67 怪物のぶつかり合い
唐突に鋼は言い様の無い悪寒を感じた。
視界の端で、ミオンが焦ったような表情でどこかへ顔を向けようとしていた。その瞬間にはもう鋼のスイッチは切り替わっていた。
先程の戦闘によりそれなりに緊張感を保てていた事が大きかっただろう。それが何かも分からないまま心は危機に備え、反射的に振り返る。
銀色の点がこちらに向けて高速で迫っていた。
叩き落とし、正体を看破する。投げナイフだ。
「っ!」
その瞬間、燃え上がるような激しい魔力活性化の気配が届いた。方向的に投げナイフの主で間違いない。近くの建物の上に現れたその存在に視線が引き寄せられ、そして。
真上から落ちてきたナイフが鋼の右肩に突き刺さった。
久しく感じる、皮膚を裂かれる鋭い痛みが体を走る。
「コウっ!?」
散った血の赤に凛が悲鳴のような声を上げ、その彼女を叱り付けるように、鋼は敵と同じく体内の魔力を激しく燃えあがらせる。魔力の気配は相手の感覚にダイレクトに伝わる分、時に言葉よりもよほど雄弁で手っ取り早い。これはかつて亜竜山脈で繰り返された鋼なりの叱責のやり方で、そのおかげで反射的に実行出来た。
それが恐らく明暗を分けた。
鋼の叱責により跳ねるように凛が視線を戻し、気づく。攻撃を仕掛けてきた人影が飛ぶように接近してきている事に。
強化魔術の使用でこちらに存在を気取らせ、それを陽動としたナイフのだまし討ちで更に注意を逸らさせての三段構え。全く無駄がない早業の上、相手の接近速度が尋常ではなかった。気配から僅か一秒ほどの間で、もはや相手は目前にまで迫っていた。
ナイフ二発で狙ってきた鋼の方ではない。
奴の狙いは凛だった。
「っ!!」
通常の魔術師では絶対に間に合わないタイミングを、しかし凛は間に合わせた。刹那の間で《障壁》を展開する。いつも程分厚くはないし、面積も狭い。が、十分過ぎるほどの防御行動だ。魔術師としては満点だろう。
その防御を貫通した男の腕が、凛の体に叩き込まれた。
吹き飛ぶ。彼女の体が鋼の視界から瞬時に消える。
いかに鋼とて、そんな光景を見せられては冷静ではいられない。
「ルウっ!!」
叫ぶ。凛を殴り飛ばし着地していた敵を前に、たったそれだけの事が十分な隙となる。
それを逃すレベルの敵では無かった。凛の方に視線を向けようとした鋼に対し、淀みない速度で相手が接近してくる。
こちらからも一歩近づきながら、思いっきり殴りつけた。
「っ!?」
敵が吹き飛ぶ。ガードされた感触に舌打ちをしながら、鋼は顔を敵に向け直す。隙をみせてやって、誘い込んでのカウンターだった。
大切な仲間を攻撃され、本当に冷静さを失っていたとしても。神谷鋼という少年が、ただ声をあげ、棒立ちしている事など戦闘時においてあり得ない。叫び視線を逸らしたというのなら、自ら意識的にそうしたという事だ。例え本当に余裕が無くて何か反射的に行動してしまう場合でも、鋼は他人の心配より敵への攻撃が瞬時に出るタイプだった。
カウンターは失敗し敵とは少し距離が空いた。ここで何か一声かけつつ、襲撃者の正体を見極めても良かったのだが。実際のところ凛の事でかなり頭にきていた鋼は最初から全開でたたみかけるように追撃を行う。彼女の元に駆け寄って容態を見るのは、この相手を殺してからでいい。
超速度で踏み出した一歩に対し、襲撃者もまた、即座に反応し迎え撃つ姿勢を見せた。
構わない。ぶち抜く。鋼が放つのは単純な右ストレートのパンチだ。フェイントも何もない見え見えの一撃。だが当然、殺す気でかかっているので手ぬるい事はせず、本気で殴りかかる右手の先から更に伸ばすように魔力パンチを放っている。戦友達が《魔砲》と呼ぶ、実体化させた魔力をぶつける攻撃だ。
実際の腕と、かりそめの魔力の腕。瞬時に発動出来る技能だからこそ僅かなタイムラグでの二重攻撃が可能となる。
魔力パンチが防がれるなら、物理的な拳を重ねてダメージを上乗せし、ガードごと潰す。初撃がそのまま当たるなら、吹き飛ぶ相手に次の攻撃は効果的にヒットしないだろうが、確実にダメージは与えられる。残念ながら二重にしても威力が倍増するような簡単な話ではないのだが、嫌らしい選択を迫る攻撃法といえた。
この『二重殴り』。最も有効な対策は初撃に対しガードしながらわざと吹き飛ぶ事だが、こちらが《魔砲》を使用するのは殴りかかる直前だ。初見でこれに対応するのは難しい筈。襲撃者もこの攻撃をまともに受ける事となった。
「うぉっ!!」
相手からすれば、突如として殴りかかる手自体が伸びてきたようなもの。咄嗟にガードを合わせられるだけでもたいしたものだ。敵のガードをすり抜けるのは無理と判断し、鋼は素直に相手の腕に攻撃を叩き込む。魔力によるパンチと実際の腕が、鋼の全力をもって振り切られ、連続して叩きつけられる。
衝撃。
轟音の域に達した激突の音が、周囲を震わせる。
腕を守るのが半端な強化魔術であれば、防御を食い破り骨を砕き、折るどころか腕ごとちぎり飛ばせるであろう攻撃だ。そのくらいには威力に自信があるこれを、敵は自ら後方に吹き飛ぶ事もなく立ったまま受けた。ただで済む筈が無い。
ただで済む筈が無いのに、耐え切ったこの相手は異常だった。
「くっそ……!」
一歩分。それが鋼の攻撃を受けきった男が後退した距離だ。
刺客は男で、ミオンが着ていたようなフード付のローブ姿だった。フードの奥、年は三十ほどに見える髭を生やした男の顔がある。そこから漏れた毒づいた声は、鋼の攻撃力が相手の想定を上回っていた事を示していた。
鋼は即座に《魔砲》を連続して二発叩き込む。一発は最小限の動きで避けられ、男を捉えたもう一発は軽く手で跳ね除けられた。いくら、実際の腕より攻撃力において劣る仮初の魔力の腕とはいえ。以前戦った兜男でも、迎撃するのにこれほどの余裕は見せていなかった。二重攻撃を耐えられた時に抱いた嫌な予感が、確信に至る。
「……魔物憑き」
それも、本日遭遇してきた貧弱な奴らとは格が違う。ミオンのような、鋼とは違うタイプの魔物憑きでもない。
同種だ。
これまでのやりとりと、何よりもその本能で。鋼はそう確信を抱く。
そもそも簡単に繰り出しているが、鋼の《魔砲》はそれなりに厄介な性質を持つ攻撃であり、本来易々と無効化される筈が無いものだ。
人間の持つ魔力は空気のように薄く、何の障害にもならないので勘違いされがちだが、魔力というものはそれ自体が僅かに質量を持っている。あくまで僅かであり物理的な影響などほぼ皆無なので、これに術式を働かせ、好きな変化を与えて利用するのが魔術と呼ばれる技術である。しかし魔力強度が人のものより段違いに高い鋼の場合、密度が高いという事の証左か、魔術を使わずともその魔力は既に『硬さ』を持っている。
とはいえ極々、僅かなものだ。空気と例えた人間の魔力を基準にして、普段は水ほどの硬さも無い。だが《魔弾》や《障壁》、そして《魔砲》など。魔力自体を硬くしてそのまま使う術式では、この点がダイレクトに速度に響く。
最初から硬さがあるという事は、そういった魔術に共通する、魔力を物質化させてから硬くしていく工程の序盤をすっとばせるという事。鋼の《魔砲》が速度と攻撃力を兼ね備えている秘密はここにある。
鋼の体質により瞬間的に発動可能なだけであって、それなりに訓練を積んだ人間の魔術師が、少し溜めてから繰り出す攻撃に匹敵する威力の筈なのだ。
しかも魔力を元に近い状態で使っている利点として、《魔砲》は他の魔力と反発する。低い魔力強度の《障壁》など容易く打ち消しながら貫通するし、相手が展開している魔法陣に突っ込ませればそれをかき消してしまう。ルデスの魔物相手にも通用したこの攻撃技の完成度の高さに、鋼は自信を持っている。
――それを、軽々しく跳ね除ける? あり得ないとは言わないが、尋常ではない。
この相手がこちらと同格の魔物憑きだと考えれば全てに納得がいくのだ。
所詮魔力で形作っただけの拳。格下の魔力は貫通出来ても、同じ強度の魔力の壁を素通りできる道理はない。魔力と魔力は互いを削り合うのだから。
先程の鋼の《魔砲》は、恐らく男が体にまとっている魔力の層か何かで威力を削られたように感じている。男自身もかなりの強化の使い手とくれば、軽く攻撃を弾かれても不思議はない。拳で《障壁》を易々と貫通させた事にも説明がつく。何より、前に立つだけで感じ取れる禍々しい気配がそれを裏付ける。
魔物憑き。それも、近接戦闘に特化した、能力を極端に尖らせた一点集中型の戦士。
鋼も同じだから分かる。リスクを負わずに倒す事は出来ない危険な相手だ。凛にとって最悪の相性の敵でもある。
そして確信がもう一つ。
「……お前か。今街で暴れてる魔物憑きどものボスは」
「ま、分かっちまうわなー。そういうテメーもどうやら……お仲間かよぉ? こんなのが学生の中に混じってんだから、世間ってのは分からねえもんだ」
会話をかわしてはいるが互いに油断など欠片も無い。相手が相手である。最大限の警戒を持って、両者とも相手がどう動き出すか注視している。
だが男にとっても余程鋼が珍しいらしく、かなりの興味を持たれているのも本当のようだ。
「しっかし惜しいな。今日この時じゃなきゃ、いい条件でうちの部隊に誘ったんだがなあ」
「……魔物憑きだけの部隊か? 帝国も悪趣味なの飼ってんだな。亜人嫌いじゃなかったのかよ」
戯れ言に構わず、凛がやられた怒りをそのままぶつけ、叩き潰す。通常なら鋼はそのように対応しただろう。こんな会話に興じる事もなく、問答無用で。
だがさすがに、出来ない。熱くなった鋼の頭を一気に冷まさせる程に、その必要があると判断してしまう程に、この相手は一筋縄ではいきそうにない。
ただ、会話という一息入れられるタイミングが訪れた事で、今の状況を確認する猶予は得られた。
先程ナイフが刺さった右肩は、問題なく動く。殴りかかった時の違和感の無さで分かっていた事だが。ほとんど自然落下してきただけの投げナイフ程度では、最初は突き刺さったとしても強化魔術を受けている筋肉の壁は破れず、そのまま抜け落ちたようだ。血は少し流したが、戦闘に支障は無い。《解毒》の魔術は習得しているが、毒の類の心配も無さそうだ。
足を折っているグリット教授とミオンは、少し離れた位置にいる。少しと言っても強化された脚力では一歩か二歩程度の距離でしかないが、そちらを見やる暇は無い。
そして、あと一人。
「……ルウ。俺がやる。邪魔なのを連れてけ」
彼女の気配を探りもせず、そちらに意識も向ける事なく。鋼はそう、背後に指示を出した。
いくら男がかつてない程の強敵でも。一撃で仕留めるつもりで放たれた奇襲だとしても。
あれで彼女が死んだ筈が無い。その確信だけを頼りに、それだけ告げて意識を敵だけに向けなおす。人の体など脆いもの。死ぬ時は呆気ないものだと分かっていても、戦友の少女達だけは例外だ。許可無く死ぬなど鋼は認めないし、絶対に許さない。
目前の男が鋼の背後を見やり舌打ちした。それが意味するところなど考えもせず、隙を見せたとばかりに鋼は飛び出した。
◇
ああ、危ない。
そう思った時には既に敵の拳は放たれた後で、受ける側の回避も終わった後で、気付けば繰り出された反撃さえもう終わっている。
回避と反撃をあの体勢からどう両立させたんだろう、なんてミオンが考える頃には、その光景はもう何手も前の過去のものだ。思考を続ければどのような流れだったのか理解は出来るだろうけど、展開が次々と繋がっていく両者の戦いで、その一瞬だけを切り取って把握する事に何の意味があるだろう。
分かるのは、カミヤコウと敵の魔物憑きの戦いはもう、常人の理解を拒む異次元の領域に達しているという事だ。
傍に転がっている教授と呼ばれていた男性は、ただただ唖然として二人の殺し合いを眺めていた。そう、殴り合いではなく殺し合いだ。あの二人のヤバさはミオンのような能力を持っていなくとも、素人でも子供でも、誰であろうとよく分かる筈だった。その危険度を最も雄弁に主張しているのは、動きの速さではなく音だ。
拳を当て、受けた際の衝撃が、とても肉がぶつかるような音に聞こえない。別の何かだと思えるほど激しく空気が震えている。一歩踏み込むだけで、軽やかに見える動きからは違和感があるほどに重い足音が響いてくる。見えないほどの速さで動いているのに動作全てが重々しい。一撃一撃に、相手を殺そうとする気迫が込められているのが否が応でも理解出来てしまう。
まさに怪物の戦い。
魔力の質を感じ取れるミオンにとっては、誇張ではなく大型の魔物同士がぶつかっているように感じられた。
両者の間に生き物が入り込めば、魔物だろうとすぐに挽肉と化すだろう。
「……治療を受けられる場所に連れていきます」
すぐ近くからかけられた声に驚いて、ミオンと教授はそちらを見た。コウの連れである黒髪の少女、リンが立っている。彼女が無事であり、コウの指示を受けて立ち上がった場面も二人は見ていたというのに、あの異常な戦いに気を取られてすっかり意識の外となっていた。
右腕をかばうように左腕で抱き、リンは無表情で教授を見下ろしている。ミオンには彼女が苛立っているように感じられた。その右腕はおかしな曲がり方をして垂れ下がっていて、あの男の一撃で骨を折られたのだと分かった。
リンは問答無用で教授を引っ張り起こし、「ぐあっ! 痛い痛いいたいっっ!!」と叫ぶのも無視して担ぎ上げた。右腕も上腕の方なら動かせるようだ。彼女だってかなりの痛みを感じているはずなのに、それをおくびにも出さないのが恐ろしい。
「ミオン、ついて来なさい」
簡潔に指示し、リンはコウ達の戦闘から遠ざかるように歩き出す。慌ててついて行きながらミオンは何度も振り返ってしまう。
二人の魔物憑きはいまだに拳のやり取りを行っている。互角のように見えるものの、膠着状態と言っていいのか分からない。これはさすがにやられたかも、と思うような瞬間が、ミオンの目でも結構頻繁に映るのだ。もちろんその逆もある。戦いが終わっていないからお互い上手く切り抜けているのだろうけど、本当にある瞬間にはあっさり決着がついて、どちらかが死んでしまっても不思議は無いように思える。つまり、最高に危なっかしい。
「あ、あの……、いいんです、か? 彼を、一人に……」
「……コウが、『俺がやる』と言ったんです。任せるしか、無いでしょう? 邪魔者がいては戦えない」
悔しさが声に出るのを抑えているような、平坦な声だった。その邪魔者であるミオンからは、言い返せる言葉など何も無い。
抱えられている教授は違ったようだ。
「僕の事は、いい。這いずってでも、ここから離れるさ。助けに、行ってあげて、くれ」
痛みで息を乱しながらの言葉に、しかしリンは顔をしかめるだけだ。歩みを止める様子も無い。
「……」
「あ、あの。いいん、ですか?」
「……邪魔者とは、あなた達二人だけを指しているわけではありません」
己の無力を憎み、彼女は歯噛みしていた。
ミオンにとってこの少女は強者の側だ。少し行動を共にし、低級の魔物を危なげなく倒すところを何度も見た。以前兜をかぶった大男相手に、大量の魔法陣を素早く展開したのもしっかり覚えている。ミオンより上、一般的に見て強い、その程度の評価では無い。彼女は常識外れの実力者のはずだ。
ミオンからすれば見上げるほど遠い高みにいるこの少女ですら、相手次第では足手まといだというのか。その事実はミオンに軽くない衝撃を与えた。強くとも、より強い者には勝てない。当たり前の事だけれど何か納得できないものがあった。ミオンも等しく抱え、いつだって彼女を苦しめている無力感という感情は、リンほどの強さに至っても無縁ではいられないのだ。
「アレは、強すぎる。もし腕が無事でも、私一人では一方的にやられます。奴に狙われて自力でなんとか出来ない私は、コウにとっては鎖にしかなりません。……周囲一帯を薙ぎ払って良いのであれば、やりようはありますが」
やはりそこは、コウの連れであった。薙ぎ払えるらしい。
「あ、あの。今の敵の人に、対抗出来る人なんてそうはいないと思いますし。最悪、薙ぎ払ってでも倒してしまった方が、その……、良くないですか?」
思い切ってミオンは自分の意見を言ってみた。
残酷なようだけれど、むしろ多少の一般人の犠牲で済むなら安いとさえミオンは思う。自分第一のミオンでなくともこれは妥当な判断である筈だ。
それほどにあの相手は異常で、特別だ。この世に二人といないであろうと思っていた、あのカミヤコウに匹敵する怪物なのだ。今更ながらにミオンは身震いする。あれほどの怪物と遭遇してしまった不運と、今なお生きていられる幸運に。もしもコウがいなければ、成す術なくゴミのようにミオンの命は奪われていただろう。もしかしたら奴の眼中にも入らず、見逃された可能性もあるけれど。
リンは首を横に振った。
「周囲を気にせず戦えばまだ、私も善戦出来るでしょうけど。勝つのは厳しいでしょうね。最後には逃げられ、私の足では追いつけず、時間を置いて再び奇襲を受けるだけです。それにそれは一対一の話です。周囲一帯全て巻き込む魔術は、当然コウにも被害が行きます」
「……あの人が勝つのを、信じるしか無い、と」
「その通りです。そして当然、あの人は勝つ。だから何も、問題など無いのです」
言い切って、未練を断ち切るようにリンは足を速めた。目的地はどうやらすぐ近くの騎士学校のようだ。あの広い敷地と校舎は、恐らく逃げ惑う人々のための避難所となっているはず。ミオンとしてはもっとさっきの場所から離れたいのだけど、しかしリンと離れるのも怖い。大人しくついていく。
「……コウ君が、あれほどの戦士、だったとは。本当に、助けられた。おかげであの男の存在を、皆に伝えられる。すぐにでも増援を頼もう。彼がより、勝ちやすくなるように」
「増援は、どうぞお好きにしてくださればいいですけど。死んでも文句などは受け付けませんから」
「それは、そうか。確かに、あの相手だ。半端な増援など、無駄死にか。その事もよく、伝えなければ。尋常の相手ではないと」
息も絶え絶えな教授と冷淡な声が、見えてきた騎士学校の正門に、会話しながら向かってゆく。
ふと何かに気付いたように、リンが立ち止まったのはその門をくぐる時だ。
「……そう、そうです。あれほどの手練れ。あんな異常な強さを持つ存在がそこらに紛れ込んでいるなど、普通はあり得ない」
「え?」
そりゃあ、そうだ。探せばあのぐらいの実力者が、その辺に結構隠れている、なんて事はきっと無い。二人もいるのだからもっといるのかも、と思いそうになるけれど、一人いるだけでもあり得ないレベルの異常な存在なのだ。少なくとも、他人の強さが分かるミオンがこれまでの人生、どこを見たって人の形をしたあのような怪物はいなかった。
リンの言いたい事は分かる。分かるのだけど。
それを言い出したらアレと対等に渡り合う少年も、そこらに紛れ込んでいてはいけない存在ではないだろうか。今日よりもずっと前から、密かにミオンが思っていた事である。
リンが考え込み、その口が小さく動く。人に聞かせる気のない僅かな呟き。耳の良いミオンは、その内容を確かに聞き取った。
「……まさか、エイブラム研究所の? いえ、もしくは……、第二特化兵団?」
どちらも、ミオンは全く聞いた事の無い名前。
ほんの僅かな時間を置いて、リンは何事も無かったかのように再び歩き出す。騎士学校の敷地内、正門の近くで待機していた兵士が何人か近づいてきていた。
外に狐耳を晒したままのミオンは警戒の目を向けられたものの。リンと教授がとりなしてくれて、その上持ってきた話が話だったから、すぐにこちらの事は有耶無耶になった。
やはりここは避難所になっているらしい。〈紅孔雀〉が自由に行き交う空の下からやっと解放される、亜人の身でも保護してもらえるのだと、ミオンはようやくの事で緊張を緩める事が出来たのだった。
あくまで一時の安心感である。二人の怪物の戦いも、街を襲う魔物の状況も、どう転ぶかはまだ分からないのだから。
◆
――これは、無駄だろうな。
腰にしっかりと括りつけた、満月亭から持ち出した剣を意識する。これまで遭遇した事のある魔物憑きの中で、今戦っているこいつは間違いなく一番強かった。それでもいまだ、鋼は小剣を鞘から抜いていない。
手加減しているわけではない。剣を抜いた方が弱いというわけでもない。
同程度の強化が使える相手を殴ってもせいぜいダメージを与える程度だが、その腕力で刃を振るえばあっさりと人体など切断される。剣の有無というものは割とでかい。それこそ一撃で、勝負はひっくり返るだろう。
当たれば、の話だ。
この獣じみた俊敏さを持つ男に、それが通用するビジョンが全く見えない。だから、一撃。一撃だけ当てる事を目的に、素手での戦いを続けてきた。小剣を抜くのは完全に不意を打てるタイミングだ。その一瞬で勝負を決める。そのような思惑から、鋼は小剣を切り札として温存していたのだ。
だが無駄だと悟った。男は小剣の存在を片時も忘れていないし、油断なく他の攻撃手段も警戒している。鋼と同じだ。こちらだって奴がナイフをまだ隠し持っているつもりで動いているし、敵の攻撃手段をそれだけだと決め付けてもいない。完全に不意を打つ事など出来そうにない。
それでいて、奴は様子見の動きのクセに当たれば儲けものとばかりちょくちょく致命の一撃を狙ってくるのだ。ものすごくやりづらい。まあ一撃での決着を狙っているのはこちらもなので、やりづらいと思っているのは向こうも同じだろうけども。嫌になるくらい、鋼と戦い方が酷似している相手であった。
一歩後退すると、相手も同じように距離を取った。
本当に考える事までそっくり同じらしい。激しい動きの中で既にフードが外れている男の顔が苦笑を浮かべた。鋼も似たような表情をしているだろう。
こちらが小剣を鞘から引き抜くと、相手はフード付きローブの裾に両手を突っ込んで、二振りのナイフを取り出したのだった。