73 代償
かつての異世界体験では、神谷鋼は中々に酷い目に遭ってきたものだ。
それに伴う様々な感情も経験してきた。
どことも知れぬ場所に放り出された不安。見通しの立たない未来への絶望。戦いに慣れるまでは強く感じていた死への恐怖。戦いに勝ったとしても味方は減るばかりで、ただただ削られ続け好転しない状況への無力感。
痛かった時も、苦しかった時も、ひもじかった時もあった。
悲壮な覚悟を決めさせられ、離別を経験し、人に憎悪を抱いた事すらも鋼にはある。
総評して、一度目の異世界ソリオンのだいたいはクソだったと言えるだろう。
その中でも格別に忘れてしまいたいものが一つある。
二度と経験したいと思わない、今でも思い出すだけで平静ではいられなくなる、とびきり最低最悪の記憶だ。
クソの底に沈めて蓋をしても、それは消える事がない。消したくても消せない。それはどうしてもふとした拍子に顔を覗かせる。それで塞ぎこんだり精神が追い詰められるほど鋼もヤワではないので、これをトラウマと呼ぶべきかは微妙なところだが。
最も忌々しい、最も不愉快なその思い出は。
どうしようもなく鋼の魂に強く焼きついていて、何度だって蘇るのだ。
◇
「ああもう、一体何が起きてやがるんだ!」
王国の騎士、ディーン・グレイルは街中を駆けていた。
少し前まで、ディーンは自身が率いる部下達と共にパルミナの東に陣取り、襲来する魔物達をばったばったと殺しまわっていた。しかしパルミナを取り巻く状況はめまぐるしく変化する。
ほとんど警戒していなかった帝国とは反対方面からも魔物の群れが襲撃してきた。その方面にだって監視する人員はいたはずなのだが何故か音沙汰なし。空を飛ぶ〈紅孔雀〉だけはどうしてもパルミナに通してしまう、などと嘆いている間に、とうに多種多様な魔物達が西から街中に侵入していたという有様だ。更に加えて、複数の魔物憑きがこの状況下で暴れ出したらしい。
雑魚退治に精を出していたディーンに情報が届いた時には既にそこまで事態は悪化してしまっていた。一気にそれらを知らされて、いっそその場で卒倒してしまいたかった。
聞く限りディーンの担当箇所が敵が弱く最も楽な戦場であるのは疑いない。勝利は確実だろう。かといって現在進行中の乱戦を放置して全軍撤退というわけにもいかず、ひとまずディーンだけは後を部下に任せてそこから抜けてきた。精鋭部隊の副隊長の力はより苛烈な戦場で生かされるべきだ。部下達も、戦闘が終わり次第速やかに援護に駆けつけてくれる手筈になっている。
パルミナの東地区はまだ〈紅孔雀〉以外の脅威は少ないようだったが、情報通りなら西へ進むほどに凶悪な魔物やら魔物憑きやらが出没するはずであった。酷い戦況を示すかのように遠く、日本人街のあたりから《竜嵐》が発生したのもこの目で確認できた。
ここまでならまだ、ディーンの精神衛生上、舌打ちするくらいで済んでいたのだ。
一般民衆に襲いかかっている〈紅孔雀〉をさすがに見過ごせず、一太刀で魔物の首を落としながらもほとんど足を止めずに街中を進んで行く。目指すは騎士団のパルミナ支部がある日本人街のターミナルだがかなり距離がある。途中、騎士学校に寄り道して戦況が苦しい場所を教えてもらうべきか。切羽詰った戦場があるなら急行すべきだろう。
そんな時だった。肌が粟立つほどの悪寒に襲われたのは。
即座に目立たない場所に立ち止まり、息を潜めて全周囲を警戒する。
嫌な予感を、煮詰めて凝縮したような不快感だ。その感覚に覚えはあるがこの場においては予想外すぎた。それはディーンの経験上、死の覚悟を要するほどの強敵と相対した時の危機感と緊張感であったからだ。
これほどの重圧を感じる事など滅多にあるものではない。魔物の最上級、竜骨級が明確にこちらを敵と定め、完全なる戦闘態勢に入った時に匹敵するのではないか。魔物以外だと、帝国が飼っている化け物魔物憑き“狂獣”とかつて死闘を演じた時も近い感覚があったか。
これが魔物蔓延る秘境や戦争の最前線であったならまだ理解も出来る。
だがここは王都からほど近い、世界交流の街パルミナなのだ。このような威圧を放つ存在がいていい場所ではない。
じっとして感覚を研ぎ澄ませてみたが、この存在は至近に潜んでいるとか、こちらに狙いを定めているというわけではなさそうだ。恐らくこの近くで竜骨級が暴れており、その余波で多少離れた場所にも威圧が撒き散らされている。ディーンはたった今、それを肌で感じられる範囲内に踏み込んだというわけだ。
大きな魔術の気配も複数感じ取れる。切羽詰った戦場を探しはしていたが想定以上にヤバそうだ。知ってしまった以上は見てみぬ振りもできないが、厳重に気を引き締めてかかるべきだった。
そうして速度を若干落として移動を再開したところ、更なる予想外が重なっていく。
進行方向、圧力を振りまく存在がいるであろう位置の手前に《竜嵐》が発生する。何事かと観察に集中すると、近いエリアに次々と《竜嵐》が生み出されていく光景が目に入った。
あれは見た目の範囲以上に周りの風を乱すので、次々と乱立させれば失敗の可能性が上がっていき、成功した竜巻までもが巻き込まれて潰れかねない魔術だ。定石では一発ずつ放たれるべきもの。大魔術ではあるのだが連発すればするだけ強いという性質のものではない。
あれを使えるなら素人なはずがないのだが、窮地に置かれた複数の術者が破れかぶれに仕掛けたのだろうか。焦りでパニックでも起きているのなら納得できる状況だ。これは一刻の猶予もないぞと、ディーンは本気の速度を出して嵐の隙間を抜けて行こうとして。
「……?」
眼前で《竜嵐》が引っ付きあって融合していき巨大な竜巻になったのを見てきょとんとなった。
「ええと」
いや、そんな事よりも誰かの命の危機だ。嵐の隙間を探さなければ。誰かがディーンの助けを待っているかもしれないのだ。しかし道など見当たらない。一つの巨大な竜巻に隙間などあるはずがないのだから、ある意味当然だ。
当然じゃないのはこの魔術の規模だ。
そうして当初の、一体何が起きてやがるんだというディーンの心からの叫びに繋がるのであった。
「意味が分からない……。《竜嵐》ってこんな使い方があったのかよ。……いやいや、ねえわ。この規模の魔術は竜巻に限らずそもそも聞いた事ねえわ。精霊憑きなら、いやそれでもこんなデカさの魔術を聞いた事がない気がするが、俺もまあ専門家じゃないからな……」
常識外れの巨大さの理由を見ただけで察する事はディーンであっても無理であった。
これはひたすらに魔力を込めた一つの大魔術ではない。個別に発生した《竜嵐》を物凄く複雑な制御魔法陣でまとめているわけでもない。これは魔術の発動後そこに残った竜巻が、計算された配置の結果自然と融合しただけだ。超規模となった過程の部分は厳密には魔術ではなくただの自然現象と言える。よって、あり得ない常識外の超魔術に見えても、理屈さえ分かってしまえば見た目のインパクトほどには高難易度ではない。
まあ、それをディーンが知るのは事件後だ。異なる世界で風の理屈を習得している天才魔術少女だから成し遂げられた大魔術《竜嵐大結界》なのだと、後の聞き取りで判明する。しかしこの時点でそんな事を知る由もないディーンは、さすがに無策で超魔術の嵐に突撃する気にはならず、様子を見ながら竜巻の周囲をぐるりと回る事となる。
その移動の最中も嫌な感覚は止まらない。むしろ風の壁で隔てられたというのに、それを突き抜けて来る何かの重圧はますます増しているようにも思える。険しい顔になろうというものだ。
嵐の至近にぽつりと立っている幼子の獣人と、そのすぐ近くだけ不自然に風が凪いでいるのを発見したディーンは険しい顔を更に盛大にしかめる事となった。
「暴れ出した魔物憑き達の一味とまでは言わんが……、この状況でそこに立っている獣人とか子供であっても警戒せざるを得ん」
口の中で小さく呟いて、跳ぶように移動していたディーンは獣人の子供の傍に着地する。
風の壁に空いた穴のような通路が眼前にある。それは段々と塞がっていこうとしていて、その通路の奥には今しがた誰か通ったのか、駆けていく後姿が見えていた。
「は、入っちゃ駄目です! ここは通しません!」
こちらが便乗すると思ったのか、慌ててディーンの前に子供が立ち塞がる。今を逃せば何者かが作ったこの侵入路は消えてしまう。慌てて飛び込むか否か判断が難しい局面だが、ディーンは思わず立ち止まってしまった。
正面から顔を見て気付いたのだ。以前不法なギルドで捕らわれていた娘だという事に。
驚いている内に風の壁は塞がり、完全に機を逃してしまった。
「その、人がいると、邪魔です! だから入っちゃ駄目です!」
「今入って行ったのはいいのか? この中には何がいる、お嬢ちゃん」
「あれ? その声、兜の人……?」
狐の幼女が気付いたようだが、今は時間が惜しかった。
「何故、入ってはいけない? 俺は強いぞ。中に何がいても戦えると思うが」
「来るのが遅い……」
ぼそっと酷い事を言われるがしっかり聞こえていた。
「それで、中には何が?」
「……怪物です。怪物がいました。でも、それはもう、大丈夫です。入ってはいけません」
「だからそれは何故だ」
「……邪魔に、なります。あなたが入ったらどうなるか分かりません」
「中に何を封じたのかは知らん。だが、この気配、重圧。異常な化け物がいるのは見ずとも分かる。これを無視するのは俺には出来ん。納得させたくば説明しろ」
狐娘は具体的な説明を避けているようにしか思えなかった。はぐらかすなら押し通る。そんな意思を込めて睨みつけると、尻尾の毛を逆立たせて怯えた表情となる。
しかし何かを堪えるように目を瞑り、「あれより怖くない、怖くない……」と小さく呟いたかと思えば、目を見開きディーンを睨み返してきた。殺気や敵意の薄い、とても可愛いものではあったがその意思は強く伝わる。
通さない、と。
「あなたが入ると、刺激するだけです。それに、もう。敵はいません。怪物はさっき死にました」
死んだ?
全くそうは思えなかった。化け物を超える化け物が今も竜巻の中にいると、ディーンの肌感覚は訴えていた。
敵は死んだ。しかし入るな、刺激するな、か。この気配の正体が敵ではないと言いたいのか?
「人を。絶対に入れるなと、私は言われました。でも、言われなくても同じ事をしたと思います。私の直感も同じ事を言ってます。人を通しちゃ駄目だと。きっと、全てが台無しになると」
結局ははぐらかされているようなものだったが、一応ディーンは一つの納得を得た。この子はあくまで、王国やこの街の敵のつもりではない。よく分からない使命感で通せんぼをしているが、悪意や敵意からそうしているわけではなさそうだ、と。
「ええと……、私はここにいないといけないし、上手く説明できる気もしないので……。気になるなら、騎士学校に行ってみてください。あの怪物に負けた騎士の人達がいるはずです」
「騎士が複数がかりで負けたか。まあ、これ相手ではな」
「この気配の方は違うんですけど……。まあ、はい。一瞬で壊滅したようで」
この現場に背を向けるのはかなりの躊躇いがあるが、押し通ってもろくな事にはならないと確信を持って断言されればそれもまた無視しがたい。この子はあの闇ギルドでの戦いを見ている。ディーンの強さをある程度は知っている。その上での判断なのだ。
遠回りでも、その騎士達から話を聞くのが最も手っ取り早いか。
「分かった。いやほとんど分からんが、今は通らないでおく」
あからさまにほっとしている子供をその場に残してディーンはこの場から去る事にした。
その時思い浮かんだのは、先程まで存在していた凪の通路だ。遠目に見た後ろ姿では、若い女が二人見えた。
なんら明確な情報はないのに想像は膨らんでゆく。あの者達の通行は許されて、ディーンは許されない理由とは何か。狐娘に見張りを命じたのがあの二人だとして、娘もそれに納得して従っている。ディーンは駄目だが、あの二人なら中にいる何かを刺激しないという根拠があるのだ。
そして中にいる何かの正体を、ディーンに教えたくないようだ。それがどういう類の存在か、その輪郭がディーンにも掴めてくる。ため息一つ、首を左右に振って己のたくましい想像力を振り払った。なるほど確かに、これははっきりさせない方がいい問題かも知れなかった。
◇
どこまでも、遠くが見える気がする。
いつまでも、走り続けられる気がする。
どんな些細な空気の流れや振動だって察知できるし、軽く力むだけで物凄く強い力を発揮できる。
世界の見え方が違った。感覚がどこまでも広がって、力がどれだけでも湧いて出て来る。自分は強いのだと正しく確信した上での全能感。俺は強いし、実際に本当に強い。錯覚ではない証拠がほら、すぐそこにある。
血だまりだ。
撒き散らされた赤色。もはや動く事のない肉と臓物。
強いはずの自分でさえも手こずらせる、強大な敵であった。しかしそれも敗れ去った。やはり俺は強い。なんせまだまだ戦える。それを証明するためにも、敵が次々と現れないかと期待してしまう。敵でなくとも、強さを証明するに値する存在であれば十分か。
都合よく一つの気配がこちらへと近づいてきている。気配も足音すらも隠さない不敵な移動だ。よほど強さに自信があると見た。『それ』はニタリと笑い、血だまりの傍で堂々と待ち構える。
現れたのは美しい黒髪の少女だった。
最初からこちらには気付いていただろうに、今もこちらを見据えているのにもかかわらず、戦闘態勢を取る事はない。憂いに満ちた心配そうな表情でただ無防備に近づいてくる。
もちろんそれが誰かは知っていた。己の群れに属する一体なのだから当然だ。敵でも敵でなくとも襲いかかる獣であってさえ、己の手足に襲い掛かり噛み付くものはいない。
肥大化し、爪の伸びた手で己の顔を覆う。『神谷鋼』は羞恥で地面にでも埋まってしまいたかった。
「意識は、ありますか?」
迷いのない足取りで、なんの恐れも見せず、彼女はすぐ近くで膝を折った。こちらの様子を心配した声音。それに視線。見なくともそれがどんな目か、手に取るように想像できた。
「私が、分かりますか?」
分からなければどうするつもりだったのだろう。そんな認識すら鋼が失っていれば、どんな事になっていたか。
その答えを鋼は知っている。身をもって、知っている。
「意識、も。認識も。今、戻った……」
つっかえながら声を出す。中々上手く発音できず、ノイズが入ったようなギザギザとした声音になる。叫び声より人語を発する方が違和感のある喉。そんな所にさえ変化は及んでいる。
「見る、な。離れ、ろ……」
鏡がなくても手を見れば想像がつく。神谷鋼が今、どれほど醜悪な姿をしているかなど。
かつて死の谷で取り込み、一体化してしまった魔物の魔力。それを全開で解き放てばこうなるのは自明だった。
魔物は地球の生物学ではあり得ない姿や形態を取っている事が多い。起きる物理的な問題を全て、魔力という要素が雑に解決してしまうがゆえに。《身体強化》や《解毒》の例を見れば分かりやすいが、魔力というものは己自身に対してはかなり無茶が効き、自由度が高くなる。それが強度の高い強力な魔物の魔力となれば、抑えようとも自由に振る舞おうとするほどだ。
人の身に過ぎた魔力という事なのか、魔物の魔力が本来の姿を取ろうとするのか、本当の全力を出した鋼は人の姿を失う。人型であるという部分だけはかろうじて失ってはいないが、もはや半人半魔どころではない。ほぼ十割に近い割合でただの強大な魔物となる。
ところで、地球の創作物は想像上の強大な怪物には事欠かない。今でこそその一部が、こちらの世界に実在するというか似たような魔物がいたりすると判明してはいるが、それまでは全てが空想の存在だった。
例えばドラゴン。ヴァンパイア。人狼。鬼。人間離れした、化け物、怪物達。
想像上の存在だからこそそれらを本気で忌避する者は少数派であり、むしろ様々な創作物に引っ張りだこな所を見るに、ロマンや憧憬をそこに見出す者が多いのだろう。
怪物とは強くおぞましく、しかしだからこそ、美しい。
……想像上の存在であれば。
「近、寄る、な」
さて、ここに実在する、本物の怪物はどうなのか。
半端に変色し硬化した肌。肥大化した両手。翼でも生えようとしたのか、背中を骨のような部位が突き破った状態で中途半端に止まっている。魔力の塊が曖昧な輪郭で尻尾のようなものを形作っている。
そこにドラゴンの美しい鱗なんてものはない。ヴァンパイアの妖しい美貌もない。実在する何かがモデルとなったような分かりやすさや統一感もなければ、格好良い角も生えていないし親しみやすい人間らしさも残っていない。
ここにいるのは異形だ。
ただの、醜い異形の生き物でしかない。
だから己の本性など好きになれるはずがないのだ。あの頭のおかしい戦闘狂さえいなければこの先一生、封印する予定だったもの。当然人に見られて愉快な気分になりはしない。
「離れろ、と、言っている」
自分ではそうと言っているつもりでも、ちゃんと発音出来ておらず伝わっていないのかもしれない。それぐらい今の鋼の声は酷い。繰り返し、目の前の少女に要望を伝え続ける。
「……良かった、です。今回は随分と、変化が大人しいです」
「触るな!」
こちらの手を取ろうとするので振り払おうとして、刃物のようになった自分の爪に気付き鋼は慌てて思い留まる。
持ち上げられた手の甲に、そっと少女は顔を寄せ、目を瞑って頬を触れ合わせた。
「嫌です。それではコウ、私の名前は分かりますか?」
「……」
もちろん、この少女が誰かなんて分かっている。名前なんてわざわざ確認するまでもない事だ。ただ、ちょっと咄嗟に出てこないだけで。今はド忘れしているが、記憶の大半が吹っ飛んでいるというわけでもなし、恐らくすぐに思い出せるはずだった。だから、分からないとは答えない。
姿は醜悪で、記憶は人名が歯抜け状態。そんな己が情けなく、嫌になる。
至近距離で身を寄せているがゆえに、少女からはなんだか良い匂いが感じられた。今そんな事に意識を持っていかれる自分が尚更みじめで自己嫌悪が募る。
「……名を忘れても。仮に、全てを忘れてしまったとしても。私はずっと、お傍にいますよ」
「要らん。離、れろ。……こんなものに、触る、な」
「嫌です。コウは、今のあなた自身を好きではないのでしょうけど。それは逆です」
頬ずりをやめて彼女は目を開いた。
痛ましいものを見るような、それでいて大切なものを愛でるかのような、そんな不可思議な表情だった。整った美しい顔が、まるで口付けでも交わそうとするかのように間近に迫り、どんな醜悪な事になっているかも分からない鋼の顔を気にした素振りもなく目の奥を覗き込んでくる。
「その姿を恥ずべき者がいるとすれば、私達です。あの谷で、私達の限界を超えた分の負担は全てあなたが背負いました。私達が、押し付けた。追い詰められたあなたが生き残るにはもはやそうなるしかなかったのですから。あなたが自分を好きになれないというなら、それを責める相手は、償わせる相手は、私達です」
言いたい事は分かったが、まず何よりも体が近い。近過ぎて落ち着かない。なんとか距離を取ろうとしているのに、この少女はむしろ距離を詰めてきていて、いまやほとんど密着直前の体勢だった。
美しい少女。もはや抱きついてきそうな至近距離。匂い。償い。
誘っているのか。こんな時なのに、いや今の姿だからこそかは知らないが、鋼は肥大する己の欲望を自覚せずにはいられなかった。ぎらついた瞳を向けてしまう。あろう事か笑みを返された。
「やめろ……」
そうして少女は、自らの衣服をはだけだした。露わになった肩や首筋ははっとするほどに白い。鋼の目が吸い寄せられる。
「やめろと、言っている!」
「嫌です。それに、そのままでどうするつもりですか。かなり消耗しているでしょう?」
魔物憑きという存在になったらしい鋼は、定期的に他から魔力を食わねば飢えてしまう。少し前、わざわざ街の外へと魔物を狩りに出た時のように。
自然回復や、戦友達に触れ魔力を分けてもらうだけではこれは満たされない。魔力自体は回復出来ても、魔力に対する飢餓感は多少和らぐ程度で解消されないのだ。一切魔力を使わずにいれば徐々に収まるようなのだが、魔力を使用すれば飢えは進む。根本的に解消するには魔力を含む血肉を食らうしかない。
魔力を含む血肉。
それは魔物である必要はない。
鋼が今抱いている欲望とは即ち、食欲であった。戦友に食欲を向ける。鋼はそんな自分が嫌で嫌で、心の底からおぞましくて仕方がない。
「そこに、ある、だろ……。強い、魔力の、肉」
一度そういう視点を意識してしまえばもう駄目だった。敵だった男の死体ですら鋼の目には魅力的な食糧に映ってしまう。魔物に等しい魔力強度だからか、かぐわしい程に強力な魔力がまだ宿っているのを感じる。戦友を食いたくないが、自然回復に任せていると人の姿に戻れるのはいつになるか分からない。おあつらえ向きに、解決策が丁度そこに転がっている。
吐き気がするほどおぞましい事だが、男の血肉を摂取する覚悟を決めた。
それなのに。
「嫌です。あんな男、コウの血肉になるのにふさわしくないです」
意味不明な事に戦友の方からそれを禁じてくる。
「あんな、狂気だとかコウへの憎しみさえ宿っていそうな魔力を引き入れるのは絶対に良くないです。以前、私達四人で話した事があるんですよ。コウの異形はきっと、強力な魔物の魔力が性質を失わないまま、何種類もぐちゃぐちゃに混じり合った結果なのではないかと。かつて、私達からのみ魔力を摂取していた時は、コウの様子は明らかに良くなっているように見えましたから」
鋼は一度、今よりもずっと、普通なら引き返せないであろうところまで堕ちている。
さすがにそこまで単純な問題ではないはずだが。魔物の血肉を食らいその身が魔物と堕したなら、人に戻るためにはなんの血肉が必要かという事だ。鋼自身の感覚でも、戦友の少女達から得た魔力は恐らく、この体に良い影響を与えたように思う。
だが。それでもだ。もう、それだけはしたくなかった。
あれは異世界で一番後悔し、今も引きずっている出来事なのだから。
「魔力量には自信がありますよ。コウ、私の血を飲んでください」
やめろ。やめてくれ。最も忌々しい、最も不愉快な思い出なんだ。
どんな魔物の血肉よりも、何よりも。戦友達の血が最も甘く、極上の美味に感じてしまった事。あの舌の感覚が、何年経っても忘れられない。
抑えきれないような魔力強度はなく、荒々しさを欠片も宿さない、食われる事を承諾している強者の血肉。
それに比べればそこに転がっている狂獣など、高級料理が乗ったテーブルの横に落ちている未調理の食材のようなものだった。もはやそちらに注意など向かない。芳醇な魔力の気配を間近に感じ取り、ごくりと喉が鳴る。
「それだけは、したく、ない」
「これだけが、私達の償いになると思っています。……来るのが遅いですけど、あの二人もようやく着いたようですよ。三人もいれば私達にもそれほどの負担なく、コウをお腹いっぱいにしてあげられると思います」
「あ、ああ、あああ……」
牙が伸びてくるのが自覚できた。目の前の少女にそれを突き立てるのを、どうしようもなく体が望んでいる。何故。何故彼女は、それを目を細めて見守っているのか。どことなく嬉しそうにしているのか。
目を閉じて鋼が衝動に耐えようとすれば、勢いよく彼女が抱きついて来てそのまま押し倒された。これではもはやどっちが捕食者なのか分からない。差し出された真っ白な首筋に、気付けば牙を差し込んでいた。
高貴で妖しい魅力を持った吸血鬼なんてこの世には存在しない。
だが。
血をすする醜い異形の化け物なら、ここにいる。