63 遠い背中
「〈岩沼王〉を殴り飛ばせる怪力なんざ、人の細腕をどう強化したところで生み出せるわけがねえ」
顎に手を当て、顔に一条の傷跡を持つ男バートが独り言を漏らすように推測を重ねている。
「だが実際ダリアは何らかの魔術であれを殴り殺した。つまりあれは、単純な強化じゃねえ可能性が高いと俺は踏んでる。《身体強化》をただ強くしていった延長線上の術式でなく、別の方法で打撃という現象を発生させている。そう考えると矛盾は出ねえ」
現在、伊織達は日本人街の奥へと向かっている。
先程伊織達がクー・日向の両名に追いついた時には、既に灰色の巨大サンショウウオの死体があり、周囲には一ヶ月前に闇傭兵ギルドで遭遇した男バートをはじめとする傭兵や冒険者達がたくさんいた。何故だか全員で奥に向かうという話になっていて、なし崩し的に大所帯となった一行はこうして一塊になって進んでいるというわけだ。
露払いにバートの部下達と別口らしい冒険者集団が少し前を歩かされていて、実は今野犬のような魔物〈グルウ〉と彼らが戦っている真っ最中だ。眼前のそれを我関せずとばかりに眺めながら、バートは暢気にも話を続けている。
「地に足がついた状態であの術式を使う時、殴る瞬間だけ足元にも魔法陣が出たのを俺は確かに見た。そこの地点の石畳を後で確認してみりゃあ踏み砕かれたように割れてやがった。あくまで俺の予想ではあるが、あの瞬間だけ何らかの方法で自分を重くしたんじゃねえか? 手の術式は恐らくでかい反動がある。それを支えるための足元の術式ってわけだ」
伊織は直接見ていないが、どうやら助太刀に現れたクーは殴り殺すというとんでもない方法で大きな魔物を倒したらしい。バートの分析を興味深いと思っているのは伊織だけではないようで、省吾と雪奈、それにターレイも真剣に耳を傾けているのが窺える。
「だが自分を重くする術式があったとしても、その原理まではさすがに予測もつかねえ。そもそもあんな威力の打撃をどうやって発生させてるかもな。ありゃ個人魔術か?」
バートがクーに問いかける。
魔術とは魔力を他の現象や物質に置き換える技術だ。そこにほとんど制限は無い。水にも炎にも、あるいは風という『空気の流れ』にすら変化し得るのだから、魔力というものは本当にとんでもない。ただ、地球の人間からすれば夢の万能エネルギーなのだけど、あくまで人の感覚で操作するものなので不便もある。機械化、自動化出来ない上、使用者によって可能不可能が大きく別れるのだ。
その最たるものが個人魔術と呼ばれるもので、その名の通り特定の個人だけが扱えるような魔術に対する分類である。学園の授業で触れた事がある単語で、それに憧れているという雪奈のテンションがその時やたらと高かったので伊織もよく覚えている。
例えばの話。中身が空洞の、四角い鉄の塊を魔力で生み出したとする。タイヤとエンジンを生み出し、動力源であるガソリンすら魔術で再現したとする。それらの術式を全て同時に発動させ、全てが適切に配置された状態で生み出されるよう制御してやれば、理論上では魔術で車を造り出せるはずだ、という思考実験があるのだそうだ。いやまあ、例は別に車でなくともいいのだけど。
実際のところ、これは努力でどうにかなるレベルを大きく越えた難解な魔術となるため、成功させるのはほぼ不可能だという。
まず前提条件として、術の使用者――術者は、車というものの構造と仕組みを、部品に至るまで把握している必要がある。エンジンも、魔力だけで再現するとなると、これを魔術なしで自作出来る程度の知識は最低限要求される。そして鉄を生み出す魔術適性は当然として、材質が全く異なるタイヤのゴムや燃料であるガソリンについても、それを生み出せる適性と才能は別個に持っていなければならない。それら条件を全て満たしていても、人並み外れた魔力の操作技術や制御力が無いと、難度の高い複数の術式を同時に動かせないので話にならない。そもそもよほど明晰な頭脳の持ち主でないと、やろうとしても頭がパンクするだけだろう。
理論上可能であっても実際に可能であるとは限らない――そういう話なのかと、これを聞いた時最初に伊織は思った。そうではなく。重要なのは、ほぼ不可能なのであって、絶対に不可能なのではないという事だ。
前提となる条件を全て満たせる人物がいるのであれば、どのような常識外れの魔術だろうとこの世には存在し得る。
走る車を生み出せる魔術師がいる確率もゼロではないのだ。
まあ、つまり。
バートの口から出た個人魔術とはそういう類の超高等技術なのである。
ある人物にしか使えない魔術の存在は、旧時代のソリオンでは『神に選ばれた者のみ使用が許される』のだとか考えられていた事もあるそうだけど。前述の通り条件がただ厳しいだけなのだ。
術式が難解過ぎて、あるいは求められる魔術適性や才能が特殊過ぎて、開発者の他に使える者が現れない。または、ほんの数人しか使い手がいない。それが伊織が授業で習った『個人魔術』の定義だ。これを持つ者は熟練の高位魔術師か、さもなければ限られた才能を持つ天才か。そのようなニュアンスで語られていたので、クーがそれの使い手だとすればそれはとても驚くべき事なのだろう。
地球出身の伊織にはいまいちピンと来ない上、元々この友人達は非常識の塊なので今更驚きも少ないのだけれど。
問われたクーはあっさりと頷いた。
「個人魔術かは知らないが、多分そのようなものだ。私はこれを《竜拳》と名付けた」
「やっぱ自作なんじゃねーか……。竜なんて名前魔術に付けるたあ普通なら失笑モンだが、あんだけのもん見せられた後じゃさすがに笑えねえよ」
以前、闇傭兵ギルドで彼に対して凛が辛辣な事を言っていたけど。彼女がいない現状だとクーとバートのやり取りは穏やかなものだった。やはり死の谷を同じく経験しているからか敵対関係ではないようだ。一ヶ月前の事があるので伊織としては頼もしくも複雑な心境なのだけど。
さっき鋼に報告の電話を掛けていた日向も現在はただ無言。省吾と雪奈もあまり気にしていないようで、つまり今にもバートに噛み付きそうな様子なのはマルだけだ。「正規の傭兵になろうがあの時の事は許されるものではないぞ!」と合流当初は詰っていたけど、状況が状況だとターレイに窘められてからは睨むだけに留めている。その視線を全く涼しげに受け流しながら、バートは話を続ける。
「しっかし、カミヤと同じ戦士系統かと思ってたが自作の魔術とはな。確かに肉弾戦用だが……。お前もしかして、魔術も相当いけるクチなんじゃねーのか?」
「当然だ。……と言いたいが、どうだろうな。私より凄い魔術師は何人かいるし」
「何人かしかいねーのかよ」
「まあ、火力だけは自信があるぞ。さすがにさっきの硬いトカゲだと遠距離から殺すのは少々苦労するだろうが……」
「少々苦労で済むのかよ」
突っ込みを入れるごとにバートの呆れ顔は引き攣り気味だ。
「そこまで近距離も遠距離も鍛えてお前はどうしようってんだ……」
「目標は決まっている。人の身で、竜の強さを手に入れる事だ」
「……は?」
悪い冗談を聞いたとでもいう風に、バートは今度こそ呆然としてクーを見た。周りの視線も全て彼女に集まる。マルも、ターレイですらぽかんとしていた。
それはもう、物凄く大それた事を言ったのだろう。竜といえば大抵の地球産創作物では最強クラスの生き物だ。ソリオンでは竜界と呼ばれる地域に生息している、半ば伝説じみた扱いを受けている魔物。それはもう、想像を絶する強さのはずだ。あまり知らないけど。
「そりゃ、……本気で?」
「? なんだ、バートは達成する気も無いのに目標を立てたりするのか?」
「無理だろうがそれをするくらいの意気込みで、てな事もあるだろうよ」
「そんなものか。だが無理とは思ってないぞ? 《竜拳》は確かに少し威力不足だが……」
「まだ上を求めんのかよ……」
少し不足。その言い方がなんだか伊織には引っかかった。本物の竜の腕力がどれ程か、まるで知っているかのような。
バートが前に視線をやり話題を変えたので、その疑問が伊織の口をついて出る事は無かった。
「ようやく終わりやがったぜ。〈グルウ〉如きに何をちんたら時間をかけてやがんだ、あの冒険者ども」
丁度野犬のような魔物の群れの退治が終わったところだった。流血やら痛々しい傷口やら、弱々しくなっていく苦悶の鳴き声やらで、駆除の光景は見ていて思いの他生々しかった。鉄火場に憧れる伊織とて見慣れないものだから正直少し気分が悪い。〈グルウ〉の死体を心なしか青い顔で見つめている雪奈と違って、剣士志望の自分は弱い感情を表に出すわけにはいかない。心の中で気合を入れなおす。
「不満があるのなら貴様自身が手伝えばいいだろう」
「はっは。弱え奴はな、自分が勝てない敵が出た時に強え奴に助けてもらえるよう、強え奴に楽をさせる義務があんだよ。それすら出来ない足手まといのクセに調子づいた事言いやがる」
マルが我慢ならないとばかりに指摘するも、バートは気を悪くした様子もなく鋭く切り返す。怒りでマルの顔が真っ赤になった。
「……っ!! いいだろう、なら次は僕が――」
「坊ちゃま!」
マルの台詞の続きをターレイが中断させる。今日はただの祭りだったのだ。マルや伊織達が武器など持っているはずが無く、非常に弱いらしい〈グルウ〉相手でも戦えるかは分からない。伊織だって悔しいが、クーと日向、ターレイ以外は事実としてただの足手まといだろう。闇傭兵ギルドのゴロツキ相手にそれなりに余裕で勝てた経験があるから、数が多い魔物相手でもどうにかなるとは思うのだけど。勝てると意気込んで剣を借りて戦ったとして、負傷しないとは言い切れない。大怪我でもすれば皆に更なる迷惑をかける事になる。
「次は僕が、なんだ? 言ってみろよ貴族の坊ちゃま」
「バート殿! ……その辺にしてもらえませんか。守ってもらう身で図々しいのは承知しておりますが、あなたも彼女らについて来ているだけのはず。そこまで挑発される謂れはありません」
「はん。随分過保護なこって」
悔しげに歯を食いしばるマルを庇うように、ターレイがやや攻撃的にとりなした。相手が大人でも貴族でも遠慮する事の無いバートは馬鹿にしたように肩をすくめ、両者の間で非常に微妙な空気が流れる。バートが呆れた顔を再度マルに向ける。
「事実を事実として受け入れる事すら出来ねー奴が。将来が楽しみだな」
「……!」
「挑発された程度で分かり易く心を乱して、要らねえ危険をわざわざ背負い込むなんてのは三流のする事だぜ、貴族のお坊ちゃま。いくら腕だけ磨いたところで大成しねえ。あの冒険者どもがいい例だ」
指導してやろうというつもりもなく、本当にただ思った事を言っただけなのだろう。言うだけ言ってバートは前に向かって歩き始めた。敵を片付けた事でバートの部下と冒険者達の歩みが再開したからだ。
「……あの冒険者達の、どこが悪いか。教えてくれないか」
背中にかかった声に意外そうにバートが振り返る。ターレイも意表をつかれた顔をした。真剣な顔で教えを乞うたマルの声には怒りどころか真摯さが宿っていたからだ。
伊織も多分、その気持ちが分かる。強くなりたいと思っていて、鋼達四人組という途方も無いほど高い目標がいつも身近にいる身としては。
諦めるという楽な選択をしないのなら、必死に彼らの背中を追い続けなくてはいけない。それでも尚、足りないと、朝の訓練を一緒にしている伊織は知っている。彼らとの間にはあまりにかけ離れた実力差がある。今のまま努力を続けて、追いつける気がしないのだ。
自分を変えなければいけない。そういった焦りを、伊織と同じくマルも恐らく抱いている。その為のヒントをバートはきっと持っていると、今マルは感じたのだろう。
「……冒険者どもが仕留めた〈グルウ〉の死体、見てみろ」
バートが顎で前方を示す。道端にいくつもの魔物の死体が転がっている。
死体はだいたい二種類だ。斬られて死んでいるものか、焼かれて死んでいるもの。伊織の覚えている限りでは、バートの部下達は剣だけで戦い、冒険者達は剣も魔術も使っていた。その情報だけでは死体を改めて見てみても、気付いた事は特に無い。マルも同様のようだ。
「……。何か、死体に違いが?」
「何発で仕留めてる?」
バートがそこまでヒントを出したところで伊織にはピンと来た。
「あ、そっか! 傭兵の人達のと比べて、死体がボロボロなのね」
思わず口に出してしまった。二人がこちらを向き、まあいいやと伊織も会話に入れてもらう。
「傭兵の人達は無駄なく一撃で倒してるけど、冒険者の人達は攻撃が弱くて一発で仕留められない……、いえ、違うわね。急所を特に狙ってないんだ」
「……前も思ったがつくづく女にしとくのが勿体ねえ奴だな、お前」
「つまり、正解かしら」
「ああ、だいたいはな。あの冒険者ども、魔物の駆除に必要な能力だけは足りてるようだが他が全部駄目だ。攻撃が雑過ぎるわ行動に無駄が多過ぎるわ、連携もその場その場で適当にやってやがる。あれに遠慮して俺の部下どもが積極的に前に出れず、ただ敵を待つだけになったから駆除が遅れたんだが気付いてる様子もねえ。それどころか、自分達はよく働いたのに俺の部下どもは後方でダラダラしてたとか思ってそうな顔だぜありゃあ」
よっぽど腹に据えかねていたのかバートは一息に言い切る。
「確かにそれは、腹立たしい話だが……。はっきりとそれを言ってやればいいのでは? 言われないと彼らとて分からないだろうし……」
「言われねえと分からねえような能無しにゃ教えるだけ無駄だ、無駄。自分で判断する頭がねえんじゃ言ってやってもキリがねえよ。それに奴ら、今だって前の掃除を明らかに渋々やってるじゃねえか。内心不満タラタラの奴にゃ何言ったって本気で無駄だぜ」
案外このバートという男は色々と見ているし色々考えているんだなと伊織は感心させられた。鋼達と同じ、死の谷の経験者という肩書きをこちらがかなり軽く考えていたという事だ。剣の腕前以外にも、そういった判断や思考が重要なのだろう。
「……まあ、あの人達も実際に勝ててるんだから問題ないっていう考えなんでしょうね」
「全くヌルい世界で生きてやがるぜ。魔物の多い辺境を旅した事がありゃ、勝ってそれで終わりなんて考えにはならねえだろうによ。別の魔物に挟撃されねえよう戦いは速やかに終わらせて、次が来る前にその場から撤収は基本だぜ。魔力と体力も常に温存しておいて予想外の連戦に備えるもんだ。それをあの冒険者ども……。魔力は無駄遣いするわ、安全策取りすぎて余計な時間かかってるわで、本気で見るに耐えねえ。その辺りの采配が傭兵に負けてるたあ冒険者としてどうなんだって話だ」
言われてみると普通くらいに思っていた冒険者達の実力が途端に頼りなく思えてきた。魔術を使ったり危なげなく敵を倒していた事から、今の伊織達よりはやっぱり役に立つのだろうけど。それだけバートの評価基準は厳しいのだ。
「ねえ。それって普通、冒険者の方が優れてるものなの? そういえばその二つの違いをよく知らないんだけど……」
「そこからかよ。基本冒険者は開拓やら資源採集やら、魔物駆除をやる。傭兵は護衛か盗賊退治か、こっちも魔物駆除か。別に絶対に決まってるわけじゃねえが、ま、人殺しでも問題なくやれる輩がだいたい傭兵を名乗る。俺は経験はねえが戦争中だとかで国が戦力を雇いたい時、傭兵には声がかかるって話だ」
訊いてみるとなんだか予想外に丁寧に教えてくれた。もしかしてこの人、案外面倒見がいいのではなかろうか。後ろで雪奈がぼそっと「ツンデレ……」とか言って省吾に口を塞がれていたけど、聞こえなかったのか意味を知らないのか、特にバートに反応は無かった。
そんな話をしながら一行が歩いていると。
雪奈が「ヒッ!」と息を呑み、真っ青な顔となった。
その視線を辿っていく。話を聞くのに集中していて気付くのが遅れた。道の端の目につく場所に、凄惨な光景があった。
「……っ」
伊織も背筋がぞっと粟立ち、息が詰まる。てらてらとした光沢を持つ赤い石畳の上で、それが野ざらしになっていた。
死体だった。
土気色に変じた肌に、ぎょろりと見開かれた目玉。広がり固まり始めた血溜まり。死の苦しみに表情が固定された、もう動く事の無い人間がそこにいた。
間違いなく、明白に、死んでいる。服は裂け、体中噛み跡だらけだ。それ以上の観察を伊織の脳は拒否した。前方を行く冒険者と傭兵達が先程駆除した、〈グルウ〉という魔物の仕業だろう。
思わず足を止める。雪奈は真っ青な顔で震え、マルはただ呆然とし、省吾は顔を険しくさせ同じように立ち止まっていた。ターレイは気遣わしげにマルの傍に寄り添う。それに気付き、クーと日向、それにバートが振り返って立ち止まった。
なんて事だと伊織は思った。死の谷を経験している三人にとって、あの光景は足を止めるまでのものではないのだ。その証拠に三人は顔色一つ変えていない。尋常ならざる斬り合いを望む、こちらの世界で剣士になりたい伊織は本来であればこの三人のように振舞えなくてはいけないのに。
無理だ。
食われかけの惨たらしい死体を前にして、冷静でいるのは今の伊織には到底不可能な事だった。まだ、損傷の少ない死体なら意地でも目を逸らしたりはしなかっただろう。だけどあれは、とても正視できるものではない。
「ああ、死体見んのは初めてか? 好きなだけ呆然としてくれて結構だが、歩きながらにしてくれ」
なんて無茶で酷い注文か。咄嗟に何かバートに言い返そうとしたマルが口を噤む。言い返せる余裕も無いほどに、マルも死体に衝撃を受けているのだろう。
伊織もショックで呆然としている。死体の衝撃と、思った以上に自分が不甲斐ない事に。戦いに憧れていたのにこの体たらく。心底情けないのに、もう一度死体に目をやってもやはりすぐに逸らしてしまった。
「おい、ずっと立ち尽くしてるつもりか? お前らがどれだけ睨んでもそいつが蘇るわけもねえ。ここで無駄に時間を食って魔物が出たら誰が戦うと思ってやがる。分かったらさっさと足を動かせ」
バートの言い分は全て事実で正論だ。足を動かし難く感じるのは、単に平和ボケした日本人である伊織の感情の問題に過ぎない。
『事実を事実として受け入れる事すら出来ねー奴が。将来が楽しみだな』
先程のバートの台詞が脳裏に浮かび、伊織はせめて今以上の醜態を晒すものかと雪奈の傍に付き添った。行こうと目で語りかけ、彼女の背中に手を添える。死体は直視出来なくても、死体があり、ここは危ないという現実くらいは呆然とせずに受け止めようと思う。伊織と雪奈が歩きだす素振りを見せれば、マルと省吾もそれに倣った。
何も言わなくても大丈夫そうだと確認したのか、こちらを振り返っていたクーが前に向き直る。日向など肩越しにちらりとこちらを見ていた程度だ。
その二人の背中を見て。
遠いなあと、伊織は改めて思ったのだった。