第十一話 変質
この高校生活において、一番の窮地に陥っているかも知れない。
昼休み、俺はいつものように教室を出て誰もいない中庭の陰で婆ちゃん手製の弁当に舌鼓を打っていた。次の授業までまだ多少時間もあったため、心地よい微睡みの中、ひと眠りしようと弁当箱を片付けていた時それは姿を現した。
「お前が一年A組の八夜かぁ?いやその目、その髪間違いねぇ」
スキンヘッドで右目に十字傷、右耳に三つ、口に二つのリングピアス。どうみても知り合いではない。こんなやつと関わった覚えはない。見忘れるほど俺は耄碌してはいないはずだ。
「そう、だが」
努めて自然に声を出そうとしたが震えて詰まってしまった。阿南とは違う意味で関わりたくない人種であった。
「やっぱそうか。お前、会長の誘いを断ったんだって?何でだ」
「何でって......それは、お前に説明しなきゃいけない事なのか?」
「あたりまえだろうが!!」
突然キレ始めた。どうも俺に対して不満を抱いているようだが見当がつかない。
「俺は生徒会の白間 慶仁だ。お前と同じ一年だ」
「そうか、で?」
こいつ、一年生だったのか。どうも数個上に見えたが......
「俺はな、こんな見た目だからよ、そりゃあ入学当初からいろんな奴に疎まれてきたし蔑まれてきた。けどそんな中、巴会長は俺を見た目で判断せず生徒会に誘ってくれた!死蟲との戦いに俺をそばにおいてくれた数少ない理解者だ!そんな人の誘いを断った奴を一目見たかったんだ、気に入らなかったら一発殴るつもりだったんだが......」
不意にこちらに目線を寄越す。言いたいことは分からないが、その目がどういった意味を示しているかは予想が付く。
「やっぱやめだ。見たところ丕業も満足に使えてなさそうだしな。同じ土俵に上がれもしてねぇただの一生徒じゃねぇか。時間の無駄だったわ」
一方的にこちらを値踏みして去ってゆこうとする白間に声をかけた、かけてしまった。そんなつもりも毛頭なかったが、俺にも蟲けら程のプライドのようなものは在るらしい。
「俺じゃ満足しなかったとして、次はどこに行くつもりなんだ?」
「阿南の野郎だよ。あいつは多少知ってる。デキる奴だってのもな」
なるほど。恩人たる会長の誘いを断った俺たち二人に喧嘩まがいの事をふっかけていたのか。なんて古典的なんだ。
「そうか、俺じゃあつまらないか」
「あぁつまんねーな」
吐き捨てるようにそう言うと、白間は俺の襟をつかみ持ち上げる。身長差はないものの鍛えられた腕から逃れられそうにない。
「お前みたいにスカした奴は気に食わねぇ。教室で縮こまってろよ灰被り野郎」
「......ハッ」
瞬間思わず、笑いが零れる。
「あ?」
理解が追い付かず声を荒げる白間。
「いや、まさかそんな洒落の利いたセリフが出るとは思わなくてな。意外とロマンチシズムに溢れてるじゃないか。あぁあれか、気に入ったワードやフレーズをメモ帳に逐一記す輩か?」
目に見えて白間のこめかみに青筋が走る。艶のいい頭皮にかすかな脂汗が滲む。
「存外吠えんじゃねーか。なよっちぃだけの奴かと思えば」
口元がヒクつきながらも笑みを携える。互いに心にも思っていない笑顔で顔を突き合わせる。
「灰被り野郎、今日の二十時にこの学校に来い」
それだけ言うと乱雑に俺を降ろし、肩を怒らせ大股でその場を後にした白間。束の間の嵐が去り静謐が再び訪れる。
「灰被り野郎、ね」
高校生活で少しだけ忘れていた自身の立ち位置を、今この場で改めて確認した。
「そうだったな、俺は......」
右目を手で覆いながら、教室へ足を向けた。
* *
「それで、実際に行くのか?今日」
昼間の出来事を阿南に話すべきか否か迷っていたがそれも杞憂に終わった。なぜならあの後白間は阿南の元へ赴き、約束の事を話したそうだ。阿南自身についてはもうどうでもよくなったらしく、それだけ言うと教室へ帰っていったそうだ。
「まぁな、別に殺されるわけでもないし」
「だとしてもだなあ......」
「まぁこれは挑発した俺も悪いんだ、阿南は来るなよ」
「わかったよ、好きにしてくれ」
降参したかのように両手をあげ自分の席へと戻ってゆく阿南。
別段準備することもない俺は、ただ約束の時間が来るまで学校近くのコーヒーチェーン店で本を読んで待っていた。
焙煎してから何か月と経ったであろう古臭い豆の煮汁が、味なんて二の次だと言わんばかりに苦みを舌に残し胃に流れてゆく。日本人はそもそもカフェインに対して強い耐性があると、どこかで聞いたことがあったが今はその耐性が疎ましい。
逃げても良かったものだが、どうにもあの白間という男に背を向けるを良しとしない感情が僅かばかりあったため、こうしてズルズルと時間を潰す羽目となった。
店を出て学校に着いた時、約束の十分ほど前だった。シチュエーションだけで言えば、まるで心待ちにしたデートの待ち合わせに少し早く来てしまったかのようだが、残念ながらその相手は暑苦しいスキンヘッドであり、デートなんて可愛らしいものではない。
詳しい場所はあの時、特に決めていなかったが、校門のすぐそばで待っていれば自ずと分かるだろう。
案の定、時刻丁度にその校門の近くに白間は現れた。
「よぉ時間通りなのは感心だな」
「デートの待ち合わせには遅れない主義なんだ、相手がどんな奴でもな」
「ハッ!言うぜ。学校でも思ったがお前のそういう所は嫌いじゃねーぞ」
純粋にそう思っているのだろう。顔に不釣り合いな笑顔を浮かべる。
「けどな、お前は会長の誘いを断った。そこに関して、俺は許さねぇ。例え会長自身になんと言われようともな」
「そうか、で。殴り合いでもするつもりか?」
分かり切っていたことだが、一応聞いてみる。そもそもこんな時間に人気のない学校に呼び出す時点でその答えに揺るぎはないだろう。
「あぁ、安心しろよ。丕業は使わねぇ。単純な腕っぷしだ」
言うや否やこちらに駆け出す白間。俺の倍ほども太さのある脚で地面を蹴り上げ一片の躊躇いも見せず側頭部に狙い付け、つま先を突き出す。当たるスレスレのタイミングで何とか反応し全力で地面に伏せる。無理をした身体は悲鳴を上げ心臓がその鼓動を速める。全身の脈が鳴りやむことなく蠢動する。
「腕っぷしとか言いつつ初手から蹴りかよ!」
「うるせぇ!」
なおもしつこく俺の頭蓋を狙って蹴りを繰り出す白間。本当に殺しに来てるんじゃないかと額に冷や汗を掻く。
俺としては適当に一発もらい白間がそれで満足しこの件を終わりにする予定であった。けれど先ほどからのやり取りでそれも出来そうにないことを悟る。
別段俺自身、格闘術に触れたことなどなかった。どころか喧嘩らしい喧嘩などしたことはない。なんせする相手も居なかったものだから。
暫く経ち、未だ決定打たるものは互いに貰っていないが、元々体力に差があるのだろう、こちらは息も絶え絶えで肺の全てを絞り出しているというのに、白間は未だ息を切らすことはない。少しずつ、少しずつ奴の拳や脚が俺の身体にぶつかる。知らぬ間に口を切っていたのだろう。生臭い鉄の味が口腔を撫ぜ、不快感と疲労で顔が引きつるのを何とか抑える。
「んで、どうする。まだ一発ももらってないが?」
「意外と根性あるじゃねーか。ガタガタのくせに」
事実もう限界はとうに超えて、全身の筋は熱を籠らせたままだ。一発ぐらいあの頭に真っ赤な紅葉を残してやりたかったが、如何せん両腕はもう肩より上に上がりそうになかった。
「これは俺が俺の中のルールで決めたことだ。実際お前が悪いとはたいして思っちゃいねぇ。運が悪かったな......あ?」
頭部めがけ飛来した何かに気が付き、間一髪でそれを避ける白間。
「死蟲!?はぁ!なんでこの学校に!」
ギチギチと硬い何かを摺り寄せたような鳴き声を発し、死蟲が校庭の隅から数匹ほど。小さな頃、その姿を何度も見てきた。
「ダンゴムシ・・・・・・?」
サッカーボールほどの大きさで黒光りするその死蟲が無数の足を器用に動かし此方に向かってくる。錆びた鉄のような外皮が重なり合い、不気味な音を奏でる。
「流石にこの数はヤバいだろ......っぶねぇ!!」
そう声を発した白間に向けて、先ほど地を這っていた死蟲が器用に体を丸め、弾丸のように飛んでくる。まず間違いなくこれに当たると生半可な怪我では済まされない。人の身など紙の様に容易く貫通するはずだ。そんな死蟲が五匹もこの場にいる。なんて悪趣味なピンボールだ。このまま俺たちが穴だらけになるのもそう遠くはないだろう。
「おい!八夜!さっさと逃げ出せ!」
飛んでくる死蟲をなんとか避け続ける白間。どうやらこいつらは大きな音を立てる奴から優先的に狙っているようだった。
「唐突に喧嘩ふっかけてきた奴を信じられるかよ」
「いくら俺でも殺されそうな奴放置して逃げるわけないだろうが!これでも生徒会メンバーだぞ!」
「じゃあさっさと丕業でなんとかしろよ!」
「俺のは大雑把なんだよ!お前も巻き込んじまうぞ!」
なおも吠える白間。わかっている、こいつはわざと大きな声を上げてこの死蟲の注意を引いているんだ。それでも二匹ほどはこちらに狙いをつけている。
「どっちにしろこのままじゃ無理だろ!背中を向けた瞬間死ぬ!」
この場で縫い付けられたかのように動けない二人。先ほどまでで既に限界だった体力をそれこそ死なないために絞りつくしている。それでも何とか残る気力を振り絞り、全力で駆けようと脚を踏み出したその時。
――ずぐり。
「ぐっ.....あぁあイぃあああアアァああああ!!?」
突然右目が痛み出す。あの蚕を見た時の痛み。眼球が暴れ出して飛び出しそうになる。
「おい!どうした!当たっちまったか!」
白間の心配するような声が頭蓋に強く反響する。眼球を裏返したような感覚。目が熱された鉛になって零れ落ちる様だ。必死にそれを手で抑える。
「おい八夜!お前、目から血が......」
抑えた手から止まることなく溢れる液体が、血であることを今になって気付く。
「ぅぅあ、あが」
何とか声を出そうとするが口と脳が、しかしうまく連携されない。幸いなことに死蟲は様子がおかしくなった俺に対して何も手を出してこない。けれどそれも束の間、うずくまった俺に向かってその凶器足りうる体を丸め、一直線に飛んでくる。
が、その鋼鉄にも似た巨大な弾丸は俺の身体に弾かれる。おかしい、確実に当たりはした。ならその結果、四肢ははじけ飛んでもいいはずだ。けれど衝撃は伝わるものの、その死蟲はより強固な何かに遮られ明後日の方向に弾き返される。
パキッ、パキパキリ。
何かが乾く音、とでも言うのか。その音は俺自身の身体から発せられていた。
「なん、だよこれ......」
右目から溢れ出した血が音を立てて乾き、その血が骨の様に固まり俺に纏わりついていた。既に顔の半分は骨のようなものに覆われ、その部分から根を伸ばすように広がってゆく。
どうやら先ほどの死蟲はこれに防がれたようだ。顔の半分程を覆われているというのに視界は明瞭で、いつの間にか右目の痛みは消えていた。
なおも音を立てながら骨の根は伸びてゆく。絡まりあった根はその先を固め厚みを増し動きを止める。気が付くと俺の全身はその骨の根で覆われた。
完全に硬化した後、徐々に白から薄い灰色に移り変わる。呆然として自身の手を、胴を、脚を見つめる。
その姿は――
その姿は、外骨格に覆われた灰色の蟲の様だった。