5-1
祇園祭が終わりを迎え、八月になった。相変わらず観光客や夏休み中の学生達で溢れた街で、私は今日も無幻堂へと向かう。
曲がり角を曲がると、四条通の喧噪から一瞬で静寂へと変わる。この瞬間が私は好きだった。
祇園祭のあの夜、柘植さんとの距離は随分縮まったような気がしていた。けれど実際は。
「おはようございます」
「おはよう」
「あら、明日菜。おはよう」
玄関の扉を開けると、仏頂面の柘植さんと詩さんの姿があった。どこかへ出かけるところなのか、柘植さんはいつものように真っ黒な着物、それに濃紺の羽織を着て、さらにお焚き上げセットの入ったリュックを持っていた。
「送魂ですか?」
「ああ」
「私も――」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないんですけど」
言わなくてもわかる、とでも言いたげな表情で私を見ると柘植さんはため息交じりに言った。
「詩の仕事を手伝っとけ。俺は出る。午後には戻ってくる予定だ」
「……はーい」
玄関の扉が閉まるまでその背中を見送ると、私はため息を吐く。ジロウちゃんの一件から柘植さんの態度がおかしい。おかしいというか、過剰に過保護というか。
あの日から、柘植さんは私を人型や人形の送魂に関わらせてくれなくなった。数が少ないから、とかもう終わったとか言って私を送魂から遠ざける。結果として私の仕事は詩さんがする予定のぬいぐるみ達を部屋に持ってきたり、お焚き上げの準備をしたりするだけとなった。
本当に仕事がないのなら仕方がないけれど、柘植さんの様子を見るにそんな感じでもない。だから余計にモヤモヤするのだ。
でも、原因が私の不注意による霊障だとわかっているから何も言えずにいた。
「ま、気を落とさずにね」
「ありがとう」
足下で慰めるように言う詩さんに微笑みかける。
させてもらえないものは仕方ない。今は兎に角、自分にできることを一つ一つするしかないんだから。
「じゃあ、やろっか」
「そうね」
私は詩さんと一緒に奥の部屋に行くために歩き出した。そのとき――。
「おはよう! 久しぶりやなぁ」
「え、あれ? 律真さん?」
「なあに、律真。どうしたの?」
玄関の扉を勢いよく開けて表れたのは、柘植さんのお兄さんである律真さんだった。派手な金髪に高そうなスーツを着崩してアクセサリーをじゃらじゃらつけている律真さんが柘植さんのお兄さんだなんて今も信じられない。
律真さんは人の良さそうな――ううん、人を誑してそうな笑顔を浮かべると、玄関框に座った。
「悠真おる? ちょっと頼みたいことあるんやけど」
「柘植さんなら今、出てて。お昼を過ぎないと帰ってこないって言ってました」
「マジかー。って、なんや明日菜ちゃん置いて行かれたんか?」
「うっ」
図星すぎて思わず言葉に詰まる。そんな私を、ふうん? という表情で見た後、律真さんは詩さんの方を向いた。
「何があったんや?」
「少し前に明日菜が霊障を受けちゃって。それで」
「ああ、そういう。あいつにも困ったもんや。けど、参ったな。悠真おらへんのか。うーん、どないしよかな」
「何かあったんですか?」
困り果てたように言う律真さんに私は声をかける。すると律真さんはパッと表情を明るくして私を見た。
もしかして、今の困っていたのは演技だったのだろうか。感情がいつも真っ白の柘植さんと比べて、律真さんの感情の色は上手くつかめない。限りなく透明に近くて、それでいて色々な色があるようにも見える。不思議な色だ。
「なんや、えらい見つめて」
「見つめてないです! そ、それで何が参ったなんですか?」
「ああ、それ? ……せや、明日菜ちゃんに頼むわ」
「え、な、なんの話ですか?」
名案を思いついたとばかりの律真さんの隣で、詩さんがやれやれとでも言うかのようにため息を吐いた。
話についていけていないのは、おそらく当事者である私だけ。
「だ、だからなんの話ですかって」
「一件、送魂頼まれてくれへん?」
「は?」
聞き返した私の目の前で、律真さんは満面の笑みを浮かべていた。その隣で詩さんがもう一度ため息を吐いたのが見えた。
律真さんに言われた言葉をもう一度、反芻する。私の聞き間違いでなければ、今律真さんは私に送魂の依頼をした。いやいや、そんなまさか。柘植さんがいるならまだしも私一人で送魂なんてできるわけがない。と、いうことはきっと何かの聞き間違いだ。
「えっと、上手く聞き取れなかったのでもう一回言ってもらっていいですか?」
「そやさかい、明日菜ちゃんに送魂を頼んでるんや。明日菜ちゃんもこの店の従業員やろ?」
「そ、それはそうですけど。で、でもまだ試用期間ですし」
「そんなん客には関係ないやろ」
そう言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。そんな私に律真さんはニヤリと笑う。そして鞄の中から何かを取り出すと、私に差し出した。それは、どこか懐かしさを感じるマリオネットだった。真っ赤な帽子を被り、チェックのシャツを着たその子はくりっとした目をこちらに向けた。
「そない難しいことやない。こいつの話を聞いたってくれたらええんや。明日菜ちゃん一人で不安やったら詩もおるやろ」
「でも、柘植さんに言わずに勝手なことをするのは……」
「せやけど明日菜ちゃん、悠真に送魂を止められてるんやろ? これはええチャンスちゃうか?」
「チャンス?」
その甘い響きに思わず聞き返してしまう。隣で詩さんがやめときなさいよって表情を浮かべているにもかかわらず。
そしてそんな私に、律真さんは相変わらず人誑しな笑顔を浮かべたまま話を続けた。
「せや。今の悠真は明日菜ちゃんが心配でしゃあないんや。せやから明日菜ちゃんが一人でもやれるってところを見せたら悠真も安心して送魂を任せてくれるようになるやろ」
「…………」
「ちょっと、明日菜。こいつのいうことに耳を貸しちゃ――」
「そっか! そうですよね!」
私は大きく頷くと、差し出されたマリオネットを受け取った。
「こんにちは。名前はなんていうの?」
「……マリオ」
マリオネットのマリオはぶすっとした表情を浮かべていた。赤い感情を纏ったマリオはどうやら何かに怒っているようだった。
「そっか。私は明日菜だよ。ねえ、マリオはどうして怒ってるの?」
「……だって、僕はまだやれるのに。全然壊れてないし、もっともっと子ども達を楽しませられるのに、なのにみんなしてもう僕はお払い箱だって言うんだ。どうして? 僕はもっと、もっと!」
マリオの大きな目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。悔し涙を流すマリオはきっと自分の仕事に誇りを持ってたんだ。なのに、納得しないままお焚き上げに送られて怒っている。その気持ち、私には凄くわかる。柘植さんが心配してくれているのはよくわかってる。けれど、だからと言って仕事をまともに与えられずにいると本当に私はここにいていいのかわからなくなる。自分の居場所が見つけられなくて不安になる。
「そっか、それは悔しかったね」
「っ……わかって、くれる?」
「わかるよ。私も今似たようなものだから。でもね、今あなたがここにいるのはきっと今まであなたがたくさんの人に愛されたからだよ」
「愛……?」
「そう。そうじゃなければわざわざお炊き上げになんて送らないよ。燃えるゴミでも粗大ゴミでもなくて、お焚き上げのためにわざわざ送ったのは、あなたがあの世で幸せになれますようにっていう持ち主の人からの最後のあなたへの贈り物だと私は想うよ」
そうであって欲しいと、そういう想いを込めて私はマリオに気持ちを伝える。
私の言葉に、マリオはしばらく考え込むように黙ると、ふにゃっとした笑顔を浮かべた。そこにはもう怒りも不安もなく、ただただ幸せそうなマリオの姿があった。
「そっか、それなら仕方ないなぁ。僕が幸せになることがあの人の最後の願いなら、それを叶えない訳にいかないもんね」
そう言うと、マリオの身体はまるでそれ自体が発光体であるかのように光り出した。
「ありがとう、優しい気持ちを思い出させてくれて」
「そんなこと……」
「さようなら、送魂屋のお姉さん」
「っ……」
そしてマリオの姿は、光の中に消えた。残るのは、もう動くことのないマリオネットの人形だけ。