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「柘植さん、あの子が」
「ああ、そうだ」
人の形を模していた純太君とは違い、完全に人形が手足を、口を動かしている。どういう違いがあるのか私にはわからない。でも、柘植さんと詩さんの目を掻い潜ってここに戻ってきたこの子の未練が大きいことだけはわかった。未練だけじゃない。私たちに対する警戒心も純太君のときとは比べものにならないぐらい凄い。
こんなの、いったいどうするというのだろう。
「柘植さん……」
「黙ってろ。――おい」
「何よ、あなたたち。私の質問に答えなさいよ。あなたたちは誰?」
「俺たちは、お前の魂を送るために来た」
「何、それ」
その瞬間、フランス人形の纏う雰囲気が怒りに染まったのを感じた。
部屋の空気が冷たくなる。頬に感じる冷気は、まるであちら側がドア一枚隔てたこちらとは全く違う空間かと錯覚するぐらい。
そしてその怒りはまっすぐにこちらへとぶつけられた。
「ふざけないで!」
バンッと音を立てて、勢いよく襖が閉まる。とりつく島もない様子に、柘植さんはため息を吐いた。
さて、どうしたものか。そう思ったのは私たちだけではないようで、襖の閉まる音に驚いたのか、階段下から依頼主が不安そうに顔を出すのが見えた。
「えらい大きい音がしましたけど」
「あっ、え、えっと大丈夫です。お気になさらないでください」
不機嫌さを隠すことなく無言で立つ柘植さんの代わりに私が返事をする。テレオペで培った人当たりの良さそうな声で言うと、依頼主はまだどこか不安そうに、それでも幾分かホッとした様子で部屋に戻っていった。
「……どうするんですか?」
「方法は二つ。なんとかして中に入ってあいつを説得して送る」
「もう一つは?」
「無理矢理送る」
「ちなみに無理矢理だとどんな感じになるんでしょうか?」
怖い物見たさで聞いた私に、柘植さんは無表情のまま答えた。
「無理矢理お焚き上げをする」
「お焚き上げ?」
「簡単に言うと、燃やす」
「燃やす……」
それは、つまりあの動いて喋ってる子を火の中に入れて燃やすということだろうか。
「……わ、私! 説得したいです!」
「は?」
「ほら、女の子同士だし! 通じるものもあるかもしれないじゃないですか!」
「見た目が女の子の人形なだけで性別があるわけじゃないぞ」
「そ、それはそうかもしれませんが」
言い返せなくなって黙り込んでしまう私に、柘植さんは何かを考えるような表情を浮かべたあと頷いた。
「まあいい。んじゃ、やってみろ」
「はい!」
「昨日のがまぐれじゃないか見ててやるよ」
その口調に、どこか期待されているような、それでいて試されているような気分になる。まるでまだ入社試験が続いているような。
でも、その通りなのかもしれない。今、私は試用期間で。役に立たないとなればクビにされる。この期間に、私がこの仕事に向いているってことを示さなきゃ。そうじゃなきゃまた……。
「頑張ります!」
勢いよく返事をして襖に向き直る。
まずはどうにかして中に入らなくちゃいけない。
恐る恐る襖に手をかけると、以外にもすんなりと開いた。
「し、失礼します」
「……何。あなたもさっきの男みたいに私を送りに来たっていうの?」
警戒しているような口調に、まずは心を開いてもらわなければと私は咳払いをする。少し落ち着いた口調で、それでもって安心してもらえるような柔らかい声で。
これはクレームの電話がかかってきたときにやっていた私なりの対処方法だった。相手がこちらに対して怒っていたり不満を感じていたりするときは、とにかく落ち着いてもらう。深呼吸一つしてもらえたら儲けものだけれど、なかなかそれは難しいからとにかくゆっくりゆっくり話す。すると、相手もつられて気づけば呼吸が深くなっていたりするのだ。
「ううん、違うよ。私はあなたと話がしたくて」
「話?」
私の言葉に反応する。瞬間、纏う気配がほんの少しだけ揺らいだ。想像もしてなかった言葉に、興味がわいたのかもしれない。
今がチャンスだ。
「そう。ね、中に入ってもいいかな?」
「……いいわよ」
まだ口調は固い。でも、部屋に入ることを拒絶されなかったから少しは受け入れてくれたんだと思う。
一歩、また一歩と人形に近づく。あと少し伸ばせば手が届く、というところまで来たとき、急に人形の感情が真っ赤に染まった。
今はここまでだ。
これ以上先は、彼女の中でまだ私に対しては踏み込ませることができない領域なのだと、そう判断して私は足を止めた。
「私の名前は夏原 明日菜。あなたは?」
「……おじいさまは私をロアンって呼んでたわ」
「そっか、私もロアンって呼んでもいいかな?」
「……お好きにどうぞ」
言葉は冷たいけれど、その口調は思ったよりもキツくなかった。もしかしたらおじいさんのことを思い出しているのかもしれない。
でも、おじいさんというのは誰のことだろう。もしかして、この人形の持ち主のこと……?
「ありがとう。じゃあ、ロアンって呼ばせてもらうね。ね、ロアン。あなたに名前をくれたおじいさまって誰のこと?」
「おじいさまは――バスチャンは私を作ってくれたの」
「バスチャン、さん?」
聞き慣れない名前に首をかしげる。ここの家の人は中村さんのはずだ。おじいさんからこの家を継いだと言っていたからもしかしたらそのおじいさんが外国の人という可能性もあるけれど……。
柘植さんを振り返ると、私が言いたいことがわかったのか首を振っていた。と、いうことはきっとここの家のおじいさんのことではないのだ。じゃあ、バスチャンさんとはいったい?
「あなた変わってるわね。今まで誰も私の話なんて聞きたいとなんて言わなかったわ。でも、いいわ。教えてあげる。特別よ? おじいさまはね、私のことをずっと大事にしてくれてたの。可愛いって言ってくれてまるで本当の娘のように愛しんでくれたわ」
そんな私の疑問なんて気にもならないように、目の前の人形――ロアンはバスチャンさんの話をする。心なしか嬉しそうに見えるのは、もしかしたらこんなふうにバスチャンさんの話を誰かにしたかったのかもしれない、
「バスチャンは他の子たちみたいに私を売りに出すことはなかったわ。海の見える家でいつだって私たちは一緒だったのよ」
海の見える、家?
私はロアンの言葉に引っかかりを覚えた。
おかしい、ここは京都だ。そりゃあ北部の方まで行けば海に面しているからそういうこともあるかもしれない。けれどここは京都府京都市、周りを他の市に囲まれた内陸の地だ。川はあっても海なんてあるわけがない。
「ね、ねえロアン。聞いてもいい?」
「……なあに?」
バスチャンさんとの思い出を語っている最中に私に横槍を入れられてロアンの周りに一瞬、不機嫌な雰囲気が漂う。
「うっ」
その雰囲気に怯みそうになる。「なんでもないです」と、間髪を入れず言ってしまいそうになる。だってきっとロアンはおじいさまの話をもっと聞いてほしいと思うから。今まで誰にも話せなかったおじいさまの話だ。こんなにも嬉しそうに語っているのを邪魔して不機嫌になってしまったら……。
「あ……」
そこまで考えて、私はテレオペ中に電話の向こうでお客様が不機嫌になったときのことを思い出した。空気を読んで、といえば聞こえはいいけれどお客様の嫌がることをなるべく言わないようにしていた。でも、それはお客様のためじゃない。私自身がお客様から罵倒されたり小言を言われたりしたくなかったからだ。
これじゃあ……今までと一緒だ。
私は深く深呼吸をすると、ロアンに向き直った。
「教えてほしいんだけど、おじいさまと一緒にいた海の見える家っていうのはこことは別のところなの?」
私の問いかけに――ロアンの怒りの感情が大きく膨らむのがわかった。