第四話 蚕
顔中の穴という穴から蛆のようなものを産み続けていた男は、途端に糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。体中を痙攣させ、既に取り返しのつかない状態であろうことは、見て取れた。
あまりの衝撃とこの世の物とは思えない光景に、少しだけ、俺は冷静さを取り戻していた。
きっと何かしらの撮影でのワンシーンなのだろう、と。
しかし、生まれ落ちた蛆のような幼虫が奇声を発し、地を這いながらこちらに向かって来たのを目の当たりにした時、そんな淡い期待はうたかたと消えた。
全速力で来た道を引き返し、階段の踊り場に出たとき、またも、人影と遭遇した。先程の光景を思い浮かべ、恐る恐るその人影の顔を確認するが、やはり、顔のいたるところから蛆の華を咲かせていた。
こみ上げてくる胃液を気力で押し返し、なるべく近づかないように姿勢を低くして駆け抜けようとした時、パリッという何かが破れる音が聞こえた。
断続的であったその音は、次第に一繋ぎの音へと変わり、何かが、破裂した音に転じた。
その音の出どころは、言わずもがな先ほどの人であった。【人】と、もはや形容していいのかはわからないが。
その、かつて人であったモノは背中から大きな羽を生やし、あたり一面に粉のようなものを散布していた。
「あああがあがあぁ......ぁああ」
口からおちる涎はただ重力に従い、足元に溜まりを作っている。白目をむき、耳からは血と共に蛆虫が止めどなく溢れていた。
「おぇ......ええ゛」
今まで我慢していたが、流石にこの光景には耐えきれなかった。
ここは夢なのか?俺はついさっきまで日常を甘受していなかったか?止めどなく流れ出る胃液に喉を傷めながらも、何とか助かりたい一心で声をあげる。
「だれ゛が!!たす...たすけで!!」
だれでもいい!ここはきっと地獄なんだ。俺が生きていた世界とは違うどこかなんだ!
声をあげた途端、静止していた先ほどの羽の生えたヒトが、おぼつかない足取りでこちらに迫ってきた。情けないことに、足は薄情にも他人の足だとでも言うように、ぴくりとも動かなくなっていた。
迫りくる異形を、現実を拒絶したいが為に、瞼を強く閉じた。
あぁ、ごめん婆ちゃん。父さん。母さん。そして姉さん。どうにもこういった事に巻き込まれやすいらしい。せめて、姉さんの所には行ってくれるな。この体で満足してくれ。
生きたいという先ほどの思いはとうに折れ、ただ諦めと心残りが胸中を占めた。
しかし、暫くたってもこの体に異変が起きることはなかった。
いくらあれが動くことのままならない体でも、そう離れた距離ではなかったのだ。
恐る恐る目を開けると、目の前に体格のいい男が立っていた。
自分より一回り大きな身長に制服の上からでもわかる引き締まった体。パーマをかけているであろう柔らかな茶髪をした青年が、優し気な声でこう言った。
「助けに来たよ、八夜」
* *
「阿......南」
「遅くなってすまん。本当はもう少し早く着く予定だったんだが」
「いや、そんなことより!お前も逃げろ!どう見ても現実離れした化け物がそこに!」
「あぁ、知ってるよ。安心してくれ。けど、あれは現実だ。そして、日常の一部だよ八夜」
「日常......あれが?」
「あぁ。その説明はまたあとで」
そう言い終えるや否や、阿南は特に気負った風でもなく、何でもないかのような足取りで、羽の生えた異形に近づく。
「本体ではないな......。すみません。俺がもう少し早くついていれば」
言うと、苦悶に満ちた表情のまま、阿南は目に追えない速さで異形の頭部を拳で打ち抜いた。
バランスを失った体は、そのまま何の抵抗もなく、仰向けに倒れた。
その様子を傍から見ていた俺は、突然の阿南の行動にあっけに取られながらも、打ち抜かれた頭部に不可解な部分を見つけた。
「黒く......いや、焦げている......?」
「あぁ、まぁ、ね」
難しい顔で、言葉を濁す阿南に問いかけたい思いを飲み干し、確認しなければならない事があったことを思い出す。
「そうだ!姉さんが!」
「そのことについてはあまり心配いらない。それよりも先にこの原因の大元を叩かなくちゃならないな。
八夜、危険だとは思うがついてきてくれないか?なに、心配はいらない。こう見えて俺は強いから」
おどける様に口角を上げ、自身の腕を指さす阿南。
「......お前が見た目通り強いのは、今のでわかった。それよりもその大元とやらについていけば、この非現実的なことの説明をしてくれるんだろうな」
「あぁ、勿論。というか、意外と喋るんだな八夜。学校での印象とだいぶ違う」
「悪かったな、コミュニケーションが下手で」
「ハハッ......いやそっちのほうが喋りやすくていい」
人と、顔見知りと会話したことで、先ほどからの緊張と恐怖が少し緩和したらしい。動かなかった体も今はもうなんとも無いようだ。
「それじゃあいくか」
今もなお、謎の黒膜に遮られ、影と化した薄暗い病院を進む阿南の背中を追った。
* *
昨神市立病院中央待合室。
病院の入り口からまっすぐ二分程歩いた場所にある、この建物で一番広い待合室。
どうやら阿南の探しているものはそこにあるらしい。
「ここか......」
知らず、阿南の顔を覗くがその顔は先ほどと雰囲気を変え、どこか険しい。
眼前に広がる光景を見て、俺自身も、その息を詰まらせた。
「巨大な......繭......」
それは、確かに幻想的であった。けれど心のどこかが、病院に不釣り合いなこの光景を受け付けない。
天井の照明がそれを照らす。透き通るような糸が幾重にも幾重にも折り重なった繭は、一つのアート作品だと言われれば、なるほどすんなりと納得しそうになる。
繭自身の直径はおおよそ三メートルほどで、天井と壁から延びる繭と同じ素材でできていると思われるいくつもの糸で、その巨体を中空に縛りつけている。そして、その周りにはおおよそ人がすっぽりと入りそうな形をした、中央の繭よりも一回り小さな繭が、これまた同じように糸によって空間に固定されている。
人ひとりが入れそうな繭群を見て、おぞましい想像を掻き立ててしまった。先ほどの光景が、そのおぞましい想像を否定させてはくれない。
特に待合室が荒らされているような形跡は見られない。が、よくよく見るとそこかしこに、先ほど何度もみた蛆虫のようなものが我が物顔で蔓延っている。
「これは......恐らく、蚕だ」
「蚕って、あの?」
蚕なら知っている。けれど明らかに、その知識と目の前の光景が結びつかない。
「いや、八夜が想像しているものと似て非なるものだよ。ルーツが違う、といったほうがいいか」
「ルーツが違う?......なんなんだよさっきから。わかんねぇ事ばっかりだ!」
受け入れがたい光景がこうも次々と押し寄せ、俺のキャパシティーは容易く溢れかえっていた。
未だにこいつは話そうとしない。そもそもなんでここにいるんだ。
そういった不満を口に出した途端、中央の繭が、中からの衝撃で割れた。
先ほどのヒトが羽を生やした時に聞いたような、何かが裂ける音と共に繭が蠢いているのを感じた。
巨大な繭から這いずるように出てきたのは、これまた巨大な蚕であった。図鑑やネットで見た成虫の蚕と外見はそう遜色ない。けれど、けれどもあまりに大きすぎる。
羽毛のような白い輝く毛を纏わせた羽を広げ、自身の誕生をこれでもかと、主張している。照明が、広げた羽から飛び散る鱗粉のようなものを照り返し、薄暗かったこの病院内が途端に明るくなる。
「遅かったか。八夜、ここから少し下がっていてくれないか!!」
「わ、わかった!」
超常の現象を目の当たりにして、どうすればいいのか、何が正解なのかわからない俺に、阿南は語句を荒げ指示を飛ばす。
言われるがまま距離を開け、阿南の様子を伺う。
阿南は俺をかばうように、蚕との直線状にその身を置く。
その時になってようやく、自身の変化に気が付く。
――右目が、痛い。
初めは何か、異物が眼球に入り込んだようなちくりとした痛みだったが、徐々にその痛みは抑えきれるようなものではなくなった。眼底から瞼に向けて押しつぶすような、そんな痛み。耐えきれず、うめきながら目を抑え、地に這う。我ながらなんとも情けないが、どうしようもなかった。
気丈に振る舞うような余裕は、無かった。
異変に気付いた阿南がぼそりと「八夜......やっぱり」とつぶやいたのを、聞き逃さなかった。
「すまない!すぐに片づけるからもう少しだけ辛抱してくれ!」
阿南はそういうと、右手を握り、まっすぐに蚕に向けた。
途端、この場の温度が上がったような気がした。顔中から流れ落ちる汗が、痛みによるものなのか、気温の上昇によるものなのか判別つかない。
痛みに耐えながらも、今何が起こっているのか、解決させるべく奴の挙動を追う。
「斯くてこの血は赫に至る。赫至赫灼」
阿南がそう囁いた途端、握りしめた右手の指先から肩にかけて徐々に赤黒く変色してゆく。変色した部分が、人の肌とは思えない、鉱石のような煌めきを放っていた。
――痛みに耐えかねた俺の意識は、そこで手を離す。




