3-2
四条河原町のバス停から二条駅前までバスに乗り、さらに二条駅からJR山陰本線に乗る。電車で十分ほど揺られるとJR嵯峨嵐山駅に着いた。
「わー、ここが嵯峨野! 竹林の道と豆腐で有名な嵯峨野! ……でも、なんだか」
駅を出て辺りを見回した私は、想像と現実のギャップに言葉を失う。なんというかこれはピラミッドで有名なエジプトに車が走って高層ビルが建っているのを見たときと似ている。背中に背負ったリュックサックにはお焚き上げの準備の代わりにあの女雛を入れてある。
「私を鞄に入れるなんて!」と、お怒りだったけれど雛人形を持って電車やバスに乗ったらそれこそ周りから変な人だと思われてしまう。ただでさえ柘植さんの容姿は人目を引くのだから、これにさらに好奇な視線まで向けられてはたまらない。
それにしても。
私は当たり前のように車が走り、たくさんの住宅が建ち並ぶ嵯峨嵐山駅の周辺を見て思う。
「嵯峨野ってもっとこう、山と竹に囲まれてるイメージでした」
「残念だったな」
「あっ、待ってください」
スタスタと歩いて行く柘植さんの後ろを慌ててついていく。イメージよりもずっと嵯峨野は観光地だった。平日だというのにたくさんの人がいて、ロータリーにはタクシーを待つ人の列ができていた。
それとは別に駅を出て右手にある建物に入っていく人もたくさんいた。
「柘植さん、あっちは何があるんですか?」
「トロッコだ。嵐山まであれに乗っていけるぞ」
「嵐山! 渡月橋ですね! 本わらび餅のお店があって一度行きたいって思ってたんです!」
「お前の頭の中は京都の観光案内でも入ってるのか?」
「はい!」
勢いよく返事をした私に、柘植さんはあからさまなため息を吐く。何か変なことを言ったのだろうか?
どうかしたんですか、と尋ねようか迷っているとその間にも柘植さんはどんどんと歩いて行く。どうやら少し向こうに見えるバス停に向かっているようだ。そういえば、と私は尋ねることをやめて、代わりにこの間から思っていた疑問を口にした。
「柘植さんは車を運転しないんですか?」
「どういう意味だ。身分証明としての運転免許証は持ってるぞ」
「この間から移動の度にバスや電車を使ってるなって思いまして。車で移動したりしないんですか? あ、別に電車やバスが嫌って意味じゃなくて普通に素朴な疑問です」
「お前はバカか」
「なっ」
そう言い放つと、柘植さんはやってきたバスに乗る。慌ててその後ろを追いかけると隣に並んだ。車内は観光客の人でいっぱいだ。それにバスの窓から見える道にもたくさんの人が歩いているのが見える。
「車で来るとな、あの中を走るんだ」
窓の先を見ながら柘植さんは言う。
「京都の街中は観光客で溢れてる。左折しようとしたら横断歩道を渡る人の多さに曲がるタイミングを見失うこともあるほどだ。今じゃあ随分と歩車分離の交差点も増えたがそれでも土日だと思いも寄らないところに人が大量に押し寄せたりするからな。そんな恐ろしいところを車で走ろうとするやつの気が知れん」
「はあ」
「と、いうことで俺はよっぽどの郊外に行くとき以外は車には乗らない。わかったか」
「わ、わかりました」
確かに、この中を車で走らせるのはちょっと。いや、かなり怖い。信号のない場所を突然横断されたりするから余計にだ。
「ところで今から向かうのは――」
「だから俺の実家だ。山の方にあるからバスを降りて少し歩くぞ」
柘植さんの言葉通り、私たちは鳥居本というバス停で降りると山の中を進んでいく。初夏だというのにひんやりとしているのは生い茂る木々のせいなのか、それともどこか神秘的な雰囲気のせいなのか。
そういえば、実家に男雛があるということはあの女雛は柘植さんの家のものだということだろうか?
それぐらいなら聞いてみてもいいかもしれない。
「あの、聞いてもいいですか」
「実家のことか?」
「え、あ、はい」
思わず反射的に返事をしてしまう。違う、と否定してもよかったのだけれどつい、うっかり、気になって。
でも別に嫌がっている雰囲気はなく、いつもと変わらず柘植さんが纏う感情は真っ白なままだった。いったい何を考えているのだろう。
「朝、うちに荷物が届くだろう。あの送り元が柘植寺って書いてるの気づいてたか?」
「はい」
「だよな、まあ気づくよな。あれ、うちの実家。俺は寺の三男坊で、今は親父と長男が寺をやってる。そこに送られて来たお焚き上げ用の人形やぬいぐるみのうち、本当に魂が宿っててヤバいやつが俺のところに送られて来てる」
「そうだったんですか」
「だから男雛が実家にあるんだ」
「あっ」
ようやく話が繋がった。つまりあの女雛は柘植さんの実家のものではなく、柘植さんの実家にお焚き上げの依頼の品として送られて来たものだったのだ。
「だから男雛は実家にあるって言ってたんですね」
「ああ。ただ昨日発送されたものだからな。まだお焚き上げをされてないといいんだが」
「連絡とかはしなかったんですか?」
「したんだが、出ねえんだ。機械音痴の親父とすぐに機械を壊す筋肉馬鹿な長男は当てにならないから次男に連絡したんだが」
「機械音痴に筋肉馬鹿……凄い単語が並んでますね」
柘植さんのご家族、と言われて思い浮かぶのがどちらかというと神経質とか繊細そうとかそういうイメージなのに180度真逆で上手く想像ができない。そもそもすぐ機械を壊すってどういうこと? しかも筋肉馬鹿って言われると物理的に壊しているような雰囲気なんだけどまさか。いや、まさかね。
「ちなみに今お前が想像したそのまんまだと思うぞ」
「物理的に機械を壊すんですか!?」
「スマートフォンになる前のガラケーのときにパカッて折りたたむタイプのがあっただろ。あれが真っ二つになったのを見た回数を俺は覚えてない」
「う、うわ」
「スマートフォンになってからは画面をバキバキどころか本体ごとバキバキにしたこともあったぞ」
「凄すぎて笑っていいのかどうかわからないです」
苦笑いを浮かべることしかできない。
「ちなみに機械音痴のお父様というのは……」
「そっちは兄貴よりはまだマシだ。かろうじて壊すことはない。ただ壊滅的に機械が苦手で未だに実家は黒電話。あの人の頭の中じゃあポケベルぐらいで止まってるんじゃないか」
「ポケベルってなんですか?」
「……すまん、忘れろ」
聞き慣れない単語に、思わず聞き返した私を柘植さんは頭痛を堪えるように頭を押さえる。そんな変なことを聞いたのだろうか。
「そうか、平成生まれはポケベルを知らないのか」
「PHSならわかるんですが。と、いうか柘植さんっていくつです?」
「34歳だ」
「あ、ギリギリ昭和生まれなんですね!」
「なんだろな、改めて言われるとこの辺が重くなるのは」
柘植さんは胸の辺りを押さえると眉間に皺を寄せた。
でも私はそんな柘植さんとは裏腹にどこか気持ちがウキウキしていた。こんな風に家族のことを話してくれると思わなかったから。実家という自分のテリトリーが柘植さんの口を軽くしているのかもしれない。だからつい、口が滑ってしまう。
「でも、柘植さんってご家族と仲がいいんですね」
「……んなことねえよ」
「あっ」
地雷を踏んでしまったようだ。一瞬で、柘植さんの纏う感情の色が濁っていくのがわかる。そしてそれを裏付けるようにさっきまであんなに軽く話していた柘植さんは黙り込むとそのまま歩いて行ってしまう。その後ろ姿が、これ以上深入りするなと言っているようで、私は思わず足を止めた。
どこの家庭にも多かれ少なかれ何かはあって、私だって家族とのことを聞かれたらどう答えていいかわからないのに。なのに浮かれてあんなことを気軽に言ってしまうなんて。
「失敗したなあ」
「そうですわね」
「え?」
呟いた独り言に思わぬ方向から返事が来る。それは私の背中に背負ったリュックの中からだった。そういえば、この人を連れていたのを忘れていた。
リュックサックを地面に下ろし、ファスナーを開けると飛び出すようにして女雛が外に出てくる。ずっと入れていたことを怒っているのか、わざとらしく着物の皺を直している。
「あなたね、もう少し丁寧に運んでくださらない!? 本当に、どういう神経をしているのか疑いますわ」
「はぁ」
「だいたいね、殿方に対してもそうですわ。あなたには繊細さですとか気配りが足りてないのです」
「うっ。それは」
あまりの正論に二の句が継げない。いや、普段はそんなことない、とかいつもならもっと人の顔色や空気を読むのが得意だとか言いたいことはあったけれど、柘植さんに対して踏み込みすぎて嫌な気持ちにさせたのはその通りなので何も言えない。
「…………」
「でも、まあ」
黙り込んでしまった私をフォローするように女雛は口を開いた。
「あの方も少し心が狭すぎですわね。男児たる者、女子の言葉ぐらい軽く躱して頭を撫でるぐらいの余裕がないといけませんわ」
「人形に男女のいろはを説かれるなんて」
「人形とバカにしないでくださいまし」
ピシャッと手のひらを手に持った扇で叩かれる。
「なっ」
「だいたい――って、あら?」
「え?」
「あなた、ここから先の道のりを知っていらして?」
「知ってるわけないじゃない。ここは初めて来た場所だし、道案内は柘植さんに任せてて――あっ」
女雛の言いたいことに気づいて私は青ざめる。女雛と言い合う前は少し離れたところに見えていた柘植さんの後ろ姿が今は完全に見えないのだ。
この先が一本道であれば大丈夫だけれど、ここに来るまでにも何回か分岐点があった。ここから先も全くないということはないだろう。
「どうしよう……」
「あなたって本当に馬鹿ね」
「だ、だってあなたと話してたから」
「私のせいにしないでくださる? それよりも、早く追いかけた方がいいのでは?」
「ぐっ」
正論に言葉を失う。仕方なく私は女雛を手に歩き出した。