はじまり
小さい事、祖母は分厚い革に閉じられた本を持ってきて私に読み聞かせてくれた。始まりはいつも同じで、昔々から始まる物語は私を虜にしていた。
「今とは違う新しい景色が見えてくるのよ」
「よくわからないよ、ばーばぁ」
眠れない私のお腹をとんとんと撫でつけてくれる祖母の顔はとても優しいものだった。私は祖母のしわしわの手が大好きだった。だから、祖母が分厚い革の本を持ってくるようにわざとぐずって、そのしわしわの手を握ってあの話を聞くのだ。
「じーじぃのお話してもして」
「そうだね~宙はおじいちゃんが大好きだものね。おじいちゃんとは、この本がきっかで出会ったのよ」
ぐずる孫の姿でも嬉しいのか祖母は毎回飽きもせず、楽しげに祖父とのなれ初めを話してくれた。祖父は私が生まれる前に他界し一度も会ったことがない。でも、白黒で色褪せた写真に写った若い時の祖母と祖父は、とても美しい夫婦だったように思える。椅子に座っている祖母の手を大事そうに握っている祖父は少々照れていて祖母は照れている祖父の顔を見て笑っている。小さい私はこの写真が物語に出てくるような幸せな恋をした恋人同士に見えて、写真を見るたび胸がドキドキしどこかむず痒くなる。写真に写された二人の世界が羨ましかったのかもしれない。しかし、大人になってから見た写真は子供の頃に感じたどきどきと同時に、無性に涙が出る思いに駆られのを感じた。
祖母は楽しそうに、毎日物語を読んでくれる。
「ばーばぁ!空も本の世界に行きたい!」と私が両手足をばたつかせると祖母はきっと行けると言ってくれた。
「貴方が願うなら扉は開くわ」と言うのだ。
白くて大きなお城が見えた気がする。それは夢だった気もする。
「おやすみなさい。宙」
掠れ行く意識の中に祖母の声が聞こえた。
けたたましく朝を知らせる目覚まし時計の音が頭に響く。寝ぼけ半分でアラームを止めると時計が顔に落ちてきて鼻を潰した。いてっと言って薄目を開けて時計を見ると時間は9時を指している。そして、急がねばと頭で冷静に考えているが体はまだ言う事を聞いてくれそうにない。一度深呼吸をすると勢いよく布団を蹴飛ばして起き上がった。
「あんた、また遅刻~。単位落とすよ!マジで。」
向かいに座った彼女は小学校からの友達だ。友達になるきっかけは家の近くの川で取ったザリガニを私が彼女に向けて投げつけたことなのだが…。それも理由あってのことだ。近所には大きい野良犬が時々出現する。それはこの地域の子供たちにとってはギリシャ神話に出てくる顔が3つ付いている獰猛なケロベロスと同じ扱いなのだ。ケロベロスに襲われていた彼女を私がついさっき釣り上げたザリガニで救ったのだ。ケロベロスはザリガニが好物だ。バリバリとザリガニを食べている隙に彼女の手を取って逃げて無事救出できたというわけだ。これが出会いだが少し与太話をすると、当時の彼女は男気全開の私に一目惚れして小学校の修学旅行で女子風呂に入ってきた私が本当は女子だと知った途端大泣きして、青い初恋は崩れさったらしい。
学食のSランチのソーセージをブスッと刺して呆れた様子でフォークを向けてくる。
「行儀悪い。しょうがないじゃん。昨日寝るの遅かったんだからさ~」
「いや、それ理由になってない。また、遅くまで本読んでたでしょ」
「私の数少ない趣味」
「呆れた…。読書が趣味ってとても知的でいいと思うけど、学校生活に支障出るまで読むのは駄目よ」
「分かってるけど、一度読みだすと止まらないんだよ。区切ると面白くないもん!」
「もう何も言わないわ・・・」
呆れた顔で彼女はこれ以上説教するのをやめてしまった。
小学校の頃は地元の男子を束ねて裏山で猿真似をしていた宙だが、中学に入ってからというもの祖母が帰らぬ人になってしまってから彼女をすっかり地味で面白味のない子になってしまった。今まで外で泥に塗れちゃんバラごっこしていた子がいつしか室内で静かに本を読んで外で遊ぼうとしなくなった。最初の頃は子分のように従っていた男子も宙の様子を心配していたが、男というのは薄情なもので楽しい遊びを見つけたら空の事はさっさと忘れて離れて行ってしまった。
「今日わかってるでしょうね?」
「前言ってた北桜大学との合コンだっけ?パスでお願いします。」
「残念、強制参加だから!北桜大学から声かけてくれてるのよ!しかも名指しであんたと会いたいって人もいるんだから」
関東は日本の主な産業都市だ。首都、東宮都は海外との貿易の拠点。東営都の右には千海県で工業生産地。同様に北にある北桜県も工業産地と農業がさかんで関東では少ない自然が豊かな場所だ。西と南には埼西県と浅山県があり、エネルギー資源が取れる場所がある。日本の北側に行くほど砂漠がひどくなる。北桜県に桜の文字が使われているのは日本の北側で最後に花を咲かせることが出来る場所が北桜県だからだ。北桜の県境の森を超えると砂漠と荒れ果てた昔の建築物が砂被りにあって半分だけ姿を見せている。昔の大地震で起きたプレートのずれから見られるものらしい。過去の日本はもっと広かったというけど、正直私にはどっちでもいい。食べていくのに不自由しなければ問題ないのだから。
この友人は静香と言う。200年も昔の漫画家が書いた漫画に出てくる女の子と同じらしく、彼女は古臭くて嫌だと言うが周りは大して気にしていない事に気づいていない。静香は今どきの女子大生だ。大学に入ると髪を茶髪に染め、女の子らしくお化粧もしている。日々、自分を磨くため化粧の仕方や似合う髪形を試行錯誤しているおかげか、大学でも顔を知られているみたいだ。元々が綺麗なのだからダイアを綺麗に磨いたら輝きが増すのも当たり前だ。しかし、少々目立ちすぎて彼女の隣にいると嫌でも比べられる。気にしなければいい事だが、視線と言うのは耐えられるものではないから胃が痛くなる。
「名指しって…私は会いたくないよ。合コンでの出会いって健全じゃない気がする」
「何言ってるのよ。別に厭らしい事をしようってわけじゃないでしょ!あんたはどこの少女漫画の主人公よ。色んな人と会って話せば、こういう男もいるんだって分かって悪い男に引っかからないの!それに北桜大だし」
「北桜ね~」
北桜大学とは関東の4つの都県に各1校ずつ建てられた国立大学の一つ。成績優秀で才あるものしか入れないというマンモス大学。国の政治家や芸能人、画家、音楽家などの子息子女が国で才能を認められるかもしくは、一般人が難関の試験に合格し入る大学だ。私としては、マンモスというよりティラノサウルス並に得体のしれない遠い時代で生きる生命体の巣窟だ。
その北桜大の男子が何用で私を名指ししなのかも疑問だが、それ以前に何故私の名前を知っているんだ・・・。
「そりゃあ、どこかであんたと会ってるんじゃないの?」
「知らない。ていうか、北桜と接点なんて持てる程、私の行動範囲は広くない」
「そうよね。バイトか家か図書館の本の虫になる以外ないもの」
「バカにしてる?静香・・・」
「してないわ。あんたって生活に色がないなって」
「いいの!今の生活が幸せだし、満足してるの!」
静香はまた深いため息を吐いて、特盛Sランチ定食を食べてる友人を呆れた眼差しで見つめる。
「絶対、行かないから。彼氏とか今はいい。それに北桜だかなんだか知らないけど頭がよくったって人の頭上に乗りたがる人と会う気にはなれない!」
「それを偏見っていうのよ。ばーか」
「頭がいい人なんて大抵上から目線じゃん。それに、自分のスペックに自信持ってて自意識過剰だし」
「そうじゃない人もいるでしょうが」
今までのあった男の数からくる経験の話なのか、それともただ、私が偏見と斜めのひん曲がった思考の持ち主だから人と違って物事を見ているのかは分からない。ただ、容姿がいいだけじゃなくて考えも真面目な静香が羨ましいとは思う。
「分かったわ。無理に連れて行くのもあまりしたくないもの。でも、北桜の彼あんたに凄く会いたがっていたのは本当よ。私驚いたんだから。結構必死だったし。あんたが行かないのは凄い残念だけど、今回は北桜男子をゲットしてみせるわ」
ウィンクした静香も様になっているから憎めない。その彼というのは少し気になったけどやっぱり知らない人と親しげに話すのは気が引ける。別に赤面症というわけではないが、人並みには恥ずかしいし今は出会いを求めていない。いつか現れるだろう自分だけを見てくれる人と偶然にステキな出会いをして胸が熱くなる恋がしたいとは思うけど、きっとこんな事を静香に言ったら、そんな少女漫画みたいな出会いは現実ではありえないって言うに違いない。
宙が最後の一口を食べ終えると食器を片付け次の授業に向かった。
授業が終わると都会の雑踏に紛れてバイトに向かう。借りている家の駅から2駅離れた本屋でバイトをしている。それ程大きい店ではないけど、古びた木目の看板と今では凄く珍しいちゃんとした瓦屋根は歴史を感じて好きだ。ここでは、新しい本も売っているし、今では手に入らないかもしれない本も探せばあるかもしれない。ようは店長の好きな本がたくさんある古本屋だ。科学革命前の本が残っているのは珍しいので、私のような本命といったお客さんが訪れる。私がこの店に最初に来たのは客としてだった。こういう古びた木造建築が好きで(本屋と言うのもあるが)入ってみると、私にとって宝の山みたいなところだった。本を買って3日に一回のペースで通っていたら、店長と仲良くなり働かないかと進めてくれたのだ。
「あっ宙さん~今日もう上がっていいよ~」
眼鏡をかけた店長は棚整理をしていた空に声をかけた。
「わかりました~お疲れ様です。明日はシフト入ってないですけど、新人の高光さんて方来るんですよね?でも、新しい人雇っても大丈夫なんですか?その・・・経営的に」
店長ははははと笑って続ける。
「ありがとう宙さん。この本屋は副職みたいなものだから大丈夫だよ」
「なら、いいんですけど。あ、明日何か問題起きたら電話ください!手伝いますから」
「ありがとう。本当に助かるよ」
「いいえいいえ。店長にはお世話になってるので!じゃ、お疲れ様です~」
店長は謎が多い人だ。年齢は大体30歳前半だろう。清潔感あるおじさんって感じだけど本屋が副職って…一体本職でどれくらい稼いでいるのか。まあ、それもどうでもいい事だ。
エプロンを取って従業員通路を通って事務室のロッカーを開ける。エプロンをしまい退勤カードを押し携帯を確認したら夜の11時になっていた。
家の最寄り駅で降りて、近くのコンビニに寄るとお握りやお弁当は殆ど残ってなかった。
「今日は久々に一人晩酌しようかな~…チューハイを入れてと」
特別お酒が好きなわけではないが、極たまに大人の気分を味わい時にお酒好きにはジュースでしかないチューハイを買って飲む。
「あ。あんまん2個ください」
そして、甘党好きも伴ってか冬のコンビニに寄ると必ず、あんまんを2個買う。
コンビニの袋片手に目的地に向かがバイトの疲れが少しずつ出てきて足裏が痛い。
家の裏手にある小さな公園で夕飯を食べるのは良くあることだ。今回は晩酌目的であるが。高台にあるその公園はベンチと大きな桜の木があるだけの簡素な場所だったが空はそんな公園が好きだった。高い場所にあるせいでわざわざ登ってまで公園に来る人も滅多にいないし、高台にある安い賃貸に暮らす苦学生達も寂れた公園にわざわざ一人でこようとは思わない。しかし、ベンチに座って見る都会のネオンの景色は宙のお気にいりだ。
ガタンゴトンと遠くから微かに電車の通る音以外はしない。でもキラキラと輝くネオンは現代的であるが星空とよく合っている。
「かぁーーーー!バイト終りのチューハイおいしい!!!!そして、一緒に食べるあんまん最高!!!」
おっさん臭いが一人暮らしが長くなると独り言も増えるとは本当だ。甘い梅味のチューハイに、更に甘いあんまん2個を吟味しながら食べる。甘いあんまんでお腹も満たされ、半分飲んだチューハイでほろ酔い気分が気持ちいい。そのままベンチに寄りかかって暫く星空を眺めていたが段々と寒くなっていく風がバイトで疲れ少し火照った体を冷やしてくれた。
ふと祖母との記憶を思い出す。
目を閉じて心臓の音に集中すると、お酒のせいかいつもより鼓動が早くなっている気がした。もう、随分祖母の記憶は薄れてきている気がした。大好きだった本のストーリーも忘れてしまった。
「・・・」
最近は宇宙空間次元装置を一般化するとかニュースで言ってたっけ。
閉じていた目をゆっくりあけた。
「トンネルを抜けると雪国でした的な展開」
拝啓、おばあちゃんへ。
おばあちゃんも知ってる通り私は根っからのおばあちゃん子でした。でもね、おばあちゃん聞いて下さい。本当に願ったら扉が開くって意味今ならわかったよ…私、INASAに連行される…じゃなくて。目開いたら知らない所に来ちゃったみたいです。私、一人酒とかしたから頭おかしくなったとかじゃなかったらいいんだけど、頬を引っ張っても、自分の頬を自分で叩いてみても今見えてる物が夢とは思えないです。ていうか、痛い。
おばあちゃん。ここはどこですか?
宙より