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「頭は?強く打った?」
「いえ、咄嗟に腕を掴んだので…そんなに強くは当たってないと思います」
「それはお手柄ね、女の子なのに男子一人支えるなんて賞状モノよ」
「はあ…」
「じゃあ先生はちょっと連絡してくるから、冬木さんは少し待っててね」
がらがらがら。
劣化したドアの独特の音が室内に響く。音が静まって行くのと入れ違いに夕斗の意識は浮上した。
くすんだ白い天井、シーツ、レールカーテン。辺りを見回そうと頭をずらすと枕が静かに鳴いた。ここはベッドの上―――保健室で間違いないだろう。
保健室に運ばれた以上自分が「あの後」に気絶した事は明白だ。だがあの強い目眩、まるで二つの渦がぶつかり合うような激しい歪みの原因は分からない。今も少しだけ胃の上の辺りが気持ち悪い。
夕斗は大病に罹患しているわけでもなく、似た症状の何かを過去に患った記憶はー。
「…起きてるの」
「…っ!?」
カーテン越しに声がする。蛍光灯の光で満たされた室内では布一枚隔てた人物の影は映らない。
夕斗は驚愕した。体が少し震えているのを自覚するほど、動揺を抑えきれなかった。少しでも誤魔化そうとゆっくり上体を起こす。衣擦れと布団がくしゃりと音を立てて代わりに返答をする。
もう一度。もう一度、声が聞きたい。
息をするのも忘れそうなぐらいにじっと身を強張らせ、声のした方向のカーテンを見つめる。反応はない。
向こうも様子が分からずにいるのだろうか、こちらから声を―。
「おまたせ、ご苦労様ー。万が一があるから彼を病院に送ろうと思うんだけど、冬木さんも来る?」
「いえ、私は大丈夫ですから」
「そう?でも足に負担かけちゃだめだからね」
夕斗の決意は来訪者の登場に阻まれたが、望みは叶う結果になった。そして確信する。
しかし確信を得ても未だ困惑は大きい。両耳を掌で擦るとくぐもった肌の鈍い音が鼓膜に響く。
カーテン越しの声の主は冬木式乃で―――と会話を交しているのは保健医か、もしくは担任、いずれかの教師だと推測する。
この推測は会話の内容から成り立つものだ。実際に確認をしなければどちらかは夕斗には断言出来ない。
何故か。
他者を特定の人間だと認識するのに必要な能力を夕斗は欠如していた。人間の発する声を聞き分けられないのだ。
すべての声は等しく、男女の差もない。その等しい声が「だれか一人」に聞こえているわけでもない。目の前で喋られてもそれは変わらない。ただ言葉や声に乗せられた感情はしっかり理解できるため、内容と喋っている口元を必ず視認してから人と話すようにしている。
その判断を速く、冷静に切り替えることで夕斗はなんとか生活をしてきた。
冬木式乃も夕刻に話した時は「等しい声」だった。だが今は違う。
教師だろう人物と話す声は一方と比べてとても鮮やかで、くっきりと耳に入ってきた。高過ぎず、かと言って低いわけでもない。静かでも凛と響く、夜に鳴く鳥を夕斗は思い出す。
先の意識を失った時に頭を、人間の最も複雑かつ繊細な脳に何かしらの刺激があって彼女の声を聞き取れるようになったのだろうか。いや、まだ彼女だけと決まったわけではない。
もっと人数を試行して確かめなければ。
そろそろとカーテンが引かれて中の様子を窺う保険医と目が合った。体を起こしている夕斗を認めるとカーテンを大きく開け放った。保険医の奥にいる冬木はこちらを向いては居ない。
「…お、目が覚めたんだね。具合はどう?」
「あ、はい。もう平気なんで…」
「一応病院まで連れて行って、そこでご家族と待ち合わせる事になったから。動けそうなら準備して頂戴」
「はい、…どうも…すいません」
原因の分からない自身の不調に寄る辺無さを感じ、頭を掻くついでに頭部を全体的に触ってみる。たんこぶ程度の腫れも見つからない上に痛みも無い。体にも打ち付けた痛みは感じていなかった。
あまりの無傷ぶりに疑問を抱くが保険医の言うとおりにするべく、ベッドから降りて脱がされただろう上着を羽織る。
「じゃあ、私はこれで」
「気をつけて帰るんだよ。冬木さんも何かあったら病院行ってね」
「…っ、ふゆ」
慌てて振り返り冬木の姿を追うも、既に遅くドアの閉まる音だけが届いた。
それでも夕斗の密かな興奮は冷めずにいた。どくどくと自分の鼓動が耳の内側から響いている気さえする。
もしかしたら、と。
それはこの原因不明の症状が治るかもしれないという、夕斗が失くしかけていた淡い期待だった。