1、逃避行
私は、無力だった。服はボロボロ、見た目は汚れていて、社会の中に居場所など存在していなかった。いつもの場所に何をするでもなくじっと座って絶え間ない時の流れを肌で感じ取っていた。まるで世間という時の流れから解放されたかのように、私のいる場所だけ時が過ぎる速さが隔離されているかのようで、いささか不気味だとは思ったが、思ったところで私にはどうすることもできなかった。
古風な街並み。位の高そうな人々。庶民の活気にあふれた声。すべて私とは無縁であったが、こうして座って世の中を冷めた目で見ていられるというのはなかなかに面白いのだなと、少なくとも私はそう思っていた。毎日の暮らしなんて考えていない。不思議と腹は空かず、生き永らえてはいたが。
この生活を脱したかった。しかし同時に、この生活を永遠のものにしたかった。どうせならこの町で野垂れ死に、上から街を見下ろしているのもまあ悪くはないだろうとは思いながら、やはりどこかにこの状況を嫌がっている私がいたのだろう。
「僕と一緒に、逃げてください。」
真っ直ぐな光を目に宿した一人の少年の頼みを、私は断ることが出来なかったのだから。
頭上には灰色が広がっていて、足元にも石畳の灰色が続いていた。人々はみな来るかもしれない雨に備えながら、いつも通り過ごしていた、ように見えた。私は何もしないでただ佇んでいた。誰も私など見はしない。誰も私に話しかけない。いることは認識していても、まるでそこに何もないかのようにふるまっている。そう、言うなれば私は人々から存在を特に何も思われてはいないのだ。道端の石ころを、いちいちじっくりと眺める人はまずいないだろう。「足元を見てください、石が落ちているでしょう?」などと言われれば、おそらく大概の人が「だから何だというのです?」のような返事をすることだろう。
それだけ、あの少年の誘いは奇怪なものだった。
「僕と一緒に、逃げてください。」
幼さの残る声とは裏腹に、その言葉には強い意志が感じられた。見たところ私よりも年下の上流階級の子供らしい。身なりは整っていて、身にまとっている雰囲気が明らかに「庶民」とは違うものを持っていた。私は何か返事をしようとしたようだが、どうやらずっと存在を忘れられている間に喋り方を忘れてしまったらしい。口からは何の音も出なかった。少年は何も言わず、微笑んでから私の腕をつかむ。一瞬驚いたように見えたのは、何も食べていない私の腕がまるで枯れ枝のように細かったからなのだろう。掴まれた腕をまあ優しくとはいいがたい力で引っ張っていく。喋れないせいで、いったい少年が何を思っているのか、私たちはいったいどこに向かっているのか、わからないことばかりだった。
いつもの場所からだいぶ離れた細い路地で、ようやく少年が立ち止まった。私も少年も、息は切れていない。
「今の確実にみられてたよな……」
など、少年はしきりに何かを呟いている。私はいろいろなことを質問しようとして、声の出ないのを思い出した。しかしその様子を少年は察したらしい。
「そういえば、挨拶をしていませんでした。私は、 と言います。」(なぜか名前は忘れてしまった)
「いきなりこんなところまで連れてきてしまい、申し訳ありませんでした。実は私は、親から逃げているのです。今にも追手がくるでしょう、先程の光景は必ず誰かに見られています。ということは、追っ手がここを見つけ出す可能性も十分にあるというわけです。」
少し興奮しているのか、早口でまくし立てる。なぜ私を選んだのか、どこまで逃げるというのか、聞きたいことはまだ山のようにあったが、少年はまたすぐに私の腕をつかんで走り出してしまった。
気づいたら、もう周りに見覚えのあるものなどなかった。同じ街のはずなのに、異世界のような違和感を覚える。しかし同時に既視感のようなものも覚えていた。
「一度休みましょう。」
少年がそういい、物陰に隠れる。しばらくあたりを見回してから、追っ手の来ないのを確認すると、ようやく安心したような顔をした。
(いったいどこまで逃げるというの?)
この疑問は心の中で言ったはずだったが、口から出てしまっていたのか、それとも察したのか、少年がこちらを向いてこういった。
「私と貴方の、安息の地を見つけるまでです。」