっくりと肩を落とす連夜。


「昨日・・僕と友達は・・『ウォーターロード』で・・あいつに会いました・・」


「あいつ?」


「・・『金色の王獣』・・ガルム・ベロス・ドラゴ・・僕と友人が魔力を持たない種族だったからか・・あるいは運がよかっただけなのか・・ともかく、僕達はあいつに見逃され・・殺されずに済みました」


 連夜の告白を聞いていた玉藻の表情が、白から青、青から赤になり、玉藻は正座した膝の上においた両手を握りしめて顔を下に向けぶるぶると震えだした。


「・・じ、じゃ・・あ・・きの・・う、れ・・んや・くん・・がころ・・され・・ていた・・ら、きょ、きょうが・・おそ・・うしき・・だ・・ったん・・だ・・」


「・・そうですね・・」


 バシッ!!


 連夜の言葉を聞いていた玉藻は、平手で思いきり連夜の顔を叩いた。


 叩かれた連夜の顔がみるみる赤くはれ上がっていくが、連夜は何も言わなかった。


 逆に叩いた本人の顔は、滝のように流れ出した涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、玉藻は悲痛な表情で叫んでいた。


「ふざけないで!! ふざけないでよ!! どうして恋人になったばかりの私が、あなたのお葬式にでないといけないの!? まだ何も楽しいことしてないのに!! まだ何も恋人らしいことしてあげていないのに!! まだあなたのこと知らないことだらけなのに・・それなのに・・なんであなたを見送らないといけないのよ!!」


「・・ごめんなさい・・」


「いや、いやよ・・連夜くんが死ぬなんていやぁぁあ私の目の前からいなくなるなんて・・もう抱きしめることもできなくなるなんて・・笑いかけてくれることも、優しい声を聞くことも、その肌の温かさを感じることもできなくなるなんて・・絶対にいや・・連夜くんが・・連夜くんが生きててくれてよかった・・よかったよぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 涙を流しながらも連夜が生きていることを確かめるように、その体にしがみつくように抱きしめる玉藻。


 しばらくそんな玉藻に身を任せていた連夜だったが、やがて自分の腕を玉藻の体にそっとまわし抱きしめ返していた。



〜〜〜第10話 大事な人〜〜〜



 ゴールデンウィーク四日目。


 数日かかると思われていたバイトは頼れる親友のおかげでたった一日で終了し、午前中に仕事の完了の手続きをギルドに行って終わらせてきたので、午後はゆっくり寝て過ごそうと煎餅布団の中で惰眠を貪っていたロスタムを、玄関からの呼び鈴がたたき起こす。


 どうせ新聞の押し売りか何かだろうと思って無視しようと思ったが、あまりにもしつこく鳴らし続けるので、のっそりと起き上がり、玄関へと向かった。


「はいはい、今出るから、そんな呼び鈴連打するんじゃない。・・ったく」


 Tシャツの下に腕を入れてぼりぼりと背中をかきながら扉を開けると、そこには一年以上会っていなかった懐かしい顔があった。


「よ、よっす」


 気恥ずかしそうに顔を赤らめて立つ中学校時代の親友が、片手を挙げて挨拶する。


「おお、リンか・・久しぶり、よくここがわかったな」


「うん、久しぶり」


 早乙女 リン。


 連夜と同じく中学校時代のロスタムの親友。


 相変わらず雪のように真っ白な美しい髪をしていてその髪の間からは二本の白い角がまっすぐに伸びている、身長はあまりかわってないようで、相変わらず小さい。


 が、それ以外の雰囲気は中学校時代の彼とはかなり変わっていた。


 いつもしていた黒ぶちの眼鏡は取り外され裸眼になっており、髪は肩を越えるほど長く伸びていて、中学のころはロスタムの髪同様いつもばさばさだったのに、今は奇麗に揃えられて光沢すらでている。


 ずいぶんと小奇麗にするようになったなあと妙な感心をするロスタム。


 ちょっと気になったのはその小さな体に不釣り合いなくらい大きなボストンバッグを抱えていたことだが、まあ旅行でもしているならありえることなので気にしないことにする。


「とりあえず、あがれ。ここじゃしゃべりにくい」


 そういって、顎をしゃくってあがるように指示すると、ロスタムはのそのそと部屋にもどり窓をあけて、えいやと、煎餅布団をたたみ、横においていたちゃぶ台をよっこいせと出す。


「悪い、寝てたのか?」


「いや、かまわんよ。昨日ゴールデンウィークのみの短期バイトが終わったので、今日は一日ダラダラしようと思っていただけだ」


 部屋の様子に気づいたリンが、済まなさそうな表情を浮かべるが、ロスタムは気にすんなというサバサバした表情ですぐ横にある台所に向かう。


「玄米茶しかないが、いいか?」


「いや、それこそ気にするなよ」


「そうか。まあ、とにかく我慢してくれ」


 保温の札をはがし、あらかじめ沸騰させておいたお湯の入ったヤカンで、玄米茶の入った急須にお湯を注ぎ、しばらく待ったあと、年季の入った二つの陶器でできた湯のみ茶碗に注ぐ。


 かなり熱いはずのそれを苦もなく両手に握ってちゃぶ台まで持ってきたロスタムは、無言で一つを親友の前に置く。


 その後どっかりと胡坐をかいて持ってきた熱い玄米茶をすすりながら、久方ぶりの相棒を見た。


 中学校時代、家庭の事情で追い詰められた生活を強いられていた相棒は、いつも瞳に闇を抱え、がりがりで骨と皮ばかりだった身体で無茶ばかりしてるような奴だった。


 そんな相棒をロスタムはいつ死んでしまうかとハラハラしながら見ていたものだったが。


 中学3年生後半になり、その原因も取り除かれ、今彼は穏やかな生活を送っているはずだった。


 それを象徴するかのように、いまの親友の顔は丸みを帯び、その表情は穏やかなものになり、ガリガリだった身体にはそれなりに肉がついて緩やかに丸みを帯びた身体付きに変わっている。


 他にもどこか違和感があるような気がしたが、一年以上も会っていないわけだから、雰囲気が多少変わるのはいたし方なかろうと、そこは気にしないことにする。


 とにかく、あの頃死神に取り憑かれていたようだった影はもう彼の中には見えなかった。


 そんなロスタムの視線に気がついて、居心地悪そうに身じろぎするリン。


「な、なんだよ・・」


「いや、お前が幸せそうで、うれしくてな・・そういうお前の姿を見られただけでも、おまえに会えてよかったと思っていたんだ」


 そう言って屈託なく笑うロスタムの表情には、友を案じる真心に溢れていて、リンはそれがとても照れくさくまぶしくて真っ赤になって顔を背けた。


「ば、馬鹿、変なこというなよ」


「変じゃない。あのころのお前は常に死相が出ているような真っ暗な表情だった。いつ死んでしまうかと気が気ではなかったが・・今のおまえはほんとに充実した顔をしている。いい面になったな・・『人』の面になった」


「もう、いいってば!!」


 すっかり照れてしまったリンは真っ赤になった顔を隠すように下を向き、ロスタムはその様子をおもしろそうに、しかし、優しい笑みを浮かべて見つめる。


「ところで、おまえがここにいるということは交易路を通ってきたということだろうが・・大丈夫だったか?」


 リンやロスタムが元々いた城砦都市『通転核(つうてんかく)』からこの城砦都市『嶺斬泊(りょうざんぱく)』までは当然のことながら、危険な『外』の街道を通ってこなければならない。


 一応両方の都市の行政部が直接運営している武装交通旅団に乗って行き来することが可能になっているため、比較的安全ではあるが、ごく稀に『害獣』や山賊に襲われることもないわけではなく、完全に安全というわけではない。


 とはいえ、本人はここにすでにここに来ているわけであるから、ほぼ大丈夫だったということはわかっているわけだからこの問いかけはロスタムなりの社交辞令のようなものであるわけだが。


「ああ、平和なものさ。退屈で死にそうだったことを除けばなかなかおもしろい旅だった」


「そうか」


 その言葉にずずっと玄米茶を一口すするロスタム。


「で、今は旅行中か何かか? それとも俺に何か用事か?」


 何気なく口にするロスタム。


 別に特別な気持ちがあって言ったわけではない。


 本人としては普通に、聞いてみただけなのだが、なぜか目の前の親友の顔が明らかに曇る。


「用事がなければおまえに会いに来てはいけないのか? 長年の相棒に会いに来るには用事が必要なのか?」


 物凄く悲しそうにみつめてくる親友に、妙な違和感を感じながらも、ロスタムは素直に頭を下げた。


「いや、すまん、そういうつもりではなかった。気に障ったのなら謝る。久しぶりに会ったおまえと喧嘩するつもりはないから、できれば許してもらいたい」


 その姿にむしろ慌てたのはリンのほうで、ちゃぶ台の向こうでおもしろいほどくるくると表情を変える。


「あ〜、ごめん、違う、そういうつもりじゃなかった・・おまえを困らせようと思ったわけじゃないんだ。いや、昔の俺ならこんなことでめくじら立てたりしなかったよな・・」


 自分のした結果に明らかに気落ちする親友の姿に、自分と離れている間に確実に何かあったのだとロスタムは悟る。


「やはり、この一年の間に何かあったか・・」


「・・うん」


 ロスタムの問いかけに、顔を伏せたまま頷く親友。


「言えよ・・俺に出来ることが何かあるなら聞くぞ」


「・・うん、というか、ロムにしかできないことがある」


「俺にしかできない?・・連夜にしかできないというならわかるが・・はて、俺にしかできないこととはなんだろう?」


 二人の共通の親友、宿難 連夜は日常生活の達人で、その手のことならエキスパートと言って差し支えない存在だ。


 ロスタムの部屋の掃除や洗濯も彼がたまにやってきてやってくれたりするし、料理も作ってくれることがある。


 実にできる男であるわけだが、生憎自分は連夜ほど何かが得意であったりすることはない。


 まあ多少勉強とスポーツはできるが、人に教えるのは苦手だ。


 そんな自分に何ができるというのであろうか?


 しきりに頭を悩ますが解答がでてこないので、目の前の親友の言葉を待つことにする。


「あのさ・・・」


「うむ」


「あの・・」


「うむ」


 中学時代、行動してから考える人間として有名だった目の前の親友。


 しかし、目の前でひたすら逡巡している姿の持ち主が本当に同一人物なのか、流石のロスタムも少々自信がなくなってきていた。


 が、しかし、人は変わるのだ。


 人が変わるのに一年という月日は決して短くないことをロスタムは知っていた。


 なぜなら、たった一日で人生観が180度変わってしまった自分がいるのだから。


 そう考えると、やはり目の前の人物は自分の知る人物に違いないという気になり、ゆっくりと焦ることなく待つことにする。


 とはいえ、優しい瞳で親友が切り出すのを待ってみるが、なにやらしきりに照れたように顔を赤くしてどんどん声も小さくなってきている気がする。


 余程にいいにくいことなのか、それとも自分の考えがまとまらないのか。


「なあ、リン、焦ることはないから、ちょっと落ち着け。おまえが言いたくなるまでちゃんと待ってるから」


「な!! お、おまえ・・」


 気持ちを落ち着かせようと思って言った言葉だったのだが、なんだか余計に混乱させたように、赤い顔で口をぱくぱくさせる親友。


 そして、すねたように顔を横に背けた。


「ずりぃよ・・なんか一人で勝手に大人になったみたいな顔しやがって・・どんどんそうやって一人でいっちゃうんだよな、おまえは・・どうせ、俺のことなんて気にしてないよな」


「大人になんかなってないよ。むしろ、如何に自分が無知な子供だったかってことをつい昨日思い知らされたばかりでな・・俺は何もわかってなかったんだなぁって・・」


 イラついて当たるように言った言葉なのに、ロスタムは全く怒る様子も見せずに、自嘲気味に笑うと心からの讃辞と羨望を込めてリンを見返すのだった。


「それに比べれば恐らくおまえのほうが大人だろうよ。何かはわからないが、おまえはこの一年、俺には想像もできないような体験をしてきたらしい。それが何なのかは俺にはわからないが、それでも並大抵のことじゃなかったことはいまのお前の顔を見ればわかる。と、いうか何かを乗り切ってここに来た感じがするんだ。まあ、俺が勝手に思い込んで勝手に解釈してるだけかもしれんがな、それでも、お前は俺よりもずっと大人になったように見える」


「・・ぃゃ・・」


「ん? どうした?」


 ロスタムの言葉を聞いていたリンが顔を下に向けて、黙りこんでしまった。


 その様子を怪訝に思ったロスタムが覗き込むように近づいて肩に触れようとすると、リンがガシッとロスタムのTシャツの襟元を両手でつかんだ。


 そして、顔をあげたリンの表情はくしゃくしゃになって、その瞳からは涙がこぼれそうになっていた。


「おい、リン、どうした!? 何か俺はおまえを傷つけるようなことを言ったか!?」


「・・いやだ・・いやだよ、ロム・・なんで、おまえそんなこと言うんだよ・・そんな遠くから見つめるように俺のこと見るんだよ・・」


「リン・・」


「いやだよ・・俺を置いて行くなよ・・」


 血を吐くように呻く親友の目からはもう、涙がこぼれおちてしまっていた。


 そんな親友の姿を絶句して見つめるロスタム。


「俺、おまえがこっちに引越してから、ずっと思ってた。いつか・・いつかは俺達の道は分かれてバラバラに歩いて行くことになるから、高校進学で離れていくことになったのも、たまたまそれが早く来たんだって思おうとした・・でも、だめだった・・いやだった・・おまえがいなくなって、俺初めてわかったんだ・・自分の気持ちが・・でも、このままじゃダメだって思った。このままもしおまえを追いかけても、結局は、いつかバラバラになっちまうって。俺が・・俺がこのままの姿のままお前を追いかけてもダメだって・・でも、会いたかった。すげぇ会いたかった・・毎日おまえのことだけを考えた。連夜じゃないぜ・・おまえのことだ、おまえのことだけ考え続けた。おまえの側にずっといることができる俺になるために、俺はずっと考え続けた。一年間ずっと俺は待ったよ・・それで・・やっと言えるんだ・・俺は胸を張ってやっとおまえに言うことができる」


 そういうと、リンはTシャツを掴んでいた手を放して、代わりにロスタムの無骨な手を取る。


「?」


 いったい何事かと訝しむロスタムの手を見つめていたリンは、涙のあとがくっきりと残る顔に男性ではありえないような妖艶な笑みを浮かべてロスタムを見た。


 それをまともに見てしまったロスタムの背筋に何かが走る


「これが・・俺の出した答え・・お前とずっと一緒にいるための俺・・ううん、私だ」


 そういったリンは、自分の手でロスタムの手を引っ張ると、自分のTシャツの中に入れて胸にあてた。


『むにゅ』


 男性にはありえない、いやあるはずのない豊かな肉厚の感触がロスタムの掌にあたる。


 リンは、慌てふためき狼狽する親友の姿を確信し、妖艶な笑みをさらに深くする。


 しかし、その予想は大きく外れる。


 確かに、もしこれが一昨日、あるいは昨日の午前中までのロスタムならそうなったであろう。


 リンの予想通り、慌てふためき狼狽し、わけのわからないことを口走っていたかもしれない。


 だが、昨日の午後、正確には午後16時前後を境にして、ロスタムはリンの知るロスタムではなくなっていた。


 ロスタムはゆっくりとため息を吐き出すと、自由なもう片方の腕で自分の手を持つリンの片手をそっと放させると、シャツの中から手を出して、そっとその衣服を直してやる。


「そうか・・そういえば、おまえ、自らが決めた配偶者にあわせて性別を変える麒麟種(きりんしゅ)白澤族(はくたくぞく)だったな。俺の性別にあわせて女性に変化してくれたのか・・すまなかった。・・真剣に俺のことを思ってくれていなかったらそんなことできないってことはわかるし、性別変化がどれほど苦痛なことか俺なんかには想像もできないことだが、それでも俺のためにしてくれたということは素直にうれしい、ありがとう」


 ロスタムはそういう親友の心意気に素直に感謝し、漢らしく土下座して礼を述べる。


「それで、俺はどうすればお前の心に報いられる?」


 気負うでもなく、押しつけるでもなく、自然な表情でじっとみつめてくるロスタムを、今度こそ驚愕の表情で見つめるリン。


 自分の予想とは全く違う、むしろ予想だにしていなかった展開に、完全にとまどいおいてけぼりになってしまった自分を感じながらも、リンは口をパクパクさせるだけで、何も言うことができずにいた。


 今、リンは心の中で絶叫していた。


(いったいこれは誰だ!?俺が好きになった相手はもっとこう、自分に近い存在だったはずだ!!俺と同じくらい無茶をやり、俺と同じくらい考えなしの奴だったのに・・今のこいつは・・完全に別人じゃないか!!)


 そう、心の中で絶叫しながらも、前よりももっと好きになっている自分にも気がついて余計に心の中が収拾つかない。


(なんでだ・・どこで作戦を間違ったんだろう・・)


 しきりに腕組みをして唸りだした親友の姿を不思議そうに見つめるロスタム。


 そんな親友をやれやれと優しい瞳でみつめながらも、ロスタムは昨日のことを思い出していた。


 昨日・・ロスタムは二度死の淵を垣間見た。


 一度目はゴーレムの拡散魔堂レーザーでどてっ腹をえぐられた時。


 二度目は『金色の王獣』に遭遇したとき。


 一度でも十分な経験だったというのに、二度も三途の川を渡りかけたという経験は、ロスタムの心に劇的な変化を与えた。


 最初に自分の命が消えようとしていたとき、つまりゴーレムの手にかかってまさに死のうとしていた時に思ったことは、『なんで自分はこんなことに命を賭けようとしているのか?』だった。


 自分がやり残したことやらなかったこと、そして、やろうとも思わなかったことが次々と思い浮かんでは消え、自分がそのとき後悔していることに気がついた。


 次に自分の命が消えようとしていたとき、つまり『金色の王獣』と遭遇した時に思ったことは、『世界にはこんなにも圧倒的に強く、予想もできない奴が存在するのに、どうして自分は小さいことをうじうじとこだわり続けてきたんだろう?』だった。


 差別のこととか、お金のこととか、つまらない男のプライドとか、こうあるべきとか勝手に自分が作った価値観とか、それにこだわっていろいろなことを受け入れられない自分のなんと小さく愚かなことかとも気がついた。


 そうして一晩考えて、朝起きた瞬間、ロスタムは自分を縛りつけていた自分の中の何かを一旦全部壊して捨ててしまった。


 すると、途端に世界が広がった気がした。


 別に特別な考えが浮かんだわけではない、とりあえず、なんでも断らずあるがままに受け入れてみることにしただけだ。


 難しいかなと思ったが、意外とすんなりいろいろなことを受け止められる自分がいた。


 だから、リンの言葉もストンと自分の心の中に落ちて行った。


 リンのことは嫌いではない。


 嫌いだったら親友ではいなかっただろう。


 だが、勿論異性としてすぐ好きになれるかと言われれば、ちょっと考えることになるだろう。


 しかし、否定することもないと思った。


 恋愛をしたことのない自分にとって、今親友に向いている気持ちが『好き』なのか『愛』なのか『情』なのかわからないが、ともかくそこになんらかの良い想いはあると思う。


 だったら、できるだけ受け入れて、その想いに答えてみようと考えた。


 それだけだった。


 とはいえ、なぜか答えを要求してきたはずの親友のほうが、返答に困っているというなかなかおもしろい状況に、ロスタムは苦笑を浮かべた。


 まあ、この調子だとまだまだ答えが出そうにない。


 壁にかけてある時計をみるとそろそろ夕方の時刻だった。


「なあ、リン?おまえ泊まるとこはもう決まってるのか?」


「へ!?・・ううん」


「じゃあ、泊っていけよ。夕飯作ってやるから一緒に食べようぜ。それでこの一年の間のことを俺に聞かせてくれ。ああ、そうだ、そういえば材料なかった。買い出しに行くから付き合うか?」


 よっこいせと立ち上がったロスタムのことを赤い顔でしばらくぼ〜〜っと見つめていたリンだったが、ロスタムが早くも玄関に向かうのをみて慌てて立ち上がって追いかける。


「あ、うん、行く。行くから待ってよ!!」


「おう、早く来い」


 たたたっとこちらを走ってくる親友の姿を何気なく見ていたロスタムだったが、このときになってようやく再会したときから感じていた違和感の正体に気がついた。


 あまりにも似合いすぎていて思考がスルーしていたらしい。


 親友はズボンではなくミニスカートをはいていた。


 靴をはいていたリンはそんなロスタムの視線に気がついてきょとんと見つめなおした。


「なに?」


「いや、スカート似合ってるなって」


「あ、う、バカ・・でも・・ありがと」



※ここより掲載しているのは本編のメインヒロインである霊狐族の女性 玉藻を主人公とした番外編で、本編の第1話から2年後のお話となります。

特に読み飛ばしてもらっても作品を読んで頂く上で支障は全くございません。

あくまでも『おまけ』ということで一つよろしくお願いいたします。




おまけ劇場


【恋する狐の華麗なる日常】 



その11




 朝目が覚めた時に掛けられる声、普通の家庭ならまず起きてきた『人』に『おはよう』って声を掛けるのが当たり前のことなんだろう。


 しかし、私が育った家庭ではまず、誰も声を掛けたりはしない。


 私が目を覚ます時間の少し前になると、家で雇っている下男が冷たいご飯とあまりものと思われる前の晩の惣菜の残りと冷えた味噌汁をお盆に載せて持ってきて、食えといわんばかりの態度で私の寝床の前に乱暴において立ち去る。


 私はそれをもそもそと、でも急いで食べ、服を着替え、急いで修行場へと向かうのだ。


 朝の修行の時間に間に合わなかったら厳しい叱責と折檻と、そして、とんでもない課題を押し付けられ、間に合ったら間に合ったで、冷笑と皮肉と、やはりとんでもない課題をいやがらせと共に押し付けられる。


 だから子供の頃、私はいつも朝が来るのが大嫌いで、朝なんか来なければいいのにと思っていた。


 中学生になり私の親友の力を借りて家から出て行くことができた私は、そういう思いからは解放されたが、朝を迎えるときはいつも1人で、辛い思いはせずに済むようにはなったものの、だからといって寂寥感が消えるわけでもなかった。


 ただ、やがてそれにも慣れていつしか私はそういったことに何も感じなくなり、気がついたら1人でいることが当たり前になっていた。


 実家にいても1人暮らしをしていても、代わらず朝食は1人でもそもそと食べる。


 別にそれが苦痛でもなんでもなかったのであるが・・


「おはようございます、玉藻さん、昨日は遅くまで勉強していらっしゃったようですけど、よく眠れました・・って、いきなりなんですか?」


 朝、いつものようにキッチンにのそのそと出てきた私は、久しぶりに朝の台所に立っている旦那様の姿を目にすると、旦那様が声をかけてくださっているのにも構わず走りより、その私よりも若干小さな身体を力いっぱい抱きしめる。


 テーブルの上にコップとかお皿を出して朝食の準備をしている途中だった旦那様は、それらを落としてしまわないように慌てて下に置くと、びっくりした表情で私を見返してくる。


 そして、しばらく何事だろうっていう顔をしていたけれど、なんだかひどく優しい顔になってパジャマ姿の私をぎゅっと抱きしめ返してくれた。


 そうして私と旦那様はじっと無言のまま抱き合っていたけれど、やがてそっと私の身体を自分から離させる。

 

 そして、乱暴にならないように優しく引っ張ってテーブルにある椅子まで連れてくると、そこに私を座らせておいて、自分はキッチンのほうにもどる。


 その後、手慣れた様子で私のマグカップに温かいコーヒーを淹れた旦那様は、とてとてと小走りでまた私のところにもどってきた。


 私の目の前のテーブルの上に、旦那様が静かに置いたマグカップから、淹れたてのコーヒーのいい匂いが漂ってくる。


 私はぼんやりとしたままそのマグカップを取ろうと手を伸ばす。


 だけど、旦那様はその手をさえぎって止めさせると、呆気にとられている私の顔に自分の顔を近づけてきて、にっこりと微笑んだ。


「玉藻さん、おはようございます。・・って言ったのに、僕、まだ玉藻さんの声を聞いていません」


「あ・・そ、その・・おはようございます・・んむっ」


 旦那様に言われてはじめて朝の挨拶をしてなかったことを思い出した私は、恥ずかしくて顔を俯かせながらごにょごにょと挨拶を返したんだけど、旦那様は私が挨拶を言い終えると同時に私の顔を両手で挟んで上げさせて、私の唇に自分の唇をふんわりと重ねてきた。


 私がいつもするような貪るような情熱的なキスと違い、旦那様のキスはどこまでも優しい感じ。


 ついばむだけ、触れるだけのような頼りない感じじゃないけど、強引に相手を自分のものにするという感じでもない。


 ふんわりしてて柔らかくて相手の体温がわかるような、あんまりうまく表現できないけどそんなキス。


 どれくらい唇を重ねたままでいたのかはわからない、旦那様の優しさが溢れているような感触が気持ちよくて、その気持ちよさに余計にぼ~っとしてしまって、ただただそれに身を任せる私。


 このままずっとこうしていたいなあ、なんて思っていたけど、不意にその温もりが消えて、慌てて目を開けてその温もりの主を探そうとすると、私の両手にコーヒーの入ったマグカップの温もりが。


 手の中のマグカップにちょっとの間、視線を移していた私だったけど、すぐに顔をあげて旦那様の姿を探す。


 すると、すでに私に背中を向けてしまっている旦那様の姿が見えて、私が声をかけようとするよりも若干早く振り返った旦那様は、男性とは思えない柔らかい笑顔を私に向けてその笑顔と同じくらい柔らかい口調で言葉を紡ぐ。


「すぐにご飯の用意をしますから、そのまま座っててくださいね」


 そう言ってパタパタと忙しそうにキッチンに向かい、朝食の準備を始めだす。


 私はその姿をちょっとの間見守っていたんだけど、ふとマグカップを持ち上げて中のコーヒーをくぴっと一口飲んだ。


 どこで買ってくるのか知らないけれど、市販のインスタントでは決してない、ブラックなのに苦味が非常に少ないほのかに甘みのある味と、それ以上に上品な香りが口の中いっぱいに広がって行く。


 おいしい。


 相変わらず旦那様が淹れてくれたコーヒーはおいしい


 けど・・


 私はマグカップをテーブルの上に置いて、椅子からふらりと立ち上がる。


 そして、ぽてぽてふらふらと歩いていき、旦那様の背中からそっとしがみつくようにして抱きつく。


 そのときちょうどスープを大きめのカップに淹れようとしていた旦那様だったけど、不意に私に抱きつかれてもそれを取り落としたりこぼしたりはしなかった。

 

 どうやら近づいていく私の気配に気がついていたみたいで、冷静にコップにスープを注ぎ続けていらしたわ。

 

 勿論、私がいきなり抱きついていったことには驚いたり怒ったりもしなかった。


 ただ、のんびりした口調で『なんですか~?』って聞いてきただけ。


 私は『何も~、別に~』なんていいながら、そんな旦那様の肩に自分の顔をこてんと置いてひとしきり鼻をふんふんと鳴らす。


 できるだけ悲しそうに寂しそうに聞こえるように。


 すると旦那様は、後ろからまわしている私の手を一度だけぎゅっと握ってくれて、その後また朝食の準備にもどった。


 気にしてないようでちゃんと気にしてくれてて、わかってない振りしてるけど、ちゃんとわかってくれてる。 


 でも、私はやっぱり旦那様に後ろからくっつくのをやめない、やめたくない。


 鬱陶しいだろうなあってわかっているんだけど、ぴったりくっついたまま忙しく働いている旦那様の後ろをちょこちょこと一緒について回る私。


 あれ?


 そういえばこの感じって・・


 私は以前同じようなことをしていたことを突然思い出した。


 あれは旦那様と一緒に暮らし始めた頃、まだ結婚する前。


 私はちょっとだけ考えていたけれど、すぐに決心するとそのときのことを再現する為に旦那様にくっついた状態で器用にパジャマを脱ぎ散らかしていく。


 それだけじゃない、その下に身に着けていた下着も全部脱いで素っ裸の状態に。


 そして・・


「もう~~~」


 旦那様の呆れ果てたような声が朝のキッチンに響き渡る。


 テーブルの上にはおいしそうなホットドッグや、海草のサラダ、クルトンが浮かんだコーンスープ、それに甘い匂いのするスクランブルエッグ。


 すっかり朝食の準備が整った状態で、私は旦那様の椅子の前にちょこんと座り、口を大きく開けて待っている。   


 え? 自分の席について自分で食べろって?


 だって無理なんだもん。


 だってだって今の私は『狐』の姿なんだもん、手がないもん、前足だもん、無理に食べようとすると犬食いになってしまってお行儀が悪いもん。


 だから食べさせてもらわないと食べれないもん。


 しばし睨みあう私と旦那様。


 うるうる


 うるうるうるうる


 うるるるるるるるる~


 涙目を必死でアピールしながら訴える私を見ていた旦那様は、やがてふか~い溜息を吐き出すと・・


「・・今日だけですからね」


 と、言って立ち上がるとテーブルの向い側にある私の椅子を自分の隣まで持ってきて、私をそこに座らせる。


 そして、その後今度はテーブルの横にあるエルフの名工が作った陽華檜造り(ようかひのきづくり)の食器棚までいって、その引き出しを開けると中から水色のナプキンを取り出してもってきて私の首にそっとかけてくれた。


 ナプキンにはかわいい白い子狐のアップリケ。


 懐かしいなあ、まだ残っていたんだ、私専用に旦那様が作ってくれたナプキン。


 そうなのよ、2年前、ある特殊な場所で3カ月ほどの間、生活していた私達だったんだけど、そこでは私、『人』の姿になることができなかったの。


 常に『狐』の姿でいないとだめだったのよね、それで不自由な生活をしている私を見かねて、旦那様はそれはそれは至れり尽くせりに世話してくれたものなのよ。


 いや、今でも十分世話を焼かせてしまっているんだけど、当時はもっと凄かったの。


 今みたいに優しく旦那様の手で食べさせてもらうってことも、朝昼晩全部だったし、おやつですら食べさせてもらっていたわねえ・・


 他にもいろいろ様々それはもう徹底的にお世話してもらっていたわ、たった3カ月だったけど夢のような生活だったの。


 そのあとこっちに戻ってきて『人』の姿で生活できるようになってからすっかりそういうことはなくなってしまったのだけど、やっぱりその・・好きな『人』に食べさせてもらうって・・いいわね。


「ほら、玉藻さん、丸呑みしないでしっかり噛んで食べてくださいね・・お口にパン屑ついてるし」


 だってだって、獣の顔だと獣毛がびっしり生えているからどうしてもついちゃうんだもん、結構気をつけて食べているもん。


 って、半分すねた顔をしてみせる私だったけど、旦那様が私の顔についたパン屑を指でつまんで食べているのを見ると自然と顔が土砂崩れを・・


 困った『人』だなあって顔をして私を見つめながらもせっせと私の口に朝食を運んでくれる旦那様。


 私は口を動かしながら、すっと旦那様に身体を寄せると自分の顔を旦那様の胸にこすりつけ、力いっぱい尻尾をぶんぶん振る。


「まだ、ご飯終わってないですってば、玉藻さん。懐いてくださるのは嬉しいですけど、食べてからにしてくださいね」


 嬉しいんだもん、幸せなんだもん、いつも、朝起きたらいないはずの旦那様が今日はいてくださって、一緒にご飯食べられるのが嬉しくて幸せでたまらないんだもん。


 いつもは1人ぼっちでもそもそ朝食食べてるもん、旦那様が作り置きしてくれている朝食はおいしいけど1人ぼっちはさびしいんだもん、本当にさびしいんだもん。


 顔は笑ってるけど、いつのまにか私の目からはぽろぽろ涙が流れて落ちていた。


 ずっと1人で生きてきて、寂しいことがわからないまま過ごしてきた私。

 

 でも旦那様に出会って、旦那様と暮らすようになって、温かい食卓を知って、『人』の温かさを知ってしまった私。


 おかげで寂しいってことがどういうことなのかまで理解できるようになってしまった。


 寂しい・・寂しいです、旦那様。


 毎日大学からお家に帰ってきて玄関を開けたときに旦那様に『おかえりなさい』って迎えてもらえるのはうれしい、とてもうれしい。


 だけど朝になるといつも側に旦那様がいないのは、ほんとに寂しいです、誰もいない玄関から1人『いってきます』って呟いて出かけるのは寂しいです、とても寂しいです。


 今まで我慢して耐えてきた寂しさが一気に噴き出してしまって涙がとまらなくなっちゃった、さっき口の中に入れてもらったホットドッグをもぎゅもぎゅしている私だったけど、なんだか涙のせいでしょっぱくなってきたし・・あ、鼻水も垂れてきた。


「玉藻さん、泣き過ぎです。ほら、ち~んしてください、ち~ん」


 ち~ん。


 旦那様が鼻にあててくれたティッシュに思いきり噴き出すと、ぶびびっという中々豪快な音を立てて鼻水が出ていき旦那様はそれが垂れないように奇麗に拭き取ってくれた。


 勿論、別のティッシュを出してきて涙も優しく拭き取ってくれた。


 旦那様の優しさが嬉しい・・嬉しいけど、だからといってこのままだと胸の中を駆け抜ける木枯らしがやんでいるのは今日、この瞬間だけ。


 本当だったらきっと私の胸の内に納めて我慢すべきことだと思う、旦那様だって好きで私を1人にしているわけじゃない、一家の大黒柱としてやるべきことをやるために朝、私が起きる前に出かけていって働いてくださっているがゆえに朝食を共に過ごせないのだ、私も一刻も早く大学を卒業するために夜遅くまで勉強しているから、朝、起きることができずにいるのだ。


 でも、いずれは私も大学を卒業し働きはじめ、旦那様が今ほど忙しく働かなくてもよくなる日がくる、2人の生活リズムが確実に変わる時がくる、そう遠くない日にそれは絶対に来る、私達が夫婦そろって朝も夜も一緒に食卓を囲める日がくる、そのことはよ~くわかってる・・わかってるんだけどね。


 でも・・私は『獣』形態から『半獣人』形態に姿を変えて、せっかく拭いてもらった目をまたもや涙目にして旦那様を見つめた。


「泣きたくないけど・・泣けちゃうんです。だって・・今年の3月まで、みんな一緒に朝ごはん食べてたのに・・旦那様は高校を卒業して畑仕事に専念しちゃって朝もどってこなくなっちゃったし、パールとサリーは土日以外の平日は宿難本家にいっちゃったし、みんながいたのに、みんながいた朝に今は私1人しかいないんですもの、1人でご飯食べて1人で『行ってきます』って・・さびしぃ・・もん」


 最後のほうは完全に泣き声になってしまってちゃんと声にならなかった。


 子供みたいというよりも、完全に子供。


 共働きでお父さんも、お母さんも朝いないご家庭のお子さんが、寂しさを訴えるのと全く同じ。


 格好悪いことこの上ないけど、ぐっと胸の内にしまっておけるほど大人じゃない私、まだまだ大人なりきれてない甘ったれ。


 ぐしゅぐしゅ鼻を鳴らしながら、ちらちらと横目で旦那様を見る。


 呆れ果てているかなあ、それとも怒っちゃったかなあ、って内心ではどきどきしてたけど、全然そんな風ではなくて、ただ深く穏やかな表情を浮かべたまま私の涙やら、鼻水やら、パンクズやドレッシングがいっぱいついた口を丁寧に優しく拭き取ってくれる。


「今年に入ってから、いろいろな種類を試しに育てていたんですけどね、畑に作っていたそれらの作物の全ての収穫と搬出がようやく昨日終わったんですよ。で、ある程度本腰入れて今後作っていく作物が決まったので、それに合わせて仕事の時間を少し変えようと思ってます」


「ふ~~ん」


 私の顔を拭きながら旦那様は何やら仕事の話をし始めていたけど、最初のほうを聞いた時に私の訴えに直接関係なさそうな話だなあって思い、私はまともに返事せずにそっぽを向く。


 そんな私の姿を見た旦那様は、なにやらおもしろそうな口調で言葉を続ける。


「日が昇る前に出かけて行くのは変わりませんけど・・高校に通っていた頃と同じように一旦日が昇る前に家に戻ってくることにします。で、昼からまた出かけて夕方帰ってくるようにしますね。いや~、自由に働く時間を決められるのは自営業の特権ですよねえ」


「ふ~~ん・・え?」


 相変わらず半分もまともに聞いてなくて生返事をしていた私だったけど、ふと旦那様が口にした内容にひっかかりを覚え、脳内でプレイバック、そして、ゆっくりとその意味が頭に浸透してくると、私は慌てて顔を旦那様のほうに向けて大きく目を見開く。


 目をきらきらと輝かせ、さっきまでへにょんとして垂れ下がっていた耳をピンと直立させる、そして、だらりと椅子の下に落ちそうになっていた3本の尻尾をちぎれそうな勢いで振り続ける私。


 ところが、さっきまで旦那様の視線を避けて横を向いていた私と入れ違いに、今度は旦那様が私の視線を避けるように横を向いてしまっている。


 そして、自分の朝食であるホットドッグをしら~~っとした表情であむあむと食べ始めていたのだった。


「玉藻さん、今日から大学には僕が車で送っていきますから、準備できたら教えてくださいね。その間に僕、朝食食べてしまいますから」


 な~~んて言いながらね。


 む、むうう。


 私は一向に旦那様がこっちを向こうとしないことに業を煮やして、旦那様の腕に自分の腕をからませてしきりにゆすってみる。


「ね、ねえ、旦那様、今のお話本当ですか? これからずっと朝はいてくださるんですか?」


「え~、ひょっとして玉藻さん、僕の話聞いてなかったんですかぁ? さぁ、どうでしょう? 明日になればわかるんじゃないんですかぁ?」


「あ、あしっ!? ちょ、だ、旦那様、ひどい!! ね、ねぇ、ちゃんと答えてくださいってば!! 明日からは一緒なんですよね?」


「玉藻さんは僕の話どう聞こえました? そういう風に言ってました?」


「ちょっ!! 旦那様のいぢわるっ!! 泣きますよ、泣いてやるからっ!! 本気で寂しかったのに!! ずっとずっと我慢してたのにっ!!」


 う~~~っと唸り声をあげながら半ば本気で泣くぞと脅すように睨みつけると、旦那様は食べかけのホットドッグを置いて私のほうにようやく顔を向けた。


 そこにはいたずら小僧のような厭味な笑顔じゃなく、食事を邪魔されて怒った表情でもなく、ただ、妻を心配している夫の表情の旦那様がいた。


「寂しい思いをさせちゃって、本当にごめんなさい。もっとね、早くこうしたかったんですけどね、なかなか仕事がうまくいかなくて・・でも、これからはちゃんと朝一緒にいますからね。一緒に朝ご飯食べましょうね」


 そう言ってほんわりと笑った旦那様は、私の身体を自分のほうに抱きよせてぎゅっと抱きしめてくれた。


 私は旦那様の肩の上に自分の顔を乗せて『そういうこと考えていらっしゃったのなら一言言ってくれてたらよかったのにっ!!』とか余計な文句をブツブツと呟いたけど、全力で誤魔化そうとしても全力で振り続けられる尻尾を止めることはどうしてもできなかったので、完全に心底はバレバレだった。


 だって・・だって嬉しいし、やっぱり・・旦那様、大好き!!


 あ~、明日から旦那様と一緒に朝ごはんだあ・・


 そっか、じゃあ、毎日ナプキン洗ってもらわないと。


 そう思ってホクホクしていた私だったけど、そんな私の下心を完全に理解していた旦那様は急に冷静な口調にもどって私に言葉の釘をうちつけるのだった。


「あ、そうそう言っておきますけど、食べさせてあげるのは今日だけですから。明日からはちゃんと自分で食べてくださいね」


 ええええええ~~~~、やだやだやだやだやだやだやだやだやだ~~~~!!


 私は子供そのものにフローリングの上に転がってジタバタとダダをこねて見せたが、旦那様は『さあ、後片付け後片付け。玉藻さん、早く大学行く用意しないと間に合わなくなりますよ』なんていいながら、私の首のナプキンを取り去り、床に散らばった私のパジャマや下着を拾い上げると、私を残してさっさと洗濯しにいってしまった。  


 あああん、旦那様のいぢわるぅぅぅぅぅ!!


 しばし旦那様の消えてしまったキッチンのフローリングの上に座り込み寂しさいっぱいの表情で指をくわえていた私だったけど、視線の端に時計が目に入り、はっとして慌てて大学に行く用意をしにかかる。


 やばい!! もうこんな時間だ!!


 本当に用意しないと間に合わなくなる!! 


 ってことで、大学に行く準備するので今日はここで。


 今日から旦那様と一緒に登校だわ、やった~。


 じゃあ、またねえ!!

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