37 記念式典
ソリオンの暦は地球世界でのそれと読み方・数え方がほぼ一致している。
例えば五月を五の月と言ったり月ごとに日本人には耳慣れない別名があったりはするが、大概はそのままで通用する。暦に限らずこういった文化の酷似はソリオンではよくあるのだが、それらは元をただせばこちらの世界に落ちてきた日本人からもたらされた概念であったりする事が多いそうで、全てが奇妙な偶然というわけでもないのだ。
とにかくまあ、どちらの世界基準で見ても暦は五月に突入していた。
パルミナ騎士教育学園に二期生が入学してから一月以上が過ぎていた。
黒板の上をチョークが踊り、軽快な音を立てる。
必修である『魔物対策』の授業中だった。
「さて、魔物と動物、この違いを説明出来る人はいるかな」
担当教師の男性がそう言って教室内を見渡すが、生徒の一人である神谷鋼はろくに授業も聞かずぼんやりと思索にふけっていた。目敏い教師は当然その様子を見咎める。
「こら。そこの……、カミヤ君、だったな。ちゃんと聞いているか?」
「あ、すんません。一応は聞いて……、いや、うん、多分聞いてました」
「私からすればそれは聞いていないのと同じだ。では君に説明してもらおう。魔物と動物、両者の違いはなんだ?」
当てられてしまった。
「ええと……」
そもそもからして、地球での『動物』にあたる存在がこちらの世界では『魔物』と呼ばれていると、鋼はこの時までなんとなく思っていたくらいである。無論答えなど知らない。一年間の異世界経験があろうとも、ちゃんと学んでいるわけでもない鋼のこちらの知識は色々と偏っていた。
ただ、魔物との交戦経験だけは無駄に豊富なのでそれらを参考に答えを考えてみる。
「魔力強度の差、ですか?」
教師の目が意外そうな色を宿した。
「随分専門的な用語を知っているね? 正解だ。そして、授業はちゃんと聞くように」
ぼんやりしていた事は軽い注意で済まされ、教師が解説を続けていく。
「魔物と動物の違いについて、よくある答えとして『魔力を持っているかどうか』、というのがあるのだけどもそれは間違いだ。生き物である限り多かれ少なかれ魔力は必ず持っている。無害な小動物や、辺りに生えている雑草であってもね。あるいは『魔力容量の差』を理由に挙げる人も多い。実際に魔物と動物では、平均して魔物の方がかなり魔力容量に優れているから、こちらの答えはけして間違いとは言い切れないものだ。しかし正解とも言い切れない。魔物と動物を区別する定義は別にある」
教師のチョークによって、黒板に『魔力の変質』と板書される。
「魔物とは、自らの魔力を変質させて定着させた生物の事を言う。つまり人や動物の魔力と、魔物の魔力はその性質からして別種のものなんだ。魔力はその持ち主の肉体に宿り循環している、個人用の魔素だというのはもう魔術の授業でも習っている事と思う。魔物の魔力はこの循環が強固で、体内に留まろうとする性質が強い。これはつまり、外から別の魔力をぶつけられても『魔力の拒絶現象』が起き辛い事を示している。この性質がどれだけ強いかを、魔物研究の分野では魔力強度と呼んでいるんだ」
教卓から見えない場所をつんつんと隣の席から突っつかれ、鋼はそちらに座る日向にさりげなく目をやった。あまり勉強には自信がない幼馴染が小首を傾げてこちらを見ている。自分の知っている知識と違う、と言いたいのだろう。気にするなと適当に首を横に振り、鋼は視線を前に戻した。
魔力強度について鋼達はかなり詳しい。
今の教師の説明が最新の研究で公に判明している魔物の魔力の実態なのだろうが、恐らく鋼達はそれよりも先の正確な知識を持っている。ルデスの奥に引きこもり、魔術と魔物について研究を続ける高位魔術師と生活を共にしていたからだ。魔物の情報は戦いにおいても有用だから、鋼達もその研究に手を貸していた。
「この魔力強度が高ければ、死後もしばらくの間は魔力が残る事となる。魔力の拒絶現象ももう別の授業で習っているね? 魔力が残留した状態の魔物の肉は人体にとって有害だ。原因が魔力にあると分かっていなかった昔は、魔物の肉には全て毒があると考えられていた。実際これは毒ではないから、魔力さえどうにかすれば魔物の肉も食べられると現在では判明している」
ただし完全に魔力を抜くのは難しく、更に独特の味わいのせいで魔物料理はあまり一般的ではないけども。教師は説明の最後にそう付け加える。
正直なところ、鋼はあまり真面目にこの授業を聞く気になれないでいた。
習うまでもなく魔物の食い方くらい心得ている。しかし実地で得た知識とここで学ぶ内容には所々違いがあるのだ。机の上で学んだ事と実際に試して正しいと実感した事柄ではあまり前者を信じる気にはなれなかった。魔物学者になりたいわけではなく、欲しいのは役立つ情報だ。
――やはり、学業はある程度でいいか。
最近よく思うのはそのような事だ。先程注意された時もぼんやりとそれを考えていた。
では学業よりも優先すべきなのは何か。
「いいバイト無いもんかねえ……」
金稼ぎ、というのが鋼の結論であった。
就学中に失踪している『彼女』を探すのは難しいにしても、下準備くらいは進めておきたい。必要なのは情報と人脈で、どちらにしても資金はあればあるだけいいはずだった。
「そんな鋼ってお金に困ってるん? 前の休みも日雇いのバイト見つけて行ったとか言うてなかった?」
満月亭での鋼の呟きに省吾が反応する。
「普通に過ごす分には仕送りで十分なんだけどな。卒業までに金を貯めときたいんだ」
「神谷君達なら卒業してから冒険者やった方が手っ取り早く貯まるんじゃない?」
「多分そうなんだよな。だから給料が良くねえ仕事はあんまりやる気がな……。とはいえ給料が良い仕事なんて都合よく見つからねえし、どうしたもんかと」
有坂の疑問に頷いて、鋼はため息をついた。魔物を狩るのは得意中の得意である。冒険者・傭兵仲介ギルドでそういった仕事を探したほうが、ちまちまとアルバイトをするよりは相当効率的に金が貯まるはずだった。ただしパルミナから外に出られない日本人である鋼達には取れない選択肢だ。
「この前の資材運んだりするバイトは給料良かったって喜んでなかった?」
「ああ。あれくらいのがあるといいんだが、ありゃ常時募集してる仕事じゃねえし。来週の記念式典あるだろ。あれの準備やら会場設営やらの人手が不足してて、急遽募集かけただけらしい。式典の日までそういう仕事は結構あるみたいなんだが、学校があるからな……。いいバイト見つけても次の休みくらいしか出れん」
「式典って国交樹立記念日のやつですよね! 親善大使の王女様も来るっていう、あの」
意気込んだ様子の片平も会話に加わってくる。異世界オタクである彼女の興味を引いたポイントは、この国の王女がやって来るという部分に違いない。
この式典の準備の為、今月に入ってパルミナの街は急激に活気付いてきていた。
来週の半ばの国交樹立記念日に行われる式典に合わせ、街をあげての祭りのような状態になるのだ。パルミナの街では日本文化主体の、門の向こう側の門出市ではセイラン文化主体の、二国共同の催しとなる。このお祭り騒ぎは式典の日以降も数日は続き、その間かなりの観光客で賑わうらしい。
「去年は門出市のお祭り行ったけど、すごい人の数やったなあ……」
「あ、私も行きました! 生きてる魔物見ましたよ!」
日本からの通行制限があるパルミナの街は日本の一般市民にとって容易く訪れられる場所ではないが、門出市であれば比較的簡単に許可が降りる。省吾と片平は観光客として祭りに行った事があるようだった。
「私は行った事ないわね。神谷君達はあるの?」
「一応な。ほんとはパルミナまで来てクーとか探したかったんだが無理だった」
「クーちゃんも去年は門出市行きたかったけど無理で、こっちのお祭りを見て回ったって言ってたね」
有坂の問いかけに鋼と日向が頷く。省吾と片平と、合わせて五人。それがこの場に座っている全員だった。
マルは今日は満月亭に来ていない。貴族同士の付き合いもあって、元々毎日昼食を共にしているわけではないのだ。
そして凛はというと。
「お待たせしました」
厨房の方からこちらにそう声をかけつつ、制服の上にエプロンを着けた凛がやって来る。同席してはいなかったが一緒に店には来ていた。かねてより趣味の一つが料理である彼女は、この一ヶ月の間は度々この店でこちらの料理を教えてもらうようになっていて、それで本日は晴れて厨房の一部を借りて実践を行っていたのだった。
店の混雑時を避けて昼食にしてはやや早い時間にはなってしまったが、無事に完成したらしい。彼女の後ろから料理の皿を手にしたリュンとミオンも顔を出す。いつもより店の食事は少なめにしてもらって、凛の料理がテーブルの中央にでんと置かれる形だ。茶色いソースに彩られた謎の肉が大きな皿に乗っている。希望を訊かれて鋼がリクエストした魔物料理というやつである。
「ど、どうぞ……」
ちなみに相変わらずミオンは鋼に対してだけびくびくした様子なのだが、そろそろこちらも慣れてきて気にならなくなっていた。まあいい加減そっちも慣れろよとは思うが。
「ルウの料理食うのも久しぶりだな」
「はい。入学してからはコウに作って差し上げる機会がありませんでしたし……」
エプロンを外しながらいそいそと鋼の隣に座る凛を有坂がじっと見つめる。
「……日本にいた頃はよく神谷君に料理作ってたの?」
「はい。向こうでは一人暮らしだった私をコウもヒナちゃんも気にかけてくれて、よく家に招いてくださって。お返しに私の家に招待した時はお二人の好きなものを作って、夕食をご一緒したりしていました。お料理は私の趣味ですし……」
「へー。あなた達ってやっぱり仲良いわよね。お互いの家に招待しあって手料理振舞うとか、私の周りじゃ初めて聞いたわ」
「そ、そうですか? そうなんでしょうか……」
何を今更照れているのか、凛はもじもじと指先を動かして赤面したりしている。からかいまじりの有坂に鋼も一応言い返しておいた。
「仲良いのは否定せんが、そこまで珍しいか? 学校の弁当もたまに作ってもらったりしてたが、幼馴染なんだしそうおかしい事でもないと思ってたんだが……」
そこで省吾がさっと手を挙げた。
「……あ、ちょっと待ってくれる? さすがのわいも何かイラっと来る発言やった今のは」
「いやいやなんでだよ。漫画とかでもよくある話じゃねえか」
「え、本気で言ってる?」
何故だか正気を疑われるような目で見られて不安に駆られたものの、とりあえず料理が冷めてしまうという事でこの話題は流れた。
六人は昼食に手を付け始める。魔物料理の肉は鋼が思っていたよりもずっと食べ易かった。
「変わった味やなあ。うまいけども」
「ちょっと硬くて食べ辛いかもです」
「昔食べた猪の肉に似てるわね」
以上が省吾・片平・有坂それぞれの感想だった。
「美味いな。前にこっちで食ってたような魔物の肉に比べたら相当食い易い」
「うんうん。お腹壊さないために《解毒》術式展開しながら食べたりしてたもんね。《消毒》も欠かせなかったし」
「あそこは魔力毒とは別に毒を持ってる魔物が多かったですから……」
鋼達三人にとっては食べ辛いなんて感想は欠片もなく、しみじみと過去の苦労に想いを馳せながら次々に魔物肉をナイフで切り分けていく。その会話は若干皆に引かれていたが。
そうして魔物料理も含め全て平らげて、食後の休憩中ふと凛に訊いてみた。
「そういや今食った魔物はなんて奴なんだ?」
「〈グルウ〉、というこの国では最も多いだろう魔物の肉らしいです」
「ふうん。聞いた事ねえな」
「ルデスや谷にはいませんからね」
「ねえ、ちょっといい?」
魔物についての話題に有坂が入ってくる。
「亜竜とか魔狼とか、私が知ってるのって漢字表記の魔物ばっかりなんだけどさ。その〈グルウ〉っていうの漢字じゃないわよね?」
「あ、はい。魔物は漢字表記のものとカタカナ表記のものがいるんです。名前の違いで分類があるわけではありませんけど。こちらの世界では漢字は古い時代の言葉ですから、名付けられた時代が昔の魔物なら漢字表記である事が多いそうです」
さすが凛の解説は詳しかった。片平が慌ててメモらしきものを取っている。
なんとはなしにそれを眺めていて、鋼は自分に注がれる視線に気付いた。
店の奥に目をやれば、通路の先からミオンが顔を出してこちらを見ている。一ヶ月前ならこちらが気付き次第すぐに引っ込んだこの臆病な狐娘は、最近は離れた位置からなら観察を続けられるくらいにはなっていた。
誘拐事件の解決後からずっとこんな調子の付き合いが続いている。
二人きりになってちゃんと話をしてみたいとは思うのだが、その機会は未だに得られないままだ。結局精霊憑きかどうかの確証もない。多分、違うのではないかと鋼は予想しているが、自信をもって断言出来るほどではなかった。
「ん、電話か」
ポケットの振動に気付いて鋼は携帯電話を取り出した。話していた五人がちらりとこちらに視線を寄越す。
見下ろした先、着信相手の名前にはクーという文字があった。
◇
その日の昼前。
魔物討伐のために数日かけて遠出していた冒険者の青年ロア=レーダルは、仲間達と共にパルミナの門に並んでいた。
日本人も移住してきているパルミナの街は、出入りするごとに簡素な入国審査のようなものを受けなければいけない。そのための行列の最後尾にロア達は立っていた。
「空いてるし、こりゃ十分もかからんな」
門の方向を見て仲間の一人、冷静な男ヨキが予測する。こちらの世界の人に関しては出入りの多い街なので、入国審査といってもごくごく簡素なものだ。朝や夕方といった混雑する時間帯は一時間も待たされたりする事があるが、今は昼なので短い時間で済む。冒険者ギルドが発行している通行証を見せれば一発だ。
「運が良いね。祭りが近いからか、最近は変な時間に混んでたりするもんなあ」
そんな事を言ってロアは仲間達と笑いあう。いつも通りの、堅実に仕事を終えた後の平和なひと時であった。
この瞬間までは。
「ん?」
仲間と喋るため振り向く形となっていたロアは、ついそんな声を漏らした。
己の視界に影を見たのである。全く同時に魔力活性化の気配が届き、すたんっという軽やかな着地音も聞こえてくる。
つい一秒前まで最後尾だったはずのロア達の後方に、新たな最後尾が一瞬で出来ていた。
しかも何やら見覚えのあり過ぎる冒険者であった。
「は」「え?」「銀の……」
気配や音で気付いた仲間達も振り返り、それぞれ驚愕と困惑がないまぜになった表情を浮かべた。
銀の騎士と渾名される絶世の美女が、連れもなく一人毅然とそこに立っていたのだ。
ロアも困惑しきり、目の前の存在とその上空へと何度も視線を行き来させる。
彼女が出現した瞬間を目の当たりにしたはずのロアはこの美貌の冒険者が視界の上から降ってきたように感じたのだが、気のせいかもしれないと思い直した。上を見ても何もない。空しかない。彼女が空を飛んできたというのでないならば、ロアの目の錯覚だろう。そして長距離飛行は魔術をもってしても不可能というのはあまりにも自明な常識であった。
「え、どっから来たんだ?」
「上、から……? 降って……」
ロア達の前に並ぶ人々の中にも決定的瞬間を目撃した者がちらほらいるらしく、しきりに上を見上げている者がいた。まるで本当に空から落ちてきたような反応に、ロアは自分の常識と状況証拠、どちらを信じるべきなのか分からなくなる。
周囲を騒がせるだけ騒がせて静かな混乱に陥れた元凶の少女は、背負い袋をがさごそと調べて何かを探していた。説明して欲しいという周りの視線に気付いた様子はない。そのままケイタイとかいう日本製の四角い道具を取り出して難しい顔でぴこぴこと操作を始めたかと思えば、満足したように頷いてそれを耳に当てた。
「コウか!? 私だ、帰ってきたぞ!」
あれが離れた相手との会話を可能にする道具だとは知っている。そのはしゃいだ声とうきうきした笑顔を見れば、もはや名前を思い出すまでもなくロアの脳裏に冒険者ギルドで会った少年の顔が浮かび上がった。彼女が一体どこからやって来てこの場に現れたのか、とてつもなく気になったロア達ではあるが、こうなっては聞き出す事も出来そうにない。
行列は消化されていき、ロア達の番がきても楽しそうにダリアクレインはお喋りを続けていた。あの嬉しそうな様子の彼女を中断させてまで疑問をぶつけようという気概の人間は、ついぞ一人も現れなかった。