59 恐怖という楔・3
時は戻って現在。
ミオンは窮地に立たされていた。
「皆、そいつを取り逃がすな!」
「避難所に行かせたら駄目だ! 警備隊か騎士様が来るまでここに留まらせるんだ!」
――終わった。
胸中で思う。恐れていた事が現実になったのだ。
あともうちょっとだった。人混みの中の移動であっても、あと一分足らずで満月亭に着く距離だったのに。
ミオンとリュンは市民達に遠巻きに包囲されていた。
原因は明らかだ。周囲の人々にミオンのフードの中身を見られた。結果、どこかから湧いてきた帝国人二人が周りを扇動して今の状況になっている。
「この子は人を襲ったりしないって言ってるでしょ!? あなた達人の話を聞く気が無いの!?」
ミオンを背にかばい、リュンが声を張り上げてくれている。涙が出るほどありがたく、心強かった。けれどもその主張はきっと無駄になるだろう。世の中は、満月亭の親子のようにありのままを見てくれる優しい人達や、日本人の神谷鋼のように差別意識のない者達ばかりではないのだ。差別される側としての今までの生で、ミオンもそれを多少なりとも実感していた。
きっかけは空から接近してくる〈紅孔雀〉だった。
街を逃げている間何度もそういう事態は目撃していた。魔物は時折急降下しては、獲物を啄ばもうと人々に襲いかかる。襲われた本人ががむしゃらに暴れたり、周囲の人が何かその辺りの物を投げつけたりして追い払われるものの、そこかしこで負傷者は続出し、群集の混乱を助長していた。
そういった光景を無視してミオン達は進んできた。それまでは。しかしその時狙われたのはリュンだったのだ。
戦いは恐ろしかったけれど、ミオンはこの日決意していた。今回こそは逃げない。里の時のように、恩人を見捨てはしない、と。それに敵は一般人でもなんとか追い払える程度の下位の魔物。ミオンはなんとか恐怖を抑え込み、魔物へと攻撃を放つ事に成功した。
それは彼女にとって生まれて初めての、能動的に行った他者への攻撃だった。
放った稲妻はばちばちと音を立てながら〈紅孔雀〉に直撃し、撃墜させる。
――ああ。
立ち向かえた。
人からすれば小さな小さな一歩でも。ほんの少し、変われた。〈紅孔雀〉の死体を見下ろしミオンの胸に万感の想いが込み上げる。
この魔物を倒せたからといって腕自慢にもならないし、ミオンの能力的にも容易く倒せて当然の相手だ。しかしやはり本人の心構えの問題だろう。直後のミオンの心臓はうるさいほどにばくばくと脈打っていて、体は難解な大仕事を終えたかのように脱力し、地面に崩れ落ちかけたほどだった。
だから気を回せていなかった。魔術を放った拍子にフードが外れ、亜人の証である耳を外界に晒してしまっている事に。周囲が騒がしくなるまで彼女は気付けなかったのだ。
「この子は確かに亜人だけど、あなた達だって見てたでしょ! 私を守るために魔物を倒してくれたのを!」
「お嬢ちゃん、それを言うならあんただって見ただろ! ただの獣人があんな妙な魔術を使えるはずねえ! そいつは魔物憑きの可能性が高い! 早くそいつから離れろ!」
咄嗟に言葉を返せずにリュンが渋面を作った。害意はなくとも確かにミオンは魔物憑きなのだ。魔物憑きがそこら中で暴れているらしい今の状況で、正直に明かして信用を得られるだろうか。得られないだろうとミオンは思う。わざわざ人を呼び集めてまで足止めしようという帝国人の男達は、どう見ても元から亜人嫌いだ。
それにもし、この二人が人間協会の一員だとしたら。事態は最悪だ。その機会があれば、濡れ衣と分かっていても亜人を陥れる事くらいやってくるだろう。そういった手合いらしいので、あの組織は亜人達から蛇蝎の如く嫌われている。帝国から離れた国であってもその悪名が広がっているほどなのだ。
誰か戦える人早く来てくれ、と声を張り上げて帝国人は喚く。リュンは苛立ちを無理やり抑えこんだ表情でこちらを振り向き首を振った。
「……付き合ってられない。ここから離れるわよ」
「は、はい」
ミオンの手を引き、リュンは足早に元来た道を引き返し始める。包囲に構わず近づけば、ただの一般市民達は戸惑いながらも案外普通に道を譲ってくれた。背後の喚き声が一層大きくなるけど堂々たる無視だ。それでも諦めの悪い帝国人だけは追いかけてくる。
「おいその魔物は置いていけ!」
「あんた、魔物憑きをかばってもろくな事にはならないよ!」
「ミオン、振り返っちゃ駄目よ。頭のおかしい人達みたいだから」
冷え切った声でぼそりと言って、リュンもその言葉通り振り返らずに進んでいく。ミオンとしては気が気でない。果たしてこれでいいのか。それに頭のおかしな人なら尚更、目を離してしまうのは怖い。
フードを目深に被りなおしているから、少しだけミオンの知覚能力も弱まっている。なんだか不安になってしまって、思わず顔だけで振り返ってしまった。
不意打ち気味に見てしまう。
こちらの事を魔物としか思っていないのがよく分かる、敵意しかない帝国人の瞳を。
そして、思ったよりもずっと近い位置まで伸びてきている、ミオンを捕らえようとするその手を。
「いやぁっ!」
驚きと怖れからミオンは悲鳴をあげた。頭は真っ白になって、ただ反射的に魔力を昂ぶらせる。
「ミオン駄目っ!」
声が聞こえた。放電が行われたのはほぼ同時だった。
引きつったような、何かを飲み込むのに失敗したような、くぐもった呻きがどこかから漏れる。空気と『何か』を、ばちばちと焼く電流の音も。取り返しのつかない事をしてしまった可能性に戦慄し、すぐさまミオンは自身の放電を押し留める。人が倒れるような音が場に響いた。
いや、ような、では無い。現実として人が倒れた。ミオンの電流をその身に受けて。
さあっと血の気が引いた。
周囲には怖いほどの静寂が漂っていた。誰も何も言わない。避難中の通行人達が、ただ一様に足を止めてこちらを凝視してくるだけだ。
その静寂もすぐに破られる。誰かが悲鳴を上げて、別の誰かは共にいた仲間や家族の手を引いて。市民達は一斉に騒ぎ立て、こぞってミオンから逃げ出していく。
「とうとう本性を現しやがったな魔物憑きめ!」
「戦える人を誰か早く呼んできてくれ! そいつのフードの下は魔物憑きだ!」
どこにも電流など受けた様子のない、元気な帝国人二人は再びミオンから距離を取って周囲に聞こえるよう呼びかけている。自身が逃げる気も、ミオンを逃がす気もない固い意思が見て取れた。
恐る恐る、ミオンは巡らしていた首を正面に戻す。
見たくない現実がそこにあった。
直前までミオンを抱き締めていたような、密着と言える距離で。こちらの足元にしな垂れかかるように、一人の女が倒れている。
リュンの体は全く動き出す気配が無かった。
「あ……、あぁ……」
思わず放電した時、繋いだ手には流していない。ミオンの本能が攻撃の意思を向けたのは確かに背後だけだ。
――どうして?
一体何故、一体どうして、こんな事に。
答えは一つしかあり得ない。恐らくリュンは、手や腕を伸ばすなりして、咄嗟にかばったのだ。ミオンに他者を攻撃させないように。
代わりに自身の体で電撃を受けた。
眼前の光景はその結果だった。
「嘘、リュンさ、違う、私は――」
言葉が繋がらない。外野が何か言っているけど耳に入らない。
ただ、そうだ。今度こそ思う。
終わった、と。
――ああ、それとも。
――これほどの事をしでかしても、また私は。自身の破滅が本当に目の前に迫れば。
――また、住む場所を捨ててでも、死にたくないと逃げるのかな?
恐ろしい、気配。
「っ!?」
茫然自失となっていた心が一瞬で引き締まった。
危機が迫っている。呆れた事に、こんな状態であっても敏感にそれを察知した本能が、ミオンの体を反射的に動かした。
振り向く。迫る靴底。
想定を遥かに超えた接近速度に、回避どころか思考も何も追いつかない。自身を守るためミオンの体が無意識的に帯電するも、なんら効果を発揮する事なく腹に靴底がめり込んだ。
「ぎゃんっ!」
景色が流れ、倒れる。
痛いを通り越して腹部が重い。悶絶しながら、それでもミオンは歯を食いしばって顔をあげる。誰に、何に攻撃されたのか、早急に確認しなければならないという本能からの行動だ。
リュンが離れた路上に倒れている。今の一撃でミオンはかなり吹き飛ばされたようだった。そしてようやくというべきか、誰に蹴られたのか見ずとも魔力で理解した。
覚えのあり過ぎる特徴的な気配。強大で禍々しい圧倒的な魔力。それだけで確信に足るけども、己の目でもしかと確認する。
リュンの傍に立っているのは、確かに神谷鋼だった。
彼の感情はその表情から窺い知れない。ただリュンを見ている。
ああ、死神が罪深い己を断罪に来たのだと。どこか現実感を失った思考で、ミオンもぼんやり彼を見返す。体は重くて苦しくて、どの道ろくに動けないだろうけど。もはや逃げる気も失せていた。
決死の思いで無我夢中で抵抗しても尚、全く敵わないだろうと確信している相手である。
知り合いとはいえ攻撃されて当然だ。ミオンは恩人に手をかけたのだから。しかし諦めの境地でへたり込むミオンに追撃は下されなかった。
神谷鋼はそんな事よりも、リュンの安否を確かめるのを優先していた。
「おい、生きてるか? 意識はあるか?」
返事は無い。けれどもリュンの体は小さく身じろぎし、ぴくりとその手が動く。
生きている者の反応だ。
どっと体の力が抜け、そのまま気を失うかと思うほどにミオンは安堵した。
――ああ神様。
良かった。本当に良かった。死んでいない、ミオンも殺人者ではない。それだけは、本当に良かった。
「助かった! 兄ちゃん冒険者か? あの魔物憑きに止めを頼む!」
「いや、必要ない。連れて行く」
声をかけた帝国人の男に端的に答え、神谷鋼はミオンへ近づこうとする。男二人が呼び止めた。
「兄ちゃんそれはやめときな! そいつは魔術を使う系統の魔物憑きだった。拘束は無理だ、この場で殺すしかない!」
「魔物と手を組んだ魔物憑き達が今街中で暴れてる。そいつも多分その一味だ。見た目は子供でも容赦は要らないと思う」
帝国人達の進言に神谷鋼が揺らぐ様子は無い。ほんの少しの時間考え込んでいただけだった。
「いや、あの魔物憑きは今暴れてる一味とは関係ねえ。単に怯えて暴走したってだけだろう」
「なんでそんな事が言えんだよ!?」
「ありゃ俺の従魔だからだ」
さも当たり前のように言い放った言葉に、誰も彼もが動きを停止する。
当事者であるはずなのにミオンだってそんな事初耳である。口裏を合わせろとばかりに神谷鋼がひと睨みくれるけども、蹴られた苦しみと今の驚きでとても口を開くどころではない。昨日彼が言っていた、魔物憑きの正体がバレた時の思いつきの案を実行しようとしているのはなんとなく分かる。けれどもまさか本当に言ってしまうなんて。
それに、断罪されるのではないのか。まさか彼は助けてくれようとしている?
「うちの従魔が迷惑かけたみたいで、すまんな。今後無いようしっかり仕置きしておくから、皆もう行ってくれ」
「な、な、それで納得出来るはずねえだろうが! 魔物憑きが従魔だと!?」
やはりあり得ない事なのだろうか。言葉が荒い方の帝国人は怒り心頭だ。もう一人の方も顔をしかめて指摘する。
「仮にそれが本当の事だとしても。魔物憑きが暴れて負傷者まで出ているのに、はいそうですかと帰れるわけないだろう。従魔というなら君に全ての責任がある事になるけど?」
「そう言ってる。全く、不出来な従魔を持つと苦労させられる」
「そんな程度の言葉でまさか許されると思ってんのか!?」
「あぁん? さっきからあんたら、うるせえな。罰もなしに言葉だけの謝罪で許されるなんて俺も思ってねえよ。だからこの子が目覚ますまで待ってるつもりだ。あんたらは当事者じゃないんだから別に待つ必要ねえだろ。さっさと避難した方がいい」
ほら散った散った、と神谷鋼が手を振ると、遠くでこちらを囲って足を止めていた市民達の内、結構な人数が動き始めた。その事を不思議に思ったけどすぐにミオンも思い直す。〈紅孔雀〉が飛び回るこんな状況下、誰だってさっさと避難してしまいたいに決まっている。
それでも場に残っている市民がいたのは、空の魔物よりも危険であろう魔物憑きの行く末を見届けておきたかったからだろう。もちろん興味本位からそうしたのではなく、不安を残さず避難するためにだ。当事者らしき『飼い主』が現れて、後は当事者同士の問題だと言っている。他人から見ればこれは一応の解決だろう。
「待てよ、俺達は誤魔化されねえぞ! 魔物憑きをかばってお前どういうつもりだ!?」
「あんたら別に被害者でも無いのに妙に食い下がるな。かばったも何も、俺は責任取らされる立場なんだからアレの狼藉は当然止めるし、騒ぎが大きくなんのも嫌に決まってるだろ。ほらもう帰ってくれ」
「そうはいくか! お前も魔物憑きどもの一味じゃないのか!?」
しつこく食い下がる帝国人達。そのすぐ近くに、血を流した〈紅孔雀〉が鳴き声をあげながらどさりと落下する。
「うお!」「なんだ!?」
俺の仲間だよ、と神谷鋼が指差した先、近くの建物の上に村井凛が立っていた。魔法陣を手に待機させ頭上の魔物達をじっと見ている。当然ミオンにも魔力活性化の気配は届いているのに、気付いたのはたった今だ。動揺のあまり周りが見えていなかったらしい。
帝国人達が驚いている隙を狙ってか、神谷鋼は矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「あいつが見張ってるから今は見ての通り安全だが、さっきまではあんたらも危なかったんじゃねえのか!? 人を集めてうちの従魔囲ってたようだが迂闊にもほどがある。どうせ一般人に魔物憑きを抑える力なんてねえのに、足を止めさせたら〈紅孔雀〉の的じゃねえか! 魔物憑きっていう危険にも晒す事になるし」
妙にはっきりとした大きめの声だ。かろうじてまだ少し残っている、事態を見守る周囲の一般人にも聞こえるような。
「……周りの人達を巻き込んで危険に晒して。よくよく考えてみれば、あんたらの行動こそ何かおかしくないか? あんたらこそ、街を混乱させようとしてる魔物憑きの一味だったりするんじゃねえのか?」
「ふざけるな喧嘩売ってんのか! 怪しいのはてめえだろうが!」
「でもあんたら、魔物憑きの一味が街中で暴れてるとかどういうわけか知ってたよな? それになあ、うちの従魔ってかなり臆病な性格してんだよ。囲んで追い詰めたりしなけりゃ人に魔術撃ったりしねえはずなんだ。危険に晒すだけなのに不自然に人を集めたのは、魔物憑きを追い詰めて暴れさせるため、なんて疑いも、そうなりゃ出てくる」
「こじつけだ! そんな事実は無い!」
「なら、周りの人達に聞いてみるか。あんたらが取った行動が不自然じゃなかったかを。俺は最初から見てたわけじゃないんでな」
そう言って神谷鋼が周囲を見回す。彼の登場前と今とで、場の空気は一変していた。
あの二人組は確か、ミオンの正体が露見し騒ぎになる前は、魔物憑きが出たと叫び周囲に警戒を呼びかけていた。ただひたすらに。自分達は避難する素振りもなく。それを覚えている者が多いのか、いまや残っているほとんどの人々が帝国人二人に不審の目を向けていた。
さすがにこの雰囲気の中では威勢の良さも削がれたのか。帝国人二人はもごもごと言い訳めいた繰り言を発しながら、すごすごとこの場から退散していった。
倒れたままミオンはそれを眺めていた。
どれだけ容赦なく蹴られたのか、いまだ腹の痛みは引かず、苦しくて立てない。でもそんな事がどうでもよくなるほど、ただただ放心していた。
もう間違いなく、終わったと思ったのに。破滅を迎えたと思ったのに。
諦め、絶望していた状況を、神谷鋼という少年は瞬く間に引っ繰り返してしまった。それも彼の持つ圧倒的な戦闘力に頼らずに、だ。
信じられない思いだった。
腕っ節が強く、恐ろしい魔力を持ち、更には機転も利いて頭も回る。言ってしまえばそういう事なのだろうけど、なんだかそういう問題ではない気がした。彼はきっと、どんな種類の逆境に置かれても等しく強さを発揮する。そういう存在のように思えた。
安堵のせいかふっと意識が落ちる。
こちらに近づいてくる彼の姿を最後に捉え、ミオンは気を失った。