第九話 赫に至る
「良かったのか阿南。お前だけでも入ればよかったじゃないか」
こいつにとって、それが最も賢い選択だったはずだ。
「いいんだ。千草との先約があるしな。それに、千草が力を付けてからでも遅くはないはず。待っててくれているようだったしな」
先ほどの会長の話では確かに期限を設けているわけではなかったし、俺自身の力を身に着けてからでも遅くはないか。
「だけど、実際どうすればいい。あれ以来死蟲とも出会ってないし何か方法でもあるのか」
「それが全くと言っていいほどわからん」
「よくそれで会長との話を蹴ったな、阿南。お前はどうやって自分の丕業を発現したんだ?」
この質問を投げかけるべきではなかった、と感じてしまったが遅かった。その問いが口から零れ落ちた時、阿南は少しだけ目を伏せた。これまで、あいつ自身どこかで忌避していたように思っていた。この話題に関して。けど俺は、焦りからか、そんなことを頭の片隅に放置してしまっていたようだ。
「そうだな。話しておこうか千草には。俺の後悔を、間違った選択を」
* *
俺には一つ上に姉がいる。なんでもできて、何にでも好かれた、そんな姉が。小さいころは姉と一緒によく遊んだ。勿論同級生の友達もいたがそれ以上に一緒にいた。
両親も仲がいい俺たち姉弟を優しく見守ってくれていた。よく友達に姉と一緒にいることを揶揄われたりしたが、気にも留めなかった。
俺も姉を大切に思っていたし、姉もまた俺のことを大切にしてくれていたように思う。
その何にでも好かれた姉は、最悪なことに死蟲にも好かれた。
小学校高学年の頃。卒業式を控えていた姉は中学校で必要となる制服の採寸に、家から徒歩十分程の商店街に俺と来ていた。
家から近かったため俺と姉二人だけでお金を握りしめて。採寸中暇を持て余していた俺は、気前のいい店主とその奥さんの気使いで、奥の休憩場所に通してもらいテレビアニメを見ていた。一時間ほどで終わり、店主と奥さんにお礼を言い、俺たち姉弟は家を目指した。
道中姉の提案で公園の林を抜けて近道することになった。
そこで、この提案を断るべきだったんだ、俺は。
もうすぐ日が暮れるであろう時間。朱色の陽が沈みかけ、濃い藍色が空に溶け始めた黄昏。まだ小学生だった俺は、薄暗くなった林を抜けることが怖くなった。古くなった街灯が明滅し、その影を照らしては消し、照らしては消していた。やはり俺はどうしても怖かった。姉はそんな俺の手を引き元来た道を戻ろうとしてくれた。
前を行く姉の細い手は冷たかった。三月になり、少しづつ寒さはなりを潜め、心地よい暖かさがそこらに顔を出していた。にも関わらず、姉は生気を感じさせない冷たさをその手に込めていた。
初めは怒っているのだと思っていた。姉の提案を拒否し怯えている俺に対し。だから口をきいてくれないのかと思っていた。
来た道を引き返していた筈なのに、俺たちは見知らない小道にいた。おかしい。もう家にたどり着いていてもおかしくない程歩いていた筈なのに、一向に家に近づかない。むしろ離れて行ってるようにも感じる。流石にまずいと思った俺は前を行く姉を追い越し、止めた。
そこで漸く俺は姉の異変に気付く。
まるで眠っているかのように目を瞑り、口から涎が止めどなく溢れていた。幼くも整った綺麗な曲線を描く睫毛を地に伏せ、その小さな蕾の様である口からは下品にも滴っていた。
姉はいつからこんな状態だったのか、手を引いてくれた辺りなのか。疑問が尽きない。けど今はそんなことより姉の目を覚ますほうが重要である。何度頬を叩いてもぴくりともしない。ここに来てから全くと言っていいほど動きを止めた姉。
俺自身が背負って帰ったほうが早いと思った時、薄暗い小道の奥からそれは現れた。
「あぁ、あぁなんとも可愛らしい。愛い愛い。こっちにおいで」
スーツを着た、男がそこにいた。別段そこに居ることに対しておかしな所はない。ただ、その男の目が八つほどあることを除けば。
まるで手繰られるようにふらふらと男に近づいてゆく姉。この男が姉をこんな風にしたのだとその時に気が付いた。
なんとか行かせまいと姉を引っ張るが、小学生の力ではビクともしなかった。
そこで、手を離してしまった。この手を離してしまった。男は姉が近づくとその手を握り、肩に担いだ。
「は、はなせよ!」
言うのが精一杯だった。この力ではどうしようもなく、取り返すことは叶わないと先ほど決められてしまった。その男が怖かった。暗いこの道が怖かった。そして何より姉が、この手から離れた事が怖かった。
「これは私のモノになったんだ。何故手放さなければならない、鬱陶しい人間のガキ。お前たちは自身の立場が変わると、途端に弱者を労われと声を大きくする。どこまでも利己的な汚物め」
突然声を荒げ、捲くしたてる男に何も言えなかった。内容も理解できなかった。ただ、鬱憤をぶつけられていることは分かった。
好きなだけ喋り終えた男は姉を連れて、その場から逃げ去った。決して人ではありえない脚力を持ってして。
この手が憎かった。あの時離した己が手を恨んだ。憎くて憎くて焼き切れそうになった。大事なものを手放してしまうような手が、己が消したいほど憎かった。
膨れ上がる憎悪と共にこの手に噛みついた。汗と共に血の味が口腔を満たす。皮膚と肉を食い破り、その歯が骨に到達する。それすらも腹立たしかった。こうして口を歯を抑えていなければ呪詛が口から洩れそうだった。食らいついた右手の感覚が無くなったら左へ。それすらも感じられなくなったら手の甲へ。幸い場所はいくらでもある。死ぬまでこうしても良いくらいだった。
右手の甲に食らいついていた時だった。口腔内が熱を帯びる。あぁ遂にこの憎悪という油に火が付いたのかと思った。
そして実際この血にまみれた両手が赫く赫く灯した。
憎悪で焼かれた手にしては綺麗だと感じた。まるで夕暮れのような、温かみを帯びた灯。この手を憎むほど、その綺麗な赫は輝きを増した。その時、どこか聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。
――これ以上あなたの手を傷めないで。私、あの時牽かれたあなたの手に感謝してる。だから、私が好きなこの手を、あなた自身が嫌いにならないで。
誰の声だったか、なんて分かりきっていた事だ。何故この声が、なんてどうでもよかった。
赫く灯していたこの両の手は、次第に爪先から黒く硬化してゆく。まるでこれ以上傷をつけるなとでも言うように。試しに食らいついてみたが、がちりと無機質な音を立てて歯が欠けた。
為す術も無くなった俺は、そこで倒れた。今更失った血が多いことに気が付き、真っ赤なアスファルトの上で気を失った。
ごめん姉さん。いつかまたこの手を差し伸べにいく。それまで少し、待ってて。