箱の中の悦楽 問題編
――校内外の窃盗被害について、学校は賠償等の責任を負うものとしない。
*
新聞部の紅一点・日向香織にやさしくうながされ、恐山通子はようやく口を開いた。
「実は私……江里口くんに狙われているんです」
「あらま」日向は片目をつぶる。
「よかったじゃない。うらやましいわ」
「……そういう意味じゃありません」恐山は照れるでもなく眉根を寄せ、声を落とした。
「狙われているのは私の箱なんです」
おそれざん・いたこの異名で知られる彼女、2年生の恐山通子が新聞部のドアを叩いたのは、大切にしている祖父の形見の『箱』を、同級生の江里口に狙われているからだった。
新聞部にこの手の依頼を持ち込む者は意外と多い。それも依頼者は、かの北条丈文を頼りにしてきているのだという。
入部してからずっと、北条丈文という奇人に振り回されている弘長隆史としては納得のいかないことだった。人格はともかく、北条の推理力だけは隆史も認めているのだが、よりにもよってなぜ北条を頼るのか……。
「あの、すみません」だから隆史は口をはさまずにいられない。
「そういうことは、風紀委員に話したほうがいいんじゃないでしょうか」
私立三上塚高等学校には、風紀委員なるものが実在している。それも学校が作ったものではなく、生徒たちが自発的に『風紀委員会』という部活動として発足させたものなのだ。学校側も追認するかたちでその活動と一定の効力を認め、校内にはびこる不良たちに風紀委員は恐れられている。
「風紀委員はまともに取り合ってくれません」恐山は首を振った。
「こんな馬鹿らしい話を聞いてくれるもんですか。こんな子供じみた話なんて」
そんな話を持ち込まれる新聞部っていったい。
隆史の疑問をよそに、日向は丁重に問いかける。
「恐山さん、その江里口くんって人は、どうしてあなたの箱を狙っているのかしら」
「私の箱が、玉手箱だからです」
「……え?」
「江里口くんは、私の箱を玉手箱だと信じているんです」
玉手箱とは、昔話『浦島太郎』で名高い竜宮城の……などと説明するまでもない。日本人のほとんどが知っているだろう、あの箱だ。さしもの日向香織も目を丸くして驚いている。
「ちょっと待って恐山さん。あなたの持っている箱は、あの玉手箱なの?」
「江里口くんがそう信じているだけです」恐山は下唇をかんだ。
「なんでも彼の家に代々伝わる古文書に、江里口家の家宝の玉手箱の絵が描かれていて、それが私の箱にそっくりなんだそうです」
きっかけは美術の授業だった。家にある古い物の絵を描いてくるという宿題で、恐山は迷わず祖父の形見の箱を描いた。それを見た江里口が「それは僕の箱だ」と騒ぎ立てたのだという。
なぜ江里口の家に伝わる玉手箱が、恐山の箱とそっくりなのか。江里口の箱と恐山の箱は同じものなのか。真実はわからない。だがそれ以来、江里口はつねづね恐山の箱は自分のものだと主張するようになった。
「昨日、江里口くん『新しい古文書が見つかった』って言いだしたんです。それによると、私の箱は江里口家が恐山家に貸したものだって」
「それ本当なの?」
「そんなの嘘に決まってます! 私の箱がほしいから新しい古文書をでっちあげたんです! ……でも私、怖くてたまらないんです。江里口くんのやり口はどんどんエスカレートしてるし、このままじゃいずれ、強引に箱を奪われてしまいそうで……」
「ううん」新聞部兼空手部の副主将をつとめ、雑誌モデルでもある日向は長い脚を組み替えた。
「ねえ恐山さん。あなたはどうしたいの? いっそのことその江里口くん、やっつけちゃう?」
「とんでもない!」恐山は顔を青くした。日向のモデル体型からくり出される全国レベルの蹴りの鋭さは全校に広く知られている。
「いくら困ってても手荒なことはしたくありません」
「いっぺんこらしめちゃうのが一番てっとり早いのに。じゃあ、その箱を江里口くんにあげちゃうのはだめ?」
「だめです」恐山は頑としてうけつけない。「祖父の形見なんです。絶対にあげられません」
「箱を銀行の貸金庫とか、手出しできないところに預けるとか、どうですか」隆史の提案にも恐山は首を振った。
「そんなことしたら江里口くん、私の家にまで押しかけてきそうで怖いんです。本当は家に隠してるんだろうって。……どうにかして、江里口くんに箱のことをあきらめてもらうことはできないでしょうか?」
「そうね……」日向は指の骨をべきぼき鳴らしながら、首を回す。顔に似合わず体育会系の彼女は頭を使うのが好きではない。面倒になってきているようだ。
「丈さんならなにか考えつくかもしれないけど、あの人いま鬼のかく乱で風邪ひいて休んでるし……」
「そうですか……」恐山は隆史の顔を見て、あからさまにため息をついた。
「北条さん、いないですもんね……」
「ごめんなさい。とりあえず2~3日様子を見てみましょ。状況が変わるかもしれないし、丈さんも登校してくるでしょうし」
「はい……」目当ての新聞部の推理担当がいなくてはしかたない。恐山は不承不承うなずいた。
だが、日向の見込みは甘かった。恐山の危惧はあたり、一大事は起こった。
*
事件は恐山通子が新聞部を訪れた2日後に起こった。
江里口が恐山の箱を奪い、旧校舎の一室に立てこもったのだ。
鍵をかけ机やイスでバリケードを築き、その中で江里口は念願の箱を開いた。
そして。
1時間半後、風紀委員や教師たちによって扉は破られた。
室内には開けられた空っぽの箱と、死体が転がっていた。
だが、死体が江里口のものかどうか判別はできなかった。
死んでいたのは老人だった。老人が江里口のものと思われる服を着て、密室で死んでいたのだ。
*
「競馬必勝法研究会の加持です」眼鏡の奥の目をあやしく光らせて、二年の男子生徒は名乗った。
「馬券を当てる方法を研究するんですか?」
隆史の問いに加持はなぜか偉そうに首を振った。
「ですから、われわれが研究するのは競馬必勝法です。そこのところを誤解されては困ります。われわれは未成年です。馬券はまだ買えません。いくら研究しても買えないのなら、研究するだけ無駄じゃないですか」
「はあ。それではなにを研究するんですか」
「この世にはあまたの競馬必勝本があふれています」加持の顔つきがだんだんと求道者のそれに変わっていた。
「その競馬必勝本に書かれている必勝法とはなんなのか、それを研究するのです。だってあなた、不思議だとは思いませんか? 必勝本はたいてい『的中率95%!』とか『万が一当たらなかったら返金します!』とか堂々とうたってるじゃないですか。このご時勢にですよ。そんな誇大広告を載せたら、いくらうさんくさい必勝本だとしても、訴えられたりしそうじゃないですか。でもそんな話はまったく聞かない」
「はあ」隆史は数ある候補の中から、もっとも無難な言葉を選んだ。
「それは興味深いですね」
「そうでしょう」加持は満足げに何度もうなずく。
そもそも表立って話題にならないだけで、実際には訴えられたり問題になっているのではないだろうかと隆史は思うが、口には出さない。相手は貴重な取材対象。しかも先輩だ。
「ですから、われわれはこう考えるのです」加持の口調はますます熱を帯びていく。
「あの広告は本当に嘘を言っていないんじゃないかと。本当に95%当たるようにできているんじゃないでしょうか」
「でもそんな必勝法が実在したら、ええとJRAでしたっけ? 主催者はつぶれてしまうんじゃないですか」
「そこがみそですよ!」うかつに隆史が口をはさんだせいで、加持は喜色満面になった。
「必勝法は本当である。必勝法は嘘である。この二つの事象が同時に存在しうる、ある答えがあるんですよ。それは……買い目が山ほど出てしまう場合です」
「はあ、なるほど」買い目ってなんだろうと思いながら隆史はうなずく。
「つまり、必勝法によって導き出される買い目が山ほどあったら、この二律背反する事象が矛盾なく成り立つのです。的中率95%、当たらなかったら返金。それは嘘でもなんでもありません。事実、ほとんどのレースを的中させることができるのです!!
――これが当競馬必勝法研究会が導き出した、現在における至上の回答です」
「あの、ところでちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか」隆史は素朴な疑問をぶつけることにした。
「わざわざ研究しなくても、その必勝本とやらを買えばいいんじゃないでしょうか」
これだから素人は困るという顔で加持は露骨にため息をついた。温厚な隆史は気にしないことにした。取材相手だし。先輩だし。
「いいですか、われわれはあくまでも研究会なのです。研究することに意義があるのです。あなたねえ、たとえばドラえもんは便利な秘密道具をたくさん持ってるでしょ? なんでもできるでしょ? でも大好物のドラ焼きを自分で大量生産したりはしないでしょう? つまりはそういうことです」
さっぱり解らないたとえだった。
「たいへん興味深いお話でした。ところで例の事件についてなんですけど」
「要するにね、お金がないんですよ」突然加持はぶっちゃけた。
「あなた必勝本の広告って見たことありますか? あれって不思議と相場は決まってて、だいたい3万円なんですよ。3万円。大金です。部費も下りない研究会ふぜいが、おいそれと払えるわけないじゃないですか」
「大変ですねえ。ところでついでですみませんが、例の事件について話してもらえますか」
ようやく話は本題に入った。
競馬必勝法研究会ただひとりの研究員は、事件の貴重な目撃者だった。
「江里口君のことなら知ってますよ。一年のとき同じクラスでしてね、最近はあの箱のことで有名ですし。たしかに、その空き教室に飛び込んだのは江里口君でした」
加持の指さす先、競馬必勝法研究会の研究室こと、旧校舎3階の旧化学実験準備室の目の前が、旧地理科準備室である。準備室といっても、現在は授業にまったく使われていない。恐山から箱を奪った江里口はその教室に飛び込み、中から鍵をかけ、机やイスでバリケードを築いた。
駆けつけた教師たちが説得をつづけたが、江里口はまったく聞き耳をもたなかった。生徒の自治を重んじる、ようするに事なかれ主義の教師たちもやむなく合鍵を持ち出し、強行突破を図った。だが行く手には厳重なバリケードが築かれており、扉は開かない。
膠着したその現場に現れたのが、日向香織である。
「あれはすごかったですよ」研究成果を語るときと同じくらい興奮しながら加持は言う。
「日向さんが現れるなり、並みいる教師たちに『おどきなさい』と言い捨てて、いきなりロー、ミドル、ハイの連続キックですからね。ドアが砕け散って、積まれてた机もイスも、一気に吹っ飛んだんですよ。髪をかきあげながら悠々と中に入っていって、すごく冷静な声で『……間に合わなかったみたい』って。かっこよかったな~~日向さん」
「はあ」
江里口がこもり、日向香織がドアを蹴破るまでの1時間半のあいだ、教室に入ったものは他に誰もいなかった。入れるはずがなかった。だが密室からは江里口は消え、老人の死体が現れた。残されたのは空っぽの箱がひとつ。
老人は江里口なのだと、やはりあれは本当に玉手箱だったのだと、誰もがうわさしていた。
*
「やだ、それじゃ私まるで怪獣じゃない」日向香織は心外そうに細い眉を八の字に曲げた。
「いくらなんでもローやミドルじゃドアなんて蹴破れないのに。飛び膝で破ったのに」
ハイキックにしろ飛び膝にしろ、蹴破ったことは同じじゃないかと隆史は思うが、乙女心は難しいようだ。
「それで、弘長君もあの箱が玉手箱だったと信じてるのかい?」
鬼のかく乱から回復したばかりの北条丈文が、にやにや笑いながら言った。
「それは……僕だってそんな馬鹿な話は信じてませんけど、でもそうとでも考えないと説明がつかない事件ですし」
「信じてるんだね? 信じてるんだろ?」鼻をかみながら北条は小馬鹿にしたようにくり返す。
「浦島太郎も竜宮城も乙姫様も存在してるって、幼稚園児みたいに信じちゃってるんだろう?」
「丈さんはもう真相が見えたんだ」日向は机にほお杖をついた。
「なら、後輩をいじめてる暇があったらさっさと教えなさいよ」
「香織ちゃんは怖いなあ。病み上がりなんだからやさしくしてくれたっていいじゃないか」
「ただの鼻風邪で5日も休んだくせに」
「香織ちゃんにうつしちゃったら大変じゃないか。僕は君に鼻水なんてたらしてほしくない」
「あらそう。それはどういたしまして。で、答えはなに?」日向の唇の端がひくひくしだした頃、控えめなノックの音が響いた。北条が勢いよくドアに駆け寄る。来客は恐山通子だった。
「やあやあ、ようこそ新聞部に! なにもないけどそこの弘長君がお茶くらいなら出してくれると思うよ。彼は一年生だけどとっても気が利くんだ」
北条がうやうやしく引いたイスに座った恐山は、こわごわと尋ねる。
「あ、あの、私、ここに来れば事件の真相を教えてくれるって、それで」
「今回は災難だったね。それじゃあ恐山君が来てくれたところで、説明するとしようか。
なあに、今回の事件は簡単なものさ。でも恐山君はもちろん江里口君にとって大きな災難だった。江里口君なんて命まで落としたんだからね。ああ、そのことについて責任を感じる必要はないよ。あれは不幸な事故みたいなものさ。それに……江里口君は本望だったんじゃないかな」
「本望?」
「そうさ、だから恐山君が気に病むことなんてない。――ところで、例のものは持ってきてくれたかな」
恐山は胸に抱えるようにして持っていたバッグから、風呂敷包みを取り出した。ほどかれた中からは、くだんの箱が現れた。
「警察から返してもらったんだ。中身は見つかった?」
「中身?」日向の問いに恐山は首をかしげる。
「あの、これ……中身は、ないんです。なにも」
「そうなの? 現場にバラバラに散らばってて、他になにもなかったから、てっきり中身はどこかに行ったんだと思って」
「バラバラ?」今度は隆史が首をかしげた。
「バラバラってどういうことですか」
「その箱は秘密箱なんだよ」北条が答える。「カラクリ箱とも言うね。箱根の寄木細工なんかでよくあるだろう、一定の順番で板を引き抜いたりしないと、開けることのできない立体パズルみたいなものさ」
「なんだか、そう聞くと玉手箱とはずいぶんイメージが違いますね」
「だから言っただろう。その箱は玉手箱なんかじゃないのさ」厳密には言ってないような気がするが、北条は胸を張った。
「あの、教えてください」恐山がすがるような目を北条に向けた。
「この箱が玉手箱じゃないなら、どうして箱を開けた江里口君は年を取ってしまったんですか? それともあのお年寄りは江里口君じゃないんですか? だったら江里口君はどこに消えたんですか?」
「まあまあ落ち着いて」立ち上がった恐山の肩を押して座り直させ、あくまで余裕で北条は言う。
「僕にはなんでも解ってる。彼の死因はもちろんのこと、享年までね」
「死因と享年が? どういうこと。もったいぶらずに言いなさい」
日向の鋭いひとにらみにもひるまず、北条は人さし指を立てた。
「その前にヒントをあげよう。江里口君は、この箱が秘密箱だったから死んでしまったのさ。もし普通の箱だったら、こんな事件は起きなかっただろうね」
「だから死因と享年は」日向の瞳が燃え上がる。さすがの北条もそれ以上はもったいぶらなかった。
「死因はもちろん老衰さ。そして享年はたぶん80歳だ。――これだけ言えば、もう解るだろう?」