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そして翌日、土曜日。この日の京都は――ひっっじょうに混んでいた。夏休みだとか平日でも混んでるだとかそんなことを思っていた自分を笑い飛ばしたい。朝から電車は満員で、座ることはおろか立って乗るための隙間を確保するので精一杯だ。私が乗る茨木駅からは特急・快速急行・準急・普通と出ているのだけれど、普段は時間がかかるのでガラガラの普通まで人でいっぱいだった。こんなにもたくさんの人が京都に、おそらく祇園祭に行くということに恐れおののく。
これは冗談抜きに諦めて帰った方がいいのかもしれない。とにかく消毒をしてくれると言っていたからお店までは行こう。そのあとのことはそれから考えよう。
電車の中も人は多かったけれど、電車から降りてからも人と人の隙間を進んでいく。たいていの人は四条大橋を渡るとそのまま祇園方向に四条通を進んで行くので、そこを左に曲がるとようやく人の波から解放された。
「し、しんどかったぁ」
あの人混みの中では息をすることも苦しくて仕方がなかった。ふうっと一息吐いて、私はお店への道のりを歩く。
もともと、こちらの道は観光名所になるようなところもなくメイン通りからは少し外れていた。それでも今日はあちこちに人がいるのだから祇園祭の効果というのは凄い。電車で後ろに立っていたカップル曰く、今年は宵山の先祭と土曜日が重なっているのも大きいらしい。
「こんにちはー」
いつもの出社時間よりも遙かに遅く、こんにちはというよりはこんばんはに近い時間だった。出迎えてくれた詩さんは意外そうな顔をした。
「あら、今日は休みの日なのにどうしたの?」
「柘植さんから消毒をするから来るようにと言われて」
「悠真が? へぇ?」
詩さんはおかしそうに笑う。その笑いの意味がわからない私は、首をかしげながら詩さんに問いかけた。
「柘植さんいます?」
「悠真ならそこの部屋にいるわよ」
「ありがとうございます」
いつもの部屋を指さされ、私はお礼を言ってお店に入った。そっと襖を開けると、柘植さんはいくつかの人形を前に読経をしている最中だった。そうだ、私は土日祝休みという条件で仕事をしているけれど、全国各地から送られてくるお焚き上げを希望する人形達は土日だろうが祝日だろうが構わず届くのだ。そんな中、私の消毒のために手を止めさせるのは申し訳ない。
開けた襖をそっと閉めると、私は詩さんを振り返った。
「忙しそうだから、やめとこうかなって」
「ふうん? じゃあ、ちょっと腕を見せてみなさいよ。あたしが代わりに見てあげるわ」
「え、あ、はい」
詩さんの言葉に、私は羽織っていたカーディガンを脱いで、右肩を露出した。消毒してもらいやすいようにカーディガンの下にはノースリーブのワンピースを着ていた。
「あら、随分と綺麗になったじゃない」
「ですよね! やっぱりあの聖水って凄いですね」
「そうね。これなら、もう消毒しなくても大丈夫よ」
「ホントですか? よかったぁ」
仕事の邪魔をしなくていいことにホッとする。私の不注意で負った怪我のせいで、休みの日まで働いている柘植さんの手を止めさせるのは申し訳ない。
「じゃあ、私帰りますね」
本当は詩さんを誘って祇園祭に行こうかと思っていたのだけれど、柘植さんが仕事をしているということは必然的に詩さんも仕事をしているだろう。それを邪魔するわけにはいかない。
「悠真に声かけなくてもいいの?」
「はい。それじゃあ、また火曜日に」
頭を下げると、私はお店を出た。
さて、今から目星をつけていたお店に行こうか。でも、今日はさすがにどこに行ってもいっぱいだろうなぁ。と、なると本に載っていない名店を探すべき?
色々と考えながら、四条通に向かって歩いていると後ろから、誰かに手を掴まれた。
「えっ」
驚いて振り返るとそこには――知らない男の人が二人立っていた。
お酒くさい……。
まだお夕方だというのにすでに酔っ払っているのか、赤い顔に酒臭い息を吐きながら、その人は私の腕を掴んだままニヤニヤと笑っている。
ヤバい。
そう思ったときには遅かった。
「ねえ、お姉ちゃん。一人で祇園祭行くの? 俺ら一緒に行ってあげてもいいよぉ」
「け、結構です」
「結構です、だって。かぁわいいー。ねえねえ、可愛い格好してるのに一人じゃ寂しいでしょ? ほら、一緒に行こうよ」
「や、やめてください!」
必死に腕を振り払おうとするけれど、男の人の力には適わない。ギュッと握りしめられたままの腕が痛くて涙が出そうになる。
「あーあー、泣きそうになってんじゃん。ほら、こっちこっち。周りの人から見えないようにしてあげるからおいで」
「――離して!」
「おい」
私が捕まえられた手を振り上げるのと、その手を――柘植さんが掴むのが同時だった。
瞬間的に男達と私との間に入り、私の視界は柘植さんの背中で遮られた。その背中からは、真っ白の中に黒と赤が――威圧と怒りが混じっていた。
「柘植さん……」
ホッとして思わず名前を呼んだ。そんな私には構わず、柘植さんは目の前の男達に冷たく問いかけた。
「何やってんだ」
「あん? 兄ちゃん、誰だよ」
「邪魔すんなって。俺ら、この子と遊びに行くんだからさ」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男達の言葉に、柘植さんは私の方を振り返った。
「そうなのか?」
「ち、違います!」
「違うと言ってるが?」
必死に否定する私に一瞬視線を向けると、柘植さんは男達を睨みつけた。その迫力に、男達が怯むのがわかった。
「な、なんだよ。正義の味方気取りかよ」
「だいたい、お前この子のなんなんだよ」
「何って……」
「お前らに関係ないだろ」
それこそ『従業員だ』と言うのかと思ったのに、何故か柘植さんはぼかすような言い方をする。その口ぶりに、男達は何を勘違いしたのかヘラヘラと笑った。
「なんだよ、彼氏かよ。悪かったな、一人だと思って声かけたんだ。でも、そういうことはさっさと言えよな」
「そうそう。あーあ、時間無駄にした。もう行こうぜ。悪かったな、兄ちゃん」
「なっ、ちがっ……んんっ」
否定しようとした私の口を、柘植さんの手のひらが塞ぐ。男達は「あーあー、いちゃついちゃって」と囃し立てながら去って行った。
男達の姿が完全に見えなくなると、柘植さんは私から手を離した。
「ったく、何やってんだ」
「つ、柘植さんこそどうしてここにいるんですか? と、いうよりさっきの! 誤解されたままですよ!?」
「あんなやつらに誤解されたくらいたいしたことない。それよりも面倒なことにならなかっただけマシだろ」
「それは、そうですけれど」
けれど、私としてはなんとなく、こう胸の中がざわつくというか、上手く言えないんだけれどモゾモゾする。
まあ、柘植さんが気にしていないのであれば私がこれ以上気にするのもおかしな話なのだけれど。
「で、どうして柘植さんはここにいるんですか?」
「お前こそどうしてこんなところにいるんだ。店に来いと言っただろ」
「行きましたよ! でも柘植さんお仕事忙しそうだったから、詩さんが傷口を見てくれてこれなら消毒しなくても大丈夫だって」
「あの野郎」
「あら、失礼な言い草ね。あたしが教えてあげたから間に合ったんでしょう?」
どこからか表れたのか、ひらりと柘植さんの肩に飛び乗った詩さんがクスクスと笑う。そんな詩さんを鬱陶しそうに、柘植さんは手で払った。
二人揃っていったいどうしたというのだろう。
「あの、えっと」
「ふふ、悠真はね、あなたにお詫びがしたかったんだって」
「お詫び?」
「おい!」
「何よ、本当のことでしょう? 自分がついていながら怪我をさせてしまった償いをしたかったのよね」
本当ですか、なんて聞かなくても柘植さんの赤や紫が入り交じる感情を見ればその言葉が真実なのだとわかる。でも、私が感情を読み間違えている可能性もある。だって、そんな柘植さんが……。
「なんだよ、悪いか」
けれど、柘植さんが口にした一言で、詩さんの言葉が真実であると証明されてしまい、私は余計になんと言っていいかわからなくなる。だって、あの怪我は私の不注意であって柘植さんが悪いわけじゃない。完全に油断していたのだ。ロアンや女雛のことがあって私には人形達に訴えかけられる力があると。話せばなんとかなると。思い上がりもいいところだ。そんな私が怪我して、どうして柘植さんが責任を感じる必要があるのか。
「どうして……」
「跡、残らなくてよかったよ。悪かった。後悔してもしきれないことがあることを知っていたはずなのに、また同じことを繰り返すところだった」
私を見ているはずなのに、柘植さんの視線は私を通して誰か違う人を見ているようだった。
「柘植さん……?」
「ああ、いや何でもない。まあいい、行くぞ」
「え、行くってどこに」
「行きたがってただろ、祇園祭。一緒に行ってやるよ」
「お詫びって、もしかして……」
そのために、今日私に店へと来るように言ったのだろうか。お詫びに、私が行きたがっていた祇園祭を案内してくれるために。あんなに人が多くて嫌がっていたのに、私の、ために。
「ふふっ」
「なんだ」
「いえ、なんでもないです。行きましょうか!」
「いっぱい買ってもらいなさいよお。お詫びなんだから」
「おい!」
私たちは四条通へと向かう。そこは歩行者天国となっていて、たくさんの人で溢れていた。通りのあちこちに屋台が出ていて、たくさんの美味しそうな匂いが立ち込めている。
「あれ! あれ食べたいです!」
「豚まん? へえ、美味そうだな」
「あら、いいじゃない。あそこの豚まん美味しいわよ。買ってきてよ、悠真」
「……すみません、豚まん三つ」
屋台のおじさんから豚まんを受け取ると、私たちは通りの端の人が少ないところに移動する。柘植さんから受け取った豚まんは、頬張ると口の中に肉汁が溢れて熱いんだけどほっぺが落ちそうなぐらい美味しい。必死になってかぶりついてると、柘植さんが笑った。
「お前、子どもじゃないんだから」
そう言って私の鼻の頭についていた豚まんの欠片を取った。私は――。
「笑った」
「は?」
「柘植さんが、笑った!」
「お前、俺をなんだと思ってるんだ」
「だって、今まで笑ったところなんて見たことなかったですもん!」
そりゃあ苦笑いとかバカにして飯で笑ってる姿は見たことあったけど、だいたいいつだって仏頂面で今みたいに楽しそうに笑っている姿なんて見たことなかった。
だから嬉しい。なんだか、凄く嬉しい。
「そうかよ」
「そうですよ。これからはたまには笑ってくださいよ」
「嫌だね」
「ケチ!」
軽口をたたき合いながら私たちは祇園祭の夜を過ごす。
こんな夜もたまにはいいと、心からそう思いながら。