第十二話 灰色の蟲
その身を変質せざるをえなくなった、とあの影は言った。賽は投げられた、とも。それがこれか。この変質した自身の姿に呆然と言葉が出なかった。痛みは引いた。寧ろ息も絶え絶えだった先ほどより余程体調が良い。漠然とした高揚感に包まれていた、これが俺の丕業。
「この土壇場で丕業が発現したのか......けど、その姿は......」
呟くように言葉が漏れる白間。
未だ戸惑いが多いものの、先ほど死蟲を弾いていた所を見るに、この外骨格に似た骨の鎧は相当頑丈なようであった。ならば。
「白間、少しだけ俺にこの丕業を試す時間をくれ」
「おいおい、ンなこと言ったって......」
白間の返答を他所に、ガシャガシャと物々しい音を立てて骨の鎧を纏った俺は、死蟲に向けて駆ける。
試しに傍にいた死蟲に向け手刀で薙いでみる。大した速度ではなかったが不意をついたらしく、あれほど頑丈そうなその甲皮は容易く千切れた。断末魔を上げ二つに乖離した肉は、その抉れた断面をまざまざと俺に見せつけて絶命した。
相次いで飛んでくる球状の死蟲は、むなしくもこの骨の外皮に弾かれ、地に伏す。そのまま地と足の裏で何度も何度も挟み付け、微塵にする。あれだけ自身の命を脅かしていた死蟲が塵ほども怖くなくなっていた。
「すげぇな、丕業」
頬がにやけるのを止められそうにない。この数舜で既に三匹程殺した。幼少のころ小さな虫を踏みつぶしていた感覚に似ている。抗えない者に淘汰される絶望は先ほど味わったばかりだというのにその立場が変わった途端同じように繰り返す。
でも、しょうがないだろう。こうでもしなきゃ俺が殺されるんだ。
あれほど死の気配を充満させていた死蟲は気が付けば二匹になっていた。流れ作業の様に、ものの次いでの様に残りも一振りで命を薙いだ。撫ぜるだけで消える命に俺は今まで怯えていたのか。
それは理不尽なものに殺される慟哭なのか、四肢が細切れ、頭部だけになった死蟲が声を上げる。まるで何かに助けを求めるかのように。
「おい、八夜!聞こえてるか!なんかヤバそうだぞ!」
「何がだ、もう全部死んだろ」
突如、地響きのような腹の底に響く音が聞こえた。
「まじかよ......」
何かを諦めたような悲観的な声を上げた白間の目線を追いかける。
そこには先ほどと同じように地を這う新たな死蟲がいた。しかしその桁が違った。まるで鉄の山が雪崩れたかのように辺り一面を覆い尽くしていた。数えるのも馬鹿らしくなってくる。
「なんでこの学校にこんなにいんだよ......おかしいだろ!ここは言わば死蟲にとっちゃ敵の本拠地だぞ!」
白間の泣き言もこの騒めきにかき消されてしまい、死の行進は尚も続く。
「とりあえずやれるだけやる、じゃないと圧殺される」
できるだけ大きく体を広げる。触れただけで殺せるんだ、より効率的に殲滅するためにこのままあの山に突っ込む。それが最善の筈と、意気込んだ途端、全身を覆う骨の鎧がボロボロと朽ちてゆく。
「あ?」
その時にはもう遅かった。剥がれ落ちた中にあるのは剥き出しの己が身、死蟲に触れればそれだけで削がれる軟い身。
肩が抉れる。次いで太もも、背、二の腕、指。ぽろぽろと足元に肉片が散らばる。丕業の力で骨の鎧となった俺の血液は、今は薄情にもその地をただただ赫く濡らすばかり。
「あががッぁあああ」
皮肉にも先ほど大きく身体を開けていたばかりに、その身を守るものが無くなった今、ただの的と化していた。
尽きぬ弾丸に身体が少しずつ消されてゆく。骨もろとも抜き取られる音が耳を占領する。痛みはとうになかった。消し飛ばされた元がただただ熱を籠らせていた。不快な音が聞こえなくなったとき、自身の耳すらも無くなったことに気が付く。虚無の世界で自身の命が潰えるのをただただ待つことしか出来なかった。
が、いくら待とうとも自身の命が潰える事はなかった。その虚無の世界で、死蟲が再び蹂躙される。
地を這う無数の死蟲はひとりでにその身を削る。否、何かに食われていた。次々と貪られてゆくその光景。
地に無数の口が出現し、その悪魔のような歯を頻りに噛み合わせていた。死蟲が自らその死の門へ飛び込み、自身を切り裂いてゆく。ある蟲は下半身との唐突な別れに、勢いのまま上半身のみで地を滑り、またある蟲は俺の様に体躯を無数に切り分けられ、支えきれなくなり立ち止まったところを足元の口に咀嚼されていた。
その鉄の雪崩れから人影が顕現する。無論先ほどまで自身の身を裂いていた死蟲ではない、では一体。
夥しい死の上を優雅に歩くその人影、尸高校の制服に身を包み、光沢のある毛の一本すら曲線を描かないその頭髪は肩で切りそろえられていた。すらりとした四肢にやや大きな身長。場所が場所だけに幽鬼を彷彿とさせる美。それとは不釣り合いなほど大きく力強い口を開け、その影もとい巴会長はこちらに何かを言い放つ。
「――――、――。――――」
残念ながら先ほどでこの耳は削ぎ落され、視力以外はその役目を放置している。巴会長がこの身を心配してくれているのであろうか、それともこんな時間にここにいることに対しての説教だろうか。
濡れそぼった目元に、優しく微笑む顔を見るに、どうやら前者ではあるようだが。
その光景に安堵したのか、それとも命がもう潰える間近なのか、何とか持ちこたえていた体は痙攣をおこしその場で膝をつく。駆け寄った巴会長が優しく背後から支えてくれる。かの会長にこうして触れ合えているのは幸福ではあったが、だとしてもその代償は大きすぎる。
白間に何かを言い放つ巴会長の胸の中で、取りこぼし過ぎた命をかき集める様に体を丸め、俺は冷たくなった身を抱き眠りについた。