第十六話 無辜の毒 一
子供の頃、本を読むことが好きだった。いや、好きだったというのは少し語弊がある。それぐらいしか興味がなかったのだ。普通より少し生活に窮していた我が家には、同年代の子らよりも娯楽が無かった。
唯一あったのは父が長年かけて集めていた昆虫図鑑や、ファーブル昆虫記であった。
ただ僕にはそれで充分だった。学校から帰り、家の図鑑を眺め、ファーブルの様に自身の身で近くの林に蟲を探しに行ったりもした。それで満たされていた。
高校に入学して、自身の進路を考えろとクラスの教師は言った。周りは警察官になりたい、といったりパティシエになりたい、といって少しずつ少しずつ、自身の進路に沿ってその未来の舵を取っていった。
僕は特になりたいものもなく、ただただ両親に勧められるがまま国立大学に入った。幼少の頃から勉学に躓くといったことはなく、また友人もいない僕は、自身の時間というものを十全に与えられていた。
けれど、与えられたところで特にそれを費やす趣味もなかった。虚無ではなく、ただただ安寧した生活。大学に入ってからも漠然とした将来への不安はあるものの、だからと言ってどうしようとする気概もなかった。
その時になっても相変わらず図鑑を眺めるのは変わらなかった。嫌悪を抱く姿をした虫もいれば、その色鮮やかな姿に感嘆の声を上げることもあった。
大学を出て、一流とは言えないものの、それなりの会社に入社した。同期は四人ほどだったが皆僕に対して優しく接してくれた。親友とは言えないがそれなりに気を許した仲ではあった。
それからしばらくその会社に勤めていたが、二七歳の頃に転職した。特に不満があったわけでもなく、理由もなかった。ただ転職というものを味わってみたかったから。
次の会社は前の会社よりも給料はよく、拘束時間も少なかったが、人間関係に苦労した。
上司が僕の仕事ぶりを逐一チェックして、其の度にわざとらしくため息をつくのだ。別に文句を言われるわけでもなかったが息苦しく感じていた。それでも別に辞めようとは思わなかった。そこからまたしばらく、その会社に勤めていた。
三十二歳になった。同級生たちが結婚し、子供が出来たとSNSなどで頻りに報告しているのをスマートフォンで眺めていた。気が付けば晩秋を感じ、スーツの上からコートを着るようになっていた。
外回りの営業が終わり会社に直帰する予定だったが、前の会社で同期だった男から飲みに誘われた。社会人になり、こういった付き合いがちらほら生まれ、その都度断らずに誘いに乗っていたので、その誘って来た同期の男もきっと断られると微塵にも思っていないのだろう。実際、これから特に予定があるわけでもなかったので、二つ返事に参加の旨を伝え、集合場所の居酒屋へ向かった。
他にも当時の同期を何人か誘ったようだが、平日の十八時に集まれたのはどうも僕だけの様だった。学生の頃は友人が少なかったからこういった一対一での飲みは真新しく感じた。
誘ってくれた男は記憶の中の姿と何ら変わることはなかった。多少老けはしていたがお互い様というものだろう。こうして顔を合わせるのは実に五年ぶりである。
男は酒が入ると顔を赤らめ、楽しそうに目じりに皺を寄せ、語った。
最近結婚して、万事うまくいっているようだ。奥さんも気立て良く、また彼自身の仕事振りからいってそうそう困ることもないだろう。
集まらなかった者たちの愚痴をこぼし、この場に集った僕の付き合いの良さを、壁に向かって一人話していた。二時間経ち、互いに明日の事も考えこのあたりで切り上げることにした。
財布を出そうとしたら、その男は赤ら顔のまま首を振った。今日は俺に出させてくれ、と。勿論自分も相当飲み食いをし、また一人暮らしの身なので出す、といったのだがそれでも断固として首を横に振るうのであった。
のろけを聞いてくれた礼だと言った。こういった律儀な性格なのは当初から何も変わらなかった。五年経った今でも。
礼を言い、先に店の外で待っていると、支払いを済ませたその男が、どこかへ連絡を入れながら出てきた。聞くと、奥さんに今から帰ることを伝えていたようだった。
スマートフォンをポケットにしまいアルコールで火照った体を覚ますように連れ立って街を歩く。肌を弱く刺すような風が、今はどこか心地よさすらも感じていた。店に入る前はまだ日が暮れる直前といった頃であったが、今はすっかり夜が溶け、青白い月明りが周囲の形を色付けていた。駅から少し離れていたところで飲んでいたため、二人並んで薄暗い道を歩く。あれ程店で喋っていたというのに、話のネタは尽きなかった。
気が付いていなかったのか、僕自身もこの会合に安堵を抱いていたのかもしれない。
薄暗い高架下に入ると、後ろからその男の首を絞めてみた。
「しまった、殺すつもりなんてなかったから刃物とか持ってないなぁ」
僕の独り言が誰もいない薄暗い高架下に反響する。
中肉中背で、特に体格に優れているわけでもない僕には、この男を殺す為の手段が限られていた。
男は赤かった顔をますます紅潮させ、ついには青白くなっていった。口から蟹のように泡を吹く様は腹を抱えるほど面白かった。彼はきっと前世で蟹だったのだろう。だとすればその身を茹でると案外美味しいのかもしれない。残念ながら、この場で人ひとり入れるような鍋が無いことが悔やまれる。
遂に痙攣を起こし、その場で冷たく横たわる男。驚愕したことだろう。先ほどまで飲み食いして過去を語り、共に未来を見ていた相手から首を絞められて殺されるなんて。
僕自身も別に殺すつもりなんて初めからなかった。もしそのつもりなら家を出る際に鈍器なり刃物なり忍ばせていた事だ。単純に、この高架下に差し迫った時、殺してみたいと思ったからそうしてみた。実際そこまで面白くもなかった。ただこの男が再び奥さんと愛を交わすことも、会社で上司に怒られることも無くなった。
僕も一人の飲み仲間を失った、それだけだ。
ただ、この男の死に様、蟹のように泡を吹く姿は面白かった。未だ見ぬ図鑑の一ページを捲ったかのような興奮があった。きっと他の人間を殺した時も同じような興奮を味わえるかもしれない。
だとすれば、もう少し人を殺してみる価値はあるのかもしれない。