第十話 ライブじゃないの?
車で地下駐車場から地上に出ると、友也に気づいたリスナーが一斉に駆け寄ってきた。祝福された嬉しさに加えて人混みの多さで、友也はスロープを上り切ったところで車をすぐ左側に停める。
対する助手席の沙樹は、自分のことを知られるのに耐えられず、夜だというのにサングラスを取り出して急いで顔を隠した。
「トミーさん、そちらが例の彼女ですか」
「良かったですね、相手の人があらわれなくて」
「ラジオの向こうでずっと応援してました」
「予想通りの結果です。トミーさんに勝てる人なんて、いるはずないですから」
友也が運転席の窓を開けると、リスナーが口々に祝いの言葉をかけてきた。真冬だというのに車中に人々の熱気が流れ込んでくる。
「ありがとう。このあと実家で何を話したとか、婚約や結婚に関しては番組で報告するから待っててくれよ。
今日はもう遅いから帰宅してください。寒いから風邪をひかないように。みんな、気をつけてなっ」
警備員の誘導でリスナー達は徐々に車から離れる。車道には人がいなくなった。
沙樹は心許なげに玄関先に顔を向ける。和泉たち仕事仲間が見送りのために出ていた。遠目のために表情までは解らない。
果たしてみんなは喜んでいるのか、それとも単に特番の延長として見ているだけなのか。
自分の意志ではどうにもならない方向に話が進む。
ワタルは来ない。それどころか今日の約束の行方すら解らない。
今一度スマートフォンを確認したが、ワタルからの連絡は届いていなかった。
ライブの最中なので電話できなのは明白だ。待ち合わせの時刻と場所くらいは、始まる前に送っておけばいい。
それが届いていないのは、やはり『トミーさんについて行きたければ行くといい』という言葉がワタルの本音なのだろう。
スマートフォンに表示された約束の項目にワタルの後ろ姿が重なり、徐々にぼやけていく。
サングラスのおかげで潤んだ瞳に気づかれないで済むのが幸いだ。沙樹はずっと下を向いたまま、自分の気持ちを整理するので精一杯だった。
絶望的な気持ちが、時間の経過とともに自暴自棄に変わりそうで怖い。そんな沙樹の不安に気づこうともせず、友也は満面の笑みを浮かべて車を発進させようとした。
ところがエンジンをかけたところで急に舌打ちをする。
「なんだよ。今から走り出すところなのに、邪魔な場所に停めやがって」
友也がギアをRに入れようとしたそのとき、
「あれ? なんでこんなところに。仕事なら駐車場に停めればいいのに。てか、このあとゲストの予定でもあるのかな」
と不思議そうに独り言ちる。
「ん?」
その言葉につられるように、沙樹は顔を上げる。
濃いサングラスをかけているため、近づいていてくる人物の顔がはっきり見えない。でもその見慣れたシルエットが誰のものかは、一目で理解できる。
(まさか。でもあたし、絶対に見間違えないもの……)
心臓が大きくドクン、と鼓動を刻む。
続いてそれは激しくなり、沙樹は自分の顔が熱っているのを自覚した。
「ワ……北島さん?」
無意識のうちにサングラスを外し、歩み寄る人物を確認する。
それはほかでもない、沙樹の彼氏、ワタルだ。ステージ衣装のまま駆けつけたようで、メイクも落としていない。
「ちょっ……ライブはどうしたのよ」
「ライブ? そういや、アンコールが終わるかどうかって時刻じゃないか。ファンが帰っている様子もないし。沙樹、どう思う?」
「さ、さあ、あたしには、な、なんのことやら」
言葉を誤魔化したのではなく、沙樹自身も思考が停止している。
運転席の窓ガラスがワタルにノックされ、友也は窓を開けた。
「こんばんは北島さん。こんな遅くにお疲れ様です。これから番組の収録ですか?」
「いや、今日の番組はありませんよ」
「じゃあ、なんでまた。衣装もコンサートのままじゃないですか」
「なんでって、自分で呼んでおいて、その返事はあんまりですよ。約束の時間には遅れたけど、なんとかアンコールを抜け出して来たんですよ。
大目に見てもらえませんか」
ワタルは苦笑しながら頭をかく。
「おれが北島さんを? そんな覚えはないんだけどな」
友也は腕組みして首を傾げた。
沙樹は、ふたりが会話を交わしているすきに、気づかれないように助手席のドアを開けて車を降りた。もう一度サングラスをかけ、そのままリスナー集団の中に紛れ込もうとする。
が、そのタイミングで駆けつけた和泉に捕まった。
「西田、どうした。北島くん、なんだって?」
「さあ、さっぱり解りません。何がどうなっているんでしょうね」
努めて冷静な顔をして無関係なふりをするが、いつまで嘘が通じるか自信がない。
その場にいた多くのリスナーは、突然出現したロックスターに興奮し、スマートフォンで一斉に写真を撮っている。
それは沙樹にとって見なれた光景だった。街中で気づかれたとき、ワタルに必ずカメラのレンズが向けられる。
沙樹は瞬間的にその他大勢になり、群衆に紛れ込む。だが今日は和泉に見つかり、姿を隠すのに失敗した。そのままスタッフや裕美のいるロビーの前に移動する。
「北島くんが仕事もないのに来る理由って、西田はなんだと思う?」
和泉は沙樹の横で腕組みをしてほんの数秒考えたかと思ったら、いきなり目を丸くし、周りに聞こえないように配慮して耳打ちする。
「も、もしかして西田、おま、おまえさんの、か、彼氏って……」
自らDJを務める番組を持つだけあって、いつもは流暢に話す和泉がどもるところを沙樹は初めて見た。友也と比べて察しがいい。
「まさか、恐れ多い勘違いしないでください」
沙樹は笑顔を引きつらせながら答える。しかしその努力もすぐに無駄となった。
「ちょっと待て。沙樹の彼氏って、ワタルさんなのか?」
友也が大声で叫び、リスナーたちのざわめきが静まった。
冬の夜の冷気が張りつめる。その場に集まった全員が息を飲んでワタルを見つめた。
少し離れた大通りを走る車の音が響くのみで、ロビー前の広場は誰もが身動きすらできない緊張感に包まれた。
「おい、沙樹。いつの間に車から出たんだ?」
友也は転がるように車を降りた。
「沙樹、どこに行ったんだよ? おーい、沙樹っ」
友也は群衆に飛び込み、沙樹の姿を探し始めた。リスナーに教えてもらおうにも、沙樹の顔を知る者はいない。
(友也、ごめん。ここでみんなの前に出るわけにはいかないのよ)
沙樹は和泉たちの影に隠れたままやり過ごす。
みんなが友也とワタルに気を取られているすきに、どさくさに紛れて駅まで逃げることを決めた。歩いて五分ほどならなんとかなる。
ワタルと直接話をしたかったが、こんなに大勢の前でわがままは通せない。これが沙樹の選んだ境遇であり、今までもそうしてきた。
寂しいとか悲しいとか考えている場合ではない。感情を押し殺し、唇を固く閉じて一歩踏み出したそのときだ。
「沙樹、もう隠れなくていいよ」
聞き慣れた声に、歩みが止まる。
「え、今なんて言ったの……?」
沙樹はワタルに視線を移す。ワタルは沙樹のいる場所をじっと見つめている。群衆の中に姿を隠しているはずなのに、どうして居場所が解るのだろう。沙樹はそれがいつも不思議でならなかった。
考えてみればライブのときも、ワタルは必ず沙樹を見つけて微笑んでくれる。
リスナーたちが移動して、沙樹とワタルの目前に道が開けた。
「ほら西田、行ってこいよ」
和泉はふりかえり、沙樹のかけていたサングラスを外した。そして沙樹を目の前に立たせ、自分は一歩後ろに下がった。
沙樹とワタルの間を遮るものがなくなる。
静寂の中で自分に集中する視線を感じ、沙樹の頬が熱くなった。呼吸が浅くなり、過呼吸を起こすのではないかと心配になる。
沙樹は小刻みに震えながら、口を開いた。
「どうして来るの。ずっと誰にも見つからないようにしてきたのに、友也の挑発なんかに乗って。ここはTV局もあるのよ。いつ撮影されるか解らないのに」
ワタルは沙樹の想いを解っていない。彼の存在は親友にさえ言えなかった。打ち明けられたのは両親とバンドの関係者だけだ。
そうしてくれとワタルやメンバーに頼まれたことは一度もない。誰かに強制されたものではなく、自分で考え抜いて決めたことだ。
人気商売故に邪魔になってはならないという、悲しいまでの想いがあったからだ。
それを友也に踏みにじられ、ワタルが壊した。
「トミーさんは関係ない。おれの意志で、こうやってみんなの前に立っている」
「夕べはそう言わなかったでしょ。友也について行きたければそうしろって突き放して、今さら何よ。あたしがどれだけ思いつめたか解っているの?」
「あれはおれが一方的に悪い。謝るよ」
「今さら謝られたって……」
群衆の見守る中ワタルは沙樹の前に立ち、握手をするように右手をさしだした。
ジェットコースターを急上昇と急降下するような展開に、沙樹の考えがついて行かない。ギャラリーに見つめられて緊張が高まり、金縛りになってしまった。注目されることには慣れていない。
ワタルは苦笑すると沙樹の傍らに歩み寄り、包むように後ろから肩を抱いた。
いつもと同じ温もりと優しさが伝わってくる。さっきまでの震えが嘘のように止まった。
「沙樹、よかったね!」
アナウンサーだけあって裕美の声が綺麗に響く。それを合図にギャラリーから称賛と驚愕の混じった声がとんだ。
「ワタル、おめでとう!」
「トミーさん、彼女を祝福してあげなよっ」
「やばすぎるぜっ」
沙樹の身体は急にガチガチに凍りつき、ひとりでは動くこともままならない。歓声が遠い世界のものに聞こえる。
「……沙樹」
名前を呼ばれやっとのことでふりかえると、友也がいつの間にか和泉の隣に立っていた。
ワタルは沙樹を丁寧にエスコートし、友也の前に立った。
「大切な恋人をトミーさんに奪われるわけにはいかないから、こうやって迎えにきました。沙樹が秘密にしてたのは不倫だからじゃなくて、相手がおれだからなんです」
ワタル申し訳なさそうに、友也に頭を下げた。
「信じられねぇよ……誰がこんなこと想像できるんだ?」
友也は完全に勢いをなくし、力なくワタルと沙樹を見ている。
「沙樹はアマチュア時代からずっと、おれたちのバンドを支えてきてくれたんです。裏方に徹してバンド活動に協力してくれました。
そんな健気な姿を見てたら、好きにならずにはいられませんでした」
「そうなんだよ、沙樹は健気で一生懸命なんだよ。だからおれも惚れちまったんだ。
悔しいぜ。北島さんより早く出会っていたら、チャンスもあったかもしれないってのに」
「それは違うよ」
沙樹はやっとの思いで口を開く。
「出会った順番は関係ない、先に友也と出会っていても、あたしはワタルさんのことが好きになる」
沙樹の偽りない言葉に、裕美や和泉が歓声を上げた。
「なんだよおっ。完全に失恋。ダメだしされちまったじゃねえかっ」
友也は力なくその場に胡座をかいて座り込んだ。和泉が慰めるように、友也の肩に手を置く。
「北島くんが相手じゃトミーくんじゃなくても勝ち目はないよ。彼は一見軽そうだが、なかなかできた人物だ。西田にしたって、北島くんどころか彼氏の影すら見せなかったんだぞ。徹底したカップルじゃないか。
今回は相手が悪かったと思って諦めるんだな」
肩を落としてうつむく友也を見ると、沙樹は気持ちに応えられない自分を責めてしまう。でもこればかりはどうしようもない。
「西田は気に病むことないぞ。ここまで話を大きくしたのはトミーくんだからな。計画通りに行かなかったときのダメージは覚悟の上だろうて。
彼のことはおれに任せてくれ。今夜一晩、愚痴を聞いてやるさ」
沙樹の罪悪感を察し、和泉があとのことを引き受けてくれた。上司の思いやりに感謝して、沙樹は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
ワタルは集まったリスナーたちに視線を移す。誰もがお祝いムードで顔をほころばせている。
「年が明けたら、今のことは正式に発表します。詳しい内容は、明日事務所から報道機関に連絡を入れますので、今夜はおれたちのこと追いかけないでくださいね。久しぶりのデートですから。それじゃあみんな、メリー・クリスマス!」
リスナーや局の人たちから暖かい拍手と歓声が上がった。ワタルはそれに応えるように手をふる。
多くの祝福とわずかな羨望のまなざしを受けながら、沙樹はみんなに向けて会釈した。
お読みいただきありがとうございました。
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