30 温泉
01.
今でもその出来事が私には夢のように感じられる。
話だしてみれば要点は一つ。私が東北のとある旅館で少女と出会った、ということだ。
まぁ、その事で一つ言っておくことがある。誤解はしないで欲しい。私と少女がであった場所は、温泉の中であったのだ。
混浴、であったのだ。なんだか言い訳がましくなってきているのが嫌なのだが、事実なのだからしょうがない。
話は順を追ってしよう。
私がその旅館を訪れたのは少々複雑な説明をしなければならない。私は小説家なのだが、その担当している編集者の知り合いの占い師の師匠の発明家が私にその温泉を紹介してくれたのだ。色々とつっこみどころがあるだろうが、事実だ。
発明家、直木阿笠といったか、彼女は年若くそのくせ人脈や知識は並みの作家以上のものがあり、なおかつ占い師の師匠まで勤めるのだから人の悩みを見抜く眼力は優れたものがある。
私と面と向かって対面した時、彼女はこういった。
『貴方、悩み事がありますね?』
なんてことはない。彼女は当たり前のことを言ったのだ。悩みのない人間は存在しない。至極当たり前なことなのだが、本当に困っている人間からすればすがってしまう。私は困ってはいたが、六十の坂を越えた老骨が若輩に頼るほど落ちぶれてはいなかった。
けれども紹介してくれた占い師のメンツもあったからきくだけ聞くことにした。
小説の悩みですね、彼女はいう。確かにその通りだ、次の一言で的を射なければ返ろうと思った。
その矢先だ――
『貴方は自分の書いているものと、世間の認識のずれが辛いのですね?』
私は――いらついた。
見透かされた動揺に、困惑、羞恥。そして怒り。怒りが一番最初に思ったことだ。それに態度には出さなかったけれども、阿笠は見抜いたのか苦笑いを浮かべた。
『怒らないでくださいよ』
怒ってなどいない、そうこぼす声音が老いた耳でも偽っていると解るように響いた。阿笠は次の言葉で謝罪はしなかった。
『貴方はライトノベル、というジャンルを書いている。中高生、まぁ、十代から二十代前半の読者を対象としたお話だ。貴方は五十を数えてから作家になった。ライトノベルの大手出版社で佳作を取る。六千を超える応募総数の中で凄い話ですよね。貴方の凄さはそのまま武器になった。まず、五十歳という歳で若年向けの話を書けるという凄さ、文章は少し古さがあるが古いではなくノスタルジックという言葉に変換される凄さ、そして一年に何作も書けるバイタリティの面での凄さ』
私の経歴を続けながら、私の苦悩を阿笠は語った。
『書けば書くほど、自分の評価は不当だと思う。もちろん売れていないからじゃない。貴方は何歳になっても書き続けられるでしょう。もっとぜいたくな悩み。貴方は自分の思ったことに共感し同調してくれる読者が欲しいのよ』
そう、その通りだった。
私のデビュー作のキャッチコピーは『それは――恋をしたくなるお咄』というものだったのだ。恋愛もので、五十を越えていささか気恥ずかしい話であるが、それなりに売れた。累計は二百四十万ダウンロードは越えた。十二年も続けていたらそれくらいはいくらしい。テーマは単純に少年と少女、今も昔も変わらないボーイミーツガールだ。
私の中ではそのデビュー作は完結したお話ではあった。けれども担当の編集が私に無慈悲にこう告げた。
『続編が決まったので××までにプロット書いて提出してください』
私はその時はまぁそんなものと思い、編集の指示に従い新奇なキャラクタを作りラブコメの様相を呈したものを作り上げていった。
けれども、読者の声は正直だった。
――何故、次回作を出した。――一作でよかったよね。――おっさんが調子乗ったな。――五十過ぎでラブコメってどんだけリア終なんだって話www
ネットでの評判はこのようなものだ。これでへこたれるほどやわにはできていないが、読者直筆のファンレターで同じような内容が来たときは少し堪えた。
作家友達、というものも出来なかったから相談することも出来なかった。ライトノベルというジャンルは対象年齢が低いことも相まって作家陣の年齢も低い。私が出している所の出版社ではもはや私は長老という扱いだ。そう言う立場もあって私は悩みを打ち明けることができないことに拍車がかかっていた。
誰でもよかったが、誰に話せばよかったのか。亭主関白を気取っていて弱みを見せることは難しい。子供たちにも、とは言ってももう成人は越えて入るが、厳格な父であってきた。思春期の彼ら彼女らからの相談事にも乗ってきた。前に勤めていた会社の上司は出世し私と話す暇もなく、畑違いということもある。
八方塞がり、だったのだ。
八方塞がりのまま私は進んだ。
それが私の不幸だった。答えが出せないまま私は進み、結果ある程度の成功を収め続け、私という人格を無視した読者や編集、あらゆる人間関係は私を厳格に規定してきた。
筆を断ってしまおう。そう思ったことはない。けれども、休んでもう一度書けば今度こそ私の思う、私の納得のできる、成果が得られる。愚かに灯明を追い続けて――十二年書き続けた。けれども、私の真に欲するものは手に入らず、そして飾り付けだけ立派になった空っぽの箱のような人生だった。
箱の中には書き手としての感動を詰め込みたかった。けれどもあるのは、鞘当てのような感想、そしてそんな感想しか浮かばせられない自身の筆拙さ。
今ではその苦しみに慣れ葛藤も少ない。そんな自分が機械的に書いているようだ、などとも思わないではない。けれども、それが善であるかとするのは間違いである。
私は恋い焦がれ渇望し願い祈り希求し続ける。
その衝動は――
『認められたい』
阿笠の言葉に現実に引き戻され、思い出したように怒りが込み上げてきた。
けれども、阿笠が私の顔に人差し指を向けられ一瞬戸惑い、い狩りが消えた。彼女流に虚を突いたのであろう。
『ひとつお願いがあります。温泉にいってきてくださいませんか?』
何? 疑問を言葉にしたが、彼女はこう言ってきた。私の古いじっけ……いや友人に会いに行ってもらえませんか、と。
そして、最初の話に戻る。温泉に来た経緯はこのようなものだ。
02.
一人で地方の温泉に行くのは何年振りだろう。冬の寒い時期であった。京都を舞台にしたシリーズものを書いたときは地方ではないにしろ温泉街をめぐったことはあったな。私は新幹線に揺られながらそんな感慨を浮かべていた。
新年を迎え、狂騒的な正月が終わり、現実に追われる一月の二週に入り東北はなお盛んに雪が降っていた。
I県の県庁所在地であるM市からタクシーに乗り、運転手の作ったような方言を聞きながら私は阿笠の言っていた事を思い出していた。
『私が貴方の悩みを解決することはできません。けれども、私の古い友人が貴方の一助になることは確かです』
誰かに会いに行くことで私に何らかの変化が生じる、と阿笠はいう。現実とお話の世界の境界をよく知る文士に対しては何ともお粗末で現実味のない話だ。
けれども私はその話に乗った。阿笠の古い友人がいる場所は温泉だという。そこで話は温泉の効能になり、放射能泉と聞いた。
私の若い時分に大きな地震が起きて原発問題が起きたせいで国民は放射能に敏感になっていた時期がある。私もご多分にもれず放射能という言葉にはマイナスなイメージが大きかったが、その温泉の湯を飲用することで、放射線の濃度が微量であるため人体に影響はないそうだ、痛風に効くらしいそうだ。
身体の節々が痛いのに締め切りはやってくる、そんな中昔の大文豪の気分に浸りながら、温泉に入って体を癒し筆を取るのもなかなか悪くないだろう、という気が沸いたのだった。
「お客さんはどちらから来たんで?」
私は東京、と短く答えた。タクシーの運転手も中々年を食っているようでなかなかに愛嬌のある受け答えをしてくれた。
「寒いだけだってのによく来たねぇ、イーハトーブ……なんてはいうけれどあるのは田舎だけですよ。まぁ、結構田畑はなくなって家とかもできましたけどねぇ。H市や沿岸の方に比べたら見るものなんてないですよ?」
友人に会いに来たんです、と言いながら何故正月でもないのに気たと尋ねられなくてホッとした。まぁ、相手もプロである。タクシー業者は運転も必須技能ではあるが、話術も巧みでなければならない。私はこのプロの技を見て聞かないことも話術なのだなと青臭い感慨を抱いた。
「へぇ、ご友人に。いやイイですね。私も昔の友達とバカ騒ぎしたいですね。あ、でもお客さんの友達もお客さんもいいところに行きますね」
私は首をかしげた。鏡越しに運転手が私の顔を見て告げた。
「出るんだそうですよ。その温泉」
出る、と聞いて幽霊か何かを思い浮かべた。けれども、それならばいいところとはならない。運転手が冗談めかして言っているのかもしれないが、そう思えなかった。
直感で阿笠の友人と何か関係ある事のように思えた。
私が思案顔をして視線を外に向けていると運転手はこう告げた。
「――座敷わらしが出るんだそうですよ」
温泉宿についたのは夜の七時だった。外はすっかり暗くなり雪がちらついている。滞在は二泊三日を予定していた。経費で落ちない自腹なのであまり長逗留はできなかった。
私はフロントに行き、フロントと言っても大規模なホテルのような作りではなくメガネをかけた私よりも年上の女性がせんべいを齧りながら本を読んでいた、フユキシノブという女性が泊まっていないかという事を尋ねた。すると女性はぎろりとした上目遣いで私をねめ上げた。
「お宅、警察の人かい? 見えないね。うちがこんな作りだからって個人情報をしっかりしてないと思ってんのか?」
その事は謝罪した。女性の言葉は図星だったからだ。そしてから事情を話した。と言っても嘘だった。どだい友人の友人に会いに来たというのが無理なのだ。バカ正直に答えれば信じるどころか疑われる。
ネットの掲示板で知り合った男性に会いに来た、それが設定だ。まぁ、よく考えてみれば21世紀初頭にはやった詐欺に近いものはあるがこの女性も若い時分はやっていたのだろう、すんなり調べてくれた。
「えぇと、フユキシノブ? フユキって人は泊まってないねぇ」
そんなはずはない、という落胆は少なかった。それほど期待していたわけでもない、むしろメインの目的は温泉に入ることだったので問題はない。
そうですか、とこぼし私は視線を下げた。その拍子に女性が手にしていた本の表紙が、拍子と表紙がかかっているが故意ではない、見えた。
ライトノベル読まれるんですか? 私は尋ねた。女性は悪いかい、と喧嘩腰に尋ねてきた。
「二十一世紀初頭のはほとんど読んだ。今のは私には難しすぎるからね。なるたけ本で読んでる。電子書籍は幅取らないが、コレクションの楽しみが少ないから嫌いではある」
話せそうな女性ではあったがあまり締め切りもある、私は部屋の鍵を受け取り、女性の旅館の説明を上の空で聞きながら部屋へと向かった。
窓は開いていた。雪はまだ降っている。荷物をおろし、こたつに入りながら私は持ってきたノートパソコンで小説を書き始めた。
私の年代くらいの作家は既にノートパソコンで書くよりもスマートフォンで書くことの方が多かったが、私は打鍵するスペースの狭いスマートフォンよりも古くてもノートパソコンで書く方がよかったのでそれを徹している。
そして、私は部屋のコンセントにアダプタを差し込み12時をめどに話を書き始めた。
私は小説を書くときに基本的に音楽を流さない。ただでさえ老化激しく耳も聞こえなくなってきた。適度な音楽は作業効率を向上させる働きがあるらしいが、気が散ってしまうためつけない。
その代わり雪が降っているせいか何となく落ち着いたミュージックが流れているようだった。
今度の小説は新企画だった。戦う少女とその少女の支えになろうとする男の子のボーイミーツガールである。もはや私のお約束であるようであった。ワンパターンという声もあるが、私自身は書きたいという欲求があり、私自身もその物語が面白いと思って書いている。けれども、それが独りよがりなんじゃないかと時折悩む。
自分でも面白いと思えるような小説でなければ、誰にも共感は覚えない。既に他界した私の好きな作家の言葉だ。
この自分でも面白いと思える、という部分が厄介なのだ。私は冷静な性質ではない。分析を積極的にできるような性格でもないから対比という事や境界の定義付けは不得手である。自分は駄馬である。吊られた餌にばかり目がいき周りが見えないのだ。
面白いと思った核を書きとめていれば問題はないのだが、心でさえ、いや心こそ不変ではいられないのだ。
どんどん面白さが風化していく、その作家も似たような苦労をしているとツィッターで呟いていたこともあった。
私は没頭しながら小説を書いていた。打鍵する指は速く、筆が乗っているという状況だ。そんな中闖入者が入ってきた。
窓を開けているとちりんとした鈴の音がした。私がそちらに目を向けると一匹の黒猫が部屋に入ってきたのだった。ここの温泉宿の飼い猫だろうか。毛艶がいいがどこか所作がのろく私と同じように年老いた猫だった。
猫が私の方に近づいてきた。動物嫌い、とまではいかないが私はさほど猫と触れ合ったことは少ない。戸惑う私を尻目に猫は頬を私の手にすりつけてきた。
と、同時にこんこんと部屋の戸をノックする音が聞こえた。私は猫を手でのけ上書き保存してから扉に向かった。
立っていたのは旅館の女中だった。
「失礼します、クロカンが来ませんでした? あぁ、クロカンってのは猫で、うちで飼ってるんですよ」
来てますよ、と言って私は部屋に女中を招き入れた。それから先は女中と猫の闘争だ。まるでトムとジェリーのようである。アニメーションでちょっとしか見たことがないが、それ並みに両者はよく動いた。
その結果コンセントに刺していたアダプタは女中が転んだ際に引っかかって抜けてしまい、猫は窓から逃げ出してしまった。
大丈夫ですか? と内心では上書き保存していたことに戦々恐々としながらも尋ねた。
「困ったな、妊娠してるのによく動く」
猫のことだろう、確かによく思い出してみれば歳は取っているようだったが腹が大きくふくれていた。
私はどうしてここにいると思ったんですか、と尋ねた。考えてみればこの女中が地道に一部屋一部屋探しまわっていたとも考えにくくないが、捕まえようと躍起になる前はそれほどあくせくした様子は見えない。
「あぁ、今日は忘れてたんですけど、ここの部屋いつも窓を開けてるんですよ。猫が入れるように、ってのもあるんですけどそれ以上の理由もあるんです」
座敷わらしですか? 私は尋ねた。女中は食い付いた。
「えぇ、そうですそうです。見たとか、話したとかってお客様結構いらして。この部屋人気なんですよ、座敷わらしがいるって評判です」
女中は話す事が好きなのかべらべらと喋ってはいたが、肝心なことを言っていない。座敷わらしがいることと猫を入れることを説明していなかった。
私は最初小説のネタになるかもという事で尋ねた。
「えっと私も奥さん、あぁ、受付にいたおばあさんですけど、からの伝聞なんですけどここの猫は座敷わらしの家族なんだそうです」
民俗学的な呪いか何かだろうか、私の脳裏に浮かんだのはそんなものだ。だが、面白いと思った。私は懐から手帳を取り出しメモを取った。安物ではなくブランド物だ。
女中は戸惑いながらも続ける。
「猫って一回の出産でたくさん子供産むじゃないですか、一匹残して他の猫は別の家に渡すんです。そして、親猫は出産が終わった後に避妊手術をして、それを繰り返すんだそうですよ。そうしているうちは座敷わらしはどこかに消えちゃったりとかはしないんだそうです」
私は成程と思いながらやはりどうしてなのかというWhy? の部分が抜け落ちていることに気づく。けれどもこの女中から情報を引き出すのは無理でであるだろう、それ以前に受付の女性、奥さんに聞けばいい。女中も奥さんから聞いていると言っていたし。
一つだけ聞いておこうと思った、タクシーの運転手は何年から前に突如として座敷わらしが現れるようになったと言っていたが、それが何年だったかを思い出せなかった。
女中は六十年前と答えてくれた。
ありがとうと言って、興がそがれたせいかさっきまでの集中力は消え疲労感がどっと出た。私は女中を見送ってから着替えの入った袋を取り出し、今さらながらに備え付けの浴衣をはおり風呂場へと向かった。
時間は十一時であった。
03.
夜も更けてきた時間であったから湯浴みしている客は少なかった。まず私は体の旅塵を洗い落とし、髪を洗って風呂に浸かった。
一息つけた。久しぶりの温泉ということも相まって気分は爽快だ。サウナもついているようでもう少ししたら入ろうかとも思う。
ふと、気づく。ここの温泉は露天風呂もあるのかと。
そう言えばまだ雪は降っていたなと思いだす。俄然興趣が沸いた。雪見風呂というのも、なかなか乙なものではある。
私はガラス戸を開け、露天風呂へと踏み入れた。
風はさほど強く吹いてはいなかったが、塗れた体と冬の寒さということもあって予想以上に身体が冷え込んだ。
いそいそと私は露天風呂につかりライトアップされている風景を眺め見た。
川があり、その向こうは山だった。猿やら鹿やらがいてもおかしくないようだったが、今は夜で山の獣たちも眠っているのだろう。
光に雪が照らされて万華鏡に似て、そしてそれほど過美ではなく凛とした美しさがあった。惜しむらくは月が出ていればとも思わずにはいられなかった。光は強すぎて少し幻想的と呼べなかった。
肩まで湯につかり私はリラックスしながら天を仰いでいるとがらっと、ガラス戸が開く音がした。
私は気付いたがそちらの方は向かなかった。阿笠にはいつまでも書き続けられるとは言われたが、疲れがたまっていたのだろう。歳ということもある。
そして、これが私と少女の出会いであった。
まず響いた声音はまっすぐであり幼子が放つものだった。
「となりいいかい?」
そのくせ、どこか年寄りじみた言葉遣いであった。その言葉に驚いて私は振り向いた。別段驚く要素はないように思われる。まぁ、ひどく現実的な感慨であるとするならば、この露天風呂が混浴であることを知らなかった私にとっては、女性が入ってきたことによって自身が間違っているのではという危惧を抱かせたのかもしれない。
振り向くと裸身の少女が立っていた。灯明は少女を照らし撫肩のひどく壊れやすそうな体つきをしており、昔娘と風呂に入った時に見た姿よりも弱そうであった。
けれども、いやだからなのかもしれないが少女は毅然としていた。その超然とした雰囲気が本当に子供なのかという懸念を私はいだいた。
「ぼうっとするなって、おじさん。見惚れました?」
その冗談に現実へと引き戻された。疑問を呈するより先に私はどうぞ、と言って隣の席をあけた。
失礼して、と言って少女は肩まで伸びる髪を結えて風呂に入った。
波紋を見つめて私はまた結ったりとした。けれども、その孤独の時間は長く続かない。少女が話しかけてきたからだ。
「おじさんはどこから来たんですか?」
タクシーの運転手に応えたように私は応えた。少女はそれはすごいね、と言って答えた。別段すごいとは思えないが、それを否定する必要もなかったから私はすごい人という扱いのまま少女と話を続けた。
私は少女に親御さんについて尋ねた。私が親だったのなら混浴の温泉に一人で入らせるような真似はしない。ましてや、もう夜も更けている。眠る時間ということもあるが、危ないだろうという感想が先に立った。
「親はいないよ。もう死んじゃってね。今は旅館に住んでるよ」
フロントでライトノベルを読んでいた女性の孫か何かだろうか、私はそう当りをつけたが尋ねることはしなかった。他人の家族関係にまで口を出すほど下衆なつもりはない。
そして今度は少女が尋ねる番。暗黙のルール。そしてこの問いに私は驚いて少女の眼を見た。
「おじさん、阿笠がいっていた人?」
嘘のような現実、けれども平静を装いながら私はそうだと何事もなかったように返す。
「そっかぁ、今回の人はけっこう歳をとっているって聞いてたから、一目でわかったよ」
そう言って少女は私の対面に座り目を見て話してきた。
「まぁ気づいているかもしれないけど、私は座敷わらしだよ。座敷わらしの冬木忍。梓に男って尋ねてたから、私笑っちゃったよ。でも、阿笠が意地悪なだけかもだけどね」
梓、というのは恐らくフロントの女性だろう。それから私は座敷わらしに尋ねた。
私の苦悩を懊悩をどのように解決するのか、と少女ににじり寄り肩を掴んでしまった。
単刀直入に過ぎるのはいささか難があったことである。そして、この言葉を聞いてこの場において一番驚いたのは私だ。慣れた枯れたで私の悩みは日常と化していたが、そこから脱却したいという意思が何よりも強かったのは意外であった。
そこで私はマジマジと少女の顔を見た。デジャビュがあった。私はどこかでこの少女にあっているのではないか、と。
「痛いよ、おじさん。そんなに慌てるなって」
私は少女の言葉にはっと引き戻され肩から手を離し、なんとなく間抜けな気がして座るに座れなかった。
けれども、少女に促されて座った。
「女の子に、おじさんのバナナを直視させるとか酷いでしょ。恥ずかしいからやめて」
バナナ、と言われてすぐには理解できなかったが言わんとしている事が解ったので私は少女の隣に腰かけた。年甲斐もなく私も恥ずかしくなった。
気を取り直して、少女の忍は続ける。
「座敷わらしについてどれだけ知ってるかな? まぁ、一般的なのはその家に幸運をもたらすというのが一般的だね。あと、座敷わらしが去った後の家は没落するというのがメジャーでもある」
どれも私がいるだけで発動するというものだ、確かにと頷く。
「でも、それって私の意思がないじゃない。空気みたいなものね、一般的な座敷わらしって」
その例えは言い得て妙だと思った。
「私の能は対価を支払った分だけ、相手にその対価分の“幸運”を授けるというものよ」
私は聞きながらクラッとした。少女の声は聞こえる、けれども意識に入っていかない。
眠りに落ちるように私の意識はフェードアウトしていった。
04.
気が付くと私は部屋の中で介抱されていた。冬なのに暑苦しさで目を覚ましたのだ。
ここは、と周りを見回し私の姿を確かめる。下着はつけてあったし、浴衣も来ていた。
風呂にいたはずだが、私はそう思っていると女中がやってきた。
「あ、起きましたか。お客さん、露天風呂でのぼせてたんですよ」
そうか、と頷いて私はすぐ疑問が浮かんだ。私のほかに女の子がいなかったか、と女中に尋ねた。けれども、女中はいいえ、と疑問符を浮かべて返答をした。
別段それは不思議なことではないのかもしれない、私はそう思った。自ら座敷わらしと名乗るのは今考えてみると痛いことではあるが、幼げな姿であるのに老いが同居した少女は一種超然としておりフロントの女性、少女の言が本当ならば梓というのだろう、でさえ知らないのにこの旅館に住んでいるというのは――やはり少女の言葉は真実なのだろう。
私は女中に礼を言ってから下着とタオルを持って部屋へと戻った。
部屋に入りで迎えたのは黒猫、クロカンだったか、そして――少女だった。
「お帰り、おじさん」
小豆色をした粗末な和服を着て畳に仰向けに寝そべっている少女、忍はクロカンを抱き上げて遊んでいた。
私は面食らったが、子供や孫に向けるのと同じように忍に注意した。その猫は妊娠しているのだろう、だったら労わりなさい、と。
忍はハーイと言ってクロカンを畳に座らせた。クロカンは私の事を意に介した様子も見せず、大きなあくびを一つしてから備え付けのこたつにもぐり込んだ。
「あー、なんでここにいるんだ、って顔してるねおじさん」
ここは私の部屋だもん、忍は言う。それならば私は居候といったところか、お世辞にもウィットにとんだ返答とはいえない。
先刻の続き話そうか? 忍はそう提案したが、私はパソコンに電源を入れた。無視したわけではないが、締めきりが近い。原稿を書きながら話を聞くよと忍にそういった。だが、忍は見たことがないのか、最近ではノートパソコンが古くなったということもあるが昔からのお約束で超常とした妖怪だとかは科学に疎いということなのかもしれない、私の背中越しにノートパソコンをマジマジと見ていた。
続きを話してくれ、私がそう言うとはっとなって忍は話し始めた。
「えーっと、どこまで話したっけ? あ、対価ね。人間がお金を払って食べ物や家を買うようなものね。お金だから価値がある。その価値を決めるのは私なのよ」
成程、頷きでは私は何を払えばどんなものをもらえると忍に返す。
「貴方の価値あるもの、まぁ、阿笠から聞いてるし、今あなたがそれでやっているから解るけど小説家よね。そんな貴方の中で一番価値のある行為は――」
私は、次の言葉を聞いて打鍵する指を止めた。
「――貴方が筆を執ることをやめることが、私が決めた貴方の最大の価値よ?」
一瞬、何を言いやると怒りを覚えた。だが、すぐ冷静になる。その行為が酷く曖昧であることに加え、別に忍はその対価を強制しているわけではない。
きくだけ、聞いてみることにした。それで得られる幸運というのはどんなものだ、と。
「貴方が最初に死ぬ。あぁ、誤解しないでね。貴方ももう歳でしょう? それに加えて子供や孫がいる。伴侶もいる。そんな彼ら彼女らが貴方より先に死ぬというのは悲劇でしょう? その悲劇をまぬがれる。加えて色々オプションがあるわ。かいつまんで言えば筆を折る事で貴方はこれから面白おかしく一生を過ごすことができる」
職業柄疑問はすぐに浮かぶ、二つほどだ。まず一つは対価は行為でなければいけないのか、もう一つはこれまでの人間はどんな対価を支払ってきたのかという事。
忍はそんなことはないわと一つ目の問いに応えた。
「物でもいい。まぁ、物をあげるという行為をしているわけだから大きな視点からは同じことだけれども」
二つの問いに答える前に忍は書斎机の引き出しを開け中にあるものを私に見せた。ヌイグルミ、トレーディングカードゲームのデッキ、小物、口紅、マンガ、エトセトラ――というかどこにこれほどのものを詰め込めれるというのか。
「大半は子供と契約を結んだわ。貴方は阿笠が波長をいじったせいもあって私が見えているのでしょうけれど、大人は私の姿が見えないのが普通なの。彼らに与えた幸福はそうね、いい友達や教師に巡り合えるという縁を与えたくらいね。子供の時は運命操作は楽なんだけれど、おじさんみたいな歳になってくると子供とは別な対価が必要になってくる。あ、ちなみにお金はダメだからね? それほど私にとってそれほど無用の長物はないのだから」
成程と頷く。
そして、一つ思い出した事がある。猫だ。どうして猫を出産させてから避妊手術をさせているのか? 私は尋ねた。確か猫は忍にとっては家族であるのだろう。その血族が絶えてしまうのは忍としては望むところではないはずだ。それは解る。道理でもある、だが、どこか引っかかる。
忍は応えた。
「猫達を配る家はね、私と契約を交わした子供たちへの保証書のようなものなんだ。私が操作した縁が続くのは猫たちが死ぬまで。でも誤解して欲しくないのは、伝承の座敷わらしにあるような没落するというような運命は来ないってこと。私がするのは骨折を直すのに使う添え木のようなもの。矯正していくの」
そこまでいって忍はあくびを一つした。
『じゃ、私は寝るから。いたずらしないでね』
そう言うと、とたんに私の視界から忍は消えた。だが、気配はある。これが幽霊や妖怪がいるという風に錯覚する感覚なのだろう。
私は三時まで小説を書いてから眠ることにした。
05.
八時に起きて私は食堂で朝食を食べた。みそ汁に焼き魚、漬物といったシンプルな和食だった。けれども寝不足の所為かあまり舌鼓を打つという事が出来なかった。まぁ、昨日のような出来事があったことも原因の一つではあるだろう。
よくよく考えてみれば貴重な体験だ。小説にしてみるのもいいだろう。
そして、今になって思うが直木阿笠がいっていた私の悩みに対する一助は少女、忍の異能であるのだろうか? その方がすんなり納得がいく。阿笠もそれを知って紹介したのだろう。まぁ、忍の歳や阿笠の歳が何歳なのかということはこの際問題ではない、よくよく考えれば奇怪ではあるが。
では、私は何に対して忍へ対価を支払えばいいのだろう。彼女が語った私が出来る最大の対価は絶筆、これは論外だ。私の目的であり目標から一番遠い選択肢であるのだから。
ならば私は何を贈ることができるだろうか?
ムツムツと思考しながら朝食を食べてもいい案は浮かばず、私は携帯電話で座敷わらしについて改めて調べることにした。けれども、私の知識以上の情報はなく八方塞であった。
そんなこんなで夕方まで私は得るものがなかった。
一息ついてここまで時間がかかるとは思えなかったし、気分転換にと思い私はロビーで小説を書くことにした。ロビー、とは言ってもこじゃれたのではない。部屋で書かなかったのは忍がいるだろうと思ってだ。昨日は寝ていたからなんとか書けたが、やはり誰かに見られながら書くというのは小恥ずかしい。ロビーにも人はいなくもないがあまり気にとめる人間はいなかったから私はあまり気にならなかった。
けれども、いる事にはいた。
「あんた、小説書いているのかい?」
声を掛けられ、振り向く。私はフロントの女性、梓がのぞきこんでいるのに気付きカァっと恥ずかしくなった。
私はどう応対すべきかと悩みながらとりあえず肯定の返事をしてみる、そして彼女は私がバツが悪いような素振りを見せていると、書きながらでいいと助け船を出してくれた。
私はそれを聞いて逃げるように打鍵した。
「どんな話を書いているんだい?」
私は言葉に詰まった。ライトノベル、と言っていいものかと思った。歳を考えろと思われるのが苦手だったからだ。けれども、と思い出す。この梓という老女はライトノベルを読むのだ、と。
私は応えて、彼女は別段驚くでもなくへぇと頷いた。
「もしかして、××××さんかい?」
今度は私が驚いた。その名前は私の筆名だった。
彼女は当てずっぽうだったといったが、成程六十も過ぎていまだにライトノベルを書いているのは私だけだ、という風に暗に言われているようだったが、事実なのでしょうがない。
もしかして読まれていますか? と私は返した。老女は首を横に振った。
「私が読むのは昔のライトノベルだよ。しかも、今は本にするってほうが珍しい。まぁ、おくってもらえるってんだったら読むがね」
なかなか図々しい願いだ、けれども読んでもらえるというのだからそれはそれでいいかもしれない。
そして、なんでライトノベルが好きなんですか? 私は終わってもいい会話を継続させたのは何故かと胸中疑問に思ったが、ある仮説があったからだ。しかも自分の中で消化されきっていないものだ。
「まぁ、色々あるが、私の親がね私にライトノベルを勧めたんだ。なんでだろうな、と思って聞いても応えてくれなかったけれど、母親が死に際に私より先に生まれていた姉がいた事を語ってくれたんだよ。その子、名前は覚えてない失礼かもしれないけれど私には姉がいることさえ教えられていなかったんだ、がライトノベルが好きでね。けれども、病弱だった。それを聞いた時姉の身代わりかと思わないではなかったけど、その時私は四十にさしかかってからね、思春期の餓鬼でもあるまいし、まぁ、ショックは少なかったよ」
そこまで聞いて私は会話を打ち切った。
06.
私は忍に声をかけた。彼女は明かりもつけないで冴え冴えとした冬の月を見上げながら部屋にいた。
忍はぼやけた顔をしていた。頬に朱がさしていて片手にはお猪口を持っていた。
「やぁ、おじさん、おじさんも一杯どうだい?」
私は上戸ではないと断りを入れて、まずは注意した。子供が何を飲んでいる、と。
「阿笠からもらったものだよ、それに私はなりはこんなだけどね、実はってパターンなんだよ」
そう言って子供の笑みで以って応対した。
「で? 対価を何とするか決めたのかい?」
あぁ、と頷いて私は応えた。
――君のための物語を書こう、と。
忍は一瞬面食らった様子を見せた。そして、こう尋ね返した。
「梓に聞いたんだね?」
そう――私はこの少女、冬木忍が梓という女性の姉である、とあたりをつけた。
明確な根拠はない。ただ座敷わらしは早世した子供が成るものという説がある。そして、梓と忍の顔立ちは歳の差こそあれどこか似通ったところがあるように見えたのだ。更に梓の年齢、彼女の姉の死後タイミングよくあらわれた座敷わらし。それらだけで決めつけてしまうのはいささか早計であり、論理としては弱いが――それでも手持ちのカードで切っていくしかない。
そして、とりあえず、まぁ結果論になってしまうが、その機は逃さなかったといえるだろう。
「そう、私は梓の姉だよ。本当の名前も冬木忍じゃない。この名前は阿笠がつけたものだ」
そして、私はライトノベルが好きだ。忍は続ける。
「ともかく私の世界は狭隘でね。この旅館の使用人が暮らしている一室しかなかった。あとは病院の個室だ。旅館よりも病室の方が好きだったね。六階建ての大きな、I県の中ではとつくけれども、病院でね。風景が面白かった」
知ってたかい? 病院にも図書館があるんだよ? と忍は続けた。
「そこで私はライトノベルに出会った。最初に読んだのはなんだったかなぁ……魔術師が出てくる話だったと思う。魔法使いじゃなくて魔術師。そういう細かいところに気を使った話だった」
あぁ、私もその話を読んだことがあるかもしれない。私は忍に合わせるように答えた。
「あぁ楽しかったね。『人生』と呼べる期間はもう私が座敷わらしとして歩んできたをとうに上回っている。けれども誰がなんと言おうと『人生』は楽しかった」
忍は人生は素晴らしいとうたっている。一度、死に、死を越え、座敷わらしとなった彼女がいうのだからその言葉には説得力があった。そんな彼女が私にはまぶしかった。
私は明日帰ると告げて、少女に尋ねた。
主人公の名前を知りたい、と。
そう言うと、彼女は応えた。
07.
これが私と彼女の物語だ。そして、ようやく彼女のための物語を完成させた。編集はこの話を商業作品として出そうとしていたが私はそれを断った。何年もこの出版社で書いてきたためそんなわがままも許された。
ダメもとで私はあの旅館に送ってみた。宛名を見て梓は驚いただろう。私はそんなことを夢想して笑った。
私にとっての幸運が訪れたかはわからない、それでも私がこれまで書いてきた中で一番快い仕事だったのはいうまでもない。
後日、妻と住む一軒家に猫と手紙が届いた。妻は元から動物が好きだったので喜んでいた。
私は手紙を読む。そして、書いてよかったと――初めて思えた。
というわけで、しばらくお休みします。何かリクエストがございましたら、遠慮なく申しつけください。無理だったり、難しいと思うもの以外はできるだけ答えていきたいと思います。
では早い再会を祈って。