第三話 オダマキの花
――昨神市立病院
昨神市で最も大きい病院で、また、医療機器も充実している。医師も評判が高く、安心して診察を受けることができると、この町に住んでいる人は皆が噂している。我が姉八夜千春は、そこに入院している。
「姉さん、来たよ」
個室を与えられている姉の部屋の真っ白いカーテンをめくり、中に入る
「千草、いらっしゃい。入学式の日ぐらい友達と遊んで来ればよかったのに。それで、新しい高校はどう?友達は増えた?」
柔らかな声が耳をなでる。少しこそばゆく感じながらも、心地よい安堵を抱いた。
「あぁ、クラスにね、すごく顔の整った奴がいたんだ。モデルみたいだったよ」
「そう、それは見てみたいわね。今度会わせてくれないかしら?」
「そうだね、忙しそうな奴だったから、タイミングがあったときにでも」
楽しそうに笑う姉を見るたびに、自分が見透かされてはいないだろうかと、何か間違えはなかったかと、後ろ暗い思いになる。
姉はあるときに大きな怪我を負いそれ以来、ずっと入院している。普段はこうして会話もできるが、一日のうち、大半は意識がない状態だ。それでも俺がこうして病院に来るタイミングで、少しばかり目を覚まし、また、意識を失う。
まるで深い深い海に潜っているかのようだ。時折、呼吸のため意識という名の水面にあがる。それを何年も何年も繰り返している。
小さな頃の記憶にある姉は、もっと凛とした人だったように覚えている。今もその面影は残しているものの、全体的に線は細くなり、健全からはおおよそ離れている。
それもこれも全て俺のせいだ。この人の人生を、可能性を、未来を、日常を奪ってしまった。だから俺は償わなくてはならない。
――両親に、姉に。
「難しい顔をしてるけど、どうしたの?具合でも悪い?」
どうやら心配をかけてしまったらしい。姉がベッドの上からこちらを見上げるように首をもたげた。
「ん......いや、何でもないよ、姉さん。それよりもほら、花を買ってきたんだ。花瓶はあったっけ?」
「まぁ、そうなの!ありがとう千草。花瓶だったらその荷物の下の箱に入ってるはずよ」
言われたとおりに花瓶を見つけた俺は、水を溜め、買ってきた花を挿した。
花と言われても特に知識があったわけでもなかったので、近くにある花屋の店員に相談して買ったものだが、なかなか満足している。落ち着いた藍色は、単色であったこの部屋で存在感を遺憾なく発揮し、香りも強すぎず、控えめな甘さを部屋に散らしていた。
「まぁ!綺麗な花ね!千草にはそんなセンスもあったのね。ふふっ」
「いや、まぁ店員さんにいくつか選んでもらったやつを買っただけなんだけど」
屈託なく笑う姉につられ、照れ隠しに髪をいじる。
「姉さん、それじゃあ今日はもう帰るよ。ゆっくり休んで」
「ありがとうね、千草。おやすみなさい」
病室から出るときに腕時計で時刻を確かめると、既に十七時を過ぎていたころだった。
「早く家に帰らないと婆ちゃんに怒られるな・・・」
今日は確か肉じゃがだったかな......。
学校に行く前に確か婆ちゃんがそう言っていたことを思い出す。
人気のない廊下を進んでいるとき、ふと、違和感を感じた。
......なにかがおかしくないか。
けれど、具体的に何がおかしいのかピンと来ず、ただの思い過ごしではないかと自分に言い聞かせようとしたとき、その違和感に気付いてしまった。
「......は?」
窓から見える景色が、まるで切り取られたような、あるいは塗りつぶされているかのように【黒一色】だった。
先ほど時間を確かめた時からまだ五分も経ってはいないはずだ。
単純に腕時計が壊れてしまっただけで、実際は二十時辺りなのかもしれないとスマートフォンを取り出したが、その画面に表示されている時間は腕時計と一分違わず十七時十八分を主張していた。まだ春先であり、いくら何でも日が暮れるのは早すぎる。
何か言いしえぬ恐怖を心の底に感じながら、来た道を引き返そうとしたとき、目の前から人が歩いてきた。遠目から、スーツを着た男だというのはわかった。
――良かった。少し話を聞いてみよう。
そう思い口を開こうとした時に、見えた。見てしまった。
どこかおぼつかない足取りでこちらに向かってくる、その男の顔を。
「ひっ!!」
顔にある穴という穴から、蛆のようなものが零れ落ちていた。
ぼと、ぼととと。
生理的な嫌悪とあまりの衝撃に全身は、活動する意思を放棄した。
なんだよこれ......なんなんだよ。
この男が生きているとか、死んでいるとかもう既にどうでもよくなっていた。
今日もくだらない学校生活を終えて、姉と会話してひと時の安寧を感じ、婆ちゃんと飯を食べ、また明日もくだらない学校生活が始まるはずだった。日常は、約束されていたはずだった。
そんな俺の、蟲けらほどの願いは、ここで零れ落ちたた。
* *
八夜千春は、ベッドの上で思考に耽っていた。彼女にしては珍しいことであった。
普段、意識を手放し、病院のベッドの上で眠っているのが常であったが、弟たる千草が今日、花を買ってきてくれたのだ。それが素直に嬉しかったのだ。
ある事件がきっかけで千春は、ベッドの上で寝たきりの生活を余儀なくされ、もう何年も経つ。その時に両親も失った。
当時小学生だった自分たちを引き受けてくれたのは、他でもない祖母であった。
地主である祖母の家は古くとも大きく、千草が一人増えたところで何ら問題はなかった。
祖父は物心つく前に他界しており、また、もう片方の祖父母はそれ以来連絡がつかなくなっていた。
祖母は私たち姉弟を優しく抱きしめてくれた。自分も娘を亡くして泣きたいだろうに、千春達の前で涙を流すことはなかった。
千春は、強い人だと思った。かなわないと思った。
何も分からないのか、幼い千草はただただ無邪気に祖母の肩を叩くだけである。
入院費も学費もばかにならないほどお金がかかる。両親が残していたお金もあったが、減ることはあっても増えることはないのだ。けれど祖母は何も言わず、千春たちを育ててくれている。
「千草も本当にいい子に育ってくれたわ」
誰に話すでもなく、ただ頭にあった思いが口をついて出た。
千草自身も、大変な目にあったのだ。目の前で両親が死に、姉が倒れ、自身も怪我を負い、その後遺症からか右目と髪が変色してしまった。
ただでさえ多感な時期に、そのような変化が起こってしまったのだ。千春は病院でしか居場所がなかったが、千草はそうではなかった。
きっと学校でいじめられていたのだろう。その容姿について。もしかしたらもっとひどい目にあっていたのかもしれない。
千春が入院して以来、毎日欠かさずやってくる千草は、次第に顔から元気がなくなっていたようだった。けれど、弱音も何も言わず、ただ隠そうとしていた。
千春にとってそれは、悲しくもあり不満でもあった。
そんな感情を悟られないよう振る舞ってはいたが、千草自身はもしかしたら気付いていたのかもしれない。
千草と千春。姉弟は互いに思い合い、騙し合っていた。最愛の家族であるがゆえに。
そして今日である。そんな千草の顔から険が少しだけ、ほんの少しだけ削がれていたように思えた。
きっと高校に入学して、何かいいことがあったのかもしれない。
友達ができたのかもしれない。だとしたら、これからも毎日見舞いに来てくれるであろう千草と会うのが、もっと楽しくなるだろう。
そんな日常に少しの願いを混ぜ、千春は重くなってきた瞼を降ろし、静かに、深海へ潜るように意識を手放した。




