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夕刻の病院内は静かで今にも照明が落ちそうな程、待合室の明かりは絞られていた。
学校からの連絡を受けて先んじて受付をし、待っていた家族がソファから腰を上げて夕斗を迎える。
長身で痩せ型、髪をハーフアップにまとめているが丁寧にされた様子はない。目つきが悪く見えるのは寝不足のせいだ。そのせいで顔色もすこしくすんでいる。染谷玄二――夕斗の父親である。
もう少し身なりや生活態度に気を使えば歳相応以上に若く見えるだろうに、と夕斗は常々思っている。
「なんだ、思ったより大丈夫そうだな。先生は?」
「駐車場で帰ってもらった。親父も電話で話したんだからいいだろ」
「お前がそう言うなら俺はいいけど。……本当に倒れたのか?」
あまりに平常な容体に遠慮無く疑いの目を向けられるのも無理はない。夕斗は薄ら笑いしか出なかった。自分でも信じられないぐらい、体の不調は感じていない。確かにあの時、目眩を感じたとは覚えているが気絶する程の症状ならこんなに早く快癒する筈はないだろう。
二人はソファに腰掛け直す。合皮の硬い音がしんとした広間に響く、奥で人が動いている気配がしているがまだ声がかかる様子はない。
こちらから診察室に向かったほうが早いだろうか。
「なあ、夕斗」
掛けられた声は父親のものだろう。すぐ横に顔を向けると腰を深く落ち着けた玄二と目が合う。
何かと口を開く前に片耳に不自然な圧を感じる。それは耳たぶを抓んだ玄二の指によるものだった。その間の抜けた行動とは裏腹に、続いたのは重い声色で広いロビーでは更に明瞭に耳に入る。
けれど夕斗が聞いているのは本当の玄二の声ではない。
「本当になんともないのか」
どくん、と動悸が乱れる。これは体調の、聞かされただろう倒れた事についての問いかけではない事を夕斗は知っていた。
勿論、耳の不調の事は玄二も知っている。寧ろ夕斗が物心つく以前から治療に苦心してくれていたらしい。しかし現状の通り、立行かなくなってしまった。いつかの――遠い日の父の告白を思い出し夕斗は目を伏せる。
――夕斗。お前にはとても辛いことだが、それを明らかにしなくちゃいけない―。
「……なんともないって。早く帰って飯にしよう、流石に腹が減った」
玄二の返答を遮るようにソファから立ち上がる。
耳のことはまだ言えなかった。いつか、父親の声も正しく聞くことが出来るだろうか。
そのまま人気のある明かりの強い方へと、夕斗は独りで歩き出した。
■
病院では異常なしの結果が認められて翌日の登校を許された。原因ははっきりとしたものがなく、体調不良とされ経過観察となった。
もう一方の「症状」の方に変化は見られなかった。病院、登校中の電車、駅――殆どが他人であるがその声は全て等しく、自分以外の「集合体という生き物」としてまとめられてしまう。
誰かが馴れ馴れしく友人にかける声、露骨に口に出す悪態、無理を通す前置きの謝罪。自分に関係ないと思い込んでも、もしそうでなかったらと疑心暗鬼になる。聞こえなかったと言うのは簡単だが万能ではない。
夕斗は人の多い場所ではなるべく見通しがよく、且つ背後に人が存在できない位置を選ぶことにしている。視界に入る位置関係での会話なら口元を確認しやすい上に、死角からの不意打ちを防げる。
しかし、学生生活は夕斗に優しくなかった。基本的にどの空間も余りある広さで、自分を知っている人間が複数存在している事が一番辛い。
同年代の言葉はどれも似たような口調や言い回しで、顔を突き合わせていない限り特定は困難だ。
それでもなんとか、この16年間やってきた。半ば諦めていた体質にまさか進展があるとは夢にも思っていなかった。
それが例えたった一人の声でも。
「染谷くん…!その、大丈夫なの…?」
教室に入ると真っ先に名前が呼ばれ慎重に室内を見回す。おそらく、席を立ち上がって夕斗に不安げな表情を向けている遠野里織だろう。自分の席に向かいながら片手を上げて応えると、がたがたと机椅子の波を縫って近寄ってくる。
「具合が悪いなら頼み事なんてしなかったのに…。ねえ、ほんとに学校来て大丈夫?」
「頼んだって…ただの伝言だろ。こっちこそ心配かけたみたいで悪い。この通りもう何ともないから、な!」
「そう…なら良いんだけど…。連絡ないと思ったら病院に送られたって聞いて…」
出来る限りの笑顔を作り無事をアピールする。夕斗のわざとらしい笑顔に安堵したのか遠野は強張っていた肩を撫で下ろした。
倒れたことが半日も経たずして噂になった方が気にかかる。あの時間帯ならば保健室まで夕斗を運ぶのを目撃する生徒も少なくないし、男一人を運ぶのに冬木だけでは力不足の筈だ。助けを求めたとするなら情報の波及はまた速いだろう。
出来れば極力声の掛からぬように、目立ちたくない。
「そう言えば今日の朝に冬木さんが学校の前で待っててね」
「学校の前?」
「ううん、正確には駐輪所かな。私、自転車で通学してるんだけど冬木さんも同じみたい」
「自転車…」
昨日、保険医は冬木に足の事を言っていたのを思い出す。自力で帰ると夕斗に目もくれず去って行った彼女の怪我は大事ないのだろうか。
「それで足を捻挫しちゃったから練習には付き合えないって言われたの。
悪いけど嘘かなって疑ったけど…本当みたいで。謝ってくれたしね」
「?」
最後の言葉の意味が計りきれずに返答に戸惑いに眉を寄せる。確か冬木は一度、明確に練習の参加を断り、そして遠野の催促を疎んで逃げた。
遠野は一つため息を吐き、やんわりと諦めを含んだ笑みを浮かべて話を続ける。
「自分勝手に逃げられたことじゃないけど、練習に出れなくてごめんなさいって。
なんだろう、ちょっと意外でいいよって言っちゃった。怪我も仕方ないことだし」
「まあ…あの感じだと謝ったりとかしそうにないもんな」
「不良の善行は輝いて見えるのよね。本当は参加して欲しかったけど…。
ほら、冬木さんずっとクラスで孤立してるし、きっかけになればいいと思ったんだけど」
お節介なのは承知で、と加えて肩を竦めて冬木の席を見た。相変わらず座るべき当人は居ないが机上にはしっかりと一限目の準備がされている。
また何処かに行っているらしい。怪我をしているなら大人しく席に留まっていても良いだろうに。
夕斗は声の件といい、迷惑をかけた礼を言うべくもう一度冬木と話したかった。
「なあ、冬木が何処に居るのか知ってるか?」
「知ってたら苦労しないよ。そもそも探す時間もそんなに無いし」
最もな意見だ。予め目的地を決めている相手と、その居場所をゼロから探す身では明らかに不利すぎる。
思案する夕斗を余所に、遠野は伝言の礼を言った後に委員会の用があると教室を出て行った。
早めに家を出た甲斐があって未だ始業までには30分ほど猶予がある。冬木に倣って授業の準備を済ませ、夕斗は彼女を探すべく教室を出る。
先ず教室を避けるように出て行く彼女がわざわざ人の多い場所に移動する可能性は低い。
早足ならば校内を全て回れるだろう。スマートフォンを片手に時間管理をし、夕斗は人気のない場所を巡ることにした。