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「お前、捻挫してるんじゃないのか」
思わずそう零してしまう、したくなる状況だった。
校内の丁度いいデッドスペースをくまなく探した夕斗だが冬木の姿は見つけられなかった。こういう手合定番の「学校の屋上」は屋内からのドアは基本施錠され、屋外から繋がる非常階段もフェンス状のドアに南京錠で遮断されている。
が、冬木はその屋上に居た。そんなまさかと、内心で自分を嘲笑いながら最後に訪れた場所が大当たりだった。
死角の多い屋内のドア窓からではなく、全景の見渡しやすい非常階段を登ってきたのだ。フェンス越しに冬木と目が合う。塔屋の裏側には錆びついたパイプ椅子が一つ置かれ、そこに冬木は腰をかけている。よく見ると近くの隅にも放置され鈍く色あせたパイプ椅子があり、他にも劣化したゴムホースやバケツが転がっていた。
「何か、用?」
昨日初めて掛けられた言葉に近い響きで冬木は言った。表情には若干の驚きが見える。
「いや、少し話がしたいと思ったんだが」
「…わざわざこんな所にまで来るのだから。そうでしょうね」
「それとその、足は平気なのか?」
「心配してもらう程ひどくはないわ。普通に生活していれば1周間ぐらいで治まるみたいだから」
「そうか…」
視界に嫌でも目に入る隔たりがあると少しだけ話しづらい。冬木の声は認識できるのだから顔をまじまじと確かめて会話する必要はないのだが、そういう癖になっているのだろうと夕斗は自覚した。
思い切ってフェンスの網目に指と足を掛けてぐっと体を持ち上げる。中々の力を要してガチャガチャと派手な音でフェンスを揺らしながら、どうにか屋上へと降り立った。
「よっ…と!」
この手順を冬木も踏んだのか。冬木を改めると自然と視線が足元に落ちる。彼女は左足の上履きを脱いでいた。つま先だけを靴の中に入れ踵が靴の縁に乗っている状態だ。
それを訝しむと冬木は素知らぬ顔で左足を上履きに収め直す。
「わざわざ、こんな所にまで―来るのが普通だって?」
「法でも犯していないのに、私の普通をそっちの尺度で測らないで欲しいのだけど」
「待て待て、やり合うために来たんじゃない。昨日は迷惑をかけたからその礼を言いたかったんだ」
剣呑になりかけた空気を察し、一度諸々の疑念は捨てて冬木に取り繕った。
「……良いのよ、べつに。仕方のない事だし」
「そう言われると心苦しいな、怪我までさせたのに俺はどこも平気だ」
「じゃあ言うけれど、そこまでしたのだからそっちが無事じゃないと私が損するばかりだわ。気負われても染谷君は劇的に怪我を治せるわけでもないのだから」
気を遣って話しかけなくても良い、と言葉の続きを夕斗は汲み取る。突き放すような表現でも昨日とは違って柔らかい印象を受けた。声のせいだけじゃない。本当に気にするなと、気遣っているのは冬木も同じなのだろう。夕斗はどこか気恥ずかしくぎこちなく笑って彼女の言い分に甘える事にした。
「うん、ありがとう。冬木がその時に居てくれて助かったよ」
冬木は少し顔を傾けて口をもごもごさせたかと思うと、短く鼻を鳴らし外方を向いた。どこまでもむつかしい性格だ、真っ直ぐ過ぎて尖った物言いも良く言えば素直さから来るのかもしれない。
だからこそ単純に疑問があった――理由を聞いてみたかった。
「冬木はどうして、いつも教室を出て行くんだ?昨日の話と摺り合わせると、まるで」
「人を避けてるように見える?」
夕斗の言葉に割って入った声は抑揚も無く言い放った。
暫しの沈黙があった。屋上には髪を揺らす程度の風が何度も通り抜けて、白くまだらになったバケツががらんごろんとコンクリートをのたうつ。冬木は背けていた顔を正面に戻し、時折頬を撫でる横髪を首を振って除ける。その仕草の合間に少し笑ったような気がした。
「人として生きる以上は集団生活は避けられない。耐えることを養いながら、周りとの同調を求められるのに個性を磨かなければいけない。そこに組み込まれてる自分が嫌なのよ。そしてそれを当然として、当然ならどんなふうにこなしても同じだと考えてる人達も」
彼女の口からはすらすらと、淀みなく事由が出てくる。意思と言うより用意されていたかのような単調さで、悲憤を噛み締めたわけでも諦観を決め込んだらしい含みを一切感じなかった。昨日ならまた不快に感じただろうが今は胸に釈然としない引っかかりがあった。
ううん、と唸り天を仰ぐ。見上げた秋空は青く、薄い雲が帯状にもやをかけている。
「そんな事を考える奴が、人を待って謝ったりするとは…俺には思えない」
天上を向いたまま呟いた言葉は冬木に届いただろうか。応答は一切なく、風が耳を抜ける音と物悲しい金物の声しかしない。
「事の最初もそうだ、中容はともかく義理を通そうとしてる。それに他人に連絡先を教えるのは特に矛盾してる」
徹底して教室を出て行く程の嫌悪を持ち続けているのなら、自分がその不条理の一部に捕まるような事をするのはおかしい。連絡が取れないとやきもきさせるより教えずに居たほうが自分への不干渉は多い。結果、彼女へのメールは届いていないがこの正味を語るには情報不足だ。
もし、冬木が遠野にとてつもない私怨を抱いていて――を加えるなら意思と反する労力にも説明がつくが今朝の件を鑑みればその可能性は低いと言っていいだろう。
「きっと昨日も声をかけたのが遠野なら冬木は無視をして帰ったんだと思う。もう言われることはわかっていただろうし。実際にそういう事があったんだろう、だから遠野は手段を変えて俺に頼んでみたんだ。……で、話す内容の見えない俺に声をかけられて」
夕斗は視線を戻す。冬木もこちらを見ている。じっと動かず、しかし目だけは夕斗を捉えていて獲物に飛びかかる前の獣に似ていた。
「まあ、ちょっと変な雰囲気にはなったけどちゃんと応じてくれただろ。だから、何というか、冬木が言う割には所々詰めが甘いというか。いろんな行動との整合性があやふやに感じる」
「………だから、何?」
「もっと別の理由があるんじゃないかって…、冬木が人から遠ざかって、かつ嘘の理由でなきゃ話せないぐらいの事が」
そして本当は人から遠ざかる必要は無いのでは、夕斗は勝手な憶測を立てている。
でなければ冬木が中途半端に遠野や自分と会話する必要はないのだから。
言い終える前に冬木は椅子から立ち上がっていた。薄く唇を噛んでいるのが窺える。勢いのまま反論が来るかと身構えたが彼女は黙って言葉を探している。
ふと、夕斗に影が降った。太陽はまだ東寄りに低かった筈だが――と、思うが早いか塔屋の上を何か(・・)が飛び出してくる。
それが人だと理解はしたが突然の事に体は動かない。反対に冬木は電流のような反応でこちらに向かって腕を突き出しながら突進してくる。勢いと細い腕に絡め取られて夕斗は体勢を崩し、力の向けられるまま身を許す。
焦茶色の髪越しにその影の主を見とめた。
ガガガガガガッ!!
硬いものが無理に削られる強烈な断続音に、塔屋の壁に沿っていたはずのパイプ椅子があちこちにぐにゃりとひしゃげて宙を舞った。対極に一人の少女が屋上に降り立つ。
腰ぐらいまで垂れた黒い三つ編みに、軍服のようなカーキ色の制服。瞼が重い感情の薄い瞳は、側に落ちたパイプ椅子の騒音に一切向けること無く夕斗達を見下ろす。唐突に現れた黒髪の少女と床に倒れこんだ二人の間には一直線にえぐられた跡が塔屋の壁にまで続いていた。しかし、見知らぬ人物は何一つ手に持っていない。
状況を理解しようにもあまりの非日常に思考が滞る。これは悪い夢だろうか。頭を打って、実は未だ病院のベッドに横たわっているのでは―。
そんな夕斗を余所に、覆いかぶさるようになっていた冬木は体を離し立ち上がる。少女同士が対峙する形になって黒髪のが口を開いた。
「冬木式乃」
発せられる言葉は夕斗の前に居るものの名であり、その事実に驚いているのは一人だけで冬木は憮然とした表情で前方を向いている。彼女たちは既知の仲ではあるらしいが、その関係は平凡とした表現ではない事だけが今現在で把握出来る精一杯だった。
「―冬木式乃、貴女を処罰します」