4-2
悔しい。何も言い返せなかったのが。そして、その通りでしかなかったことが。
この一ヶ月、何の役にも立ってなかったとは思わない。いくつか送魂もしたし、随分と一人でできることも増えた。でも、それでも柘植さんや詩さんの足下にも及ばないのは事実で。私にできることなんて、柘植さんでも詩さんでもできる。でも、二人ができなくて私にできることなんて、何一つとしてないんだ。
「あの……」
「っ……すみません、お見苦しいところを見せて。きっとジロウちゃんは柘植さんがきちんと送魂してくれると思いますので」
涙を堪えると、必死に微笑む。でも、堪えきれなかった涙が目尻から伝い落ちる。慌てて下を向いた私の頭上で、大峰さんの声がした。
「……それで、いいんですか?」
「…………」
いい訳ない。いい訳がないけれど、でも、実際私が役立たずなのは事実で。柘植さんがやると言った以上、これ以上私がここにいてもできることは――。
「あなたはジロウちゃんが辛そうだと悲しそうだと言ってましたよね。あれはどうしてですか?」
「どうして、というか……ジロウちゃんの感情が悲しみを表す色をしていたから。それだけです」
「他には? 何かわかったことはありませんか?」
「……怒りしかないってジロウちゃんは言ってましたけど、あの言葉を言った瞬間、後悔とそれから泣きそうな気持ちが伝わってきました。もしかしたらジロウちゃんは持ち主の人に捨てられたと思っているのかもしれません。だからずっと、悲しくて、それで寂しかったのかも」
「そう、ですか」
大峰さんは辛そうに天を仰ぐ。何かを思い出すかのように。
「あの……?」
「ああ、すみません。ジロウちゃんの持ち主のことを思い出していて」
「持ち主、ですか?」
大峰さんは頷くと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ジロウちゃんの持ち主――園部は俺の幼なじみで、名前を太郎と言いました。福祉施設や子ども病院を回ってお年寄りや子ども達にジロウと一緒に腹話術をして楽しませていたんです」
幼なじみということは、ジロウちゃんの持ち主だった園部さんという方もそう年は変わらないだろう。なのに、大峰さんが彼のことを話すときに全て過去形で話すのが妙に気になる。
「その人は、今……」
そんな私の中の不安を否定してほしくて、あえて尋ねた私の問いかけに、大峰さんは小さく首を振った。
「五年ほど前に、癌で」
「そんな……!」
「あいつは俺にそれを知らせることなく、ただジロウを頼むと言って持ってきたんです。まさかそんなことになってるなんて知らず、預かるだけだと思っていたのに、なのに……」
大峰さんの足下に、小さなシミができる。今、彼がどれほどの悲しみの中にいるか、感情の色を見なくたってもわかる。五年も前のことをまるでつい昨日のことのように言う彼は、きっとジロウちゃんと同じぐらい園部さんのことを想っていたのだろう。
そんな彼に、私ができることはなにかあるだろうか。柘植さんや詩さんのように、特別な力を持っていない私に――。
「園部、さんは」
必死に言葉を選んで、私は目の前で深い傷を負っている大峰さんに届くように声をかけた。
「園部さんはきっとジロウちゃんを弟のように想っていたんじゃないでしょうか」
「……え?」
「ほら、園部さんの名前は太郎だって言ってたでしょう? 太郎は長男に、ジロウは――次男につける名前ですし」
「そう、かもしれないですね」
「そんなジロウちゃんを、自分が亡くなったあと託せるのは、きっと大峰さんしかいないってそう思ってジロウちゃんを大峰さんに預けたんだと思います。自分の大事な弟分を、大峰さんならきっと大切にしてくれると思って」
「うっ……うぅっ……」
大峰さんは涙を流す。嗚咽混じりの泣き声を聞きながら、私はそっと背中をなで続けた。
大峰さんが落ち着いた頃、そういえば柘植さんが入ったまま室内で物音がしていないことに気づいた。ジロウちゃんはどうなったのだろう。
話しかけても、いいものか。
一瞬、躊躇したけれどもしかしたら柘植さんの身に何かあったのかもしれないと思い、私はドアをノックした。
「あの、柘植さん。大丈夫ですか?」
「……入ってこい」
「え、あ、はい」
恐る恐るドアを開けるとそこにはジロウちゃんを見下ろすように立つ柘植さんと、そしてその足下で静かに涙を流すジロウちゃんの姿があった。
「え、ど、どうしたんですか?」
「……僕、ずっと捨てられたんだと思ってたんだ。太郎にはもう僕はいらないんだって、だから大峰のところに行けってそう言われたんだと思って。でも、そうじゃなかったなんて」
「ジロウちゃん……」
「ずっとずっと悲しかった。ずっと寂しかった……でも、僕は捨てられたわけじゃ、なかったんだね」
「当たり前だろう! 太郎はずっとジロウちゃんのことを大事にしていた! それはジロウちゃんが一番よく知ってるだろう!」
大峰さんの言葉に、ジロウちゃんはボロボロになった頭でなんとか頷いた。その拍子に、右腕が外れて床に転がってしまったけれど、気にすることもなく。
「おい」
「え?」
それまで黙っていた柘植さんが唐突に口を開いた。ジロウちゃんはビクッと震え、左肩まで崩れ落ちてしまう。
そんなジロウちゃんに柘植さんは言う。
「人形やぬいぐるみのうちお焚き上げに出されるものがどれだけいるか知っているか?」
「え、し、知らないけど」
「お焚き上げに出されるよりもはるかに多くのぬいぐるみや人形たちが燃えるゴミや粗大ゴミとしてゴミの日に出されている。こんなふうに俺たちみたいなやつに依頼して供養してくれって言ってくる人間の方が稀だ」
柘植さんの言いたいことがわかった。
「だからな、お前はちゃんと愛されてることに気づけ。前の持ち主にも、それから今の持ち主にも」
「……あぁ」
ジロウちゃんはそこでようやく大峰さんの方を向いた。もうボロボロで身体のパーツはほとんどなくなってしまったけれど、ギョロッとした目で大峰さんを見つめて、そしてその目から涙を流した。
「太郎がいなくなってから、僕はずっと大峰と一緒だった。子ども達が僕の服を破ったときも、腕を引っ張って抜けてしまったときも、いつだって大峰が治してくれた。猫に耳をかじられたときも、犬に椅子から落とされたときも、いつも、いつも」
「ジロウちゃん……」
「ずっと一緒にいてくれたのに、僕は……僕は……」
「ジロウちゃん!」
私の横をすり抜けると、大峰さんは泣きじゃくるジロウちゃんのボロボロになった身体を抱きしめた。
「俺こそ、今までずっと一緒にいてくれてありがとう。もう俺は大丈夫だから。あっちで、きっと園部が待ってる。早く、会いに逝ってやって」
「大峰……。ありが、とう」
そう言うと――ジロウちゃんの身体は、力を失ったようにその場に崩れた。あとにのこったのはぼろきれとなった布と、崩れ落ちた身体のパーツ、それからもう開くことはないあの二つの目を宿した顔だけだった。